第三話
安土城下はひっそりと静まり返っていた。
城で「何か」が起こることを敏感に察知しているかのようだ。
妖気は闇とともに安土全体を覆い尽くしている。
明智左馬助光春率いる遊撃隊二千を山中に伏せ、光秀は一人安土城下へと現れた。
「では、参ろうか。」
光秀は何もない空間に声を掛ける。
「はい。」
オーディンのマントで姿を消したエルナが答えた。
魔人の集結しているであろう總見寺の参道を避け、大手口から供回りも付けずに登城しようというのだ。
平服で石段を登る光秀に道行く馬廻たちは無関心だ。彼らは仏像の開眼に浮かれている。
長い大手口の道筋には重臣たちの邸が並ぶ。
羽柴筑前守の邸の少し上に松平三河守の邸がある。もっとも、邸の主は不在だ。彼らは皆、城持ちの大大名である。
その上には、数多の松明に照らされた安土城天守閣が聳えている。
信長は安土城の天守閣を『天主』と称した。自らを天の主、神仏の上に立つ存在としたのである。
大手口の終点となる大手門が近づいてきたが、光秀は二の丸あたりから城内に潜り込めないかを思案していた。
光秀は、どうしても名乗らずに城内に入りたかった。
大手口を登ってきた光秀たちは、總見寺を大きく迂回したことになる。
總見寺から城に繋がる黒鉄門は馬廻、母衣衆の人通りは多いが、かえって紛れ込むには好都合かもしれぬ。
光秀はエルナに囁きかけ、黒鉄門へと足を向けた。
黒鉄門は、あっさりと通過できたが、そこから先、二の丸に入るには誰何は免れまい。
またもや思案のしどころか、というところでエルナが光秀の袖を引いた。
「?。」
エルナは二の丸の城壁が他から死角になっている所に光秀を連れていく。
「ここから城壁を越えて侵入しましょう。光秀さま一人くらいなら抱えて飛べます。」
光秀の口が幾分、への字に曲がった。
良い方法だが、エルナに抱えられて空を飛ぶのかと考えると何やら情けなかった。
が、その時、
「待て!、何者か!。」
龕灯の光が光秀の顔面を照らした。
灯りに照らされ、光秀からは相手が誰であるのかわからない。
光秀は横柄に返答した。
「何か!。」
相手は、やや鼻白んだ様子だが、光秀の顔に目を凝らし、
「これは!、日向守さま!。」
あわてて光秀の顔面から龕灯の光を外す。
光秀に歩み寄ろうとしたが、新たな気配に気付き、エルナの方を振り向いた。
「ぬ、何奴!。」
誰何の声の主はエルナに向けて龕灯を向ける。タイミング悪く、マントのフードを外している。白銀の鉢金が龕灯の光に照らされ輝いた。
「ほほう、お主が団忠正の申しておった天人か!。」
男は不敵に笑った。
馬廻、塚原右近。
その名は光秀も知っていた。宝蔵院流の槍の名手である。
塚原右近は龕灯を投げ捨てた。抱い込んだ槍を構え直し、エルナへと猛然と突きかかる。
咄嗟にショートソードを抜き合わせたが、右近のスピード、パワーは凄まじい。
『魔界』の中の魔人の力は普段に三倍する!!。
眉間への突きを躱し損ね、エルナの鉢金が飛ばされた。
体勢の崩れたエルナに、右近の必殺の一撃が殺到する。
しかし、走り寄った光秀の抜き合わせた刀が右近の槍を止めた。
「日向守さま!、何をされる?!。」
右近は驚いたが、光秀も驚いた。
光秀の咄嗟の抜き打ちが、魔人の神速の突きを撃ち落としたのである。
妖気漂う安土城の中では光秀もまた魔人であった。
「血迷われたか!、日向守さま!。」
槍と剣を噛み合わせたまま、両者は睨み合う。
「血迷うておるは主たちであろう!。」
光秀の摺り上げた刃が槍の穂先を斬り飛ばした。
「…くっ!」
右近は腰の太刀に手をかけた。瞬時に妖気が増大する。魔剣だ。
頭上に襲い来る光秀の一撃に抜きあわせる。
「うりゃあぁっ!!。」
カイーン
甲高い音を立て、右近の魔剣が折れ飛んだ。
光秀の一刀が魔剣ごと塚原右近を断ち割ったのだ。
左の首筋から右の脇腹までがまっすぐに斬り下げられている。
「うおっ!。」
右近は信じがたい行動にでた。
滑り落ちようとする切断面を両の腕が抱きしめて止めたのである。
なんたる魔人の生命力!。だが、
「やあっ!。」
光秀の再度の打ち込みに、自ら抱え込んだ両腕ごと右近の体は頭頂から両断された。
「光秀さま、ありがとうございます。」
エルナは光秀に駆け寄る。
光秀は刀身に拭いをかけて鞘へと収めた。
「運が良かっただけだろう。相手も狼狽しておったしな。…武勇をもって知られる馬廻たちだ、魔人となればその力は恐るべきものであろう。ああ、しかし、」
光秀はエルナに笑いかけた。
「刀の出来が違ったな。」
エルナは笑って肩を竦める。
光秀の佩剣はエルナの鍛った四方詰めの大刀なのだ。
「では、光秀さま、ここから。」
光秀の腕を取り、エルナはゆっくりと飛翔した。
二の丸に潜り込んだ二人は、何か邪神の、そして偶像に関する手がかりが無いかを探っていたが、『魔界』の内部では妖気を辿って何かを捜すのは難しい。
全てが妖気に満ちているに等しいのだ。
せめて、人の流れから何かを掴もうと、二の丸西側の櫓に登ることにした。
人?の気配に気を付けつつ、櫓の階段を足音を立てぬように上がっていく。
突然、閃光とともに轟音が轟いた。二の丸全体が、ぐらり、と揺らぐ。
大砲ではない。この時代の日本に大口径の火砲は存在しない。
櫓の端に出てみると、安土城の城郭内いたる所で炎と黒煙が上がっていた。
「どうしたことだ?。」
光秀は城郭内を、そして城外を見回した。
敵方軍勢は見えず、兵を伏せてある風でもない。左馬助光春率いる遊軍が暴発したわけでもなさそうだ。
エルナは茫然と空を見上げていた。
「…グンヒルド……。」
濛々たる黒煙が星々を覆っていく中、安土城天主の遙か上空に朱く光る輝点があった。
グンヒルド。ヴァルハラ最強のワルキューレ。
身に纏った白銀の神具足が地上の劫火に照らされ妖星の如き輝きを放つ。
そして、右手には太陽神フレイの魔剣、フンディングスバナ!。
グンヒルドはフンディングスバナを高くさし上げ、鋭く打ち振った。
ドドーン!!
轟音を上げ、羽柴筑前守の邸から閃光とともに火柱が上がる。
フンディングスバナは唯の剣ではない。
侏儒の鍛えた「神の武器」、炎の魔神剣である。
切れ味もさりながら、その属性たる破邪破妖の神気。そして、固有の特殊攻撃である「炎呪」は火に親和する物全てを燃やすのだ。
神が用いれば、地上の全てを焼き尽くす力を持つ。
今のグンヒルドは神の剣と神の鎧を具えた無敵の半神なのだ。
地上ににグンヒルドは何かを見いだした。朱い流れ星のように頭から急降下する。
その方向を見て光秀は叫んだ。
「總見寺だ!。」
炎に包まれた總見寺山門に降り立ったグンヒルドを駆けつけた馬廻たちが取り囲む。
「飛天!。」「天人だ!。」
今宵は阿弥陀如来像開眼の宴である。馬廻たちは武装なしの平服であった。
肌身離さぬ魔剣を除いて。
グンヒルドは地を蹴り、五間(9m)程を跳び退いた。
左脇に剣を引きつけ、魔神剣に『気』を集中する。
刀身に刻まれた呪歌が赤く輝いた。
「いかぬ、散れ!。」
赤母衣衆、落合兵八が叫んだ。と同時に、
ドーン!
馬廻たち背後の鐘楼が爆炎に包まれた。
グンヒルドの渾身の突きとともに超音速の火炎がフンディングスバナから放たれたのだ。
落合兵八の反応が早かったため、二、三の馬廻を除いて劫火を避けることができた。
「……ちっ!。」
大小二本の魔剣を抜いた兵八が小さく舌打ちをした。
グンヒルドの姿は消えている。
妖気が極限に達している安土城にあってはグンヒルドといえども妖気の中心はわかりかねた。
總見寺の仏堂に強大な妖気を感じ来てみたが、何も残ってはいなかった。
この場で邪悪な仏像が作られていたなどグンヒルドには知る由もない。
ならば、空から見えた城の天守閣か、と、空に飛び立った、が、
ガン!
グンヒルドの体は飛来した何かに弾き飛ばされる。
神具足を纏った半神の体にはダメージはないが、膨大な運動エネルギーはグンヒルドの動きを止めるに十分だった。
何者かが投擲した大身の槍がグンヒルドの肩にヒットしたのだ。
見ると、眼下の織田信忠邸の周囲に甲冑に身を固めた完全武装の馬廻たちとその足軽が炎に照らされている。
わずか数分の間に馬廻たちは臨戦態勢を整え、安土城内に展開していた。
槍の投擲はなおも続く。
剣で弾き飛ばし、鎧で受け止めるが、火炎で反撃するどころか、体勢を立て直すこともままならない。
グンヒルドは、真っ逆さまに急降下し一瞬の逃避を計った。
地上すれすれで速度を落とし、ふわり、と着地する。
グンヒルドの降りた地点めがけ、馬廻たちが殺到してきた。
安土城は完全に邪神の結界内だ。魔人たる馬廻たちの力は普段に数倍する。
朱塗りの槍を扱いて現れる馬廻、浅川新兵衛。投槍の束を担いだ馬廻、長谷川六郎。
グンヒルドはフンディングスバナに『気』を溜めようとするが、長谷川六郎がその隙を与えない。
投槍でグンヒルドの動きを封じたうえで、槍を抱えた浅川新兵衛が肉薄する。
「えい、えい!、はあっ!!。」
豪雨のように突き込まれる朱槍は人外のスピードとパワーを具えている。グンヒルドの長大な魔神剣はその連撃を辛うじて弾き返していた。
だが、グンヒルドはヴァルハラ最強の戦乙女であった。
そのスピード、パワー、技量とも「並の」魔人の及ぶところではない。
喉笛めがけ突き込まれる槍の穂先を剣で摺り上げ、生じた僅かな間隙に滑るように入り込む。
右肘を一瞬引き、新兵衛の眉間めがけ片手で剣を突き入れた。
顔面を割らんとする神速の突きを浅川新兵衛はギリギリで躱す。しかし、グンヒルドが剣を捻ると、幅広の刀身は新兵衛の側頭に半ば以上食い込んだ。
グンヒルドはそのまま手首を戻す。頭蓋の鉢が宙に舞った。
グンヒルドの突進は止まらない。
長谷川六郎は近距離から槍を擲った。
グンヒルドは避けない。槍は兜に当たり、そのまま後ろに弾かれる。
もう槍を投げる間は無いと見た長谷川は腰の魔剣を抜き合わせた。
キーン!
一合と打ち合うことなく長谷川六郎の胴体は鎧ごと両断された。すれ違いざまの一撃である。
グンヒルドは数歩をオーバーランし、脇に剣を構えて振り返った。
なんと、頭を半分失った浅川新兵衛は、よろよろと立ち上がりかけ、両断された長谷川六郎の各々の半身は互いを求めて這いずっている。
ドーン!
フンディングスバナが火を噴き、魔人たちは織田信忠邸とともに劫火に包まれる。
足軽たちが、わらわらと逃げ去る中をグンヒルドは安土城天主に向け飛ぶように走りだした。
エルナと光秀は櫓から身を乗り出すようにして眼下の戦いを見ていたが、不意にエルナが光秀を促した。
「行きましょう、光秀さま。」
「行く、とは、あの天人の所へか?。」
エルナは首を横に振る。
「今、グンヒルドと合流しても、わたしたちでは足手まといですよ、きっと。
それよりも、この混乱に乗じて、安土城のどこかにあるはずの邪神の偶像と、今年作られたという阿弥陀如来像とやらを捜しましょう。
グンヒルドが先に見つければ必ず破壊してくれるでしょうし、わたしたちが見つけたら…、」
「?、見つけたならば?。」
エルナはニコリ、と笑った。
「グンヒルドを呼びましょう。」
光秀は、なんとなく憮然とした。
「私とエルナどのでは無理というのか?。」
「安土城とその周辺を魔界と変えるほどの妖気の源です。偶像の至近で警護に当たる魔人たちは神の如き力を発揮するでしょう。
神の武器を持ったグンヒルドでなければ倒せないと思います。」
「魔人の力が増大するのであれば、私の力も同じく増大するのではないのか?。」
「あれ?、そうですね。どうなんでしょう?。」
不思議そうに眉を寄せるエルナに光秀は苦笑した。が、この美しい天人の一種呑気なところに光秀の、ともすれば張りつめがちな精神はかなり救われている。
突然、櫓の下から足音と話し声が近づいてきた。
妖気渦巻く安土城の中ではエルナの超感覚もうまくは働かない。
あわてて光秀は物陰に身を隠し、エルナはオーディンのマントを纏い姿を消した。
足音とともに今までになく妖気が増大していく。
しかし、足音は櫓の渡り廊下を二の丸へと向かうようだ。
その妖気の主を何者かが呼び止めた。
「与力どの、暫しお待ちを。」
エルナも光秀も、呼び止めた声に聞き覚えがあった。
魔人、団忠正。
織田信長の近習たる馬廻衆には珍しく堺に駐在する事の多い忠正だが、さすがに阿弥陀如来像の開眼の日だけあり、安土城に参じていた。
与力と呼びかけられた妖人?は足を止めた。
「何用か、忠正。」
少女と惑う涼やかな美声が響く。が、凛として落ち着いた口ぶりからは少年とも少女とも量りかねた。
「天人が天主に向かっております。」
苛立たしげな忠正に涼やかな声が冷ややかに応じる。
「知っておる。捨て置け。」
「しかし…、」
忠正の言葉をキッパリと遮り、
「天人は、私が相手をする。」
「与力どの!。」
「そち達は天主の入り口を固めておれ。今宵は何人たりとも中に入れてはならぬ。」
妖人の有無を言わさぬ口調に忠正は折れた。
「…はっ。」
忠正は足早に立ち去り、妖人も二の丸へと渡ったようだ。
光秀は確信を得た。与力と呼びかけられた妖人の声は信長の小姓、織田家与力の森蘭丸のものであった。
「…やはり、与力、森蘭丸が事の核心にいるようだな。」
エルナからは何の返事もない。
「?、…エルナどの?。」
光秀の目には見えぬが、エルナはオーディンのマントを被ったまま座り込んでいた。
躊躇いがちに肩のあたりに触れると、エルナの体は震えている。
見えぬマントのフードを手探りで引き上げたがエルナは俯いたままだ。
「エルナどの、エルナどの!。」
光秀の呼びかけにも無反応だ。焦点の定まらぬ瞳であらぬ方を見つめたまま何かを低く呟いている。
「…ラン、……ラン、どうして……。」
与力、森蘭丸。
それは間違いなくワルキューレのランであった。
轟音とともにグンヒルドの体に二匁五分の鉛弾が殺到する。黒鉄門前に集結した鉄砲足軽の火縄銃百挺による一斉射撃だ。
だが、グンヒルドには避ける素振りさえない。
神具足に鎧われた胸や肩のみならず、剥き出しの白い頬さえ鉛弾を跳ね返す。
半神の防御力は火縄銃ごときが歯の立つものではないのだ。
火縄銃の何斉射目かをその体に受けつつ、グンヒルドは魔神剣を大きく肩口まで引いた。
ドドーン!
黒鉄門前に陣取った鉄砲足軽たちは劫火の前に消し飛んだ。
が、足軽を率いていた馬廻の姿がない。
「はあっ!!。」
馬廻三人が火縄銃の黒煙と「炎呪」の爆炎に身を隠し、グンヒルドに肉薄した。
一人目の魔剣の斬撃を躱し、大剣の突きを胴体に叩き込む。次いで、一人目を貫いたまま二人目を逆袈裟に斬り上げた。
しかし、
三人目の魔剣による刺突が、ついにグンヒルドを捉えた。
グンヒルドの左脚を深々と抉った魔剣は、肉と腱を切り裂き……そして止まった!。
グンヒルドが脚に力を入れ、体に食い込んだ刀身を我が身で掴み止めたのだ。
唖然とする馬廻の前で、グンヒルドは一人目の馬廻が刺さったままのフンディングスバナを脇へと引きつけた。
突きが三人目を貫くのと魔神剣が「炎呪」を発動したのは同時だった。
三人の馬廻は魔法の火焔に灼き尽くされ、粉々にちぎれ飛ぶ。
二度の劫火に灼かれた黒鉄門は半ば燃え落ちていた。
グンヒルドは剣を杖に荒い息をついていた。
神具足を纏ったグンヒルドにしてさえ、邪神の結界内では消耗が激しい。
「炎呪」を用いるための『気』の集中にも時間がかかるようになっていた。
練気を行い、傷口は元通りに塞がったが、魔剣を通じて体内に流れ込んだ妖気は、鉛のように重くグンヒルドの脚に蟠っている。
グンヒルドには不可解なほど魔人たちは強い。
『気』の乱れの隙をつかれたといえ、人間が神具足を纏った半神に手傷を負わせたのだ。今までにこんなことは一度として無かった。
邪神そのものが憑依した依代でさえ、なかなかこれほどまでの力は持ち得ない。
何より、結界の作りが違うのだ。
偶像を用いた妖気による結界であることは確かだが、洗練の度合いが違う。
東部インドに展開されていた結界はコレに比べれば児戯に等しい。
これほどのノウハウの集積は……、
グンヒルドの眉が曇る。頭から、ある推測が離れないのだ。
これだけの魔界を作るためのノウハウは、ヴァルハラにしか存在しない。
重い脚を引きずり、グンヒルドは黒鉄門をくぐった。ここから先は丸の内、すぐ上が二の丸だ。
妖気は濃密さを増し、練気はますます困難となっていく。
突然、大身の槍が頭上からグンヒルドめがけ飛来した。グンヒルドにさえ見切れぬ速さ!。
辛うじてフンディングスバナで弾いたが、その上体は大きく揺らいだ。
「大したザマだな、グンヒルド!。」
嘲る声が頭上から響く。
グンヒルドは空を見上げた。
宙に人影が浮いている。漆黒の鎧を纏った黒髪の武者。
黒い鎧は眼下の炎を朱色に映していた。
「…ラン……。」
それは惑うことなき、ワルキューレのランの姿であった。
ランは眼下のグンヒルドを嗤うように見下し、そのランをグンヒルドは鋭い視線で見上げる。
ランの体が放射する途轍もない妖気!。
その体からは半神の神気は欠片も感じられぬ。あるのは邪神そのもののようにドス黒い妖気の放射のみ。
グンヒルドはフンディングスバナを素早く脇に引きつけた。魔神剣に神気が満ちる。
戦士としてのグンヒルドは躊躇うことも言葉を交わすこともなく、ランを敵と認めたのだ。
フンディングスバナに気を籠めるグンヒルドを鼻で嗤い、ランは空中でその身を翻した。
グンヒルドは剣を構えたまま動かない。飛翔して斬りかかるだけの隙はなく、炎呪の通じる相手でもない。
なにより妖気の重く蟠った左脚が咄嗟の行動を制限している。
ランは誘うように、ゆらり、と天主へと飛翔していく。
カッ、と目を見開いたグンヒルドは細い顎を頭上のランに向けて聳やかす。
グンヒルドの瞳に迷い無し!。
白銀の半神は大剣を手に飛翔した。
エルナは力無く俯いていた。
光秀にはかける言葉もない。
美しく気高く、しかし、どこか飄々とした天人が完膚無きまでに打ちのめされている。
織田家の与力、森蘭丸こそがエルナの捜す戦乙女、ランだったのだ。
月の如く白い肌の美貌の少年の正体は男にあらず人にもあらず!。
魔人たちはみな二の丸から去ったのであろうか、安土城を満たした妖気の他に立ち動く妖気は感じられない。
静寂が光秀とエルナを包んだ。
光秀はエルナの両肩を掴んだ。織田右大臣家と、そして魔人たちに率いられた織田軍団と戦う覚悟を決めた光秀である。エルナには立ち直ってもらわねばならなかった。
「…エルナどの!。」
再三の呼びかけにもエルナは応えない。
光秀は俯くエルナの前に腰を下ろした。
「……エルナどのは妻の…お容の髪を覚えておられるか?。」
光秀の唐突な問いにもエルナは無反応だ。
構わず光秀は続ける。
「私が朝倉家に仕官が決まり、一時、妻の家に身を寄せていた頃、世話になった人々を招いて宴を催したことがある。」
当時の光秀は浪人生活が長く、蓄えもない。
仕官の決まった祝いに、と祝宴に招かれたり祝いの品を貰ったりしたが、返礼も出来ないのは光秀には心苦しかった。
容に返礼に宴を開きたいのだが、と話すと、
「承りました。費用はご心配なされずに。」
と請け合った。
つつましいながらも酒肴とも素晴らしい宴が催され、光秀の感謝の気持ちは伝わった。
宴の後、費用はどこから用立てたのかを尋ねると、容は髪を覆っていた布を外す。
布で覆って背中に垂らしているものと思った髪は首のすぐ下から無かった。
無惨な有様であったが、容は嬉しそうに笑い、
「手入れしていた甲斐ありまして、良い値がつきました。」
容は自慢の黒髪を売って費用の足しにしたのである。
「お容の髪は、今もこうして身につけている。」
光秀は首から下げた守り袋を取り出す。中からは白檀の香りと共に、根本を金糸でまとめた小さな髪の房が出てきた。
「この先、森蘭丸の所行を止めぬことには、私のような思いをする者が増えるばかりか、それにも増して、罪もない人々が苦しむことになる。
…頼む、お容の仇を取るため、私に力を貸してくれ。」
エルナを見つめる光秀の真摯な瞳。
「……光秀さま…。」
依然、俯いたままではあるが、エルナがぽつりと口を開いた。
「…そうですね、わたしの…わたしたちの所為で光秀さまたちをそんな目に遭わせてしまってるんですよね……。」
エルナは僅かに顔を上げる。その頬は未だ蒼白だ。
「…必ず、ランを止めてみせます。……わたしの命に代えても……!。」
二の丸から天主までは目と鼻の先ではあるが防衛上の理由から通路はない。
無論、隠し通路はあるだろうが簡単に見つかるようでは隠し通路の意味がない。
築城、建築に明るい光秀が何カ所か当たってみたが、それらしいものは見つからなかった。
エルナが飛翔して城壁を飛び越える手段もあったが、妖気の中心である天主へと闇雲に飛び込むのは危険と思われた。
天主に聳える城壁の銃眼からは龕灯と思しき灯りが幾筋も漏れている。数多くの魔人が詰めていることは間違いなかろう。
といって、二の丸から天主の周りをぐるりと3/4周回り、魔人たちの固める天主入り口、登閣御門を目指すのも同様の困難が待つ。
光秀は、じっ、と考え込んだ。頭の中に描いた安土城の絵図を丹念になぞっていく。
二の丸より一階層下、本丸御殿が頭に浮かんだ。
グンヒルドの放った炎呪の炎が本丸御殿の西の端から燃え広がりつつあった。
小者や足軽たちが消火に駆け回る中を、光秀と姿を消したエルナは堂々と本丸御殿へと進入する。
光秀は顔の下半分を隠す面頬と、顔の側面がほぼ隠れる頭巾で素顔を隠している。小袖にも素性を示す明智一族の桔梗紋は入っていない。
立ち働く女房、足軽たちを気にしてのことではない。
彼らは恐怖に支配されている。少々の怪異は見て見ぬ振りをするはずだ。
なにせ彼らにしてみれば光秀も恐怖の対象である魔人であるのだ。
問題は足軽たちを指揮する馬廻、母衣衆の魔人たちである。
言うまでもなく魔人たちに日向守光秀の面は割れている。右大臣織田信長に対する謀反が知られているとは限らないが魔人たちとの邂逅は極力避けるべきだった。
それに、この場の妖気に同化した魔人、日向守光秀ならばいざしらず、ワルキューレであるエルナが纏う神気は全く異質な物である。
決して気配を気取られてはならない。
オーディンのマントは魔人の目さえも欺くが、一度気配を感じ取られれば隠れおおせないのは明智容の例からして明らかだ。
オーディンのマントは魔法そのものである。その魔力は見た者の脳から術者の姿を消すばかりでなく足音や影、臭いすら消す。
その姿は足下や壁に影を落とさないばかりか鏡にさえ映らない。
しかし、それは術者の姿を目にできる範囲においてのみだ。
鶯張りの廊下の効力を失わせることができても遠くで鳴る鳴子は止められぬ。
壁に映る影を見る者の脳から消したところで、障子に映った影を遠くから見られることはあるのだ。
本丸御殿の門を傲然と潜った光秀は、小者たちが慌てふためき駆け回る中を悠々と母屋へと向かった。
が、御殿の上には上がらず、広い打ち放しの土間を奥へと進む。
安土城の勝手口ともいえる南門は本丸屋敷の屋内にあるのだ。
土を固めた広い土間はここで終わり、幅1間の石畳に変わる。ここからは荷駄は入れない。
勝手口といえども歴とした城門だ。小さく単純な門だけに鉄造りの堅牢さは際だっている。
その門を手槍を握った足軽一人が守っていた。
粗末な胴丸に陣笠を被っただけの貧相な小男である。
だが、その腰に提がった太刀だけは違った。
黒漆に銀をあしらった豪奢な蛭巻の太刀。
足軽の身でありながら、その武功により信長から太刀を拝領したに違いない。
人外の魔剣を。
短い足を地に踏ん張り、火災が迫っているにも関わらず微動だにせぬその姿を光秀とエルナは物陰より無言で見ていた。
この足軽もまた人ならぬ魔人なのだ。
しかしどうするか。
たとえエルナが姿を消して近づいたとしても、一撃で倒せる間合いにまでは近づけまい。
エルナは懐に忍ばせた投げナイフを掴んだ。エルナが投じれば並の鎧など紙のように貫きうる業物である。
が、団忠正にも明智容にも通じなかった投げナイフが、あの足軽に通じるだろうか?。
光秀の手がエルナの肘を押さえた。
ナイフを振りかぶったエルナを無言で制した光秀は覆面のまま無造作に足軽へと歩み寄っていく。
見慣れぬ覆面の魔人が近づいてくるのを足軽は怪訝そうに見ていたが、光秀がゆっくりと刀に手をかけるのを見るや、エルナの目にさえ止まらぬ素早さで手槍を身構えた。
「もうし!、そこな御仁。お覆面を取られませ!。」
足軽の制止を意に介さず進む光秀に、足軽の金壷眼が、すうっ、と細くなる。
「はあっ!。」
躊躇うことない渾身の突きが光秀を襲った。が、
鉄環の填った手槍の柄ごと足軽の両腕は斬り落とされ宙に飛ぶ
すれ違いざまに剣を振るった光秀は、返す刀で足軽の首筋を一撃した。
たたらを踏んだ足軽の首は皮一枚を残して両断されている。鮮血を噴き出して足軽は倒れた。
首筋を割られ、大量に出血しているにも関わらず、足軽の体は、飛ばされた腕は、じたばたと地でのたうっている。「魔界」内部では魔人はなかなか死なぬのだ。
刀に拭いをかけた光秀は、エルナに向かい小さく頷く。
オーディンのマントを纏ったままエルナは呆気にとられていた。
「魔人」であるとはいえ、光秀の剣技の冴えはワルキューレのエルナをして驚愕させるだけのものであった。
南門の前で待つ光秀へと駆け寄ったエルナは、不思議そうな瞳で光秀を見つめる。
「?。」
分厚い鉄の扉の向こうを伺っていた光秀はエルナの視線に気づき、不審げに振り向いた。
「…光秀さま、お強いんですね。」
「強い?。」
光秀は苦笑した。
「それは、今の私が『魔人』ゆえ……、」
エルナは首を横に振った。
「速さや力じゃなく、太刀捌きや重心移動の巧みさが、です。」
これほどの技を持った戦士はヴァルハラにもそうはいない。今の光秀ならば、団忠正に少しも引けを取るまい。
「ああ、私が昔、幕臣として足利義輝さまにお仕えしていた頃、剣聖、上泉伊勢守どのより教示を受けたことがある。今でも並の剣士に遅れは取らぬかな?。」
光秀はやや照れくさげに笑う。
エルナは目を伏せ、光秀の刀の柄に、そっ、と触れた。
エルナの鍛った四方詰めの大刀だ。
「……今度はもっといいのを作ります。…もう少し短くて、もう少し反りの浅い……。」
「エルナどの……?。」
不意に顔を上げたエルナの唇には笑みが浮かんでいる。
「光秀さまほどの戦士が、剣の出来で後れをとるようなことがあったら大変なことですから。」
光秀も微笑み頷いた。
自分の得意とする鍛刀に目的ができることでエルナは精神的再建を果たしつつある。
光秀から見れば神業としか思われぬこの剣に何の不満があるのかはわからぬがエルナの立ち直りは光秀を少し安心させた。
光秀に代わり、エルナが扉の向こうの気配を探る。
鉄の扉の向こう側は猛烈な妖気に満たされていたが、特に魔人と思しき気配は感じられない。
巨大な鉄の扉をエルナが半神の大力で引き開けると奥には漆黒の闇が蟠っていた。
通廊の奥より吹き付ける、物質のように濃密な妖気!。
ここから先は魔界の中枢なのだ。
城門の一つでありながら先ほどの足軽以外に門を守っていた形跡はなかった。
他の魔人たちは皆、グンヒルドに気を取られているに違いない。
魔人一人が門の守りにあれば、たとえそれが50人の足軽隊であっても常人に突破されるはずなどないのだ。
通廊を抜け石段を登り始めると人の気配と微かな話し声とともに、手燭の反射光と思しき灯りがときたまさっと閃き、ぼんやりと城内を照らす。
夜目の利くエルナにはその灯りで十分である。たちまちに4人の魔人が潜り木戸と内門を固めているのを見て取った。
正門たる登閣御門からであろうと本丸御殿より繋がる勝手口からであろうと、ここを通らねば天主には入れない。そして、ここからは光秀の見知った安土城でもあった。
「さて、これからいかがしたものか。」
様子を伺いながら安全な位置まで石段を下った二人は小声で囁き交わした。
「…ランは、グンヒルドは自分が相手をする、と言ってました。
ランの強さが以前のままとすれば、技の速さだけならグンヒルドと互角、もし、わたしがランのために鍛った剣を使っているのなら、打突の速さはランが勝ります。…ですが……、」
エルナは苦しげに言葉を切った。
「ですが、ランがあの剣を使っているのなら、グンヒルドには通用しません。一合のもとに叩き折られるでしょう。
……わたしの鍛ったあの剣は病んでいるのです……。」
エルナは沈黙したが、光秀の視線に気づき、
「それは別にいいんです。それより、ランがグンヒルドと戦っている間に、城内にあるはずの偶像を捜しましょう。もし、破壊するなり傷つけるなりできれば、グンヒルドへの援護ともなると思います。」
光秀は頷いた。が、
「私にも一つ気に掛かることがある。ここ数年、何度も安土に登城しているにも関わらず、織田右大臣家に一度も目通りした覚えがないのだ。
諸大名への訓令も仏像開眼の法要も全て与力の森蘭丸……エルナどのの言うランが仕切っておる。
そう、もう2年余り、右大臣家は人前に姿を現してはおらぬ。」
「…姿を現せないのかも。」
「?!。」
「邪神に取り憑かれた者の姿は邪神の如く変容するといいます。もしかしたら織田信長自身も……。」
だとすれば、魔界の中でしか生きられぬ、魔界そのものといった生き物と化しているだろう。
「でも、そうであればこそ、邪神の本体はこの城内、魔界の中枢にあると思います。邪神の力を弱めることが勝機につながります。」
「あーはははっ!。」
濛々たる黒煙に覆われた空にランの哄笑が響く。
漆黒の鎧を纏ったランが翼有る者のようにヒラリと宙を舞う。その間隙を炎呪の炎が貫いた。
黒糸威の二枚胴も黒羽を飾った椎の実型の兜も夜空に溶けるが如く黒い。
その表に炎呪の炎が映え、赤々と輝いた。
ヒラヒラと飛び逃げるランを猛禽のように追うグンヒルドだが、その身のこなしに疲弊が見て取れる。
左足に蟠った妖気がグンヒルドの体力を奪っているのだ。
再三放つ炎呪も狙いの正確さを欠き、炎の勢いも徐々に弱まりつつある。
それを知ってか、ランは天主のまわりをグンヒルドを誘い、嘲るかのように飛び回る。
しかし、グンヒルドも逃げ回るランを闇雲に追いかけているわけではない。
グンヒルドは極めて冷静にランを観察していた。
炎に包まれる安土城を眼下に怪鳥のように飛び回る黒い天魔!。
ランの腰には5尺はあろうという長大な太刀が提がっている。
いかなる凡刃であろうとランが用いれば名刀と変わらぬ。
まして、「魔剣」とあれば、神具足を纏ったグンヒルドに手傷を負わせることさえ可能だろう。
だが、グンヒルドには納得がいかない。
ランの剣技の神髄は神速の突きにこそある。
刀身の大きく反った太刀はランの剣技には馴染まないはずだ。
しかし、今のグンヒルドに巨大なフンディングスバナをランの大太刀よりも速く繰り出す自信はない。
妖気の中心、魔界の中枢に近づくにつれ、半神であるグンヒルドにして能力の低下は否めぬ。
そして、ランの放つひときわ強大な妖気は、神具足により霊的防御力の高まったグンヒルドをさえ圧倒した。
だが、ランが理由もなく逃げ回っているはずがない。グンヒルドをおびき出そうとしているにしろ疲れを待っているにしろ何らかの動きがあるはずだ。
(こちらから仕掛けてみるか。)
グンヒルドはフンディングスバナに気を込め、ランではなく、安土城最上層、四角の段に向け「炎呪」を放つ。
壮麗な瓦屋根と、金箔に彩られた梁が消し飛んだ。
ドーン
天主全体を揺るがす衝撃。
漆喰の破片がパラパラとエルナと光秀の上に降りかかった。
ランとグンヒルドの戦いは上空で行われているようだ。
魔人たちも外の様子が気になって仕方がないのだろう。しきりと銃眼から外を覗いている。
エルナと光秀にとってこれはチャンスだった。
ここで混乱を起こし、そのどさくさに紛れ天主内部へと進入したい。
エルナはマントの内側から、拳よりやや大きな鉄の筒を取り出し、光秀に向かってニッ、と笑いかけた。
普通の黒色火薬を用いた爆裂弾である。が、エルナが手をかけた爆裂弾が普通のものであるはずがない。
微量の白色リンを添加した黒色火薬に個体状になるまで圧力をかけ、容積にして通常の8倍の火薬を圧縮した極めて不安定なものだ。
まともな人間ならばそんな危険なものを肌身に着けて持ち歩いたりはしない。
しかし、エルナはマントの下に幾つもの爆裂弾を持っていながら恐れる素振りもない。
なぜなら、
黒色火薬の爆裂弾ごときでエルナの半神の肉体は傷を受けたりはしないのだ。
エルナはオーディンのマントで姿を隠し、音もなく魔人たちの方へと近寄っていく。
魔剣に手をかけ、油断無く辺りに気を配っていた魔人たちは、不自然な気配にすぐさま気が付いた。
エルナの姿が見えぬにも関わらず、抜刀し気配を探る。
その眼前に爆裂弾が投げ出された。エルナの手を離れ、一瞬の間もおかずに爆発する。
ドドーン!!
亜音速の爆風と火炎、それと針のように割れ砕けた薬筒の破片が魔人たちを襲った。
「うおっ!!。」「ぐはあっ!。」
辺りは黒色火薬の爆煙に包まれる。
「魔界」の結界内では魔人たちの生命力、回復力は10倍する。
しかし、肉体の防御力自体は普通の人間と変わるところはない。
高速の燃焼ガスは鎧を纏った魔人たちの顔面を焼き、薬筒の破片は深々と頬骨や眼球に突き刺さった。
辺りには火薬と、肉の焦げる臭いが立ちこめる。
が、
魔人たちが怯んだのはただの一瞬のみ。雄叫びを上げると見えぬ目で抜刀し、気配のみを頼りにエルナに殺到した。
エルナめがけ押し寄せる魔剣の必殺の一撃!。
しかし、
「…ぐっ……!。」
魔人の一人の腕が、魔剣を握ったまま宙を飛んだ。
滑るように近寄った光秀が背後から剣を奮ったのだ。
爆煙の中を光秀の剣が魔人たちを次々と斬り倒す。
エルナはマントのフードを外して姿を現し、光秀を促した。
「上へ!。」
光秀は頷き、血刀を提げたまま木の階段を駆け上がる。
石垣内部の土蔵を抜けると、天主の1階の明かりが見えた。
階段を折り返し、1階へと駆け上ったところで、光秀は意外なものを目にする。
巨大な金色の顔が目の前にあった。
地下から地上3層まで続く吹き抜けに仏像が安置されている。
顔の高さは丁度天主第1層あたりである。
總見寺で作られていた邪悪な偶像、阿弥陀如来像だ。
数多くの灯明で真昼の如く明るい吹き抜けに、意外なことに魔人の姿はなかった。
穏やかな慈愛の表情を浮かべた金鍍金の阿弥陀如来座像はかなり巨大である。いったいどうやって天主内に運び入れたのだろうか?。
偶像の破壊はさておき、今は天主上層の妖気の中心を目指さねばならない。
追いついたエルナは光秀の案内で上りの階段に向かうべく如来像の前を横切った。
そのとき、
半眼であった阿弥陀如来像の目がカッ、と見開かれた。
爆発的な妖気の増大!。
異様な気配に光秀は思わず跳び退いた。
仏像の目から赤い筋が放たれ一瞬前まで光秀のいた空間を貫く。
赤い筋は光線のように光秀の背後の襖を、梁を、城郭を貫通し切り裂いた。
飛び散った赤い筋が襖に生臭く赤い飛沫を散らしている。
仏像は瞳から血液を高速で射出しているのだ。
高速血流は天主を切り裂きながら光秀を追尾する。
エルナは姿を隠したまま仏像に向かい投げナイフを投じた。
が、半神の投じた高速のナイフは物質のように濃密な妖気に阻まれ、仏像の手前で失速する。
仏像はエルナの気配に気が付いた。
瞳から放たれる血流は今度はエルナを追尾する。
これをエルナは飛翔して躱した。
追いすがる赤い奔流はエルナを吹き抜けの隅まで追いつめると唐突に止まる。
仏像の視野を外れたのだ。
見ると光秀も仏像を挟んだ反対側の壁に張り付いている。
人の体を切り刻んで作られた邪悪な偶像は、首や腕を動かすことはできないらしい。
ならば、と仏像の背後を回り光秀と合流しようとしたそのとき、
「?!。」
仏像の頭部がぐらり、と動く。
大気をどよもす強大な妖気の波動と共に、巨大な仏像は浮かび上がり始めた。
半地下にある台座から大きく浮いた仏像は、その全体をエルナの前に露にする。
この生きた仏像は、自ら天主内まで移動してきたのだ。
仏像は結跏趺坐の姿勢のまま空中で旋回し、エルナの方を向いた。
高速血流は甲高い音を立てて天主壁面を切り裂きエルナに迫る。そのとき、
ドーン!!
炎の固まりが城郭を突き破り仏像の頭部に直撃した。仏像の上半身は灼熱の閃光に包まれる。
グンヒルドの放った炎呪だ。
しかし、壁に開いた穴の向こうにグンヒルドの姿はない。
流れ弾か、もしくは新たに発生した巨大な妖気に対して炎呪を用いたのか。
仏像は頭部の右半分を失い、傾きつつ、ゆっくりと落ちていく。
地響きを立てて台座へと激突したが、破壊されたわけではない。弱まったとはいえ、依然、膨大な妖気を発し続けている。
それよりもエルナはグンヒルドと戦っている相手の方が気になった。
「ごめんなさい、お先に……!。」
光秀に大声で呼ばわると、まっすぐ上に飛翔する。
吹き抜けの上層、安土城第4層には吹き抜けの下を見渡せる橋が架かっている。そこまで一気に上昇した。
板張りの床に着地したエルナはさらに上層へと登る階段を捜す。
はたして橋の向こうに木の階段はあった。しかし、
「現れたな、天人よ。」
吹き抜けからの反射光に大柄な黒衣の武者が照らし出された。
階段の前に立ちはだかるは、赤母衣衆、落合兵八!。
「やはり天人は二人であったか。…では、おまえが団忠正の申しておった天人だな?。」
言うや腰の二刀を抜く。いずれも大刀、いずれも魔剣だ。
エルナもショートソードを抜いた。この魔人を倒さぬことには先に進めない。
兵八は二刀を上段に構えた。異様な刀法である。
「えいやあっ!。」
凄まじい速度で兵八が迫る。
大きく左に躱したが、兵八の左手の剣は容易にエルナに追いついた。
キーン
マントを切り裂かれながらも辛うじてショートソードで受けたが兵八の攻めは止まらない。
エルナはたまらず吹き抜けにかかる橋上に跳び退いて躱す。
が、落合兵八の恐るべき跳躍がエルナを追った。
その双刀がエルナを捉えようというとき、エルナの足元が爆発した。
橋に落とした爆裂弾を、自ら踏みつぶして爆発させたのだ。
「うおっ?!。」
閃光と爆煙が兵八の視界を塞ぐ。が、着地点に足場がないであろう事を悟った兵八は我が身に構うことなく、四層の吹き抜けを共に落下するエルナに向かい渾身の一撃を繰り出す。
しかし、エルナの姿は瞬時に「上」へと消え去った。
ワルキューレは飛べるのだ。
そして、一瞬前までエルナがいた空間には、鉄の筒がゆっくりと回転しながら浮いている。
兵八と同じ速度で落下するそれは……、
ドドーン!
至近距離で爆発した爆裂弾により、兵八の体は吹き飛ばされ壁に激突した。そのまま金箔貼りの壁に赤黒い血の染みを残し滑り落ちていく。
安土城天主上空は燃えさかる安土城の上昇気流によって轟々たる乱流の渦と化していた。
グンヒルドは感じるままに強大な妖気に向かって「炎呪」を放ち続ける。
ランが仕掛けてこないのなら、そうせざるをないようにするためだ。
既に安土城の天主は半ば火に包まれている。
最上段、四角の段は燃え落ちている。グンヒルドはその下の八角の段めがけフンディングスバナを向けた。
突如、ランが身を翻し抜刀した。グンヒルドが「炎呪」を放つ隙をつこうというのか、まっすぐに突きかかる。
グンヒルドの読み通りだ。
ランが抜刀するのを目の端で捉えるやいなや、グンヒルドは一直線に落下を始めた。
目指すは天主、八角の段!。
異変に気づいたランが加速するがもう遅い。落下しながらグンヒルドは渾身の気を溜め、「炎呪」を放った。
八角の段の天井と梁が吹き飛び、板張りの床が露になる。
そのまま急降下し、グンヒルドは燃えさかる安土城天主、八角の段に降り立った。
上空から襲い来るランに備えようとしたそのとき!、
ドン!
途轍もない衝撃にグンヒルドの体は人形のように壁際まで跳ばされた。
何もないと思った八角の段の奥からの異様なエナジーが迸ったのだ。
体勢を立て直すグンヒルドの両掌が、ぬるり、と血に濡れている。グンヒルドの血ではない。グンヒルドを跳ね飛ばしたエナジーの正体は血流だったのだ。
ザッ!、
大気を裂いて黒い影がグンヒルドの頭上を飛び去り、八角の段の対面側に、ふわり、と降りる。
黒羽のように靡いて見えたのは破れた母衣だ。
ワルキューレのラン!。
否、今のランは飛天か黒い天魔か。
ここが妖気の、「魔界」の中枢には違いないが、奇妙に威圧感を感じない。「魔力」は大気に満ちているのだがそれを用いる意志に欠けているかのようだ。
ランはグンヒルドに向けて呼ばわった。
「グンヒルド、おまえは決して私には勝てない!。…この安土の結界の中ではな!。」
かつてのランを知る者には想像も付かぬ邪な微笑み。
ランはその傍らの「何か」に愛おしげに腕を回した。ランの隣に何かがある?。
バリバリと音を立て、残っていた天井の梁が燃え落ち、床の中央へと転がった。
ランは、グンヒルドは、赤々と燃えさかる炎に照らされる。
嘲るように微笑むランの隣には……、
グンヒルドにはそれが最初、衣服を纏った木像に見えた。
炎に照らされたのは床几に腰掛けた一人の武将。
兜こそ付けてはいないが、美々しく威された黒漆の甲冑を身に纏っている。
グンヒルドは動かない。物言わぬ武将を核に、この世にあり得ぬほどの魔力が、しかし静かにこの空間に集中している。
均衡が破れ、魔力が解放されたならば、たとえ半神であろうと欠片も残さず消し飛ぶに違いない。
ランは淫らとも見える笑みを浮かべ武将の側へと擦り寄った。
「これがわが殿、右大臣織田上総介信長さま。…偉大なるシヴァ神の依代。」
しかし、邪神に憑依されたはずの信長の瞳は澱み、焦点の合わぬ目であらぬ方を見ている。
ランはクスクスと笑い、信長の頬に舌を這わせた。
そのとき、大気を切り裂き一筋の光が疾った。
それをランは二本の指で無造作に掴み取る。
「……ラン、やめろ!。」
下からの階段を上がったところにエルナが立っていた。
「…やはりエルナか……。」
ランはナイフを弄び、エルナの方をじろり、と睨んだ。
「…忠正からの報告ではとてもエルナ以外のワルキューレとは思えなかったからな。魔人一人に後れを取るその不甲斐なさは!。」
ランは口の端には依然いやらしい笑みが漂っている。
「…わが殿は、今は木偶同然。精神が死んでしまったから……。だが、今も異界とのチャンネルはつながっているのだ。意志を持たぬ強大な魔力の源。……首の傷を見るがいい。」
そう言い、信長の頸鎧を引き剥がした。
その首には全周にわたり引き裂かれたかのような生々しい傷が付いている。
「私が付けたの。…エルナ、おまえの鍛った剣で!。」
ランはエルナに向かい哄笑した。
「…そう、おまえの不出来な剣が私を魔道に堕としたのさ!。」
エルナは色を失った。ランのために鍛えた剣は本当に最悪の結末を迎えていたのだ。
嘲笑うランを前にしてエルナの膝が力を失い、がくり、と床に落ちる。
大気がゆらゆらと不気味に鳴動を始めた。
「…均衡は破られたな…、わが殿はそろそろ血が見たいと仰せだ……、」
微笑むランの背後に、異様な気配が集中していく。
妖気の漲る安土城の中にして、さらに信じられぬほどの密度の妖気!。
目に見えぬエナジーの固まりは、ランの頭上にゆっくりと大きく伸び上がり、…エルナとグンヒルドに殺到した!。
ドズーン!!
エナジーの固まりはハンマーのようにエルナとグンヒルドを押し潰した。
グンヒルドは神具足の防御力で堪え、身を躱して空中へと逃げたが、エルナは叩き潰され床を突き破って落下する。
グンヒルドは瞬時に攻撃に転じた。
空中から突きかかるグンヒルドにランも大太刀を抜いて応じた。
一合ののち大きく離れる。
見れば、やはりランの大太刀は異様な剣だ。
鍔の上、四尺の刀身の一尺ほどを脛巾が占めている。ここで相手の剣を受けようとでもいうのだろうか?。
ランの撃ち込みは速い。グンヒルドの剣をあしらいつつ、縦横からの斬り込みがグンヒルドを襲う。
その全てを避けることは出来ず、神具足の表面に幾度も火花が散った。
「いやあああっ!!。」
ランが空中の高い打点から渾身の力を持って斬り下ろす。
勝機!
撃ち込みさえ避けることができればランの胸から胴にかけてはガラ空きだ。
グンヒルドはフンディングスバナで迎え撃ち、黒い大太刀の刀身を滑らせて脛巾の部分を神具足の腕鎧で受ける。
大太刀の脛巾は腕鎧に当たり割れ飛んだ。
脛巾の下の刃は波形の火焔刃になっている!。
火焔刃は火花を上げて腕鎧をザクリと切り裂き、グンヒルドの左腕はフンディングスバナを握ったまま宙に飛んだ。
「勝負あったぞ!、グンヒルド!!。」
返す刀がグンヒルドの首を狙う。
辛うじて躱したものの、顔の右半分を削ぎ斬られ、白い半面が朱く染まった。
斬り落とされた左手はフンディングスバナとともに回転しながら床に開いた大穴へと落ちていく。
が、空中でフンディングスバナは白い手に掴み取られた。
下層に叩き落とされたエルナが追いつき掴んだのだ。
ランが悪鬼の如き形相でエルナを睨んだ。
「…エルナ!!。」
フンディングスバナに神気が満ち、呪歌が紅く輝いた。
ドーン!
炎呪の火焔が無防備のランに直撃した。
「あああっ!!。」
ランの体は炎に飛ばされ、梁を突き破り空へと吹き上げられる。
八角の段まで飛び上がったエルナはグンヒルドの姿を捜した。
左腕を落とされ、顔の半面を削がれたグンヒルドは血塗れで床に倒れている。
ランの姿は見えなかったが、これ以上この場所で戦うことはできない。
この程度でランは倒せない。そして、エルナでは今のランは倒せない。魔界から、安土から遠くに逃げる以外ないのだ。
「エルナどの!。」
光秀が燃え落ちる寸前の階段を駆け登ってきた。
「…これはいったい……、」
異様な気配と、異様な姿の織田信長に気付いた光秀は表情を険しくする。
が、今はこの場から、「魔界」から一刻も早く逃げねばならない。
エルナは倒れているグンヒルドを肩に担いで光秀に歩み寄る。
「掴まってください。飛び降ります。」
言うや、右手のフンディングスバナで壁を打ち砕いた。
光秀は頷き、エルナの胴に腕を回してマントを掴む。
エルナはチラリ、と織田信長を見た。何ら反応する様子はない。
次の瞬間、エルナは床を蹴って飛翔した。
ごうっ、と吹き上げる暴風と赤く燃える空。
安土城下は劫火に包まれていた。
グンヒルドの放った「炎呪」だけではない。半島となっている安土山の東岸より巻き起こった炎が風に乗って燃え広がったのだ。
明智左馬助光春率いる遊撃隊が風上より火を放ったに違いない。
エルナは上昇気流を巧みに捉えながら風に乗っていた。
光秀とグンヒルドを抱えて普通に飛ぶことはできない。緩やかなスロープを描いて滑空しているようなものである。
だが、標高100mの安土山のさらに20m上の天主第五層よりの跳躍は着地までの距離がかなり稼げそうだった。
光秀の指示に従い、まっすぐ城から離れるのではなく西寄りに飛行する。
いまだ炎に包まれている總見寺の三重塔にさしかかったとき、
「撃てーっ!。」
眼下の林の中から大音声の号令が響いた。
パンパン、という栗の爆ぜるような音とともに、幾筋もの鉛の弾がエルナの回りをかすめる。
魔人の率いる鉄砲足軽が、城からの道筋全てに伏せてあったのだ。
「次!、撃てっ!!。」
地上で小さな閃光がいくつも上がる。エルナは体を傾けて光秀を庇った。
高度20m程を飛ぶエルナに火縄銃の火線が集中したが、空中の移動目標に的中させるのは容易ではない。
しかも数発の命中弾がエルナとグンヒルドにあったにも関わらず、エルナはそのまま飛翔を続けている。
火縄銃程度で半神に手傷を負わせることなどできないのだ。
見ると、魔人と思しき騎馬が4騎、總見寺の急な石段を駆け下りつつエルナと併走している。
馬が石段を駆け下りたりできるはずがないのだが、魔人たちは巧みに手綱を操り平地と変わらぬ速さで馬を駆っていた。
その一人が、馬上から長銃を構え、エルナめがけ狙い撃った。
パーン
その一弾は人外の正確さでエルナの脇腹に命中した。が、エルナは僅かに口の端を歪めただけで飛翔を続ける。
魔人はエルナの様子が変わらないのを見て取ると、馬の腹に括りつけてあった馬上槍を手に取った。
長さ4m、重さ15kgの長槍を頭上に掲げ、一気に擲つ。
速い!。
音速に迫る勢いの槍をエルナは躱せない。
ガツン!
銃弾とは比べものにならない大質量がエルナの肩口にヒットした。
エルナの体は大きく跳ね飛ばされた。その体は失速し、高度が大幅に下がる。
「エルナどの!。」
墜落しかけたエルナは光秀の声に我に返ったが、もう遅い。遂に地上5m程にまで高度が落ちた。
安土山を下ることこそできたが、目の前には安土城と城下町を隔てる水堀が迫っている。
魔人たちは馬に鞭を当て速度を上げた。その手には馬上槍。追いつかれれば突き貫かれることは間違いない。
總見寺参道の石段が終わり、水堀にかかる百々橋が見えてきた。
その橋めがけ、水堀の向こう側とこちら側に大勢の騎馬武者が殺到する。
万事休すか。
そのとき、
「撃てーっ!。」
橋の向こう側を走る騎兵たちが一斉に馬上筒を発砲した。
その銃弾は橋のこちら側を封鎖しようとする騎馬武者たちをなぎ倒す。
発砲した騎兵たちが、くるり、と反転すると、二列目に控えていた騎兵たちがさらに発砲した。
今度の銃弾はエルナを追う魔人たちの人馬に集中する。
馬は前脚から崩れ落ち、魔人たちはその場に投げ出された。
「…おのれっ!。」
堀向こうの騎兵たちは明智左馬助光春率いる明智軍団の精鋭であった。
腰に提げた黒い魔剣を抜いた魔人たちは疾風の如く百々橋へと走る。
早合にて馬上筒の再装填を終えた騎兵たちが一斉に発砲した。
魔人たちの体は赤い血煙を上げて爆ぜたがその足は止まらない。
その凄まじさにさしもの精兵たちも恐怖した。
が、そのころにはエルナたちは無事に合流を果たしていた。
「退けい!、退くぞ!。」
左馬助光春が呼ばわり、騎兵たちは潮の引くように夜の街道へと消えていく。
後には夥しい数の足軽の死体と四人の魔人が残された。
各々、十数発もの弾丸を受け、全身ぼろくずのようになっていたが、魔剣を握ったその体は小揺るぎもしない。
凄まじい形相で軍勢の消え去った方を睨み付けていたが、
「……やはり、明智か……、」
呟くように口にすると残りの三人と頷き交わす。
何の旗も馬印も持たず、黒い甲冑を身に纏った謎の軍勢だったが魔人たちには確信があった。
これ程よく訓練され、疾走する馬上から整然と射撃を行うなど、火縄銃を能く用いる明智軍団以外に考えられない。
魔人たちは剣をおさめ向き合った。
「…天人のことといい、これは捨て置けぬぞ。」
「うむ、そなたは与力殿のご指示を仰げ。儂はこのままあの軍勢を追い、……坂本なり亀山なりへ向かうのをこの目で確認いたす。」
それを聞くと母衣衆の一人はニヤリ、と笑った。
「おぬし、その姿でか?。」
4人の魔人は皆、満身創痍を超えて地獄の悪鬼さながらの有様である。
「…そうであった。」
魔人たちは傷を負った顔に凄惨な笑みを浮かべ笑い交わした。
続く
大昔にコミケで発表した作品です。全四話。