らんの帰還(一)
「つなぎ屋よ、この『らん』なんだが、少し頼まれてくれないかね」
古めかしい駱駝色のスーツを着込んだ口髭の男が、ごく軽い調子でそう言った。その声で目が醒めたのかもしれない。娘の意識はどうしてか唐突に始まり、それ以前のことは何も覚えていないのだった。
「ええ、構いませんよ。預かりましょう」
つなぎや。つなぎ、綱、繋ぐ。今しがた耳にした言葉を、飴玉を転がすように口内で反芻してみるも、それで娘が何かを思い出すと言うことはなかった。
一方そのように呼ばれた青年は、帽子を取る仕草で娘に軽く挨拶をして見せる。
娘はようやく、今自分たちの居る場所がどこかの街の往来であることに気がついた。
木造の珈琲店に小さな煙草屋。住宅地へ繋がっていそうな細い路地を挟み、隣は小洒落た煉瓦造りの大きな建物で、一階はどうやら理髪店と歯医者らしい。反対側は古書店で、店外まで本が溢れて露店のようになっている。
すれ違う学校帰りの子ども。古本屋で立ち読みをする人々。
目に入るものすべてが、無性に気になって仕方ない。娘が周りを見渡しているあいだに口髭の男は去ってしまい、見知らぬつなぎ屋と二人、路上にぽつりと取り残される格好となる。
つなぎ屋は黒っぽい帽子を被り直しながら「さて、とりあえず川辺か、それとも火か」と、なにやらぶつぶつ言い思案していた。