お兄ちゃん。
「あ、兄さん! やっと来てくれたんだ!」
俺が住んでいるマンションの最上階。その一室の扉を開けると、小さな身体が勢いよくこちらに飛びかかってくる。
「……久しぶり、あさひ。元気にしてたか?」
「うん。兄さんがずーっと相手してくれなくて、暇だったけどね。でもまたこうやって会えて、嬉しいよ」
あさひは蕩けるように紅い瞳を歪ませて、凄い力で俺の身体を抱きしめる。……きっと俺が全力を出しても、振り払うことはできないだろう。
「やあ。こんにちは、あさひ。あさひは相変わらず、お兄ちゃんっ子だね」
そう言って、俺の後ろから汐見さんが顔を出す。
「……なんだ。奈恵さんも来たの」
「まあね。というかボクが、未白くんをここまで連れて来てあげたんだよ?」
「そんなの知らないわ。兄さんはわたしのことが好きなんだから、わたしに会いに来るのは当然よ」
「ふふっ。あさひは昔から変わらないね」
「変わる必要なんて、ないからね。……それより兄さん、早く上がって」
あさひは俺の返事も待たず、俺の手を引いて歩き出す。腰まで伸びたあさひの真っ白な髪が、ゆらゆらと揺れる。
「あさひ。元気そうでよかったね」
あさひに聞こえないくらいの小さな声で、汐見さんがそう囁く。
「……分かってて言ってるんですか?」
俺も同じように小さな声で、そう言葉を返す。
「分かってるって、なんのことかな? ボクはただ、あさひも未白くんも元気そうで嬉しいだけだよ」
「…………」
小さく、息を吐く。するとあさひは、昔と全く変わらない仕草で、こちらを見て笑う。
「さ、入って。いつ兄さんが来てもいいよう、おもてなしの準備は済ませてあるから」
あさひは扉を開けて、部屋に入る。だから俺もその背を追うように、その部屋に足を踏み入れる。
「────」
けれどその部屋の中を見た瞬間、言葉を失ってしまう。だってその部屋は、俺が普段使っている部屋と全く同じだったから。
椅子も、机も、ベッドも、本棚の中身も、テレビのサイズも、何もかも一緒だ。あさひは一度も、俺の部屋に来たことなんてない。なのにどうやって、これを再現したんだ?
……俺には何も、分からない。
「えへへ。驚いた? 兄さんが自分の部屋だと思ってくつろげるよう、同じものを揃えたんだ」
「……そうか。それは、凄いな」
なんとかそう、声を絞り出す。分かっていたことだけど、あさひが俺に向ける感情は普通じゃない。
「兄さんはいつもと同じように、そのベッドに腰掛けて。……奈恵さんは、その辺の床にでも座りなよ。貴女は兄さんと同じ部屋にいられるだけで、十分満足でしょ?」
「あさひは相変わらず、ボクには厳しいなぁ。もう許嫁の話はなくなったんだから、そんなに邪険にしなくてもいいのに」
「でも貴女まだ、兄さんのこと諦めてないでしょ?」
「さて、どうかな。ボクはこれでも乙女だから、そう簡単に自分の気持ちを打ち明けたりしないよ。……まあ、未白がどうしてもって言うなら、話は別だけど」
そこで2人の視線が、俺に突き刺さる。
「……勘弁してくれ。それよりあさひ、わざわざ同じマンションに引っ越して来ておいて、どうして声をかけてくれなかったんだ?」
「兄さんが気づいてくれるのを、待ってたからだよ」
「俺の部屋は2階で、お前の部屋は最上階の7階だ。流石にそれじゃ、気がつかないよ」
「そんなことない。兄さんなら、気がついてくれるわ。だって兄さんは、わたしのことが大好きなんだもん」
あさひはただ、無邪気に笑う。その笑みは昔と何も変わっていなくて、少しだけ怖いと思う。
「大好きって、よくそんなことが言えるね? あさひは。確か君はもう何年も、未白くんと会ってないんだろ?」
奈恵さんは長い脚を見せつけるように床に座って、真っ直ぐにあさひを見る。
「高々、数年でしょ? それくらいじゃ、兄さんの気持ちは変わったりしないわ。……ううん。100年でも200年でも、兄さんの気持ちは変わらない」
「相変わらず一途だね、あさひは。……いや、というよりは君は、神様と混ざったことで時間感覚が狂ってるのかな?」
2人は真っ直ぐに、睨み合う。張り詰めたような空気が、肌に痛い。
「そんなことよりさ、あさひ。ちょっと訊きたいことがあるんだけど、構わないか?」
だから俺は少し大きめの声を出して、無理やり会話の主導権を握る。
できればあさひの前で、神様の話はしたくない。だってあさひは、願ってしまった。俺とは違う形で、分不相応な願いを叶えてしまったんだ。
だからあさひは、その代償を支払うことになった。
「…………」
昔のあさひの髪は、綺麗な黒だった。瞳の色も俺と違って、普通の茶色だった。なのに今のあさひの髪は真っ白で、瞳は血のように真っ赤だ。
あさひは願いを叶えた代償として、神様と一体化してしまった。
故にここに居るのは、あさひであってあさひではない存在だ。
「どうしたの? 兄さん。そんな、ぼーっとして。……もしかして実の妹のベッドに座って、変な気分になっちゃったとか?」
「……バカなこと言ってんな。そんなことじゃなくて、お前はまだ……俺のこと恨んでいるのか? それを一度、訊いておきたかったんだ」
あさひがこんな風になってしまったのは、半分は俺のせいだ。なのに俺はそんなあさひを見捨てて、勝手に家を出て、新しく恋までした。
だからあさひは、そんな俺を恨んでいるかもしれない。
「……? なに言ってるの? 兄さん。わたしが兄さんを恨むなんて、そんなことあるわけないじゃない。だってわたしは、兄さんを愛しているの。昔のがむしゃらだった兄さんも、今の諦めちゃった兄さんも、わたしは全て愛してる。だからわたしが兄さんを恨むなんて、そんなこと絶対にあり得ないわ」
「……そっか。ありがとな」
その答えは嬉しくもあり、同時に怖くもあった。だってあさひは、愛する人の為ならなんだってしてしまうから。
「ふふっ。実の妹にそんなことを訊くなんて、未白くんは酷い男だね。でもそういえば、ボクにも同じようなことを聞いたよね? ……もしかして未白くん、何か気になることでもあるのかい?」
「別にないよ。……ただ2人とはずっと話してなかったから、少し不安になっただけだよ」
「あはっ。兄さんは可愛いな。心配しなくても、わたしは何があっても兄さんの味方だよ?」
あさひはまた、俺に抱きつく。そういった仕草だけは、昔となにも変わらない。
「さて。せっかく遊びに来たんだし、そろそろ何かゲームでもしようよ。……ボクはそういったものを滅多にしないから、また昔みたいに未白くんに色々と教えてもらいたいな」
「それ、いいじゃない。奈恵さんの癖に、いいこと言うわ。……ねえ、兄さん。また一緒に、ゲームしようよ。楽しかったあの頃みたいに、兄さんと一緒に遊びたい」
「……分かった。じゃあ少しだけ、ゲームでもしようか」
あさひの部屋には、俺が持っているゲームと同じものが、同じ場所に置かれている。だから俺は当たり前のように、普段遊んでいるゲームを取り出す。
「…………」
ゲームの進捗具合まで全く同じで、背筋に薄ら寒いものを感じる。……けれどそれを除けば、3人で遊ぶゲームは本当に楽しかった。
だから時間は、あっという間に過ぎ去っていった。
「じゃあね、兄さん。今日は凄く、楽しかった。だから、またいつでも遊びに来てね」
あさひは当たり前のように、俺を見送る。
「ああ。お前も元気でな、あさひ」
「バイバイ、あさひ。ボクも暇があれば、また遊びに来るよ」
俺と汐見さんは靴を履いて、ゆっくりと玄関の扉から出て行く。
「兄さん」
……でも、そんな俺を引き止めるように、あさひはまた口を開く。
「冬乃江 紗耶っていったけ? あんな子。兄さんには、相応しくないよ。……ただの遊びって言うなら見逃してあげるけど、本気になったら……分かってるよね?」
「…………」
俺は何も言わず、そのまま早足に部屋を出る。あさひももう、何も言わなかった。
「じゃあ、ボクも行くよ。今日は付き合ってくれて、ありがとね。……それと、紗耶ちゃんにもよろしく言っておいて」
そして汐見さんも、全てお見通しだというような顔でそう言って、そのままエレベーターに乗って立ち去る。
「……どいつもこいつも、お見通しって感じだな」
大きなため息が、溢れる。
結局、俺と紗耶ちゃんを殺した犯人の手がかりは、得られなかった。……けど、前回とも前々回とも全く違う方向に、事態は進んでいる。つまりそれは、あの悲しい結末から遠ざかったという意味でもある。
「今回こそ絶対に、紗耶ちゃんと2人で幸せになる。……あさひや汐見さんが何を考えていようと、俺はもう諦めない」
そう呟き、俺も自分の部屋に戻る。
「今回はあと何日、生きられるかな。あと何回繰り返せば、わたしが1番だって気づくかな。わたしはずっとずっと、待ってるからね? ……兄さん」
だから無論、あさひのそんな声が俺に届く筈もなかった。




