007.死なせはしない
相手の心を砕く。
それが真の強さであり、他を圧倒して寄せ付けない強さを標榜する騎士学校の教えでもあった。
実際、相対した強化種とは強さに隔たりがあった。
レイの立場から見れば、どう攻め込まれても取るに足らないほどの格差だ。
もっと早く仕留める戦いはできたはずだけれど、だからそういう相手の心を折る、生物としての絶対的な格差を強化種に見せつけるような戦い方を選んだのだ。
だからこそ、対峙していた残りの強化種に逃げられたのはレイの失策だった。
久々の実戦で、気が昂ぶっていた。身体中にアドレナリンが駆け巡っていたからだというのは言い訳かもしれない。
複数の標的があれば、敵が“弱い方”を狙う可能性は、冷静に考えれば十分にあり得る話だった。
しかし、そこまで相手の行動を予測できていなかったのは、レイの実力不足だったともいえる。
だが、反省するのは戦闘が終わってからだ。
レイはエリナの方角へと目を向ける。
そこには、馬乗りになってラッシュを浴びせる強化種の姿があった。
状況がいかに危機的かは一目瞭然だった。このままエリナが喰い殺されても可笑しくない。
そして、隔絶した強さに当てられてレイから逃げ出した一頭は、エリナ目掛けて全力で駆けていく。
――大切な仲間を、殺させはしない。
レイは強化種の目論見を阻止すべく、すぐさま地面を蹴って跳ねた。
それはまるで空を飛んでいるような美しき舞でもあった。
狙いは明確だ。
武器をロングソードに持ち替えると、宙に舞いながらこれまで以上に魔力を剣に込める。
弧を描きながら、エリナへ襲いかかろうとする強化種の脳天を貫くように頭上から剣を突き刺した。
(こんなに脆いなら、こっちを先に仕留めるべきだったか)
魔力障壁は、あまりにも容易く崩壊し、獣の身体は脳みそを串刺しにされて崩れ落ちた。
拍子抜けするほど、あっけなかった。
だがこれは、レイが生み出した圧倒的な魔力の密度があってこその話だ。
もしエリナが同じ攻撃をしても魔力障壁に弾かれ、悲惨な結果に終わったことだろう。
レイは強化種に突き刺されたロングソードをそのまま放置すると、生命を失った強化種をボロ雑巾のように踏み台にしてもう一飛跳躍した。
目指すは、エリナの上に覆いかぶさるもう一頭。
短剣を手にして、空中で身体を反転させると攻撃を仕掛けた。
しかし、流石に一撃で仕留められるほど、この強化種の魔力障壁は脆くなかった。
エリナに集中していて警戒が薄く、隙だらけの中でレイの攻撃をまともに喰らうが、大きなダメージを負うことなく吹き飛ばされる程度で済んでいた。
強化種に立ちはだかるべくレイは、しなやかに踊るようにエリナの前に着地した。
「すみません!遅くなりました」
普段と変わらない聞き慣れた調子の声が上から聴こえた。
朽ちるようにただ死を待つだけであったエリナは、その夜に鳴く鈴虫のような優しい声色が合図かの如く、全身から力が抜けたようにガードを解除した。
ゆっくりと視線を傾けると、親友の面影を宿す、新しい相棒の平然とした姿が映っていた。
その背中は思った以上に広くて、恐れるものは何も無いような安心感に包まれていた。
だからか、長く時を過ごした親友と重なる姿に、エリナは不思議と呆気に取られた。
或いはこれは安堵だったのかもしれない。
「本当はまだ死にたくなかったんだろうな」
アインスを目の前で失ってからは、本当は早く死にたかったけれど、それでも強化種へ必死に抵抗していたのは、それを素直に受け入れられなかったからだろう。
エリナはそんな感情を受け入れるようにそう呟いていた。
「何言ってるんですか?僕はギルドマスターなんですよ。大切な部下を死なせはしません」
レイは既に勝負が決まったかのように、きっぱりとそう言い切った。
吹き飛ばされた強化種はまだ生きている。
しかし、その随分背の伸びた少年は何か問題でもあるのか?とでも言いたげな涼し気な表情でそう言った。
それは無邪気な少年らしく、また天からの言葉のようでもあった。
「すまん。魔力が切れちまった」
「了解です。僕が倒すので、大人しくしておいてください」
レイは力尽きて寝転がったままのエリナの前に立つと、はっきりとけりを付けるべく残りの強化種と向き合っていた。
まだ余裕があるとはいえ、先程の一撃でそれなりに魔力を消耗していた。
ここからは遊ばずに短期決着だ。
レイは一息吐くと、示し合わせたかのように強化種との距離を詰めた。
相手の間合いに入ると、腰を一気に低くして胴体へと潜り込む。
そのあまりの速度についていけない強化種は、レイの思惑通りに体勢をあっさり崩された。
そのまま馬乗りとなったレイは、下でもがき暴れ続ける強化種を無視するように抑え込むと、有利な位置から短剣を何度も狂いなく首元の一点目掛けて突き立てる。
その正確無比な攻撃を数発放つと、強化種の障壁は脆く簡単に消え去った。
無防備に晒された首筋には既に短剣が突き刺されている。
普通の生物ならこれで即死であろう。
だが、相手は強化種であり、圧倒的な生命力を備えている。
まだその黒い瞳はレイを睨みつけており、死んだ目をしていなかった。
ただし、ここで何が起きているのか、自分がどうしてこうなってしまったのか理解していない困惑した瞳でもあった。
レイはそんな様子を些細なものとして気にすることなく、まるで機械仕掛けであるかのように短剣をそのまま一気に加速して喉元を切り拓く。
マグマが噴火するかのように赤黒い鮮血が周囲に飛び散っていた。
そうして胴体と頭が切り離されると、ゴトンと落ちた頭にあった瞳は完全に力を失った。
「ふう。ひと仕事完了」
レイはたっぷりと額に浴びた強化種の返り血を振り払うと、半で押したように立ち上がってエリナの下へと向かった。
そして、まるでダンスでも誘うかのように手を差し伸べた。
あれだけ苦労した強化種が、ものの見事に何の造作もなく倒された。
人形のように無機質に横たわる強化種の死骸。
もはや死体というよりは、森に破棄された粗大ゴミのような残骸へと変わり果てていた。
そして、血だらけなのにも関わらず、大して疲れた様子も見せずにやけにニコニコしている親友の倅。
その語り草にもなりそうな強さと返り血を浴びて真っ赤に染まった不気味な姿の見事なコントラストに、突然冷水を浴びせられたような戦慄がエリナの背筋を走った。
(コイツだけは怒らせないようにしよう)
「何か言いました?」
エリナがそう決意してレイの手をゆっくりと握ると、その不自然な様子に不思議に思ったレイは可愛らしく首を横に傾げた。
エリナはその真意を悟られないように取り繕った。
「いや、助かった。ありがとう」
「いえ、エリナさんをここまで危険に晒したのは僕のミスです。申し訳なかったです」
レイは全てを一人で対応してしまうことは良くないことだと考えている。
自分ばかり戦っていれば確かに楽だろうけれど、いざというときの経験を積む機会が無くなってしまうからだ。
それは個人の成長を摘む行為だ。
本当に危ないとき以外は、部下にも仕事を振ったほうがいいはずだ。
だからエリナにも経験を積ませるために強化種一頭を任せたが、マウントポジションを取られるほどの危機を招くとは、とんだ計算違いであった。
命の危機まで追い込むつもりは更々ない。
こんなことが常態化してしまえば、史上最悪の悪徳冒険者ギルドである。
レイはキャリアの戦闘力の認識が甘かったことを知り、一つ経験を積んだのであった。
「いいや、私が強ければな。今度、訓練でもしてくれや」
レイが謝罪をすると、エリナは首を横に振って否定した。
レイは自分の至らなさを恥に思っていたが、エリナは当然そんな風に考えていなかった。
戦闘時は考えうる限り精一杯戦っていたとはいえ、レイのこの飛び抜けた実力を知っていれば、もっと早く頼れたはずだ。
アインスより強いとは聞いていたけれど、ここまでの強さを持っているとは想像してもいなかったのだ。
それに、エリナが強ければ、そもそもこうした危機は訪れなかった。
そういえば最近は実戦しかしていなかったと思い出し、基礎をもう一度学んで強くならなければと反省するくらいだ。
親愛なるアインス、お前は良い息子を持ったよ。
エリナはそんなことを考えながらアルミ製のケースからタバコを取り出すと、ぺしゃんこになった箱からマッチを取り出して火を点けた。
「ええ、それは勿論」
レイはエリナの普段と変わらないタバコを吹かす様子を見て、ほっと肩の力が抜けて救われた気になった。
部下が本当に何を考えているのかなんて、知る余地もない。
こちらが良かれとやったことでも、こんな仕事やってられるかと、突然文句を言われて辞められても可笑しくないとさえ考えていた。
それが思い違いであることをしっかりと認識できるようなエリナの姿であった。
しかし、仲間とはいえエリナにずっと甘えていてもいけない。
エリナがここにいるのは父の功績であり威光のお陰でもあるからだ。
ちゃんと人の意見を聞き、良き上司であろうと改めて誓ったのであった。
「さて、ささっと死骸を燃やしちゃいましょうか」
「そうだな」
二人は残りの仕事へと意識を切り替えると、改めて互いの姿を確認し、生き残ったことを実感した。
周囲に散らばった死骸を二人で一箇所に集めると、レイは魔法で火を点ける。
死体は炎から灰へと変わり、煙は細く高く立ち上っていく。
それは空の風と戯れるように揺れて靡いて流れていった。