02.漂流2
「ロベルト……、魔法学院?」
魔法学院第七教授、ロベルト・オーケア。天使のような姿をした目の前の人間は、確かにそう名乗った。
教授と名乗っているくらいなのだから、研究を行っている専門家なのはわかる。それに、職業として大学名を名乗るにしても、こいつの自信のある顔から有名な機関な気がしてならない。
私の知らない大学院でもできたのだろうか。
それとも、おかしいのは私の方か。
ロベルトは私のことを、異世界の人間と言った。異世界、異なる世の界。それって、どういうことだ?
「はっはっは。何、疑問を浮かべるのも致し方がないことだ。だけれども我々はこうして同じ言語で話し合うことができる。まずは、君の名前を教えてくれないかな」
「黒羽徹と申します」
「くろばね、とおる。随分と素敵な名前じゃないか。しかし、この世界で名乗るには適していないね。ふむ。そうだな。トール・クローバーくらいが丁度いいだろうよ。クローバー君、どうかね。それでいいかな」
「はあ」
「いやしかし。君はなぜ倒れているんだい? 怪我をしているわけではなさそうだが。ふむ、打ちつけたのかな。異人は回復魔法が使えないという話は本当だったのか。何かな。このロベルトができることがあれば、何でも頼って欲しい。君に死なれて損をするのはこちら側だからね」
あっはっはっはっ。山の中にロベルト教授の声が木霊する。救急車を呼んでくれる気配はなかったが、助ける気はあるらしい。
「とりあえず水、水をください。喉が渇いて頭が回らない」
「みず? 何だねそれは」
「水が無い世界なのか!?」
ロベルト教授は再度高笑いをし、寝転がってぴくりとも動かない私の口に目掛けて手をかざす。そのまま手を握りしめるような動きをすると、指と指の隙間から液体が溢れ出してきた。
口元めがけて流れてくる透明の液体に、抵抗することはできなかった。無味無臭、無色であるほとんど水と言っても問題がないその液体は、私の体内に浸透していく。
別に潔癖症ではないが、すこぶる不愉快だった。他人の手から湧き出た水なんて気持ちが悪いに決まっている。
「クローバー君。水がない世界なんてあるわけがないじゃないか。生命を維持するために必要最低限の物資だ。それとも、君がいた世界では水の代替品があったのかな?」
「教授、あなたが水を知らないと言ったんですよ」
「おお? そうだったかな? はっはっはっ。何、冗談のつもりだったんだ。気を悪くしたかな? いやいや、どうだい、初めて魔法を見た気分は、如何かな」
「魔法って……。非科学的ですね」
「魔法学的と言ってくれよ」
魔法学。魔法。手から水を生み出す魔法?
何だ、それは。聞いたこともない。
「ここは何処なんですか?」
「んん、それは非常に難しい質問だ。ここがどこか何て、人によって答えが変わってくる。西国の連中からすればダルフ郊外だし、パラスからしたら無主地だ。しかし、強いていうならば『純愛の魔王』が所有する敷地の中というべきなのかな。だが! しかし、クローバー君。君にとって、ここがどこかなんて心の底からどうでもいい話なのではないかな?」
「ロベルト教授でしたっけ。さっきからあなたが何を言っているのかさっぱりわからないのですけれど」
「そうだろう、そうだろうとも」と、嬉しそうにロベルト教授は笑う。思わず見惚れてしまいそうになる程の笑顔で、背後の日光と相まって本物天使のようだった。
教授はゆっくりとしゃがみ込み、私に目線を近づける。そして、「本当はもうわかっているんだろう」と小声で囁く。
最初から全てを見透かされているような。私が否定したい非現実的な発想を、ゆっくりと丁寧に肯定していく。
「クローバーくん。君は、異世界に流れてきたんだよ。生身で、直接。異世界転移というやつなのかな」
「あり得ない、でしょ」
「あっはっはっ。まあまあまあ、信じがたいのは無理もない。だけれども、それはこちらとて同じことなのだよ」
素早く立ち上がり、両手を天に掲げる。
「君が信じられないのと同じく、私も信じがたいと思っている。だがしかし、実際に我々はこうして顔を見合わせて立っている。次元を超えた異世界邂逅というわけだ」
「それとも、今見ている景色が夢だとでもいうのかな」と、教授は付け加えた。水が口の中に入り、喉を伝っていくあの感覚。夢でないことは、私一番理解していた。
例え、彼が手品師だったとしても。二十三時に太陽を沈めることはできない。
あり得ないは、あり得ない。
非常識、非日常。
これはもう仕方がないか。認めるしかない。幸い、未知のものに一定の理解を示すことは、職業柄慣れていた。前提を受け入れられないものは、探偵ごっこですら務まらないだろう。
「わかりました。わかりましたよ。ここが異世界だと理解しました」
「君は聡明なんだね。同じ知能の人間としか会話は成立しない。別世界の人間同士でもこうして話が成り立つことはとても喜ばしいことだ」
「別世界。私がそちら側に迷い込んでしまった、ということですよね。それはつまり、不可逆ではない、そうでしょう?」
「理論上はそうだね。来ることができるなら行くこともできる」
話しているうちに、体の感覚が戻ってきた。落下の衝撃で麻痺していただけだったのかもしれない。それとも、教授の手から湧き出た水を飲んだから回復したのか。私は震える足を手で押さえつけながら、無理やり立つ。
立ってみると、何のことはない。天使だと神々しく見えたロベルト教授の身長は低く、上から見下ろすことができた。随分と若い、少年、あるいは少女のように見える。
これが、異世界の住人。見る限り私たち地球人と何ら変わりのないように見える。確かに美形だが、アイドルや芸能人クラスで探せば、いないこともないだろう。
何も、宇宙人というわけではないのかもしれない。先程まで教授は言っていたが、水があって、木々があって、太陽がある。言語もなぜか日本語だ。
限りなく、地球に近い異世界。違いは、魔法だけということか。
なるほど、ふむ。
私は自分の中で考えをまとめ、教授に告げた。
「それじゃあ、私は帰ります」