序章 ― 蒼き囁き ―
講堂の空気は、薄い霧のような静寂に包まれていた。
天井までそびえる書架の影が揺れ、魔灯の青白い光が、石板を載せた祭壇の縁を淡く照らしている。
ルカは、前列の席に座っていた。
胸の奥で、かすかなざわめきがする。
不安とも、期待ともつかない震え。
それが、講義前からずっと止まらなかった。
「——今日は《セレス文明》の遺物について学ぶ」
講師の声が響くたび、講堂そのものが呼吸しているように思える。
重い扉が閉じられ、外界との音が断ち切られると、世界にはこの空間だけが残ったかのようだった。
石板が、視界に入る。
表面には、文様とも呪文とも判別できない線が絡み合い、深く刻まれている。
それは、まるで眠る獣の背に走る傷跡のように、意味を秘めて沈黙していた。
ふと。
——ルカ。
名を呼ぶ声がした。
講堂の誰でもない。講師でも、生徒でもない。
耳ではなく、骨の奥に直接流れ込んでくるような、遠く澄んだ声。
(また……聞こえる)
初めてではなかった。
遺跡で石板に触れたあの日、倒れ込む直前にも、同じ声が聞こえていた。
それは怖くはない。
けれど、抗えない。
呼ばれているのだと、はっきり分かる。
気づけば、体が前へと傾いていた。
講義中にもかかわらず、立ち上がり、石板の前へと歩み出す。
「ちょ、ルカ!? どうしたの……?」
周囲がざわつき始める。
講師が制止の声をあげた。
だが、ルカには届かなかった。
声が脳内のすべてを満たし、世界から雑音を洗い流していく。
——来なさい。ここに。
——私を、思い出して。
その瞬間、石板の刻印が淡く光った。
呼応するようにルカの心臓が跳ね、胸元から一筋の痛みが走る。
蒼色の光が、指輪から漏れた。
オルドが訓練用にくれた、あの質素な《導素環》。
本来なら穏やかな光しか放たないはずのそれが、震え、軋み、ひび割れる。
「……っ、やめ……!」
止めたいと思った。
でも足は止まらない。
石板の前で息を呑むと、世界が深い水の底に沈むように静まった。
そして——
触れた指先から、蒼い火花が弾ける。
講堂全体が、巨大な心臓の鼓動のように揺れた。
光が天井へと駆け上がり、魔灯が次々と破裂する。
悲鳴が響き、椅子が倒れ、魔力の風が渦を巻く。
ルカの指輪が砕け散った。
その欠片が宙を舞った瞬間、石板の紋様が一斉に点滅した。
まるで古代の何かが、眠りから覚醒したかのように。
——やっと、会えた。
声は、優しいのにどこか哀しげだった。
光の奔流に飲み込まれながら、ルカの視界は白に染まっていく。
講堂は混乱に満ちていたが、
彼女にはそれすら遠い出来事のように感じられた。
最後に見えたのは、
破れた空間の向こうに揺らめく、蒼い記憶の海だった。




