蜜蜂(一)
コルネイユがいつもポケットに忍ばせている煙草は独特な甘い匂いがした。柔らかな酸味をともなったそれは、肺へ吸い込みきらぬ間に鼻腔のなかで儚く溶けてしまう。軽すぎる玩具のようなその香味は、まだ青を残す林檎の果実を想起させる。
コルネイユが神学校の中等部へ編入してきたのは、鈴蘭を揺らす風が心地良い春の日だった。編入初日の彼は、半袖と長袖のどちらのシャツを着るべきか迷ったかもしれない。
その頃のエマニュエフ・メルルは、後見人である祖父が病に伏したことを知らされ、しょっちゅう気を失って倒れていた。寮監の神父には心労による寝不足のせいだと涙ながらに説明したが、アルコホルが原因だった可能性も大いにある。
日がな一日思い詰めていたせいで、この頃の出来事はほとんど記憶に残っていない。勉強など一切手につかなかったのに、期末試験をどうこなしたのだろうと、それだけは少し知りたい気もするが。
昔、エマの両親を死に至らしめたのは船舶の事故だった。幸いにして幼いエマは隣家に預けられていたため助かったが、両親と同じ船に乗っていた祖父もまた大怪我を負い、今も脚に後遺症を抱えている。以来、祖父とエマは家を売り、二人きりで慎ましい生活を送ってきた。
その祖父が倒れてしまった。いずれ、そう遠くない将来、エマはこの寄宿舎で暮らせなくなる。おそらくは卒業するよりも早くに。そうしたら、その先は。
家賃の当てさえないのにどうして暮らしてゆけるかもわからず、夜ごと膨らみ続ける瓦斯のような重苦しい不安に、じわじわと首を絞められるようで苦しかった。寝ても覚めても心休まらぬ日々が続き、人生で最も歓びから遠い夏休みも瞬きひとつする間に終わっていたほどである。
エマには、自分が未だ十三にも満たない、無力で世間知らずの小童だという自覚があった。地位もなければ能力も無い。もし生きる意味を知っていれば、それは細くとも確かな希望の糸となり得たかもしれぬのに、残念ながらどれだけ聖書を読んでも、エマにはそれらを見つけることが叶わなかった。
恐れごと心を溺れさせてくれるなら、煙草でもアルコホルでも構わない。とにかくエマには自分を引き留める力を持つ何か、縋るに足る存在がどうしても必要だった。非力なエマが一人きりで生きてゆくため、支えとなるものが。来る日も来る日も、近く訪れるであろう孤独にエマは怯えた。
ふと、図書館に向かう途中にある大鏡を見て驚いたことがある。エマの頬は丸みを失い、肌は乾いて目のまわりは影よりも濃い黒色にくすんで見えた。その瞬間、ようやく自らの亡霊のような相貌に気づいたのだ。もともと栗色のはずの巻き毛が、その時だけはどこか灰色のように明るさを失って見えたのが不思議で、エマはしばらく大鏡の前で、変わり果てた自身を眺め侘びたのだった。
ともかくその春のエマには不安と悩み以外のすべては些末なものであり、そよ風のなかに鈴蘭の香りを見つける喜びなど感じられるはずもなかったのである。まして編入生に親切な言葉をかける余裕などまるでない。
エマがコルネイユと呼ばれる少年の存在を認識した頃にはもう、とっくに彼は新入り扱いをされていなかった。
後から思えばそのせいだろうか。
さして親しくもない、フルネームも定かでない編入生にわざわざエマが声をかけたのは、気を紛らわせるための煙草をねだったことがはじめだったかもしれない。