トルゲナ会議
五月の午後、トルゲナ第三区域を見下ろす丘の上にある災害対策本部。その仮設会議室で、『現代魔法総論』監修チームのメンバーが徐々に集まり始めていた。
最初に到着していたセディアは、窓際に立って眼下の光景を見つめている。復旧工事の進む街並みには、四か月前の災害の爪痕がまだ深く刻まれていた。整地された区画には新しい建物の骨組みが立ち上がり始めているが、まだあちこちに残る瓦礫の山と、黒く焼け焦げたまま放置された土地が、あの日の惨事を無言で物語っている。
「セディア、久しぶり」
入室してきたカオの声に、セディアは振り返った。カオの知的な眼差しに、わずかな当惑の色が浮かんでいる。
「カオ、お疲れさま。現地に来てみて、どう?」
「やはり印象が違うものね」カオは窓に近づき、セディアの隣に立った。
「報道映像で見るのと実際に立ってみるのとでは、まるで別物」
カオの言葉に頷きながら、セディアは再び窓の外へと視線を向けた。
間もなく、レイヴとイシュラも到着した。レイヴは、持参した厚い資料束を机に置きながら小さくため息をついた。
「復旧計画の資料も見せてもらったが、完全に制度の想定を超えている」
イシュラの声は静かだった。
「ここに実際に来てみると、私たちが通信でやり取りしていた議論が、どれほど抽象的だったかがよく分かるわ」
それぞれが持参した昼食を静かに済ませた頃、最後にタリアンが現れた。安全保障を専門とする彼の表情は、普段にも増して厳しかった。
「申し訳ない。現地の立入制限区域の安全確認に予想以上に時間がかかった」
「これで全員揃ったね」
ナランが部屋を見回した。
「改めて、皆さんお疲れさまでした。こうして実際に顔を合わせるのは久しぶりだね」
「去年の年次総会以来だから、もう一年になるのね」セディアが微笑む。「まさか、こんな場所で再会することになるとは思わなかったけれど」
室内には久々の再会を喜ぶ和やかな空気が流れていたが、窓の外に広がる焦土が、この集まりの真の目的を静かに思い起こさせていた。
†††
「それでは始めよう」
ナランの声に、全員の表情が引き締まった。
「まず、実際にこの現地を見た率直な感想を聞かせてもらえるかな」
タリアンが口を開いた。
「正直に言って、これほどの規模の被害が制度の観測網に一切捕捉されなかったという事実は、安全保障上極めて深刻だ」
レイヴが資料をめくりながら反論する。
「でも、制度に観測限界があることは、最初から分かっていたことでしょう? 問題は、その限界をどう制度設計に組み込むかということでは」
カオが首を振った。
「それこそが矛盾よ。制度が『記録できないもの』をどうやって制度の中に位置づけるの? 論理的に不可能じゃない?」
イシュラが静かに口を開いた。
「私は、この四か月間ずっと考えていた。ここで何が起きたのか、そして私たちは何をすべきなのかを」
その静かな口調に、全員の注意が向けられた。
「制度が応答しなかったのは事実。でも、それで終わりにしていいのかしら」
「どういう意味?」セディアが身を乗り出した。
「制度が応答できなかったとき、私たち個人には何ができるのか。そういうことよ」
レイヴが眉をひそめた。
「しかし、それは結局のところ、制度の機能不全を個人の善意で補うということでしょう? 制度設計者としては、それは根本的な解決にはならないと思うが」
「じゃあ、どうするの?」
セディアの声に、抑えきれない苛立ちが滲んだ。
「制度が完璧になるまで、こぼれ落ちる人たちを見捨てろっていうの?」
「そんなことは言っていない」レイヴが慌てて手を振る。「ただ、個人の努力に依存するのではなく、制度そのものを再設計する必要があるのではないかと」
「みんな、落ち着いて」
ナランの穏やかな声が、室内の緊張を和らげた。
「通信でも同じような議論になったが、実際にここに来ると、やはり感情的になってしまうね」
タリアンが深く息を吐いた。
「実を言うと、現地を見て複雑な気持ちになった」
その率直な発言に、全員が驚いた表情を見せた。
「制度の安全保障機能は重要だ。その認識は今も変わらない。ただ、この惨状を前にすると」
彼は窓の外を見つめた。
「『制度が対応できませんでした』では済まされない気もする」
カオが驚いた顔をした。
「タリアンがそんなことを言うなんて。通信では、制度運用の実効性を何より優先すべきだって主張していたのに」
「立場は変わらない。ただ、現地に来て、制度の枠組みだけでは限界があることも実感した」
部屋に重い沈黙が流れた。外から聞こえる復旧作業の音だけが、静寂を破っていた。
†††
ナランが、意を決したように口を開いた。
「実は、皆さんに話していないことがある」
全員の視線が彼に集中した。
「私たちの通信記録、構文保護通信として扱っていたが、実はもう一人、閲覧者がいた」
「え?」セディアが声を上げた。「誰?」
「構文魔法省の国家構文記述委員会から、エリナ・ヴェストラードさん。記述標準化部門の上級研究官だ」
室内の空気が一変した。
「制度側の人間が、私たちの議論を?」タリアンの声が硬くなった。
「監視されていたということか?」
ナランが手を振った。
「違う。監修過程の透明性確保のために、制度関係者の同席は最初から認められているんだ。ただ、議論の自由度を保つために」
「私たちには内緒にしていた」イシュラが静かに補った。
「その通りだ。申し訳ない」
ふと、カオが息をのんだ。
「……もしかして、エリナ・ヴェストラード? あの……天才の?」
「そうだ。彼女ならどうにかできるかもしれない」
「その人は今どこに?」
ナランが時計を見た。
「実は、もうすぐここに来る予定なんだ。皆さんの議論を読んで、統合的な視点が見えてきたと連絡があった」
その時、ドアがノックされた。
†††
全員の視線が扉に向けられる中、ナランが答えた。
「どうぞ」
ドアが開き、三十代後半と思われる女性が入ってきた。黒髪をシンプルにまとめ、知的な印象を与える眼鏡をかけている。控えめな服装だが、その立ち居振る舞いには確かな自信がにじんでいた。
「皆さま、初めまして。エリナ・ヴェストラードです」
丁寧なお辞儀の後、彼女は静かに席に着いた。
「この度は、皆さまの貴重な議論に参加させていただく機会をいただき、ありがとうございます」
監修チームのメンバーは、警戒と好奇心の入り混じった視線で彼女を見つめていた。
エリナは一人ひとりの顔を見回した。
「皆さまの通信を拝読しました。制度の限界、観測の外縁、応答責任の範囲。どれも、私が長年取り組んできた問題と深く関わるものでした」
「それで、統合的な視点というのは?」カオが率直に尋ねた。
エリナは穏やかに微笑んだ。
「皆さまが別々の問題として捉えておられることが、実は一つの理論的枠組みで説明できるのではないかと考えています」
「どういうこと?」セディアが身を乗り出した。
「構文魔法理論の根本的な再構築です」
エリナの声に、静かだが揺るぎない確信が込められていた。
「三層構造そのものを、もう一度考え直してみませんか」
室内に緊張した静寂が流れた。
「その前に」エリナが続けた。「一つ、皆さまに質問があります」
彼女は全員を見回し、ゆっくりと口を開いた。
「皆さまは、構文層が本当に『媒介』だと思われますか?」
†††
エリナの問いかけに、カオが最初に反応した。
「構文層が媒介じゃないというの?」
困惑が声ににじんでいた。
「それは三層構造理論の根幹よ。リーナ・クラウセントの論文でも、構文層は主体層と現実層を結ぶ言語的媒介として分析されている」
「クラウセント教授の言語学的分析は確かに見事でした」エリナは穏やかに頷いた。「特に魔力の段階的形式化プロセスの解明は画期的だった」
レイヴが眉をひそめた。
「では、何が問題なのですか?」
「クラウセント教授は言語学者として、構文がどう機能するかを解明された」エリナは手を組んで前に置いた。「しかし、なぜ機能するのかという根本的な問いには答えておられません」
「根本的な問い?」タリアンが口を挟んだ。
「構文に、なぜ現実を変える力があるのか」
エリナの声に、確固たる信念が込められていた。
「言葉が物理的変化を引き起こすメカニズムを、私たちは本当に理解しているでしょうか?」
室内に静寂が流れた。窓の外から、工事車両の音が微かに聞こえてくる。
「魔力があるからじゃないの?」イシュラが、慎重に口を開いた。
「では、魔力とは何でしょう?」
エリナの目が輝いた。
「物理的エネルギーではない。しかし現実に作用する。この根本的な矛盾を、どう解決しますか?」
「それは」セディアが困惑して言った。「昔から議論されてきた問題でしょう?」
「そうです」
エリナが立ち上がった。
「しかし、答えはもうあるんです」
†††
エリナは窓際に歩いて行き、復旧の進む焦土を見下ろした。
「皆さんは『唯名論』をご存知ですか?」
カオが答えた。
「中世哲学の『普遍は名前に過ぎない』という考え方よね」
「そうですね」エリナが振り返った。「もう少し詳しく確認させてください。この論争は、構文魔法理論の根幹に関わりますから」
「哲学史の話ですか?」レイヴが身を乗り出した。
「12世紀の大哲学者アルフェウス・デ・モンテクラロとセラフィム・アクィリウスの論争です」
エリナが説明を始めた。
「問題は『普遍』の実在性でした。例えば『赤さ』という概念を考えてみてください」
彼女が手を広げた。
「この部屋にある赤いものは複数ありますね。赤いファイル、赤いペン、赤い表紙の本。では『赤さ』という性質そのものは、個々の赤いものとは別に実在するのでしょうか?」
「当然、実在するでしょう」タリアンが言った。「そうでなければ、なぜ私たちは『赤い』という共通の認識を持てるのですか?」
「それがアクィリウスの実在論です」エリナが頷いた。「普遍である『赤さ』は、個々の赤いものとは独立して実在する。だから私たちは共通の概念を持てる、と」
「一方、モンテクラロの唯名論では?」カオが促した。
「『赤さ』という普遍は実在しない。存在するのは個々の赤いものだけで、『赤さ』は私たちが便宜上つけた名前に過ぎない、と考えます」
「つまり、名前が先か、実在が先かという問題ね」イシュラが静かに言った。
「正確には、名前以外に普遍的実在があるかどうかの問題です」
エリナの目が輝いた。
「そして、この古典的論争が、構文魔法の謎を解く鍵なんです」
ナランが身を乗り出した。
「どういうことですか?」
「構文魔法では『火』『水』『風』『土』といった基本概念が使われますね。実在論的に考えれば、これらの『元素性』は個々の火や水とは独立して実在する普遍的本質であり、構文はその本質に接触することで効果を発揮する」
「それが従来の理解ですね」レイヴが手を挙げた。
「そうです」
エリナの声に確信が込められた。
「しかし、唯名論的に考えてみてください。『火』という構文は、個々の炎現象に共通する名前に過ぎない。では、なぜその『名前』を発語することで、実際に炎が生まれるのでしょうか?」
室内に深い沈黙が流れた。
「普通の言語では、『火』と言っても火は出ません」カオが困惑して言った。「しかし構文では出る。その違いは?」
「そこが核心です」
エリナが振り返った。
「構文魔法においては、モンテクラロの唯名論が逆転しているんです」
「逆転?」
「『名前が普遍を作り出している』んです」
エリナの声に興奮が込められた。
「構文という『名前』を与えることで、魔力という非物質的エネルギーが、その名前に対応する現実効果を獲得する。これが構文魔法の本質なんです」
セディアが息を呑んだ。
「つまり、構文は実在する『火の本質』に接触しているのではなく、『火』という名前を与えることで魔力に火としての性質を付与している?」
「その通りです」
エリナが頷いた。
「魔力は本来、無差別なエネルギーです。しかし構文という『命名行為』によって初めて、特定の現実効果を持つ力として実現される」
エリナは手を小さく握った。
「私はこれを『唯名論的実在性』と呼びます──私の理論の核心です」
†††
タリアンが腕を組んだ。
「それは危険な考え方だ。構文の効果が『名前次第』なら、統制不可能になる」
「いえ、むしろ制御可能になります」
エリナが意味深な微笑みを浮かべた。
「なぜなら、『名前を与える権力』を制度が独占しているからです」
「どういうことですか?」イシュラが尋ねた。
エリナは手帳を取り出し、ページをめくった。
「クラウセント教授の論文の中で、最も重要な指摘を覚えていますか?『言語権力の四重構造』です」
「認定権力、分類権力、排除権力、評価権力」セディアが暗唱した。「制度が構文を管理する権力構造ね」
「そうです」
エリナは資料を取り出した。
「しかし、この権力が何をしているのかを、私たちは見落としていました。制度は構文を管理しているのではなく、構文に『名前』を与えることで実在性を付与しているんです」
「名前を与えるとは、具体的には?」カオが眉をひそめた。
「構文登録です」
エリナの声に確信が込められた。
「制度が構文を『承認』することで、その構文は初めて『実在する魔法』になる。逆に言えば、承認されない構文は『存在しない』ものとして扱われる」
「しかし、未登録構文も効果を発揮するじゃありませんか」レイヴが手を挙げた。
「効果は発揮します。局地的な命名があるので」
「局地的な命名?」イシュラが尋ねた。
「制度による正式な命名以前に、人々の間には言語的な命名実践がすでに存在している。土着構文、即興構文、それらは制度に登録されていなくても、使用者のコミュニティ内では『名前』を持っているんです。しかし、制度的には存在しない」
タリアンが眉をひそめた。
「つまり、制度の命名だけでなく、非制度的な命名も実在性を付与するということか?」
「そうです。ただし、その実在性は不安定で、予測困難で、制御不能です。だからこそ危険なんです」
エリナの声に緊張が込められた。
「制度による命名は、その不安定な実在性を安定化し、制御可能にするためのシステムなんです。しかし、制度が命名しなかった現象は、不安定なまま野放しにされている」
エリナが続けた。
「これこそが、皆さんの議論の核心だったんです。トルゲナの災害、セディアさんの『教育から漏れ落ちる構文』、カオさんの『記録されない構文』。これらはすべて、制度が『名前を与えていない』現象なんです」
ナランが深く頷いた。
「制度が命名しないから、存在しないことにされる」
「その通りです」
エリナが全員を見回した。
「そして、この構造を理解すれば、制度の限界を突破する方法が見えてくるのです」
†††
「どのような方法ですか?」タリアンが慎重に尋ねた。
「制度を『完全な命名装置』から『暫定的命名装置』に変えるんです」
エリナの目が輝いた。
「つまり、観測されない構文にも『仮の名前』を与える制度を作る」
「仮の名前?」セディアが身を乗り出した。
「例えば『トルゲナ型未特定現象』『教育過程部分構文』『観測限界構文』といった分類です」
エリナが指を立てた。
「完全に理解できていなくても、とりあえず名前を与えて制度的に存在させる」
「それは」イシュラの目が輝いた。「『応答されなかった』ものへの、新しい応答の形ですね」
「その通りです。そして、クラウセント教授の魔力形式化プロセス理論を応用すれば、仮の名前から正式な名前への移行システムも設計できます」
「理論的基盤がしっかりしていれば、実装も可能ですね」レイヴが深く頷いた。
カオが心配そうに言った。
「しかし、仮の名前を与えるのは危険ではありませんか? 間違った理解に基づいて制度が動いてしまったら?」
「だからこそ『暫定的』なんです」
エリナが答えた。
「間違いを恐れて命名を拒否するのではなく、間違いを修正し続ける制度にする。唯名論的実在性の理解があれば、名前を変えることで実在性も変えられるんです」
レイヴが立ち上がった。
「完全な知識を前提とした制度から、『学習し続ける制度』への転換……」
ナランが深く考え込んだ。
「つまり、構文の実在性は固定的なものではなく、制度的な命名によって可変的だということですか」
「はい」
エリナが全員を見回した。
「そして、この新しい制度設計を実現するために、『現代魔法総論』の改訂版でこれを提示したいんです」
ナランが驚いた表情を見せた。
「『現代魔法総論』の改訂版で? それは、私たちの監修作業そのものじゃありませんか」
「その通りです」
エリナが頷いた。
「『現代魔法総論』は、制度変革の理論的基盤をセリオン教授が提示したものです。そして、皆さんの監修という権威をお借りして、新たな制度変革の理論的基盤をそこで提示したい」
†††
エリナの提案に、しばらく沈黙が続いた。
カオが最初に口を開いた。
「それは、制度そのものを根本的に変えるということですね」
「そうです」
エリナが力強く言った。
「皆さんの議論が示したように、現在の制度には構造的な限界がある。しかし、その限界を『欠陥』として隠すのではなく、『更新の機会』として活用する制度にするんです」
「制度の安定性は保たれるのですか?」タリアンが慎重に尋ねた。
「むしろ、真の安定性が得られます。変化を拒む制度は、いずれ現実との乖離で破綻する。変化し続ける制度こそが、長期的に安定するんです」
「しかし」セディアが手を挙げた。「そのような大きな変更を、制度側が受け入れるでしょうか?」
エリナが意味深な微笑みを浮かべた。
「実は、それについても準備があります。ただ、それをお話しする前に」
彼女は窓の外を見つめた。午後の光が少し傾いてきている。
「皆さんに、もう一つお話ししなければならないことがあります」
†††
エリナは、ゆっくりと全員を見回した。
「皆さんは、なぜ私がここにいると思いますか?」
その問いに、一瞬の沈黙が流れた。
「どういう意味ですか?」ナランが困惑した表情を見せた。
「私は構文魔法省の職員です」
エリナが静かに言った。
「皆さんが批判されている『制度側』の人間です。なぜ、その私が、制度の根本的変革を提案しているのでしょうか?」
「まさか」タリアンが鋭い視線を向けた。「制度内部でも問題意識があるということですか?」
「それ以上です」
エリナの声に緊張が走った。
「実は、トルゲナ災害の後、省内で極秘の調査チームが編成されました。そして、その調査で、衝撃的な事実が判明したんです」
室内の空気が一変した。
「衝撃的な事実とは?」カオが身を乗り出した。
エリナは深く息を吸った。
「トルゲナの災害は、制度外の現象ではありませんでした」
†††
監修チーム全員が息を呑んだ。
「どういうことですか?」イシュラが震え声で尋ねた。
「省内の極秘調査により、トルゲナ災害は構文魔法による現象だったことが確認されました」
エリナは一語一語、慎重に話した。
「ただし、それは既存の制度枠組みでは説明不可能な現象だった」
「説明不可能とは」レイヴが言葉を詰まらせた。
「発動者は、制度に登録された正規の構文士でした。使用された構文も、登録済みの標準構文でした。しかし、その発動の仕方が、理論上あり得ないものだったんです」
「あり得ないとは?」セディアの声に怯えがにじんだ。
「通常の構文理論では説明できない形で魔力が集中し、予想をはるかに超える破壊力を生み出したんです。制度の想定を超えた形で発動した。つまり、制度による命名すら、完全に実在性を制御できていなかった」
エリナの声が震えた。
タリアンが立ち上がった。
「それでは、私たちの想定している制度の前提そのものが」
「そうです」
エリナが頷いた。
「理論上はあり得ないことが実際に起きてしまった。そして、その現象は既存の観測システムでは検出できない形式だったのです」
「発動者は?」ナランが震え声で尋ねた。
「行方不明です。災害発生の直後から、消息を絶っています」
†††
「つまり」カオが手で額を押さえた。「制度は最初から嘘をついていたということですね」
「嘘ではありません」
エリナが慌てて手を振った。
「観測できなかったのは事実です。しかし、観測できなかった理由が『技術的限界』ではなく『理論的盲点』だったんです」
「理論的盲点?」レイヴが繰り返した。
「通常の構文理論で想定されていない現象が実際に起きた。観測システムは、そのような現象は起こらないという前提で設計されていた。結果として、実際に起きても検出できなかった」
「制度が認めていない現象は、制度には見えない」イシュラが静かに言った。
「その通りです」
エリナの目が光った。
「そして、これこそが私の唯名論的実在性理論の核心なんです。制度が『名前を与えていない』現象は、制度にとって『存在しない』ことになる。たとえ現実に甚大な被害を生んでも」
「では」セディアが震えた声で言った。「私たちがずっと議論してきた『制度の限界』は」
「限界ではなく、設計上の欠陥だったんです」
エリナが続けた。
「制度が『完全な知識』を前提に設計されているから、想定外の現象に対応できない」
「なぜこの情報が公開されないのですか?」タリアンが拳を握った。
「公開すれば、制度への信頼が根底から崩れるからです」
エリナの声が沈んだ。
「しかし、隠し続けても、第二、第三のトルゲナが起きる可能性がある」
†††
ナランが深く考え込んだ後、口を開いた。
「それで、あなたは私たちに何を求めているのですか?」
「皆さんのお力をお借りしたいんです」
エリナが全員を見回した。
「『現代魔法総論』の改訂版で、新しい制度理論を提示する。それを足がかりに、制度を内部から変革したい」
「制度側の人間が、制度を批判するのですか?」カオが疑い深い目で見た。
「批判ではなく、更新です」
エリナが力強く言った。
「私の唯名論的実在性理論では、制度は固定的な真理ではなく、可変的な命名システムです。間違いがあれば、名前を変えればいい。新しい現象があれば、新しい名前を与えればいい」
「具体的な実装が見えてきました」レイヴが冷静に頷いた。「理論だけでなく、実際に動かせる制度として。制度の自己批判能力を制度そのものに組み込むということですね」
「しかし、上層部が受け入れるでしょうか?」セディアが心配そうに言った。
「だからこそ、皆さんの権威が必要なんです」
エリナが深く頭を下げた。
「全構教連の監修という形で提案すれば、制度側も無視できません」
「しかし、それは私たちも制度の一部になるということですね」イシュラが静かに言った。
「いえ、制度を変える主体になるということです」
エリナが顔を上げた。
「外から批判するのではなく、内側から変革する」
「具体的なスケジュールは?」タリアンが慎重に尋ねた。
「半年以内に改訂版を完成させ、来年の構文制度審議会で提案したい」
室内に緊張した沈黙が流れた。
ナランが最初に口を開いた。
「皆さん、どう思いますか?」
†††
カオが最初に答えた。
「私は参加したい。言語学者として、制度の言語的限界を解決する理論的機会を逃したくない」
レイヴが続いた。
「制度設計者として、『学習する制度』の実現は長年の夢でした。ぜひ参加したい」
セディアが決意を込めて頷いた。
「教育現場で見てきた『こぼれ落ちる子どもたち』のためにも、新しい制度が必要です」
イシュラが静かに言った。
「応答されなかったものに応答する制度。それは、私の倫理学の理想でもあります」
最後に、タリアンが重々しく口を開いた。
「安全保障の立場としては、現在の制度には明らかに限界がある。新しい脅威に対応するためにも、変革は必要だ」
全員がナランを見つめた。
ナランは、ゆっくりと立ち上がった。
「では、決まりですね」
エリナは両手を小さく握った。
「ありがとうございます」
†††
ナランが窓の外を見つめる。夕日が焦土を染め始めていた。
「制度を変えるのは、簡単なことではありません。既得権益もあるし、反対勢力もいるでしょう」
「しかし、ここで何もしなければ、第二のトルゲナが起きる」セディアが力強く言った。
エリナが革鞄から厚い資料束を取り出した。
「実は、すでに原稿の草案があります。皆さんの通信を読んで、書き始めていました」
「用意周到ですね」カオが苦笑いした。
ナランが宣言した。
「では、今夜から始めましょう。『現代魔法総論 改訂6版』の執筆を」
室内に、決意に満ちた空気が流れた。
制度を変える戦いが、今、始まろうとしていた。