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魔王伝  作者: kyow
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第一話


 生木を裂くような音とともに、毛むくじゃらの腕が斬り飛ばされ地に転がった。

 切り落とされた人間のものとは思えぬ右腕は、刀を握ったまま板張りの床の上でのたうち回る。

 祭壇の中央に(しつら)えられた護摩壇(ごまだん)が時折炎を上げる中、漆黒の鎧の戦士は高々と剣を(かか)げた。

「見たか!、我が友、ワルキューレのエルナの鍛えし剣の冴えを!!。」

 大音声(だいおんじょう)で呼ばわったのは若い女の声だ。

 すらりとした長身に黒い胴丸を身につけた女武者。が、彼女は人間ではない。

 ワルキューレのラン。

 大神オーディンにより造られた魔法的存在の半神、天駆ける戦乙女(いくさおとめ)の一人だ。

 天壌無窮(てんじょうむきゅう)の肉体と超人的パワーを(そな)えた無敵の戦士である。

 邪神討伐の命を受け、北欧の地から、はるばるインドまでを遠征、()ぐるを追い、そして、とうとうこの極東の地に邪神を追いつめたのだ。


 右腕を落とされ地に膝をついた「それ」は、まさに悪鬼の形相でランを睨みつける。赤銅(しゃくどう)色の巨大な体躯、そして、額より伸びる4本の(ねじ)れた角。

 これが僅か数刻前までは人間だったとは!。

 それは、邪神に取り憑かれ、変形(へんぎょう)し果てた人間の姿であり、邪神そのものの現身(うつしみ)。まさに「鬼」だ。


 ランも無傷ではない。急所こそ外しているが、「鬼」の破壊的な打撃や斬撃をその華奢な体に何度も受けている。

 超自然的な防御力と回復力がためその体に傷跡はないが、「鬼」の猛烈な妖気は通常の物理攻撃に傷つくはずのない半神の体に徐々にダメージを与えつつあった。

 城に潜入するために調達した黒い兜と胴丸も既に割れ砕けている。

 眉庇(まびさし)に大きく亀裂の入った兜をランは放り捨てた。その下から少年のように端正な面差しと燃えるように輝く黒い瞳が現れる。

 肩の上で切り揃えられた黒髪を軽く掻き上げ、凛々しくも挑発的な侮蔑の笑みを浮かべるランの右手には白銀の長剣が提げられている。

 ワルキューレのエルナがランのために鍛えた業物(わざもの)だ。

 ランに合わせて極限までチューニングされたランのためだけの剣。その奇跡のような工作精度は半神の技なればこそだ。


 (ひざまづ)いていた隻腕の「鬼」は、唐突に残った左の掌で床を打ち払った。

 爆発のような一撃は床に張った銅の厚板を弾き飛ばす。100kgを越える(あかがね)の奔流が亜音速でランへと殺到する。

 狙い過たずランの頭めがけ襲い来る大質量をランは避ける素振りもない。

 手に提げた剣をはね上げ、

一気に振り下ろした!。

 白銀の閃光が(あかがね)の奔流を切り裂いた。

 轟音とともに、ランの立っていたすぐ横の床板に大穴が開く。

 ランの姿はもうそこにはない。

 正面に剣を構え、滑るように肉薄する。

 「鬼」はバランスを崩し、よろよろと後じさった。

 勝機!

 ランは両手で握った剣を「鬼」の脇腹めがけ突き入れる。

が、「鬼」は一歩を踏みこらえた。不自然な姿勢でピタリ、と静止し、繰り出した猛烈な張り手が剣ごとランを弾き飛ばす。

 胴丸を打ち砕き、鉄槌の如き「鬼」の掌底がランの鳩尾(みぞおち)を強打した。

 熔けた鉛のような猛烈な妖気がランの全身を駆けめぐる。

 人形のように跳ね飛ばされたランは床に2度バウンドし転がった。壁に打ち当たる寸前になんとか体勢を立て直す。

 追い打ちは来なかった。

 まただ。

 攻め続けていたつもりが巧みに邪神の結界の中心に誘い込まれてしまった。

 邪神の眷属は、自らの結界内では神にも等しい力を発揮する。

 この建物自体が既に邪神の結界内だ。ワルキューレでなければ濃密な妖気に立っていることすら(かな)わないはずである。

 おそらく「鬼」の背後の壁にある曼陀羅(まんだら)か、台座に置かれた岩が結界の魔力中心だ。

 ランは剣を構えなおした。

 「鬼」はあの場所から3歩とは前にでて来るまい。

 ならば、一撃に渾身の『気』を籠め、結界ごと「鬼」の頭蓋を砕く!。

 戦乙女は全身に神気を纏い淡く輝いた。

「いくぞ!!。」

 ランは(はし)った。その足は地を踏んではいない。

 ワルキューレは()べるのだ。

 白い光が「鬼」へと突進する。

 「鬼」の輪郭が、ゆらり、と揺らめいた。物質の如く濃密な妖気が周囲の大気を歪めている。

 唸りをあげた張り手が凄まじい相対速度でランに襲いかかるが、紙一重の所でランの神気がそれを跳ね飛ばした。

(いける!)

 ランは両手の剣に力を込めたが、ふと、違和感を感じた。剣に籠めた『気』が頼りなく揺らいでいる。

 光の奔流は「鬼」へと激突した。

 ランの神速の突きは狙い過たず、結界ごと「鬼」の眉間を貫く。が、

パキン

 はじけるような音を立て、ランの手にした剣はその半ばほどで砕けた。

 額を深々と貫かれたまま「鬼」は腕を振り上げ、叩きつけるようにランの体を抱え込んだ。

「お、おおおおおおおおおおぉぉぉっ!!!。」

 咆哮(ほうこう)と共に「鬼」の口が耳まで裂け、巨大な乱杭歯がランの左肩に突き立てられた。めきめきと音を立て、肩が鎧ごと潰れる。

 傷口から「鬼」の体液がランの中へとなだれ込んだ。

 焼け爛れる感覚と気が遠くなるほどの妖気!。

「ヤアァァァァァっ!!。」

 ランは折れた剣を逆手に持ち替え「鬼」の首に突き立てる。二度、三度!。

 鋼のような筋を切り裂き、刃は頸骨に食い込んだ。渾身の力で一気に引き斬る。

 「鬼」の首はランの肩に食らいついたまま切断された。噴水の如く黒血を吹き上げる胴体はランに蹴り倒され轟音と共に地に倒れる。

 ランも「鬼」の首を抱えるようにして地に膝をついた。


 魔人は(たお)れた。

 しかし、ランの中でも何かが音を立てて壊れていった。




 エルナは(つち)を振るう手を休め、工房の屋根に建つ巨大な風車が落とす影に、ぼんやりと目を向けた。

 黒い帯は草原を横切り、緑の領域を音もなく区切っていく。

 ゆっくりと回る風羽根は巨大な(ふいご)に絶えず風を送り込んでいた。

 200年間休みなく燃え続けた鍛炉だ。白く燃える石炭の炎の前には、いかなる剣もたちまちに赤く灼ける。


 エルナは、(かが)めていた腰を伸ばすと、(かたわ)らにあったぼろ布で(すす)に汚れた顔をゴシゴシと拭った。

 工房に籠もるワルキューレなど他にいない。工房の主たる侏儒(ドヴェルク)たちも戦乙女が鎚を持つのにいい顔はしなかった。

 最初の内は、だ。

 今では、この毛色の変わったワルキューレが職人の魂を持っていることを認めている。

 もっとも、それもエルナの慰めにはならない。エルナの技能が侏儒たちの足元にも及ばないことは身にしみている。

 器用さや技量が、ということではない。侏儒たちは神力のレベルこそ違え、偉大な神々と同じく高度な魔法的存在であり、言うなれば「魔法」そのものなのだ。


 エルナの()つ剣は半神の持つ魔力により強化されている。輝く地金(じがね)は強靱にして(すこ)やか。(はがね)の活性全てが引き出されている。が、剣自体に魔力が付与されているわけではない。 半神であるワルキューレには魔力付加能力など無い。侏儒の神力をもってして初めて剣に属性を与え、魔力を持たせることが出来る。

 神の武器、神槍グングニルや神鎚ミヨルニルがそうだ。


 エルナは再び鎚を握ったが、金床の上の刀身に振り下ろそうとはしなかった。

 赤く灼けていた鉄は冷めるにまかされている。

 今のエルナの鍛つ剣には輝きがない。

 表面を研ぎ削り、鉄の地肌を見るまでもなく、その出来は「荒い」のだ。


 エルナは床の上に置いてあった荷物の中から革紐で巻いた無骨な剣を取りだした。

 長さは40cmほど。エルナの普段使いのショートソードである。

 水牛の皮を縫い合わせただけの鞘から刀身を抜き出し、その表面に、じっと見入った。

 厚く幅広な刀身は剣というよりも(なた)に近い。その広い表面には一点の曇りもなく、磨き上げた黒曜石のような黒い輝きを放っている。

 十数年前のエルナの作だ。

 めったに他者を褒めることのない侏儒たちも、この剣だけは褒めた。


 エルナはショートソードを無言で振りかぶり、金床の上に横たわった剣に撃ち下ろした。

 失敗作の刀身は、キーンという澄んだ音を立てて折れ飛び、少し離れた地面に突き刺さる。

 ショートソードの刃は金床の表面に薄紙1枚ほどの隙間を残して止まっている。完全に水平な打点で刀身を斬り割ったのだ。

 剣の出来を見る試し技の一つだ。本来ならば鉄条の束を斬る。

 エルナは剣技の心得があるわけではない。剣が使えないわけではないが、戦乙女に期待されるような超人的な剣技の持ち主ではない。

 様々な剣を鍛ち、試し斬りを行う以上、どんな剣でも扱える自信はあったが、その剣を使いこなして打ち合い、斬り合うとなると他のワルキューレたちに1歩も2歩も譲る。


 ここ100年ほどは、ワルキューレはもとより、地上より招かれた勇者たちの佩剣の多くをエルナが鍛っていた。

 侏儒たちの作る武具はどれも素晴らしかったが、彼らは極度に気難しく、仕事にムラがあるうえ、自分の楽しみの為だけに剣を鍛つため、自作を容易には他人に譲らなかった。

 ヴァルハラに招かれた勇者達も自分の楽しみのために戦う。勇者達の肉体は不死となっていたが、なればこそ武具の損耗は激しかった。

 勇者自前の武具は、いかな名刀、魔剣といえど、ほどなく凡刃(なまくら)同然となる。

 ヴァルハラの数千、数万の勇者のため、エルナは来る日も来る日も剣を鍛ち続けているのだ。

 そのことについてエルナには何の不満もない。

 勇者達に奉仕することがワルキューレの役目なのだから。

…しかし、

 エルナには迷いがある。

 その迷いが近年のエルナの剣を不出来なものにしている。

 親友のランに請われて鍛った剣も、実はエルナには納得のいくものではなかった。


 ランの腕の長さ、ランの(てのひら)の大きさ、そして、なによりランの間合いに完全に合わせて作られた両手剣をランはとても喜んでくれた。無論、エルナも出来うる限りのことをした。その時は全力を尽くしたと思っていたのだ。

 今ならわかる。

 あの剣は病んでいる。エルナの迷いがそのまま剣となってしまった。


 その剣とともに東方への探索行に出たランは未だ戻らない。

 黒海より東は暗黒の地。

 数多(あまた)の邪神、妖魔が現れては消える彼の地まではヴァルハラの神々の力も及ばない。

 大神オーディンの命により東方諸国の探査・鎮撫に向かったランの消息が途絶えて既に7年が経つ。

 半神であるワルキューレが人間や妖魔に害されることはありえない。


 エルナは気が気ではなかった。

 自分の鍛った剣のせいでランが窮地に陥ってはいないか?。

 肝心な場面でランの期待を裏切ってはいないか?。


 大神オーディンより、ワルキューレのグンヒルドに勅命が下った。

 改めて東方の探査とランの足取りの調査。そして、

 魔神、邪神の発生あらばこれを討伐。

 グンヒルドには太陽神フレイの魔剣、フンディングスバナが貸与された。

 神槍グングニル、神鎚ミヨルニルと同じく神の武器である。

 侏儒の鍛えた「本物の」武器だ。


 出立の前日、グンヒルドはエルナの工房を訪れて自分の佩剣を預けていった。グンヒルドの剣もエルナの作だったのだ。

 が、それは口実で、ランの親友であったエルナを慰めに来たらしい。

「…ランのことは心配しないで。必ず連れ帰るから……。」

 グンヒルドの(あお)い瞳が憂いを含んでいる。

 エルナは硬い表情で薄く微笑んだ。

「うん、ありがと。…グンヒルドも気を付けて。」

 普段と違うエルナの様子にグンヒルドは不審げだったが、ランのことが心配なのだろうと思い直し、エルナの工房を後にした。


 グンヒルドの背中を見送りながら、エルナは愕然としていた。

 自分の悩みがコンプレックスであることを初めて知った。


 グンヒルド。黄金の髪に(みどり)の瞳のワルキューレ。美神のごとき肢体の彼女はヴァルハラ最強の戦乙女だ。

 そして、彼女はヴァルハラに招かれた古代中国の超戦士、楚王項羽の愛人でもあった。

 以後2000年の間、グンヒルドの愛を手に入れようと項羽に戦いを挑む勇者は数知れない。

 彼女に限らず、多くのワルキューレは愛人として勇者に奉仕している。


 エルナは一度として愛人に求められたことはない。

 くすんだ茶色の髪と同じ色の瞳、少女めいた貧弱な体型、背もさして高くはない。

 工房で木綿のチュニックに薄汚れた前掛けを着けた自分は、まるで垢抜けない農村の娘のようだ。

 綺羅星の如き戦乙女の中にあって、エルナは目立たぬ子供のような存在でしかない。


 エルナは石壁に拳を叩きつけた。

 華奢なエルナの鋭い一撃に工房全体が鳴動する。

 なんて、くだらない自分。なんてくだらない悩み。そんなつまらないことで10年以上の間、悩み続けていたとは!。


 2年後のある晩、エルナは密かにヴァルハラを出立した。ワルキューレが勅命を受けずに人界へ降りることは禁じられている。

 脱走だ。

 ランをどうしても救い出したい。

 自分のくだらない悩みの所為(せい)でランが危険な目に逢っているかもしれないという思いは日に日に大きくなっていた。

 エルナは自作の鉢金と胸甲、普段使いのショートソード、それと工具をひとまとめにした荷物だけを持ち、天上の大黄金宮、ヴァルハラの門より下界へと飛翔した。

 雲の切れ間より眼下に広がったヨーロッパ大陸がぐんぐん大きくなる。





 大分から堺までは百石積みの快速船で3日の航程だった。

 船着き場で二百(ひき)(二貫文。銭で2000枚)を粒銀で払う。乗船時の船賃の他に、船主が立て替えていた海域通航料を頭割りで下船時に払うのだ。

 瀬戸内の村上水軍が勢力を拡大したため、瀬戸内航路の治安は良くなったが海域通航料は跳ね上がる一方だという。

 エルナは大分の港でスペイン人宣教師に手持ちの砂金のうち幾らかを粒銀と銭に両替して貰っていた。

 半分以上を手数料に取られたようだが気前よく取らせておいた。半神であるエルナには基本的に金銭など必要ない。

 日本までの行程でさえ、船などの交通機関を利用することはほとんどなかった。

 ワルキューレは飛べるのだ。

 夜間に交易船の灯りを道標代わりに東シナ海を越えてきたのである。

 ここに来てことさらに船を使うのは情報収集のためだ。船を利用したおかげで、この国が奇妙な内戦状態にあることを実感できた。

 天皇という君主を戴きながら、政治の中心は武家の統領である将軍とその行政府たる幕府にあり、しかも、政府たる室町幕府の力は衰え果て、各地の豪族や戦国大名たちは、この国の統一首都、「京」へ攻め上り、天皇を擁し将軍として天下に号令すべく闘争に明け暮れている。

 この小さな島国は、無数の小国に分かれた一種の連合王国なのだ。


 エルナはランの足跡、そして、グンヒルドがランを訊ね歩いた後を追うようにして、ここ日本へと辿り着いた。

 ランは欧州大陸を南へと縦断してギリシアに至り、そこから東方へと向かっていた。

 黒海を越えアジアに入ってからはランの足取りも絶え、グンヒルドの探索も困難を極めたらしい。その証拠に、当初2年近くあったエルナとグンヒルドとの時間差はインド亜大陸に到達した時点で数ヶ月に縮んでいた。

 そして、インド東部、カリカットで決定的な情報を耳にする。

 破壊と生殖の神、シヴァ神の信者の集団自殺と様々な怪異。

 これらはある事柄を示していた。

 邪教の信者の信仰のエナジーがあるレベルに達するとその集中した霊的エナジーが『魔界』を形成することがある。

 信者の生体エナジーを吸い上げることで成り立つ一種の結界だ。

 その結界の中では「神」は(まさ)に全能であり、信者達の望んだ「神」が地上に降臨することになる。

 だが、その多くは外に開いた結界であり、霊的エナジーは次第に散逸していく。

 信者の死や衰弱によって結界は自然消滅するのだ。

 しかし、稀に『魔界』が維持されることがある。


 綿々と続く邪教はもとより、神を「喚び出す」側にもノウハウが蓄積されている。いかなる魔道書も結界の形成・維持に多くのページを割いているのはそのためだ。

 まして、シヴァ神は幾度となく召喚が試みられた最重要頻出邪神の一つ。

 1576年6月、インド東部を中心に、かつてない規模の『魔界』が形成された。

 地形要因、そして各地の霊的聖地に偶像を巧みに配置することで強固な『魔界』を実現したのだ。

 が、ある時を境に忽然とその存在は消滅する。

 現地で得た目撃証言によれば、天空より飛来した(ブラフマー)と邪神との戦いが起こり、教団の寺院は破壊され、その廃墟の地下の礼拝堂から1000人に及ぶ集団自殺と思われる死体が発見された。

 集団自殺による爆発的な霊的エナジーで邪神の存在を依代(よりしろ)たる人体の中に固定し、憑依状態の人間を逃れさせたのだ。

 仏僧に偽装した教団中枢は東方へと逃れ、大越(ラオス)より日本へと渡った。

 ランはそれを追い、また、グンヒルドもこれを追った。

 だが、日本に着いてからのランとグンヒルドの足取りが全く掴めない。




泉州堺(せんしゅうさかい)

 中部、近畿に絶大な勢力を誇る戦国大名、織田上総介信長(おだかずさのすけのぶなが)。その代官、松井夕閑が治める堺の町の賑わいはエルナを驚嘆させた。

 堺は、この時代の日本には珍しい自由市であった。貿易港であり、日本の経済の中心であった堺は豪商たちの合議により運営され、その自治は信長にも容認されている。

 たかが極東の島国にこれほどの経済活動が存在することがエルナには意外だった。この規模は国際貿易港のコンスタンティノープルやバタビヤに匹敵する。

 また、外国人も数多い。さすがに女一人のエルナは人目を引いたが、咎められることも関心を持たれることもないほどに、しばしば西洋人の一行に行き会うのだ。

 なによりエルナを驚かせたのは、市中に流通する銃の数多さであった。

 旧式な火縄銃ではあるが、組織化された小銃隊はおろか、堺の町に溢れる浪人たちでさえ銃を手にしている。

 この国には一体、どれだけの数の銃が存在するのだろう。

 ヨーロッパの列強諸国全ての銃を合わせても、日本一国に及ぶまい。

 それほどまでに苛烈な内戦にある国にあって、堺の活況はエルナの目には異様に映った。


 堺に入って以来、微かな違和感がエルナを捉えている。

 堀割を渡る(はしけ)の上で、蔵屋敷大通りの喧噪の中で、時折、異様な気配を感じるのだ。

「妖気」と言ってもよい。

 邪神に連なる者と関連があるとは限らないが、今はその正体を探るため堺の町を闇雲にうろつく以外にない。

 そうして数日が過ぎたある日、大小路橋を西に渡り、市街に入ったところでその妖気は急激に増大した。

 紀州街道に突き当たり、そこで異様な行列を目の当たりにする。


 騎乗の武士に従う20人ほどの槍を担いだ足軽たち。

 その外見には特におかしな所はない。が、

 騎乗した中年の武士から途轍もない妖気が放射されている。

 付き従う足軽たちの足取りも一糸乱れぬ見事なものだ。が、その口元はひきつったように一文字に結ばれ、顔面は紙のように白い。

 足軽たちは皆、恐怖に支配されている

 その行列が見えなくなった頃、人々は口を(はばか)るかのようにヒソヒソと囁き交わした。

「…見ぃはりましたか?。アノお方が織田右大臣家の御馬廻(おうままわり)の一人、団忠正(だんただまさ)さまですわ。」

「あぁ、おそろし。いつ見ても人とは思われまへんなあ…。」


 険しい顔で行列を見送ったエルナは、足早にその後を追った。




日向守(ひゅうがのかみ)さま。退屈ではございませぬか?。」

 明智軍団、一万二千が堺より摂津石山に向かう途上、馬廻衆の一人、団忠正が行軍に追い付き、光秀へと馬を寄せてきた。ニヤニヤとした笑みを浮かべ(くつわ)を並べる。

 織田信長の直参とはいえ、身分の低い馬廻でしかない団忠正が近畿管領軍20万を束ねる名門明智一族の当主、惟任日向守光秀(これとうひゅうがのかみみつひで)と親しく口をきくなど常識的にはあり得ぬ話だ。しかし、光秀にそれを咎める様子はない。

「…忠正殿には何かよい気晴らしでもおありか?。」

 忠正はニヤニヤとしたまま(こた)えない。


 気にした風もなく馬を進める光秀の容貌は(よわい)五十になんなんとする男のものとは思えない。

 それどころか、古くより光秀を知る者には若返りつつあるようにしか見えぬ。

 光秀にとって、近年平穏な日々が続いていた。平穏とは違うかもしれないが、物事に、しがらみ、(こだわ)りが感じられなくなったのだ。

 主君、信長との不和や確執も今では朧気に思い起こされるのみである。

 それもこれも、

 光秀は左の腰にチラリ、と目を向けた。

 腰間(ようかん)には黒い蛭巻(ひるまき)の太刀が下げられている。一昨年末に信長より拝領したものだ。

 この剣により光秀のすべては変わった。

 五体は力で満ち、戦においては常勝無敗。

 鬼神の勢いで丹波を平定し、母の仇、波多野一族を討つことが出来た。

 その功により、信長から丹波一国を加増され六十一万石の大大名ともなったのだ。


(…ああ、そういえば、)

 主君、織田信長も変貌を遂げた。

 以前の信長は狷介にして粗暴。妙な僧侶を重用し、自らを第六天の魔王云々と言い出してからは、その奇矯な行動と為人(ひととなり)に一層の磨きがかかっていた。

 しかし、ある時を境に信長は変わった。

 光秀の脳裏を、黒髪の少年の姿がよぎる。

(…?、…はて、あの小姓はいつから出仕していたか…。確か森可成(よしなり)の三男であったか…?)

 湧き起こった微かな疑念も、ほどなく朧気となり消えていく。

 今の光秀には、全てが夢うつつのようで心に留まることがない。


 忠正は思いだしたかのように光秀を振り向き、

「この近くに、石山本願寺に(くみ)し、右大臣家に反抗を繰り返した一揆衆の村がございます。本願寺降伏後は与力職の御小姓、森蘭丸(もりらんまる)殿お預かりとなっておりましたが、既に右大臣家の裁定は下っております。丁度良い機会でございますので立ち寄って参りましょう。」

「?、どうするのだ?。」

 光秀の問いに、忠正は意味ありげに微笑んだ。

「『我ら』には命の洗濯が必要でございますゆえ…。」




 一揆衆の村は荒れ果てていた。

 柵で囲まれた集落の出入り口には番小屋が置かれ、村人の通行を制限している。

 畑の荒れようからも、拘禁は数ヶ月に及んでいるものと思われた。


 光秀は供もなしに忠正に同道した。一万二千の軍勢はそのまま石山に向かわせ、ここには忠正の足軽二十余名が従うのみである。

 番小屋の兵はひれ伏さんばかりに忠正を出迎えた。

 忠正は番兵に全ての村人を引き出すよう命ずる。

 痩せ衰えた村人たちが(まろ)びつつ引き出されてきた。皆、飢え渇いているのが一目でわかる。

 多くは老人と女子供だ。一揆に参加した男達の多くは投降後、すぐに処刑されたのだ。

 忠正は馬上からニヤニヤと村人たちを見渡した。

 背後に控える足軽たちは脂汗を浮かべ、苦しげに地面を睨んでいる。これから何が起こるのかを知っているのだ。

「与力に代わり、織田右大臣家の御裁きを申し渡す。一揆に荷担せしこと不届き千万。よって死罪申しつくるものなり。」

 忠正の笑みを含んだ声が朗々と響き渡る。

 村人たちの中にざわめきが走った。

「そ、そんなご無体な!。」

「わしらに罪はございませぬ!。」

「せめて女子供だけでも……、」

 忠正は笑みを浮かべたまま小さく右手を挙げ、

「…やれ。」

 ただ一言、足軽たちに命じた。

 槍の鞘が解かれ、白銀の穂先が日の光に(きら)めく。

わあああああ!

 悲鳴ともつかぬ雄叫(おたけ)びを上げ、足軽たちが村人の群に突きかかった。

 母親の命乞いも悲鳴と絶叫にかき消され、逃げまどう老人が、子供が次々と突き殺されていく。

 血しぶきと悲鳴が辺りを支配し、濃密な血臭は物質であるかのように五体にまとわりついた。


 非道な行為を目の当たりにしながら光秀は動けなかった。

「心地よいではございませぬか。我らはこうして満たされるのです。」

 忠正は満面に笑みを浮かべ、光秀に笑いかけた。

 無意識に光秀は頷き返している。

 光秀の腰間で黒い太刀は生き物のように震えた。

 痺れるような快感と共に、光秀の中に膨大なエナジーが流れ込んでくる。


「我ら、第六天魔王、織田右大臣家に連なる者には力が約束されております。」

 忠正の目は異様な光を放ち始めた。

「しかし、第六天の魔王、他化自在天(たけじざいてん)は破壊の神。魔王に同じく、我らの活力も破壊と殺戮に支えられております。

 ……日向守さまにおかれましては未だ「人」から離れられぬご様子。右大臣家より御拝領の魔剣を自らお揮いになれば、より早く我らに近づくことが出来ましょう。」

 忠正の言葉に誘われるように、光秀の手は、のろのろと黒い太刀の(つか)にかかった。



 突然、忠正の右の拳が顔の横で何かを掴んだ。その拳には小さな刃物が握られている。高速で飛来したナイフを素手で止めたのだ。

「…何奴。」

 忠正は刃物の飛来した方角に目を向けた。視線の方向、松林の中に白い革のマントを纏った異人の女が立っている。

 ワルキューレのエルナ!。

 エルナは堺の町で行き会った団忠正の行列の後を()け、堺市中、小栗街道沿いの馬廻屯所を見張っていたのだ。

 そして今朝、堺代官、松井夕閑の邸を宿舎としていた惟任日向守と連れ立ち、石山への行軍に同道するのを追ってきた。そして、この虐殺の現場に行き着いたのである。

 エルナは驚きを隠せない。

 戦乙女の投げた超高速の投げナイフを、この男は平然と掴んだのだ。

「何をしておる、続けよ!。」

 忠正の叱咤は足軽たちへのものだ。足軽たちは弾かれるように村人たちに向き直り、槍を揮い続ける。

「…異人の女か。いや、ただの女ではあるまいな。」

 エルナの投げナイフは忠正の掌の中で音を立てて潰れた。


 一声上げて、忠正は馬に鞭を当てた。人馬は六尺(180cm)の柵を跳び越え、荒れ果てた畑の中を松林のエルナへと迫る。

 エルナは無言で腰に背負ったショートソードを引き抜いた。

 忠正は刀を抜いていない。馬でエルナを踏み殺すつもりなのか。

 エルナは自ら馬の足下に跳び込んだ。すれ違いざまにショートソードを(ふる)う。

 左の前脚が斬り飛ばされ、馬は林に飛び込むようにして倒れた。

が、馬上に忠正の姿はない。

 次の瞬間、エルナの肩口から鮮血が吹き出した。

 倒れる馬から飛び降りた忠正が抜き打ちに斬ったのだ。

 次々と殺到する刃をエルナは地面を転がって(かわ)す。

 鋭い剣線は樹木を、岩を容易に切り裂いた。人間のスピード、パワーとは思えない。

 やっとの思いで間合いを離し、剣を構え直す。

 忠正の目が、すうっ、と細くなった。

「…ほほう、…貴様、「人」ではないな!。」

 エルナの肩口の傷はすでに塞がり消えている。ワルキューレの回復能力は半神のものなのだ。


 エルナは無言で忠正を睨み返す。

 圧倒的に強い!。

 これがグンヒルドであれば、むざむざ(おく)れをとることもなかろうが、エルナには荷がかちすぎる。

 剣を手に対峙していながら、エルナは眼前の忠正が発する妖気に圧倒されていた。

 その妖気の焦点は忠正の手にする剣である。

 何の変哲もない、黒革包(くろかわつつみ)長覆輪拵(ながふくりんこしらえ)の無骨な太刀だ。

 だが、エルナにはわかる。この太刀は何者かに魔力付加された『神の武器』だ。

 魔力の源たるこの太刀により団忠正は魔人と化している。

 そうでなくして普通の武器でワルキューレが傷を負うはずなどなかった。

 エルナは歯噛みした。

 悔しいがこの場での勝利はおぼつかない。

 その場で後ろへ跳びずさり、振り返って後も見ずに駆けだした。一太刀食らうのは覚悟の上である。

「ふんっ!。」

 間髪を入れずに忠正の太刀が一閃した。

 マントごと太股(ふともも)の裏を切り裂かれて(つまづ)きかけたが構わずに走る。

が、真正面に惟任日向守光秀の人馬が迫っていた。

 黒い太刀を抜き放った光秀からも猛烈な妖気が放たれている。

「やあああっ!。」

 気合いと共に片手で斬り払った光秀にエルナが跳躍し、抜き合わせた。

 白銀の閃光と、キーンという美しい音とともに、黒い太刀は中程から折れ飛んだ。

 エルナのショートソードは無傷である。

 光秀は差し添えの脇差しを引き抜き振り向いたが、刀を手にしたまま唖然として宙を見上げた。

 跳躍したエルナはそのまま天高く飛翔している。

 振り向くことなく高度を上げたエルナは、たちまち点にしか見えなくなり、そのまま南の空へと消えていった。




 堺の松井屋敷に戻った光秀は急激な体調不良に見舞われていた。ここ数年、一度としてなかったことである。

 光秀の剣が砕かれるのを見た見た団忠正は、与力・森蘭丸に連絡を取るよう強く勧めたが光秀は取り合わず、忠正一人が早馬を飛ばし安土へと向かった。


 (とこ)に横たわった光秀は、いろいろなことを考えていた。

 白いマントを羽根のようになびかせて飛び去った異人の女。

 あれが天人(てんにん)、飛天というものなのだろうか。


 時間が経つにつれ、心にかかった霧が晴れるかのように数年来のことが克明に思い出されてきた。

 ここ数年、何の疑問も持たずに行ってきた殺戮、虐殺。これはみな主君、織田信長の命によるものである。

 叡山(えいざん)焼き討ち、長島攻め、石山本願寺攻め。

 我が事ながらあまりの非道さに愕然とする。

「……。」

 障子の向こう、満月に明るい中庭に微かな気配を感じた。

 光秀は音もなく起きあがり、刀掛けに掛けてあったフリントロック(火打石)式の長銃に手を伸ばす。

 織田家中にあって、最も()く銃を使う明智軍団。その頭領である光秀は銃の研究を怠ることはない。昔から懇意にしている堺市中、鉄砲町の鉄砲鍛冶に命じてフリントロック銃を試作させていた。

 火蓋(ひぶた)を綴じた紙縒(こより)を抜き取り撃鉄を起こすと、障子を一気に開け放った。


 月に照らされた池の(ほとり)にエルナが立っていた。

「…飛天に、どこから入ったと問うても詮ないことだな。」

 長銃の銃口は正確にエルナの胸を狙っている。」

 かつて射手として名を馳せた光秀ならばこの距離で的を外すことなどない。

「私を殺しに来たのか?。」

 エルナは剣を抜いていなかった。無言で光秀を見ている。


 しばしの沈黙の後、エルナが口を開いた。

「…あなたの体の発する妖気を辿ってきました。」

 ワルキューレであるエルナは人間に対して(へりくだ)った態度をとる。相手が勇者であるか否かはまた別の話だ。

「でも、今のあなたからはほとんど妖気は感じない。……わたしの話を聞いて貰えるかと思って。」

 照星越しの光秀の視線をエルナはまっすぐに受け止めている。

「…面白い。天人がこの日向守(ひゅうがのかみ)に話があるとは。」

 光秀はゆっくりと銃口をエルナから外した。

「よかろう、こちらに上がるがよい。」


 エルナは玉砂利の上を音もなく跳躍し、廊下の上にふわり、と着地した。

 白いマントがゆっくりとはためく。

 白銀の鉢金と胸甲に月が映え、光秀の傍らに白い光が現れたかのようだった。

 光秀は小さく唸った。

「……そなたは…、」

「?。」

 エルナは光秀の躊躇(ためら)いがちな問いかけに首を傾げる。

 光秀は小さく上を指さした。

「…月からやってきたのか?。」

「ええっ?!。」

「先程のそなたは、月そのもののように美しかった。」

 エルナは絶句したが、白いマントの裾を持ち上げ、光秀に(うやうや)しく一礼した。

「……わたしは、ワルキューレのエルナ。神々と勇者の住まう天上の楽園、ヴァルハラから来ました。」




 障子を閉めた光秀は、行灯(あんどん)の灯りを大きくした。

「いいんですか?。」

「構わぬ。…それ、障子に影の映らぬ、そのあたりに座るが良い。」

 行灯の紙枠を戻した光秀はエルナに向き直った。

 エルナの白銀の鉢金と白い頬が、行灯の光に橙色に揺らめく。

 光秀は今まで異人の女をこれほど間近に見たことはない。南蛮の商人の持ち込んだ聖母像のように、クッキリとして、かつ繊細な目鼻立ちと陶器のように滑らかで白い肌。

 これも天人ゆえか、と光秀は妙なところで感心した。

「…まず、そなたについて聞かせてもらってよいか?。」

 エルナは頷いた。自分の立場を説明せずには済むまい。

「わたしはワルキューレのエルナ。天上(ヴァルハラ)に住まう大神オーディンによって造られた戦乙女(いくさおとめ)です。」

「戦乙女?。」

「はい。…勇者の魂を天上へと導く神の使いです。ヴァルハラにあっては勇者に仕え、奉仕する存在です。…わたしはそうでもないですけど。」

 エルナは背中から布の鞄を下ろし、蓋を開けた。中には(つち)(のみ)(やっとこ)などが入っている。

「わたしは勇者達のために剣を()っています。」

 光秀は、じっ、と考え込んだ。当代最高の知識人の一人とはいえ、その根元的なところは仏教であり儒教である。

 光秀にはエルナの言うヴァルハラが、崑崙(こんろん)にあるという仙境か、西方天竺の浄土のようなものとしか思えない。

「ふ…む、勇者というのは南蛮の強者のことなのか?。」

 エルナは首を横に振った。

「いいえ、昔は東方からも多くの勇者がヴァルハラに招かれていました。楚王項羽さま、蜀漢の趙子龍さま他、日本からも、平悪七兵衛景清さま、源九郎義経さまなどがいらしてます。……そういえば剣を鍛たせて貰ったことないですけど。」

 光秀は呆れている。

「…それは途方もない話だな。そなたが天人と知らねば、おいそれとは信じられぬほどだ。

 だが、近年には勇者と呼べる者は日本からは出ておらぬのか?。」

「ここ数百年は戦乱の続くアジアは暗黒地帯です。昔とは比べ物にならないほど多くの戦争が起き、多くの死者が出る。…そして、いろいろな宗教が台頭して多くの邪神が出現しています。邪神の勢力範囲には大神オーディンの力も及びません。」

「ふむ…、」

 結果的に日本の武士(もののふ)が相手にされていないことに光秀はやや不満げだ。

「そして、……邪神討伐にこの国に赴いた、わたしの友人、ワルキューレのランの行方が知れません。わたしは彼女を捜して、ここ、堺の地までやって来たのです。」

「…そして、われらに出会った。」

 エルナは頷いた。

「邪神のものと思われる、邪な妖気が手がかりになるかと思ったので団忠正の後を付けていました。なにかご存知のことがあれば、あなたにお伺いしたいのです。」

「…妖気、か……、」

 光秀は考え込んだが、つと立ち上がり、衣桁の側に(しつら)えた刀箪笥に手を掛けた。

 そのまま引き出しの段ごと引き抜き、エルナの前に置く。

 そこには折れた太刀が拵えを解かれ、(つば)、鞘、(つか)と共に納められていた。

 エルナは無言で折れた刀身を手に取った。

 魔力と妖気は完全に失われている。

 

「ここ数年の私の魂は、この太刀に囚われていたかのようだ。魔剣の呪縛を解かれ、目の前にかかった霧が全て晴れ渡ったかのような気がする。」

「どんな経緯があったのか、話していただけますか?。」

 光秀はうっそりと頷いた。

「ここ数年、織田右大臣家は金にあかせて銘刀を買い集めている。目利きの千利休らに名刀の折り紙を付けさせ、褒美として諸将に与えるためだ。その剣も2年ほど前に右大臣家より拝領したものだ。」

 戦功に対する恩賞は領地、知行をもってなされるが、二正面作戦を遂行し戦時体制下にある織田軍にあっては複雑な戦後処理を待たずして知行の増減を行うことはできない。しかし、個々の合戦後の論功行賞による即時の賞罰は将兵の士気に大きく関わるところである。

 諸将やその陪臣の戦功には取りあえず金子や感状でその功を賞し、信長からの褒美として銘刀や書画、茶器が下賜されるのだ。

「剣を下賜されたのは主に右大臣家の代になって家臣に取り立てられた、あまり地位の高くない者だ。

 私もその剣とともに近江滋賀郡十万石を賜るまでは、知行五百貫の新参者の一家臣に過ぎなかった。」

 この時期に光秀と同じく信長より剣を拝領していたのは馬廻衆、赤母衣(あかほろ)衆等の織田家譜代ではない、信長の代になってから重用された子飼いの家臣ばかりだ。

「?、…そうか、もしや…、」

 光秀は何かに思い当たったように考え込む。

「公の場ではいざ知らず、馬廻衆や私は譜代の家臣や大名たちより遙かに右大臣家に近しい存在だ。私と右大臣家の関係が悪化した後も、家中の紛争や権謀術策めいた話となれば余所者の私に密かに相談があった。

 …譜代の家臣では親族、その他の係累といった(しがらみ)がある。我らのような新参者であればこそ身辺に変化があったところで気に掛け、不審に思う者も少ない…。」


「シッ、」

 エルナは(てのひら)を上げて光秀の言葉を遮った。

「誰か来たみたい。」

 光秀には何も聞こえなかったが、はたして、10秒の後、襖の向こうから問いかけがあった。

「日向守さま、お(やす)みにございますか。」

 松井屋敷に詰める控えの侍の声に、光秀は何事もなかったかのように応える。

「何か。」

「安土城からの早馬が荷物を届けて参りました。御馬廻、団忠正殿からの至急の荷でございます。」

 光秀が部屋にはいるよう促すと、中年の侍が漆塗りの細長い箱を捧げ持って入ってくる。

 部屋の中にエルナの姿はない。

 箱を置いて侍が去ると、何もなかった空間から忽然としてエルナが現れた。

「驚いたな、それが『魔法』というものなのか?。」

「違いますよ。これは、こういうマントを使ったというだけで、ただの手妻のようなものです。」

 そう言いながら、何か布のようなものを裏返す動作をするとエルナの白い革のマントが現れた。

 魔法の道具であるのは確かだが、オーディンの魔術としては当たり前すぎるものでヴァルハラでは珍しいものではない。

 しかし、人間界に単独行するワルキューレには必需品だ。

「…それより、大変なものが届きましたね。」

「?、これか?。」

 光秀は箱に目を向ける。30cm×50cmほどの漆塗りの木箱だ。

「わたしが開けてもいいですか?。」

 光秀が頷くと、エルナは畳の上に座り、箱を自分の手許に引き寄せた。

 紐をほどき、ゆっくりと蓋を取り去る。

 中には鬱金(うこん)色の布に包まれた鉄(こしら)えの脇差と、小さな布の袋が入っていた。

「…ほう、」

 光秀は、えもいわれぬ感慨にとらわれ、黒い脇差しに思わず手を伸ばす。

と、エルナが、さっ、と箱を脇に()けた。

「!、何を…!、」

 不快げに食ってかかろうとした光秀だが、すぐに思い当たった。

「そうか、…これも『魔剣』なのだな。」

 エルナは無言で頷き、箱を光秀の前に戻す。

 常人には感じられない妖気がこの剣からは発散されている。

「あなたの中に残る妖気が、きっとこの剣を求めているのです。」

「ん…、」

 眼前の魔剣の誘惑を振り切るように光秀はしばし目を閉じる。

「…やはり、この脇差は下げてもらおう。……その袋は?。」

 エルナは箱の中から小さな蜜柑ほどの大きさの布袋をつまみ上げ、光秀へと差し出した。

 そのまま渡すからには危険はないのだろう。

 袋の紐をほどくと、(きな)臭い空気があたりに漂った。

「…む、……ん、」

 袋の中には赤黒い丸薬が詰まっていた。

 掌に数粒こぼしてみたが、何なのかわからない。

 光秀の手からエルナが一粒をつまみあげた。

 部屋を照らす行灯の灯りは「明るい」というより「薄暗い」といったものである。

 エルナは丸薬を目の高さにまで持ち上げて見ていたが、すぐに光秀の掌に戻した。

「…人胆(じんたん)ですね、おそらくは子供の。インドでは、よく売っているのを見ました。」

「!、…人の…胆か……!。」

「邪神に限らず、人喰いの魔獣や妖魔も魔力を補うため人の胆を珍重するといいます。一度魔剣に囚われたあなたが魔剣を失い、妖気を失えば、さぞやお体の具合が悪いことでしょう。あなたに精気を養ってほしいとの団忠正の心配りではないのですか?。」

「……。」

「ありがたいですね。魔人といえども人の情けは身に沁みるというところでしょうか。」

 エルナの遠慮のないはっきりとした物言いに光秀は鼻白んだ。が、

「……達者な倭語(やまとことば)だが、普通、女子の「あなた」という呼びかけは妻が夫に対して行うものだ。私は妻も娘もいる身ゆえ、落ち着かなくていかぬ。」

 エルナは妙な顔をした。変なところで反撃を受けたような気がする。

「では、どうお呼びすればいいですか?。」

「私は日向守であり、そう呼ばれる身分だが、そなたには意味のない呼び名であろう。そなたと私は対等な関係であるのだから。…光秀、そう、光秀「殿」とでも呼ばれるがよかろう。」

 エルナは少し考えて、

「光秀さま。」

「…む……、」

「少し敬ってみましたが。」

 とぼけた表情のエルナに光秀は小さく笑った。

「好きにされるがよかろう。エルナ「どの」。」

 しかし、光秀の笑いは疲れを含んでいる。

「…そうなのだ。そなたの言うとおり魔剣から離れて以降、体の具合は著しく悪いのだ。…いや、具合の悪いというのとも違うのだが……、」

 おそらくは喪失感。

 自分の力全てを失ったかのような感覚。強大な力というのは、それ自体が依存性の高い麻薬のようなものなのだ。

「だが、何も出来ぬほど気力が失われたのではない。体の活力全てが失せたわけではないのだ。」

 エルナは小さく頷く。一度魔人となった光秀の体からは妖気が消えたわけではない。

が、体が「魔」を受け入れたにも関わらず、魔剣の心身に対する支配は完全ではなく、魔剣を失った途端に自身の正気を取り戻している。

 光秀の「力」に依存する気持ちが小さかったこともあるだろう。武将でありながら、光秀は己の知謀を何より頼りにしていた。

「それより、お話の途中でしたね。」

「む、そうであった。」

 光秀はエルナに向き直った。

「…もう少し、(くつろ)がれよ。」

 エルナは革のマントこそ畳んで脇に置いていたものの、羽根飾りのついた鉢金や胸甲は身につけたままだ。

 半神であるエルナには何ら負担ではなく窮屈にも感じないが、光秀の心遣いを無下には断りかねた。

 座ったまま頭の後ろに手を回し鉢金の紐を緩め、ついで長い髪を三つ編みに束ねていた細いリボンをほどいた。

 眉から額の上までを覆う小さな鉢金を外すと、解かれた髪が背中でサラサラと音を立ててほどけ、ふわりと床に広がった。

 エルナの茶色の髪は行灯の微かな光の中で磨き上げた銅のように輝く。

 光秀は感嘆した。

「……エルナどのは美しいな。天人は皆、そなたのように美しいのか?。」

 エルナは今までに美しさを褒められたことなどない。それが、ほんの短い間に二度も美しいと褒められた。

 さすがにそれを鵜呑みには出来なかったが、どうにも照れくさくて落ち着かない。

 光秀にしてみれば目の前の美しい天人に対し当然の感想を述べたまでで、そのためにエルナが動揺しているなどとは想像もしていない。

 実際、エルナは美しくないわけではない。が、秀麗な美形揃いのワルキューレの中にあって「極めて美し」くはないということがエルナのコンプレックスの一面なのだ。


 なんとなく居心地悪げなエルナを不思議に思いながらも光秀は魔剣にまつわる出来事を語り始めた。

「今にして思えば、奇妙なことや腑に落ちぬことばかりだが、そのときには何も思わなんだ。

 安土城の城郭内に總見寺(そうけんじ)を移築したころから家中に怪異が噂されるようになった。」

 琵琶湖西岸、安土山の丘陵に建てられた織田信長の居城、安土城。

 北に琵琶湖を控えた壮麗な平山城である。

 外堀の端からから天守閣にかけてが安土山そのものであり、堀に沿った城郭に囲まれた内側500m四方ほどが安土城内といえた。

 信長が岐阜から連れてきた近習、馬廻、弓衆などは城の東、須田の地に屋敷を与えられ、その食・住をまかなう形での経済活動が安土城下に始まった。

 住民の多くは半ば強制的に移住させられた岐阜の領民であったが、天下統一目前の織田信長の軍都たる安土は常に数万の軍が往来する要衝であり、各地の商人や武器職人が次々と移り住み、街道沿いに長さ一里、商人、職人のみで六千人以上が住まう城下町となり活況を呈していた。


しかし、

 夜間、怪しげな荷物が運び込まれるのを見た、城下から子供が(かどわ)かされ總見寺から子供の鳴き声が聞こえた等の噂は数知れなかった。なにより、捕虜、罪人として連れ込まれた本願寺門徒たちが出てきた(ため)しがないのだ。

「菩提寺でもない寺を城内に構えることからして奇妙なことだ。なにより、右大臣家は以前より仏の敵、第六天魔王を名乗り比叡山や本願寺と反目していたほどなのだが……、」

「それ!、」

 エルナは指を立てた。

「?。」

「それです、第六天の魔王。」

 光秀の眉がわずかに歪んだ。

「平家物語に云う仏道を妨げる外道がどうかしたのか?。」

 エルナは力強く頷く。

「平家物語は知りませんが、仏教にいう第六天とは、小千世界の階層のうち、欲望を断ち切れぬ神々の世界『六欲天』の最上層、他化自在天(たけじざいてん)のこと。

 その世界に住まう神も同じ名で呼ばれます。異名に他化楽天(たけらくてん)、大自在天などがあります。」

 この辺りの話は仏教に造詣の深い光秀には、まだ受け入れやすい。

「ほう、…では、そなたたち天人は、どの階層に住まっているのか?。」

 エルナは肩をすくめた。

「この小千世界にはヴァルハラはありません。わたしたちの神は「仏」ではないですから。

 たとえ仏の世界があるとしても、わたしたちの住む世界とは違うものなのでしょう。

 でも、この神の名は、わたしたちには馴染みのあるものです。

 他化自在天、インドにおいてはシヴァ神と呼ばれる破壊と生殖の神。我が友、ランは邪神化したシヴァ神の信者達を追って日本まで来たのです。」

 エルナは一人何度も(うなづ)いた。

「インドにおいては普遍的な神ですが、日本に来てからは何一つ手がかりがありませんでした。ですが、これで確証を得ました。」

 エルナは満足げだが、光秀にはシヴァ神云々の話はピンと来ない。

 しばらく考え込んでいた光秀だが、ふと、思い出したかのように口を開いた。

「そう、諸将に褒美として与えられた銘刀の話が途中であったな。

 買い集められた銘刀は目利きの折り紙を付けられ、……多くは偽の折り紙だが……、感状とともに小さなっ武功に対する報賞とされた。

 かつての宇佐山城主、森可成(よしなり)の三男という森蘭丸が小姓としてお側に上がったのがその頃だ。

 側小姓なればこそ、右大臣家の寵厚く、登用と共に重く用いられ、近年はお側の御用だけではなく賞罰全般に与力として力を(ふる)っておる。武功に対する報賞よりむしろ、諸将の家人(けにん)に対する……」、

 光秀は絶句した。顔色が変わっている。

「?、光秀さま?。」

 エルナは光秀の顔を覗き込みながら問いかけたが、光秀の面は苦渋に歪んでいる。

 光秀は絞り出すように声を出した。

「…今になって思い出した。……私は、丹波平定の褒美に右大臣家より拝領した守り刀を妻に、…お容に渡してしまった…!。」

 光秀の妻、お容の方は、安土城から十四里離れた琵琶湖対岸の坂本城にあって、明智一族の本領、近江十万石を守っている。

 信長に対してわだかまりがあった光秀は信長から拝領した魔剣に完全に心を許すことはなかった。

 しかし、お容に魔剣を渡したのは、夫、光秀に他ならない。

 魔剣に対して完全に心を開き、既に魔人と化してしまっていることは想像に難くない。

「……いや、しかし、当時の私は魔剣の(しもべ)でしかない。お容に守り刀を渡すよう私に指示したのは……、」

 光秀は失われた記憶を懸命に取り戻そうとする。

「…思い出したぞ、すべては森蘭丸だ!。……今では右大臣家に代わり、家中の全てを取り仕切っている。」

 先程から何度も名前の出るキーパースン、森蘭丸。

 その名の響きにエルナは不吉なものを感じる。

 蘭丸、らんまる、ランマル……。


「…全ての根源は安土城にあり、ということか。…エルナどのは安土城に行かれるがよい。謎のいくつかは解き明かされるはずだ。」

 光秀の紙のように白い(おもて)に目だけが怒りに燃えている。

「……私は坂本城へ戻る。」

 エルナは小さく頷いた。

「わたしもお供します。」

 光秀は目を(みは)った。

「…エルナどの……。」

「安土城に潜入するには光秀さまの手引きが必要なんです。闇雲に魔人の巣窟に飛び込んでも仕方ないじゃないですか。先に光秀さまの御用を済ませておきましょう。」

 エルナは、とぼけたように笑ったが、急に真顔になり、

「…光秀さまのお役にたてると思います。」

 真摯な瞳で光秀を見つめた。

 光秀はエルナを見つめ返していたが、形を改め、深々と頭を下げた。

「…(かたじけ)ない……!。」




大昔にコミケで発表した作品です。全四話。

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