やわらかい河のほとり(三)
「急いで睡蓮。僕ら呑気だったね。いつの間にやらこんな大きな祝福の声に包まれていたのに」
三階から二階、さらに一階へ。くだってゆくとともに、流れゆく水の音が一層激しく響いて聞こえた。それに呼応するように、子どもたちの歌もまたエウロパと睡蓮とを包み込もうとせんばかり、ますます大きな大合唱となってゆく。
「僕、此処で睡蓮と呼ばれるのが気に入りだった。響きが良くて。きみは?」
大きな玄関扉を前にして、名残惜しそうに睡蓮が尋ねた。
「僕にとっても睡蓮は良い呼び名だったな。もし自分で自分の名前を付ける機会があったら、僕も植物の名前にするよ」
「『エウロパ』は気に入らなかったのかい」
「きみが付けたそのあだ名も嫌いじゃないよ。ただ、由来が神話なのか星なのか、正体がはっきりしないところが玉に瑕」
「言われてみればどっちだったか忘れたな。きっと両方だよ」
睡蓮はにやりと笑う。
そうして二人は頷きあい、肩を並べて扉の外へ飛び出した。真っ暗な校庭を突き抜けて、息を切らし校門まで駆けてゆくうちに、
「あっ」
「そっちは、」
闇の中でどちらが先に躓いたのかはわからない。どちらにせよ瞬きをするより短い間に起きたこと。睡蓮もエウロパも、結局そのまま互いの姿を見失い、それぞれの冬休みが始まったのだった。
円い河が巡ることを止めない限り、やわらかい河のほとりで、命をことほぐ歌が絶えることはない。いつか子ども達の冬休みが終わり、やがて春を迎え、夏と秋が過ぎ、幾度季節が巡ろうとも、河は絶えず流れ続ける。明日にはまた新しい子が河のほとりに流れ着き、うっとりと柔らかな水中を揺蕩うだろう。そして誰かにおおいと呼ばれ、その子もまた「おおい」とその小さな手を振り返すのだ。なかには朗らかに歌う友のもとへ、髪を濡らしたまま精一杯駆けてゆくものもあるかもしれない。
「やあ、また会えたね。僕、図書室で本を読むのをずっと楽しみにしていたんだ」
(了)
おまけ
以下、新人賞応募時に添付した梗概です。
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命の源である円い河をテーマにした連作。
季節と時間の狂った町に暮らす傾籠は、精霊と人間の橋渡し役。彼は生まれる前の魂である卵を孵して欲しいと託される。
卵は必要な栄養を補えば孵化するが、その卵には何を与えても効果がない。
森の精に誘われ、傾籠はかつて隕石が落下した窪地へ入る。そこで琥珀のような石を拾った卵は、数億年のタイムラグに気付き、自らが星であることを思い出す。
また卵は無意識のうちに、孵化に必要なエネルギー(若さ)を傾籠から奪っていた。卵は鳥に姿を変え天へ昇り、季節は再び流れることに。
取り残された傾籠は「天の子を孵した褒美があるはず」と楽観するも、老いた身体を取り替えることを余儀なくされる。
傾籠が不死となった原因は真冬に咲く美しい赤薔薇だった。薔薇はその美しさの虜となった人間を媒介に繁殖し、蜜蜂と花のような共依存関係を築く。薔薇が滅びない限り蜜蜂役の人間も死ぬことがない。
後の傾籠であるコルネイユは不死となって以来、世界の普遍性や命の源の存在に気付きつつあった。
コルネイユが神学校で出会った同級生のエマは、自らの非力と無能を嘆く孤独な少年。将来への不安から、エマは生きる目的や使命を欲していた。
蜜蜂の使命に抗えないコルネイユはエマに薔薇の話をしてしまう。
祖父の死により天涯孤独となったエマは退学し、薔薇を探して蜜蜂役となった。使命を得て不死となったことで不安が解消したエマは、コルネイユとの再会を期待しながら、蜜蜂として転校を繰り返している。
ある夜、睡蓮は星空の遥か先に巨大な水鳥を見つけた。まだ若い水鳥は宙に浮かぶ円の正体を知らなかったが、親友の惑星が死ぬ間際、水鳥は死者の魂を円へ運ぶことが自らの使命だと気付く。
円は命そのものであり、そこには全ての魂があった。水鳥は河の中の賑やかな歌声を羽毛に纏い、未知の世界へと飛び立つ。
川(円い河)のほとりの水子が集う学舎では、睡蓮が天使のような巨鳥を見たことを友人のエウロパに報告する。天使の羽音を確認するため、二人は死んで天使になったら互いに報せることを約束した。
しかし実は、学舎で彼らがいつも歌い聞いている歌声こそ、天使の羽音の正体だった。
下校時刻に出産が始まり、胎児である二人は破水と祝福の歌を聞く。ところが校庭で転んだ拍子に二人とも円の端へ飛び出てしまった。
コルネイユとエマとして誕生した二人は、その因果から後に不死となり、思いがけず長い「冬休み」を過ごすこととなる。
水子たちは日々学舎へ流れ着いては誕生することを繰り返しているが、なかには滞るものもある。円の淵で滞っていた傾籠の魂は、星を孵した褒美として天使の翼で再び河の中へ戻された。魂には過去や未来の概念がないため、何事もなかったかのように再び学舎へと流れ着く。