005.弱肉強食
魔物には、広義で二種類が存在する。
一つは純粋な魔力の塊――幾何学的な形状をベースにした、抽象的で非現実的な姿を持つ「魔物」だ。
本来「魔物」と言えば、こちらを指す。
そして二つ目は強化種。人間で言うキャリアにあたるもので、野生動物や昆虫が魔力により異常進化したような見た目が特徴であり、他の生物と同じように繁殖活動も行う。
外見こそ既存の生物に近いが、強化された肉体と魔力障壁を持つため、広義では魔物に分類されている。
この二種類は見た目も大きく違うが、その中でも冒険者にとって死活問題にもなる大きな差異がある。
魔物は仕留めると魔力結晶に変わるのに対して、強化種は野生動物と同じように肉にはなるけれど、魔力結晶にはならないのだ。
ヒグマなど害獣がお金になるのだから、強化種も同様だろうと思う人もいるかもしれない。
しかし、そう上手くはできていない。
それは肉がとにかく不味いことだ。
身体の至るところが発達し過ぎており、肉は噛み切ることが難しいほど固く、ゴムを噛んでいるかの如く味がしない。
何より人間には消化できない身体でできているため、食せば吐くか腹を必ず下す。
皮膚は固く丈夫だけれど、あまりにも丈夫過ぎて加工が難しく、苦労してまで利用する用途もない。
実際のところ、人間には脅威であるため、討伐補助金は害獣よりも高く設定されている。
そういう意味では討伐自体全く無意味ではないけれど、死体が商品に変わる魔物や害獣と比べればお金にならない、面倒なだけで冒険者には忌み嫌われるのが強化種だ。
「ちっ、強化種か……。一番面倒なやつだ」
エリナは目の前に立ちはだかる三頭の巨大な熊型強化種を見て、舌打ちをした。
その体高は、まるで家の屋根に手が届きそうなほどだ。
「僕がまず二頭を引き受けます。一頭、お願いできますか?」
対照的に、レイは冷静だった。
強化種の戦力を読み取り、戦力配分を即座に決める。
強化種も魔力障壁を持つが、それは魔法種にとっては大した脅威ではない。
散弾銃では貫通できないが、ミサイルなら破壊可能。
つまり、一般人でも物理的に倒せるレベルだ。
キャリアであるエリナでも時間稼ぎくらいは可能だと、レイは判断した。
だが、魔力障壁を破るもっとも効率的な手段は、魔力での直接干渉。
だからこそ、魔法種は戦場の要とされ、人類の守護者として崇められる。
そんな魔法種であるレイは、最終的に彼らを倒すのは自分であると、当然のように考えている。
「それくらいは仕事しないとな」
エリナもまた、強化種の圧倒的な威圧感に汗を滲ませながらも、レイの提案を受け入れた。
キャリアには一般人の運動神経が良い程度から魔法種と遜色ない者まで、強さの幅がある。
エリナは決して弱くもないけれど、魔法種と比べればかなり劣る、平均的なキャリアの人間であった。
それを自覚しているエリナは、目の前に立つ強化種を相手するのには厳しい可能性を考慮しつつ、レイが同時に相手取ることもまた厳しいと理解して、提案を受け入れた。
勿論それだけではない。
エリナにはエリナなりの、歳を重ねた分だけの意地とプライドもあった。
「すぐに倒してみせます。エリナさんは時間を稼いでください!」
「おうっ!」
その一言は、レイという冒険者の新たな幕開けを告げる合図だった。
レイは地面を蹴り上げ、一気に加速する。
土煙が舞い上がる中、真ん中の強化種へと突撃した。
レイの武器は短刀とロングソード。
いずれも魔力の伝達効率に優れた魔石製で、魔物の討伐に特化した武具である。
魔力の伝達には距離が大きく影響する。
距離を取れば取るほど安全な位置を確保できるが、それと反比例するように、距離が遠ければ遠いほど魔力が霧散してしまい、魔力障壁へ干渉するには強度が不足してしまう。
短刀とロングソードも同じような関係であり、仕留める精度は短刀のほうが高い。
二刀流のスタイルであるレイは、左手で短刀を、右手にはロングソードを持ち合わせている。
レイは初手には右手を選択して剣を突き立てた。
「はっ!」
強化種への一発目の攻撃は、相手はレイのあまりの速さに反応できず、見事に直撃してよろめかせた。
しかし、一撃で仕留められる程に魔力障壁は脆弱ではなかった。
皮膚までは届かずに、魔力が強大なレイであっても数発は攻撃をしないと壊せないような、障壁特有の鈍い感触が腕には伝わっていた。
そして、至近距離となったレイに対して、力の差に怯えることなく攻撃を仕掛けられる度胸も備えていた。
強化種は怯むことなく、岩石なら軽く砕いてしまいそうな鋭い爪を振り下ろす。
「軽いっ!」
しかし、レイにとってその攻撃は安易に予測できたものだ。
むしろ、カウンターを入れてくださいとばかりの甘い誘惑を伴った攻撃でさえあった。
だから完全に空を切らせるのではなく、左手の短刀でその攻撃を受け流すことを選択し、次の一手の布石へと変えた。
だが、相手するのは強化種二頭である。そのタイミングを潰すように、手を余らせていたもう一頭も死角からレイを追撃する。
レイはその攻撃を関節視野に収めると、宙を舞うように大きく後ろに飛び跳ねた。
不発で終わったはずのその攻撃は、強化種の爪が地面に食い込むことで巨大な穴が穿たれていた。
「コンビネーションもあるのね」
相手の攻撃を受けて観察できるのは、本物の強者の特権だ。
その初手で死ぬことのあるのが実戦であり、プロレスや物語の派手なアクションではないからだ。
けれど、レイはその選択が許された強者であり、人類最高峰の訓練を受けた戦士であった。
致命傷を負うことがないと分かっていれば、相手を観察して、力量を正確に掴み取ることが勝利への近道である。
そのために、あえて後ろに飛んで距離を取ったのだった。
「一分で片付けてあげるよ」
レイは息を呑み込むと、獲物を前にした豹のように舌なめずりをした。
騎士学校依頼の久々の実戦によって、レイの身体の汗腺は開いて、アドレナリンが全身を駆け巡っていた。
レイの勝利条件は生き残ることではなく、一人も欠けることなく目の前の全ての魔物を倒すことだ。
つまり、できる限り早く仕留めて、エリナをフォローする必要があった。
ここからは強者特有の観察モードを切り上げて、中性的な優男の姿からは想像のつかない獰猛な戦士へと変化する。
ロングソードを鞘に収めると、右手に短刀を持ち替えた。
そしてもう一度地面を蹴り上げると、グンッと身体を加速させて、一気に獲物の懐へと潜り込む。
そこからは目にも留まらない速度で、残像が残りそうなラッシュを仕掛けた。
短刀から腕に伝わる感触は鈍く硬い振動から、柔らかいクッションを触っているような心地良い振動へと変わる。
強化種は遅れて堪らず、腕でクロスさせるようにして、その攻撃を防ごうとする。
その刹那の時間、遂に剣先は分厚い皮膚へと突き刺さったのだった。
それは魔力障壁が壊されたことを証明する瞬間だ。
レイはすぐさま空いた手の指を魔物の腹に突き立てる。
そのままその手は凶器として、力技て強引に分厚い皮膚に抉り込んだ。
もう一つの自身の心臓を、捻り上げる。
抉り潜り込ませた手は、太い注射針を皮膚に食い込ませるように、一気に皮や内臓を無視して心臓まで加速させ届かせる。
生命の終着地点に到達すると、レイはその幕引きを締めくくるようにぐっと一握りした。
強化種特有の生物とは思えないような強靭な心臓は、赤子のように簡単に握り潰されて破裂した。
あれだけ強大だった強化種は、見掛け倒れのハリボテだったかのように、咆哮すら許されず巨体が崩れ落ちる。
背後から襲いかかっていたもう一頭の強化種は、レイにとってはハエのように無視できるもので、描写すら必要がなかった。
その厚く硬い障壁は、強化種程度の魔力では決して突破することができない。
レイは力を失って伸し掛かってきた強化種から腕を引っこ抜くと、小石をどけるかのように軽く突き飛ばす。
血飛沫を肌にべっとりと浴びた立ち姿は、まるで冥界に降り立った死神のようだった。
「人間舐めんなよ」
強化種は、初めて“恐怖”を知った。
己の強さを見誤った強化種は、目の前の小さな生物に初めて“恐怖”という感情を抱いた。
弱肉強食。
それが、それが彼らの世界の絶対的な指標だ。
自分たちはこの美しい箱庭の中で、頂点に立つ存在だった。
他の生き物を蹂躙し、喰らい、誰にも逆らわれることなく生きてきた。
人間も何度も殺した。
確かに、理解不能な攻撃をしてくる厄介な種ではあったが、それも小石が跳ねるようなものでしかなかった。
痛みはあっても、死に直結するほどではない。
それなのに――
目の前のこの『同じ姿をした生き物』だけは違った。
攻撃がまるで通じない。
触れることすら叶わず、たった一撃で相棒が沈んだ。
このままでは、何もできずに、自分も無惨な“ガラクタ”にされてしまう。
強化種は本能の奥底から湧き上がる“死の予感”に恐慌し、そしてついに知恵を使う選択を取った。
──逃げろ。
──せめて、一矢報いるのだ。
獣である彼らにとって、これは“屈辱”だった。
だが、それ以上に生き延びたいという恐怖が上回った。
強化種は標的を変える。
あの圧倒的な魔法種ではない、もう一人の小さな生物、キャリアの女へ。
姿形は同じでも、力は違う。
獰猛な蟻のような存在がそう何体もいるはずがない。
あれほどの力を持つ存在は、群れに一頭で十分なのだ。
そして案の定、ソイツは隙だらけで、もう一頭の相棒の相手で精一杯だ。
一対一では勝てなくても、二対一ならば、この『絶望』から逃げることぐらいはできるだろう。
気づけば、本能が導くままに距離を取っていた強化種は、恐怖を飲み込み終えると同時に、四肢を大地に食い込ませ、全力で加速を始めた。
標的は、エリナ。
今まさに、背中を見せたその人間に向けて、怒りと恐怖の感情を糧に、地を砕きながら突進していく。






