あの頃 【サチ編】
以前に投稿した短編「あの頃」の、サチ目線の物語になります。
「あの頃」はナチ目線の物語でした。
この短編だけでもお読みいただけます。「あの頃 ~ナチ編~」と対になる物語となっています。
ナチの十七回目の誕生日に、ナオコと流行りのユニットのバースデーソングを歌ってパールのピアスを贈った。
ナチは誕生日が世界で一番嫌いだと言っていた。理由を訊くと歳をとるからだと答えた。
二週間に一度の服装検査なんかのために、いつもよりも一時間も早く登校しなければならない風紀委員には絶対になりたくない。クラスの誰もがそう考える。全ての委員が決まった後に、どこの委員会にも所属していない者が風紀委員選抜の天秤にかけられる。立候補なんかもちろんいない。つまり、じゃんけんだ。
勝った者から心底、安堵した表情を浮かべてじゃんけんの輪から抜けて行く。残り数人となったところで示し合わせたように、ナオコ以外の全員がパーを出した。
「絶対に陰謀だよー。罠だよ。罠」
服装検査の前の日にナオコはいつも同じことを言っていた。
「そんなワケないじゃん」
「じゃあ、ナチが代わってよ。カシワギが風紀にいるからちょうどいいでしょー?」
「えー? やだよー。めんどうくさい」
「じゃあ、サチ」
「カシワギには興味ない」
「あー、もう本当にめんどうくさい」
机に突っ伏したナオコは、そうは言いながらも風紀委員の務めはきっちりと果たしていた。一時間前には必ず登校し、風紀の顧問である生活指導課の教師の後ろに立っていた。なんだかんだと言いながらも責任感はある。
「そういえば、ナチはピアスどうなった?」
「大丈夫そう。明日はサチにもらったパールをつけてくる」
ナオコが訊くとナチはわたしを見て笑いながらそう答えた。
服装検査の朝はナチはいつもカシワギの列に並んでチェックを受ける。
わたしはナチの後ろに並ぶ。
校庭の樹や近くの公園から、まるで、スピーカーを大音量まで上げたような蝉の声が届く。それが暑い夏をよけいに暑くさせる。
朝から容赦なく照り付ける太陽がナチの肩までの髪に光の輪をつくる。
カシワギがナチの髪を上げさせた。カットバンを貼り付けた耳たぶを見てナチの頭を軽く叩いて困ったように笑っていた。
ナチが掬い上げた黒い髪の隙間から、ちらりとのぞいた首筋が白い。
カシワギの後ろでナオコが『バカ』と口だけを動かしていた。
朝の駅のホームはわりと空いている。下り線だからでもあり終点まであと少しということもあるからだ。反対側の上り線のホームはいつも人でいっぱいだった。ホームから弾き出されてこぼれて落ちそうな学生服やスーツに混じって、制服姿の駅員がホームにある線を越さないようにと、メガホンを持って毎朝のように声を上げている。
黄色い電車がホームに滑り込むと、前から五両目の扉に足をかける。
駅のホームとは反対のドアにもたれかかって立つ。光が眩しいから目を閉じる。閉じた瞼の裏に透けて流れていく眩しい色が好きだ。
ナチが乗る駅を過ぎると毎朝の予定通りに電車が大きく三回揺れる。目を開けるとナチがわたしを見ている。声をかけてくれればいいのにと思いながら、ヨオと軽く手を上げる。
高校は通学にそれほど時間がかからなければどこでもよかった。どうせ通うのは一年と少し。ただし、自転車で通えるほど近すぎても新鮮味がない。電車で通学できる、ほどほどに近い高校がここだった。公立の中でも校則が厳しくて、沿線の他校生からは隠れ私立と呼ばれていると入学してから知った。制服にしても、世の中の可愛いとはかけ離れているのにわたしたちの学年だけ女子の数がなぜだか多かった。
入学式が終わった後に呼び出された。
学年主任でもあり担任でもあるタナカという現代国語の教師はかなりの強面だった。顔だけなら高校の職員室ではなく、警察のなんとか対策課にいてもおかしくない。
タナカに職員室に呼ばれたことに、少し緊張していた。
呼び出しの理由は入学前に提出した書類の『配慮してほしい点』について、確認したいとのことだった。
「コミネの髪の色は地毛なのか?」
「そうです。祖父が外国人なので」
そんな事を話した。
ナチとはクラスが一緒だった。
「コミネさんの髪の色、天然なんでしょ? キレイだね」
そう話しかけてきた。
名前がサチだと知ると『似てるね。わたしのナチは苗字だけど』と笑った。
それからナチとはすぐによく話すようになった。ナチの後ろの席にいたナオコも加わり、いつの間にか三人で一緒にいるようになった。
毎日、くだらないことを言い合い、他愛もないことで笑い合っていた。
ナチはわたしの髪をキレイだと言ってくれたが、わたしはナチの焦げ茶色の澄んだ瞳がキレイだと思った。
毎日はあっという間に過ぎていった。
進級してもわたしたちは同じクラスになった。
放課後の空き教室で、美術の課題が終わらずに居残りになったナオコを待っている。
ナチと教室の床に寝ころんで窓の外の夏の空を眺めていた。青色をこれ以上はないくらいに濃縮した濃い空は、どこまでも広がっているように思えた。
校舎には冷房が入っているはずだがとても効いているとは思えない。じわりと首筋に汗が伝う。
ナチに進路希望調査は出したのかと尋ねると「ン」と短い答えが返ってきた。
窓を閉めていても校庭からは、運動部の訳のわからない掛け声が教室にまで届いてくる。
進路はどうするのかと訊くと「一応、進学でだした」と返ってきた。同じだと答える。
夏休みはもうすぐだった。
床についた背中が熱くなり起き上がる。ナチはまだ寝ころんで目を閉じていた。
黒い肩までの髪が床に広がる。白い耳たぶにはカットバンが貼られ、その下にはわたしが贈ったパールのピアスをつけている。
夏休みには進学希望者を対象とした補習の予定がある。
わたしがここに通うのもそれで最後になる。
「夏休みの進学対象の補修には出るでしょ?」
「サチが出るなら」
ナチが軽く答えた。
ナチは嘘つき。
寝ころんでほつれてしまった髪を解いた。ナチが目を開けた。
「なに?」
「うそつき」
「なんで?」
「カシワギが理科を教えるからでしょ?」
ナチは視線をそらして両腕を伸ばした。
「そこまでバカじゃないよ」
嘘つき。
「バカなくせに」
「そんなにバカに見える?」
「傍から見ればね」
「ふん」
ナチがそんなのはどうでもいいというように鼻を鳴らした。
「サチだってバカでしょ?」
そう言ってわたしを見たナチの真っ直ぐな焦げ茶色の瞳に、一瞬、どきりとする。
絶対に見つからないと思っていた場所に隠していた宝物を、見つけられてしまったみたいに。
……どうしてカシワギなんだろう。
わたしの茶色い髪がサチの頬にさらさらとかかる。焦げ茶色のナチの瞳に吸い寄せられるように顔を近づけた。
ナチはわたしの頬を両手で挟んだ。
「そういう迫り方はスーツにしなさい」
そういえば、そんなことになっていたと思い出す。
ナチに彼氏はいないのかと訊かれていないと答えると、今度は気になっている人はいるのかと訊かれた。毎朝、駅の上りのホームでメガホンを片手に声を上げている制服の駅員が思い浮かんだ。『上りのホームの制服の人』そう、答えた。
「予行演習」
「バーカ」
ナチが呆れたように笑った。
「そうだね……。バカかもしれない」
そう答えたわたしは笑えていただろうか。
オノとは小学校から一緒だった。ただ家が近所だというだけで、特別に仲がいい訳でもなかった。一緒のクラスになったこともあるが、会話をする機会もあまりなかった。幼馴染というほど気安くもなく、かといって顔を知っているだけというほど他人でもない。
高校の入学式でオノの顔を見た時には、妙なことに連帯感のようなものを感じた。それはオノも同じだったらしい。たまに電車で遇ったり、廊下ですれ違うと、軽く手をあげて合図を送り合った。
オノから告白されたのは、夏休みに入る一週間ほど前だった。
学校帰りに駅のホームに降りるとオノがいた。いつものように手をあげて合図をすると、オノは珍しく『話があるから、一緒に帰ろう』と言った。
夏の夕暮れの商店街は夕食の総菜の匂いだった。
オノが、ぽつりと『好きだ』と言った。
わたしは驚きながらも『ありがとう』と答えた。
夏休みに入り補習が始まった。教室の机はがらがらに空いていた。進路希望調査を進学で提出した者の大半は、冷房が効いているのかも怪しい教室での補習よりも、涼しい予備校の夏期講習にでも参加しているのだろう。
ナオコは就職組だった。補習には来ていない。
タナカが出席を取るために教室へと入ってきた。
「出席をとるぞー。席につけー」
相変わらず大きな声だ。タナカは顔こそ凶悪だが、授業は面白かった。
補習は一週間。午前中の三時間で終わる。国語、数学、英語が主な補習科目だ。カシワギの理科は一日おきだった。
補習授業が終わると、ナチと高校近くのコンビニでアイスを買って食べた。近くの公園や駅のホームで他愛もない話をして笑い合った。
いつまでも、この夏が続けばいいと思っていた。
補習の最終日は朝からおかしな雲が湧いていた。
『折り畳み傘でも持っていきなさい』と母親に言われたが、もうとうに、どこかの荷物の中に紛れていた。
三時間目の補習が終わる頃には黒い雲が立ち込めていた。空気は雨の匂いだ。ナチもわたしも傘を持ってきてはいなかった。置き傘さえない。
昇降口で上履きを脱いだ時に、雨粒が落ちた。コンクリートがぽつぽつと黒く染まっていく。
雨の準備をしていた者はそれぞれに傘を開きながら校舎を出ていった。
わたしとナチは色とりどりの傘と、白く変わっていく外を眺めて、靴箱の前に座り込んだ。
「なんで傘持ってこないかなー?」
「ナチもね」
「サチが持ってくると思った」
「ナチが持ってくると思った」
雨は瞬く間に本降りになった。ざぁざぁというラジオのノイズのような雨音。補習を受けていた生徒はすでに校舎から出ていた。
傘がなくて帰れないわたしとナチは、湿気でべたべたする昇降口の床に座り込んでいた。わたしとナチの話し声やくすくすと笑う声が、まるで昏い海の底のような薄暗い廊下に響いていた。
「まだ残ってたのか。施錠しようと思ったのに」
カシワギとタナカが顔をだした。タナカに連れられた金髪の男子もいた。
「なんだサチナチコンビか。傘ないの?」
カシワギが訊いてきた。
「忘れちゃった」
「忘れちゃった」
ナチと声が重なると、金髪の男子が笑った。
「あれ? オノ?」
髪を金色に染めた男子はオノだった。
雰囲気が変わっていて、最初は誰だかわからなかった。
「ああ」
オノは少しばつが悪そうにしていた。
「どうしたの? 髪」
オノの金髪をさす。
「ちょっと、な」
「ちょっとなじゃない!」
タナカがすかさず、オノを小突いた。
「痛ってーな、なんだよ?」
「痛くない! 約束通りに次の部活までに戻すか切ってこいよ」
「……なんだよ、せっかく染めたのに」
「嫌なら今切るか?」
「ちっ…」
ナチがオノの金色の髪に視線を向けてから、わたしを見た。オノは中学が一緒だったと小さい声で教えた。
「ナチ、耳どうした?」
カシワギがしゃがみ込んで、自分の耳をさしてナチに訊く。
「大丈夫だよ」
ナチが無邪気そうに笑って答える。
「そういうことじゃなくて……。まあ、化膿しなくてよかったね」
カシワギはナチに困ったように微笑んだ。
「わかったよ、わかったから。うるせーよ、タナカ」
「こらっ! 先生だろ」
オノがタナカを振り切るように割って入ってきた。
「コミネ、傘がないなら俺が送ってやるけど……」
「……え?」
突然のオノの言葉に戸惑った。
「いや、いいよ。ナチもいるし……」
今日で、最後だから。
オノがちらりとナチを見た。ナチの眉間が少しだけしかめられて、むっとしたのが分かった。
「なんだオノ。お前そうなのかー? コミネ、家、近所だろ? 送ってもらえー」
タナカが大きな声で余計なことを言った。オノは「タナカ、うるせー」と、舌打ちをした。
「いや、でも、ナチが……」
今日で、最後なのだ。
「ナチは雨が止むまで俺が国語の補修をしてやる」
「えー? 日本語は話せるからいいよ」
「ナチ、お前、国語なめてるのか?」
「なめてないよー」
「じゃあ、理科の補修でもする?」
カシワギが提案した。
「するっ」
ナチが即座に答える。嬉しそうに笑っていた。
「……っ」
タナカは後ろでなんだそりゃとか、どういうことだとか、ぶつぶつと文句を言っている。
「コミネ、行こうぜ」
オノがわたしを促した。
「……うん」
オノが差してくれた傘は大きくはなかった。傘の下に二人は入れない。オノの肩の半分以上が雨に濡れていた。
指で傘の露先を押して、オノの方へと寄せる。するとすぐにまたわたしの方へと、傘の軸が傾く。
「……オノ、濡れちゃうよ?」
「大丈夫」
水はけの悪い、駅までの路には、すでに水たまりができていた。二人でふらふらと、水たまりを避けながら歩いた。
雨の匂いが強くしていた。
雨の匂いは、いろいろなものにぶつかった雨粒が、その中にいろいろな匂いを閉じ込めて、空気中に巻き上げられたものだ、とかなんとか、カシワギが言っていたのを思い出す。
「……あのさ、引っ越すこと、誰にも言わないでくれてありがとう」
「……約束したからな」
『好きだ』と言われた後に『引っ越すんだろ?』と訊かれた。母親同士が商店街で顔を合わせた時に話をしたらしい。わたしは肯いてから『誰にも言わないで欲しい』とお願いした。
「先生にも、内緒にして欲しいって話してあったから。助かった」
「……なんで? ……なんで誰にも言わないんだよ? さっきの……ナチには?」
「言わないよ」
「……」
「オノしか知らない」
あの日、夕方の商店街を歩きながら、わたしはオノの好意に『ありがとう』と返事をした。
わたしたちはそれだけだった。それ以下でも、それ以上でもない。でも、あえていうのならば、『共犯者』という言葉が似合うのかもしれない。
「それで、いいのか?」
「……」
ナチだけには言えない。ナチに言えないのなら、誰にも言えない。
「……今日で最後だった」
「うん……ごめん。でも、顔を見たら……どうしてもコミネと話がしたかった」
「……うん」
「ナチ……あいつ、俺のこと、睨んでた」
「ああ……」
思わずくすりと笑ってしまう。
「ナチは不器用な子が苦手なんだよ。……でも、いい子だよ」
オノは口の中で不器用……と小さく繰り返した。
「……いつか、帰ってくるのか?」
「わからない」
「……遠いな」
「うん」
オノはゆっくりと歩いた。わたしの歩幅に合わせようとしたのか、時間がほしかったのか、雨で歩きにくかったのかは訊かなかった。
いつもよりも時間をかけて駅までの路を歩いた。
上りのホームの屋根の下のベンチにオノと座った。電車がきても乗らなかった。二人で何本も見送った。
雨が小降りになりはじめ、やがて止んだ。上りのホームにアナウンスが入った。線路の向こうに黄色い車両の先頭が見え始めた。
電車がホームに滑り込む。
オノがベンチから立ち上がった。
「コミネ」
「うん?」
「……元気でな」
「……オノもね」
電車の扉が開いた。オノは振り返らなかった。
「サチ? どうしたの?」
ホームのベンチに座っていたわたしを見つけたナチが、驚いたように瞳を大きく開いた。
「ナチを待ってた」
「あの金髪は?」
「金髪って……。オノだよ。先に帰ってもらった」
「……ふーん。金髪よりわたしを選んだんだ」
「……ナチはわたしよりカシワギだったけどね」
「……あの金髪がわたしのこと邪魔だって言ってるみたいだったからさ」
「オノだって。……まあ、でも悪い奴ではないよ。ナチの嫌いなタイプだけど」
「……お昼食べたの?」
わたしは首を振った。
「ナチは?」
「タナカが嫁の作ったおにぎりくれた。美味しかった」
駅から出て、雨上がりの路をいつものコンビニまで戻った。二人でおにぎりとアイスバーを買い、近くの公園でブランコに座って食べた。ブランコは雨のしずくで濡れていた。わたしもナチも気にしなかった。どうせすぐに乾くはずだ。
駅のホームのベンチで、しゃべることに疲れるまで他愛もない話をして笑っていた。
夕方近くに電車に乗った。車内は空いていた。始発から二駅目。この駅からもう、この電車に乗ることはない。
一番端の席にナチが座り、隣にわたしが座った。
補習は今日で終わった。明日からは本格的な夏休みが始まる。
ナチが降りる駅の手前で席を立つ。わたしは席を詰めて端に移った。
降車のためのアナウンスが車内に流れた。
「ナチ」
「ン?」
ナチがわたしに顔を向けた。わたしは立ち上がり、ナチの頬を両手で押さえて唇を押し当てた。
一瞬、ほんの一瞬。ナチの唇は柔らかくて、アイスの甘い味がしたように思えた。わたしは何事もなかったようにすぐに離れた。ナチの焦げ茶色の瞳は大きく開かれていた。
車内に乗客はまばらだった。座っている者は本を読んでいるか、眠っていて、立っている者は窓の外を見ていた。誰もわたしとナチを見ていなかった。
「………」
「へへへ」
わたしはいつもの悪戯だというふうに、笑った。
「……ばか! そういうのはスーツにやれって言ったじゃん」
「ナチがいいよ」
「……本当にばか」
ナチは少し困った様子だった。
ホームに電車が停止してドアが開いた。
「……じゃあね」
「うん。バイバイ。ナチ」
ナチに手を振る。さよならは言えない。でも、いつものようにバイバイと手を振ることはできる。いつものように笑って、バイバイ。そうすれば明日も、明後日も、明々後日も、会えるような気がした。
引っ越しの当日に空港からナオコに電話をかけた。家の都合で祖父の国に移住することを伝えた。
「…………は? なに言ってんの? え? 嘘でしょ?」
「……」
「……本当なの?」
「うん。担任にクラスの子たちにも、誰にも言わないでくださいってお願いしてあったんだ」
「……なんで?」
「だって……」
「……」
「湿っぽいの、苦手だもん」
声が少し、震えたかもしれない。
「……いつ、帰ってくるの?」
「わからない」
「……ナチには?」
「……ナチには言わないで。お願い」
「どうして……? だって、サチは…………」
「……」
ナオコは勘がいい。というか、わたしが上手に隠せていなかったのかもしれない。小さいころから、宝物を見つからない場所に隠すのは苦手だった。
「……夏休みが終わったら、サチがいないの、わかるんだよ。……それは、ナチが、かわいそうだよ……」
それでも。
「……ナオコ、お願い。ナチには……まだ、言わないで」
「……どうしても?」
「うん」
ナオコは随分と長く黙った後に「わかった」と言ってくれた。
それから、少し話をした。母親が腕時計を指さして「時間だよ」と口を動かした。
「今までありがとう」と言った。ナオコは受話器の向こうで泣いているようだった。
ナオコの「元気でね」と掠れた声に、途切れながら「うん。ナオコもね」と答えた。
あの日、空き教室で見た濃い夏の空はどこまでも青くて、どこまでも続いていた。
ずっと変わらずにいたかった。だから、なにも言わなかった。言わなければ、あの夏がこのまま永遠に、続いていく気がしていた。
あの頃はもう、子どもではないと思っていた。
ナチのことを好きだった。
触れてみたいと思っていた。白いうなじに。柔らかそうな頬に。艶やかな黒い髪に。健康的な唇に。一番好きなのは瞳だった。澄んだ焦げ茶色の瞳。最初から好きだと思った。
ナチがわたしの髪色をきれいねと言った、その時から。でも、触れた後には、どうしたいのか、どうしたらいいのかわからなかった。
オノはわたしを好きだと言ってくれたが、その好きと、ナチを好きは同じなのか、違うのかもわからなかった。
だから…… 最後にキスをした。
キスなんて呼べるようなものではなかったかもしれないけど。そして……やっぱりナチがいいと思った。
ナオコにもずいぶんと損な役を押し付けた。
黙って、なにも告げずにいなくなったわたしを、ナチはどう思っただろうか。
怒っただろうか。呆れただろうか。裏切ったと思っただろうか。……泣いてくれただろうか。
わたしを思って泣いてくれていたらいい。そうすれば、きっとわたしを忘れない。
そう思ったわたしは、まだ大人でもなかった。
ナチの笑顔を思い出すと、少し、胸が疼く。ナチになにも告げられなかったことを思うと、胸が痛い。
ナチには、なにも言えなかった。なにを伝えたいのかも、伝えていいのかもわからなかった。今でも、わからない。
ナチはわたしを憶えていてくれるだろうか。
わたしは、忘れることはないだろう。
ナチの笑顔が好きだった。無邪気そうに笑ってもらえる、カシワギが羨ましかった。
ナチがいつも笑顔でありますように。
今でも、この空はきっと、あの頃のわたしたちに続いている。