悪役令嬢は二度恋に落ちる
小さい頃、一年に一度だけ夜更かしをしてもいい日があった。
その日はメイドのマチルダに抱っこされ、静かな夜の庭園を散歩する。
「あっ! ながれぼし!」
「ふふ、今日は星祭りの日ですからね。流れ星がたくさん見れますよ」
「ほしまつり?」
「そうです。みんなで流れ星にお願い事をする日なんです。流れ星が消える前にお願い事を言い終えると願いが叶うそうですよ」
「ほえー」
マチルダの腕の中から夜空に広がる満天の星々を見上げる。次々と夜空を星が流れていく。
「アメリア様のお願い事はなんですか?」
「えっとね、えっとね。くまさんのぬいぐるみがほしいのと、あしたのおやつはアップルパイがいーな、それとね」
「ふふ。アメリア様、お願い事は一つだけしかだめなんですよ。アップルパイは料理長に頼んでおきますから。それにお願い事は人に内緒にしないと叶わないんですよ」
「ひとつだけなの?」
「はい」
不満そうに唇を尖らせて、一番のお願い事をうんうんと幼い頭で考えてから、背伸びしてマチルダの耳に顔を寄せる。
「マチルダ、ないしょしてね。アメリアの一番のおねがいごとはね」
「はい、内緒ですね」
庭園には二人しかいないのに、誰にも聞こえないように小さな小さな声で囁く。
その瞬間、ひときわ瞬いていた星がひとつ夜空を駆けていった。
私の私の一番のお願い事はね……
「アメリア・カルロッテ・ゲイル嬢。君との婚約をこの場をもって破棄する」
私はとある国の公爵令嬢だった。そして傍らに愛しい女性を侍らせ私に婚約破棄を告げる、この見目麗しい輝くような金髪の男は私の婚約者……、だった。
盛会だった学園の卒業を祝う夜会は、皇太子とその側近達の突然の行動で静まり返っている。
喉がからからと乾いていて、うまく声を出せる自信はなかったがここでなにも異論を唱えなければ、すべてが破滅する。
まわりからは同情という視線はなかった。蔑み、嘲笑……、あとはなんだろうか? とりあえず私の味方はいなかった。ずっと誰も味方なんていなかった。ううん、私に同情して優しくしてくれる人はいた。でも私はその手を振り払ってしまった。
「私がなにをしたと言うんですか?」
婚約者だった皇太子が形のいい眉をしかめ、側近の一人が身に覚えのない罪状をつらつらと読み上げている。どうやら私は皇太子の愛しい男爵令嬢を嫉妬から殺そうとした悪女にしたてあげられようとしているみたいだ。
なぜ、私が彼女に嫉妬しなければならない。だって私には他に愛する人がいた。皇太子妃になんて地位にも興味はなかった。でも政略結婚を覆す力なんて貴族令嬢にはない。粛々と受け入れるしかなかった。
ああそういえば一度だけ、そこにいる男爵令嬢の貴族としての振る舞いに苦言を呈したこともあったか。側近達にも思わせ振りな行動を取り、その婚約者達が心を痛めていたから、将来の皇太子妃として行動をしただけだったのに。
その行いがどうして人を殺める殺めないの話になるのか、甚だ疑問だが。
側近の婚約者達に視線を送るが青い顔で顔を背けられる。自分達にも火の粉がかかるのは避けたいということか。
なにを勘違いしたのか、一人の貴族子息が出てきてひざまずけと命令してくる手を振り払う。
「無礼でしてよ。第二の王家といわれるゲイル公爵家の令嬢に許可なく触れるとは。そんな礼儀作法は聞いたことないわ。あなたの家はどんな教育をしてるの」
きついと言われる紫の瞳で睨みつけるとうろたえながら下がっていく。
本当は今にも膝が震えてしまいそうなのを叱咤する。負けるな、こんなことで負けてたまるか。
次期皇帝といわれてはいるが、この人に私を裁く権限はない。その側近にも。しかも学校で起こったいざこざだ。それに現皇帝が関与するはずがない。
そうやって周囲を欺き、私は婚約者に相応しくないと世間に周知させるためにこんな茶番を仕組んだんだ。
私は公爵令嬢として最後の矜持は捨てない。何度してきただろう完璧なカーテシーを決める。
「あなた達に私を罰する権限などないでしょう? 立太子もされていない分際で大きな賭けに出ましたわね。どうぞ皇帝陛下のサインされた書類を持って、もう一度いらしてね。こんな子供だましの茶番を繰り広げなくても喜んで婚約破棄をお受けいたしますわ。では、ごきげんよう」
一息で喋り終えると踵を返して大広間を去る。後ろから、男達の謗り声が聞こえたがどうでもいい。非難する声が高まる中に私の名前を呼ぶ声が聞こえる。チラッと目の端に愛しいあの方の戸惑うような悲しそうな顔が見えたが耳を塞いで無視した。
追ってこなくていい。今、私を庇ったらあなたにも私にも不利な罪状をなすりつけられるから。
夜会の会場を出ると、涙が溢れそうになるのをぐっと堪える。昔から少し夢見がちなぼんやりした優しい子だと両親に言われていた。しかし家族以外からは無表情、目付きが悪くて意地悪そうと見た目で誤解され、気づけば人から敬遠され嫌われていた。でも一度だって人を傷つけることなんてしたことなかったのに。こんなふうに罪をなすりつけられるなら、一度くらいあの男爵令嬢に意地悪でもするべきだっただろうか? 今さら考えたって無駄なことか……、私はいつだって人より気づくのが遅い。これを空気が読めないって言うのだろうか?
無駄な思考を振り払い、このまま捕まっては面倒なことになると思い、急いで馬車に乗ろうと駆け足で階段を降りようとした瞬間だった。
「アメリア様……」
背後からかけられた声に立ち止まると、後ろを振り向く間もなくドンッと後ろから強い力で背中を思いっきり押される。
背中への圧迫に体が傾き右足のハイヒールが脱げる。急な浮遊感になすすべもなく、私は地面へと叩きつけられたのだった。
「ひゃああああー!!」
ドサッと硬い……、かたい、あれ? いた、痛くない。私は地面に叩きつけられたんじゃないの? なんかふわふわで手触りがいいわね。
「アメリア様!!」
私の悲鳴に顔を真っ青にさせてメイドのマチルダが駆け寄ってくる。あら、マチルダが若くなっているような?
慌てて抱き起こされて頭を撫でられる。
おかしい、私は18歳でマチルダの腕に抱えられる大きさじゃないのに。
目の前の姿見に目線が釘付けになる。ネグリジェ姿の子供の私がマチルダに抱えられている。どうやらベッドから落ちたようだ。手のひらを見ると肉付きが良くてぷくぷくしている。あのほっそりとした指はどこへ? 顔や体をペタペタ触ると肌の張りや弾力も違う。
「ま、マチルダ?」
「どうしましたアメリア様? どこか痛みますか?」
「私はいま何歳?」
「……はい? 7歳ですが。はっ! 頭を打ったのですか!? 急いでお医者様を!」
私は顔を真っ青にさせてなにか騒いでいるマチルダの手を離れて姿見にかじりつく。そこにうつるのはストロベリーブロンドの癖毛にこぼれ落ちそうな紫の瞳を瞬かせている子供のアメリアがそこにいた。
公爵邸に小さな女の子の悲鳴がこだました。
どうやら私は11年ほど前に時をさかのぼったらしい。夢なのかとも思ったが何度朝を迎えても状況は変わらなかった。
私を憐れに思った神の所業なのか……
とりあえず教会への寄付は毎年怠らないよう続けていこう。
未来に起こることはもうすでにわかっている。もう、あのぼんくら皇太子の婚約者に絶対にならないと息巻いていたのだが、貴族の婚約なんてものはお互いの両親が決めるもの、8歳を迎えた日に皇太子の婚約者として推挙されてしまった。
めげずに、婚約破棄されようとあれやこれや策を尽くしたが、皇太子の婚約者という肩書きは消えず、私は17歳を迎えてしまった。
そして男爵令嬢も無事に貴族の通う学園に入学し努力空しく、私の婚約者と変わらずイチャイチャしている。そして私は結局、彼にものすごく嫌われてしまっていた。婚約破棄できないのなら、せめて彼に好かれようと努力もしたが、どうも前の記憶が邪魔をしてうまくいかなかった。
男爵令嬢と仲良くできれば結果が変わるかもしれないと積極的に関われば、つねに気まずい雰囲気が流れ、男爵令嬢に嫉妬し苛めていると噂が流れてしまう始末だ。
結果は散々で私は、ちまたで流行っているという小説の恋路を邪魔する悪役令嬢というポジションを自ら作り上げてしまっただけだった。
自分の社交能力のなさに、ただただ落ち込んでしまった。
そして現在学園最後の年、勝手に皇太子とその側近と共に有無を言わさず生徒会に入れられていた。貴族なんて爵位が全て、上から順当にいけば自然とそうなってしまうのだ。
どんなにあらがっても辿る運命は一緒だとでもいうように。神に嘲笑われているようだった。
もう、来年からは教会への寄付は減らすことに決めた。
ただひとつだけ、変わらないことに感謝している自分もいた。
それは彼との出会い……
放課後の生徒会室で私は一人でせっせっと生徒会の仕事をこなす。あのぼんくらどもは紳士倶楽部があるとかで仕事を全部、私に押しつけて帰っていった。いつものことだから別にいいんだけれど。
運命という名の死刑執行まではあと一年。命がかかっている今、こんなことしてる場合じゃないんだけどなと思いながら、書類に手を伸ばす。性分なのか任されるとやり遂げなければ気がすまない性格が仇となっていた。
「あら、これリカルド王国の言語だわ。えーと、辞書、辞書っと……」
皇太子妃候補としてさまざまな国の言語を習得していても難しい言い回しや単語などはいまだに辞書は必須だ。この知識もどうせ結末が一緒なら必要ない気もするが、これも性格だから仕方ない。
辞書を探しているとスッと私の手から書類がなくなる。
顔を上げると一人の男性が笑顔で書類をヒラヒラと振っている。
「リカルドの言葉なら僕が適任だろう?」
「ランベルト!」
「手伝うよ」
「でも、ランベルトは生徒会役員じゃないのに悪いわ」
「役員じゃないと、生徒会の仕事はしてはいけないという決まりでもあるのかい?」
「ないけど……」
彼は自然に隣の席に座り、リカルド王国の言語をすらすらと訳していく。彼の母国語だから当たり前か。銀髪に緑の瞳を持つ端正な顔立ちの彼は隣国リカルド王国からの留学生だ。去年から入学し、この国には二年ほど滞在する予定だ。彼はリカルド王国の第二王子として行く行くは立太子した第一王子を支えるため様々な国をまわり勉強しているという。国に戻ったら、外交を任されることになっているというから、かなり優秀な人物だ。しかし、その地位に奢ることなく、勉学に励み周囲をよく観察し配慮できる優しい人で、私の友人であり大好きな人だ。
出会いは一年前。学園の廊下を歩いていたら、男爵令嬢がいきなり角から飛び出してきて私とぶつかってしまったときだった。男爵令嬢が私に突き飛ばされたと騒ぎ始め、皇太子と側近も集まり私に謝罪しろとつめよられる騒動にまでなってしまった。
こうやって男爵令嬢がらみで何度も絡まれることが多くなっており正直疲れていたのもあった。周囲に人も集まってきて視線が痛い。自分は悪くないが謝罪して場がおさまるのなら、いいかと諦め始めていたとき彼が現れた。
「アメリア嬢は悪くない」
「あなたは……」
リカルド王国第二王子ランベルト・フォード・リカルドが現れたのだ。
「アメリア嬢は右側の端を歩いていたし、そちらのご令嬢が走りながら角から飛び出してきて、アメリア嬢にぶつかっただけさ。そうだろう」
ランベルト様は集まった生徒に同意を求めるとみんな加勢するように頷いている。ランベルト様は私にも真実を述べろと視線で促してくる。その力強い眼差しに背中を押される。
「は、はい。私は歩いていただけで突き飛ばしたりなんてしていません!」
皇太子に意見するのは初めてで、少し膝が震えたが気持ちは清々しかった。
そのあとは男爵令嬢が泣いて皇太子や側近達が慰めるという茶番を繰り広げながら去っていった。
私がほっと息をつくと、ランベルト様が訝しげに見下ろしてくる。
「あの、助けていただいてありがとうございました」
「なぜ言い返さないんだ。どうして自分は悪くないと主張しない」
「それは……」
なんだか告げ口をするようで嫌だったが、ランベルト様が返事を聞くまで逃がさないという雰囲気に仕方なく口を開く。
「一度、言い返したこともあったのですが、誰も味方になってくれなくて、私は嘘つき呼ばわりをされてしまったのです。みんなに非難されるのはすごく……、その疲れてしまって。それからは面倒が勝ってしまって自分が我慢して場がおさまるなら、それでいいかと。私はあまり感情を表情にするのが下手で横柄に見えるみたいですね」
ランベルト様は痛ましげな目で私を見つめてくる。なんてことないんだよと伝えたかったのに、その憐れみの視線にいたたまれなくなる。
「そうか……、婚約者に庇ってもらえないのは辛いな」
まあその本人が、嬉々としてやってるんだから仕方ない。私も関係を修復しようとする気もないから悪循環に陥っているのだ。自業自得でもある。
「ランベルト様のお手をわずらわせてすみませんでした」
「いいや」
「……とても嬉しかったです」
「アメリア嬢……」
自分でも驚くくらい、素直な感情が自然に口をからこぼれた。
頭を下げて足早に立ち去る。本当は笑顔でお礼を言いたかったけれど、殿方に庇ってもらうことに慣れてなくて気恥ずかしくて逃げるようにその場を後にした。
前の時間軸でも同じようなことがあると優しいランベルトは何度も私を庇ってくれていたが、今のように素直に感謝を言葉にできていただろうか? きっと疑問に思うくらいだからできていなかったのだのだろう。
それからというものランベルト様は私を気にかけてくださるようになった。ランチに誘ってくださったり、ランベルト様の友人を紹介してくれたり、男爵令嬢に難癖をつけられそうなときは守ってくれるようにもなった。話す機会もどんどん増え、好きな本が一緒だったり、お互い甘いものに目がないなど共通する部分が多く、敬称もすぐに取れ気づけば気のおけない友人となっていた。
私にはそれ以上の感情が芽生えていたが……
けれど皇太子の婚約者である私には、この感情を言葉にすることもできない。
「どうしたの? じっと見つめてきて」
ランベルトは視線だけこちらに向け、頬にからかうような笑みを浮かべている。
気づかないうちにそんなに見つめていたのか。恥ずかしさを誤魔化すように他の書類へと目を通す。
「あ、いや、ほら、紳士倶楽部に行かなくていいのかなって? クラウス様達は行ってしまわれたから」
「ああ、名前はそれなりだが。内容は実に下らない、あの集まりのことか」
「……くだらないの?」
「君に仕事を押しつけて行くほどのものではないね。人脈作りとは聞こえはいいが、貴族の噂話やどこぞのご令嬢の話、意味のない政治の話、それを皇太子の顔色を伺いながらカードゲームを一緒にするだけさ」
「そう、なのね」
まあ、そんなことだろうと思ってはいたが実際に聞くとショックだった。やはり私は婚約者に相当嫌われているらしい。くだらない紳士倶楽部に負けるのだから……、するつもりはなかったのに大きなため息がこぼれてしまう。
ランベルトがこんこんと人差し指で机を叩いてくる。
「ため息は幸せが逃げるよ。さぁ、さっさっと終わらせよう時間は有限。アメリアも倶楽部に顔を出したいだろう?」
ランベルトは私から残っている書類を取り上げて仕事を始める。
「ええ、そうね。今日はマドレーヌを作るそうよ。明日、おすそわけを持っていくわね」
「それは楽しみだな。なんとしてでもアメリアを倶楽部に間に合わせなければならなくなった」
二人で笑い合い、残りの仕事をこなしていった。なんて満ち足りた幸せな時間だろう。
前向きで明るいランベルトと過ごす時間が増えると、些細なことで悩んでまわりの顔色をうかがう自分がどんどん馬鹿馬鹿しくなっていった。
私はこの先同じ結末が訪れようとも、悔いのない人生を送ろうと心に決めていた。だから以前は興味はあったが入る勇気がなかった、お菓子作りの倶楽部へと顔を出すようになっていた。きっかけは打算だが、ランベルトが甘いものに目がないということがわかったからだ。いざ始めてみると楽しくて私のストレス発散と癒しの場になっていた。倶楽部内では身分にとらわれず仲間と接することが義務づけられているため、以前は話すこともなかったご令嬢達とも仲良くすることができ楽しくて仕方なかった。
しかもランベルトに喜んでもらえるのだから一石二鳥だ。一度だけクラウス様にも渡したが、甘いものは苦手なようで受け取ってもらうことすらかなわなかった。
冷ましたマドレーヌをラッピングし緑色のリボンをかける。今日は、かなり美味しいマドレーヌができた。きっとランベルトも喜んでくれるはず。明日のことを思い浮かべ口元が緩んでしまう。
「あらあら、丁寧なラッピング。意中の彼に差し上げるの?」
右肩がずしっと重くなったと思ったら、子爵令嬢のジルが後ろから抱きつき顔を乗せてくる。彼女もこの倶楽部のおかげで仲良くなった友人の一人だ。自分に友人ができるなんて今でも信じられない。少し勇気を出すだけで、以前は望んでも不可能だった願いがどんどん叶っていく。もっと早く気づくべきだったと後悔してしまうほどだ。公爵令嬢だとか肩書きにとらわれて、なにも我慢する必要なんてなかったのだ。
「意中じゃないわ。生徒会の仕事を手伝ってくれたお礼よ」
ジルは意中の人とにごしてくれたのに思い浮かべるのはただ一人だけ。
「ふーん。そういうことにしときますか」
ジルに毎回からかわれるのが恒例となっているが、婚約者がいるのにとかあらぬ勘ぐりをしない彼女との時間はとても心地いい。上位貴族の集まるお茶会のように腹を探り合う会話をしないで済むのはなんとも気が楽なことか。
「じゃあ、彼に来週は何が食べたいか聞いてきてね。リクエストに応えるわ!」
「えっ、いいの?」
「もちろんよ!」
ジルがパチッとウインクすると、倶楽部の仲間も笑顔で頷いてくれた。
次の日の昼休み、私はマドレーヌを持っていそいそと学園内にある湖畔へと足を運んだ。この場所は学園内にはあるが辿り着くまでに時間を要するので景色はいいが、短い昼休みをとるには不向きで人気がないのだ。
嫌われているとはいえ皇太子の婚約者だ。男性とランチをするのにもあらぬ噂が立つ可能性が高いので、必然的にランベルトと会うときは人気のない場所になってしまっていた。
ランベルトも気を使ってか必ず数名、女子を含めたメンバーを集めてくれている。
「ランベルト!」
私が声をかけると大きな木の幹に腰をかけたランベルトが手を振ってくれる。
「お待たせしてごめんなさい」
「いいや」
「あら? 今日は誰もいないの?」
いつもの留学に一緒に来た護衛兼、側近の三人がいない。
ランベルトが気まずそうに頬をかく。ハンカチを広げてくれて隣に座るように促してくる。
「あー、三人は今日用事が、いや嘘はやめよう。君の手作りの菓子を独り占めしたくてね」
「まあ! でも……、誰かに見られたら誤解されるのでは? 私はいいですがランベルトの評判が」
「アメリアと噂か、大歓迎だけどね。それに人の評価など、どうでもいいさ」
顔が熱を持つのがわかる。冗談で返せばいいのになんと返事をしていいのかわからず、とりあえずランベルトの隣に座る。
恥ずかしさを誤魔化すように、マドレーヌを差し出す。
「どうぞ。今回はとても上手にできたの。倶楽部のみんなのお墨付きよ」
「ありがとう」
ランベルトはマドレーヌを受け取ると、早速丁寧にリボンをほどき、嬉しそうにきつね色のマドレーヌを手に取る。
「ランベルト、ランチのサンドウィッチも持ってきたのよ。デザートはあとにしましょうよ?」
「いや、僕はアメリアの作ったものを最初に食べたいんだ。昨日から楽しみにしてたんだから」
「もう!」
ランベルトはマドレーヌを一口食べると目元が緩み本当に美味しそうに食べてくれる。一つ食べ終えると、二つ目もあっという間に消えていく。三つ目も食べようとしていたので手から奪い取り、レタスとハムのサンドウィッチを代わりに渡す。
「そんな片寄った食べ方は駄目よ。食事もちゃんとして」
ランベルトは不満そうに口を尖らせるが、無言でサンドウィッチをむしゃむしゃと食べていく。
「野菜は苦手なんだ」
その顔が幼い弟と同じ顔で可愛くて笑いを堪えられず吹き出してしまう。
ランベルトの口角に微笑が浮かぶ。その慈しむような笑みに居心地が悪くなる。おかしな顔でもしてるだろうか?
「なによ?」
「いや、笑うと可愛いなって」
「なっ! もういつも冗談ばかり!」
私が叩く真似をして腕を上げると、ランベルトの真剣な眼差しとかち合う。
「僕は真面目に思ってる。出会った頃に比べてよく笑うようになったし、とても明るくなった。こっちがアメリアの本当の姿だろう? 僕以外に笑顔を見せるようになったのは、ちょっと癪だけどね」
私は固まってしまって目が逸らせない。振り上げた片腕は行き場をなくして膝の上に静かに下ろした。ランベルトはニヤリと笑うと、ごろりと芝生の上に寝転んで目を閉じる。
「……せ、制服が汚れるわよ」
「別に。今はとても幸せだからいいんだ」
「そうなのね」
全然質問の答えになってない。
幸せか……
二人の間を涼しげな風が吹き抜けていく。湖面が日の光を浴びてきらきらと輝いている。
何気ない時間なのに好きな人と二人で過ごすことがこんなに幸せだとは私は知らなかった。クラウス様も男爵令嬢とこんな気持ちを共有してるのだろうか? クラウス様を怒る資格なんて私にはないな。
前のときもランベルトは私に優しかった。でも素直になれなくて、いつも差し出してくれる手を取ることができなかった。ランベルトの好きなものすら知らなかった。
ううん。ランベルトだけじゃない。私に親切にしてくれるたくさんの人に、世間体を気にして勇気のない私は感謝すらすることもなかった。
今なら前の分も含めて本当の気持ちを言えるだろうか?
「ランベルト……」
「ん?」
「いつもありがとう」
ランベルトが瞳を瞬かせて起き上がろうとするのを、肩を押してもとの位置に戻す。
「お願いだから目をつぶって聞いてて」
ランベルトはなにか言いたそうにしたが、口をつぐみ目を閉じてくれる。
「私がよく笑うようになったと言うけれど、それはランベルトのおかげよ。こんな愛想のない可愛げのない私に手を差しのべてくれて、人といる楽しさを教えてくれた。諦めることしか知らなかった私に少し勇気を持つだけでこんなにも世界が広がることを教えてくれたあなたに本当に感謝してるのよ」
ここが二人だけしかいない空間のように思えて、この雰囲気に少しあてられていたのだろう。
このまま未来が変わらないのなら私は伝えたかった。ランベルトにあの言葉を。
私は大きく空気を吸いこむ。
「ランベルト、私はあなたが……」
ランベルトが慌てて起き上がり、私の口を手でふさぐ。その先を喋らせないように。
「アメリア、その、それ以上は……、まだ駄目だよ」
ランベルトの露骨な困ったような表情に、自分がなにをしようとしていたのか自覚し恥ずかしくなる。顔を見られたくなくて、口に手を当てて顔を背ける。
「アメリア……」
ランベルトの弱ったような声に、それ以上聞きたくなくて荷物をまとめて立ち上がる。
「ご、ごめん。今のは忘れてちょうだい。そろそろ行くわね。授業が始まるわ」
「アメリア!」
ランベルトの困った顔を見たくなくて、そしてなによりも自分が傷つきたくなくて逃げるように、その場所を後にした。
恥ずかしい。ランベルトは友人として優しくしてくれたのに。可愛いとか言われて浮かれて勘違いをして恥ずかしい。涙がにじんでくる。次はどんな顔をして会えばいいのだろうか?
はしたないけれど走って校舎へと戻る。泣き顔を見られたくなくて顔を伏せて走っていると、前に人がいるのに気づかずぶつかってしまう。
「ご、ごめんなさい」
顔を伏せたまま謝り立ち去ろうとすると腕を掴まれる。
令嬢の手を掴むなんてと思いながら驚いて顔をあげると、クラウス様が眉間に皺を寄せ見おろしている。
「皇太子の婚約者なのに……」
堪えられず頬に涙が伝ってしまい慌てて涙をぬぐう。今はクラウス様の相手をできる気がしない。なにを咎められるかわからないが、きつい言葉をかけられたら精神的に耐えられない。
「く、クラウス様。すみません。今は……」
腕を振りほどこうとするが、掴まれる手の力が強くなる。
「いっ、痛いです」
「……泣いているのか」
頭上からしごく面倒そうなため息が聞こえる。
「お願いです。手を離してください」
「アメリア。お前わかっているのか? 生徒達の噂になっているぞ」
「うわさ?」
「皇太子の婚約者がランベルト殿下と友人の域を越えていると……」
クラウス様を見上げると、私をきつく睨んでくる。なんであなたが、そんなことを言えるの? 私をいつも蔑ろにして男爵令嬢と仲良くやってるじゃないか。そのあなたが私を非難するのか。
なにかが私の中でプツリと切れる音がした。
「ランベルトと私は、あなたが思うような関係ではありません!」
「敬称もつけない仲か……」
「クラウス様だって!」
私の大声で驚いて腕を掴む手が緩んだのをいいことに強めに振りほどき、怒りをこめて睨みつける。
「あなただって、名前はなんだったかしら? 男爵令嬢と人目を気にせず仲良くしてるじゃない。でもご心配なく! 私はあなたのように非難するつもりもないですし、婚約破棄だっていつだってお受けしますわ! だから、もうほっといて! 私を苛めてなにが楽しいの!? どうしたらいいのよ! なにをすれば、あなたは納得なさるの? 私を婚約者として認めてくれるのよ! もう私に構わないで!」
最後は悲鳴のような声になってしまった。ぼろぼろと涙が堰をきって流れてくる。
めちゃくちゃだった。八つ当たりもいいところだった。クラウス様に対して溜まっていたものが一気に溢れ出すように全てを吐き出していた。
授業開始の鐘がなる。クラウス様が舌打ちをして私の手を握り、引きずるように歩いていく。
「ちょ、ちょっと何処へ行くの?」
「そんな泣き顔で授業に出るつもりか? なにがあったか知らないが公爵家の令嬢が皆に見せる顔ではないな」
「なっ!」
「いいから黙ってついてこい」
確かに私は泣くと顔は真っ赤になり目が腫れてしまう。こんな醜態は晒せない。ここは黙ってクラウス様に従うことにした。
そういえばクラウス様と手を繋ぐのは、8歳から婚約者だったのに初めてのことだった。
ついた場所は生徒会室だった。椅子に座らされ、濡らしたハンカチを渡される。目を冷やせということだろうか。
私が目元をハンカチで押さえていると、目の前にティーカップが置かれ中には湯気をたてた紅茶が注がれていた。
私が驚いて顔を上げると、気まずそうな顔をして隣にクラウス様がどかりと偉そうに座る。
「飲め」
紅茶なんて淹れられたのね。ティーカップを持ち、恐る恐る一口飲む。
「……薄い」
「な、なんだと!」
「クラウス様、茶葉が少なすぎですわ」
クラウス様も一口飲むと顔をしかめる。
「確かに薄いな。仕方ないだろう初めて自分で淹れたんだ」
「初めて……、ぷっ、ふふ」
「笑うな」
クスクス笑うと難しい顔をしていたクラウス様も可笑しくなったのか二人で笑い合う。
「ようやく泣き止んだか」
「えっ?」
クラウス様に視線を向けると、静かに本を手に取り読み始めている。
慰めてくれたのだろうか? あのクラウス様が? 天変地異の前触れだろうか?
「……ありがとうございます」
「なにがだ?」
「紅茶。薄いですが、落ち着きます」
「そうか……、薄いは余計だぞ」
私がもう一度笑うと、ちらりと満足そうに口角を笑ませすぐに本へと視線を戻す。
クラウス様はそれ以上、言葉は発せずペラペラ本を捲る音だけが生徒会室に響いた。こんなにも二人で過ごす穏やかな時間は、初めてではないだろうか?いつも二人の間にあった緊張した空気がこの時だけは感じなかった。
彼にもこんな優しい一面があったのだ。彼を少し誤解していたらしい。いや違うな。私はクラウス様を知ろうとすらしてこなかったんだ。
それから私はランベルトとは気まずくて、避けるように過ごしていた。
「アメリア、アメリア!!」
名前を呼ばれハッと声の方へ視線を移す。ジルが慌てて火を止めている。
目の前にはカラメルが真っ黒に焦げていた。
「やだ! ごめんなさい! あつっ!!」
何とかしようと素手で鍋を触ってしまう。
「ちょっと、アメリア大丈夫? 冷やして、冷やして!」
冷たい水に火傷した指を冷やす。
「ごめんなさい……」
「どうしたの?最近ぼーっとしてるわよ」
ジルが私を心配そうに顔を覗き込んでくる。
「なんでもない……」
「なんでもないわけなさそうだけどね。まあなんとなく原因はわかるけど。そういえば意中の彼にリクエストは聞いてきたの?」
ジルの意地悪。全部知ってるくせに。
口を引き結んで睨む。
「やっぱりね。アメリアが睨んだって怖くないわよ。むしろ可愛いだけね」
手を冷やしているので両手が使えないのをいいことに両頬を軽くつねってくる。
「むーー」
「とにかく、医務室に行きましょう。誰か連れてってくれないかしら?」
一人で行けると言おうとしたところで教室の扉が開く音がする。
「僕が連れていこう」
その声に慌てて振り返るとランベルトが私の表情を伺うように入り口に立っている。
「まあランベルト様、丁度いいところに! 私達、手が離せませんの。アメリア嬢をお願いできますか?」
「なんで!?」
振り返ると、倶楽部のみんなが慌てて後ろを向いて忙しそうに作業に戻っていく。
ジルは楽しそうに早く行けと背中を押し、無理矢理ランベルトと共に教室から追い出されてしまった。扉もピシャリ閉められる。鍵までガチャリと閉じられる音がした。これは絶対にはめられている。
「ほら行くよ」
「え、ええ」
ランベルトに背中を支えられ二人で医務室へと向かった。医務室には先生はいなくて二人で椅子に座り向かい合う。ランベルトは火傷した指に黙々と軟膏を塗り包帯を巻いてくれる。こんなふうにランベルトと向き合うのはいつくらいぶりだろう?
「上手ね」
「ああ、リカルドにいる時は騎士団に鍛えられていたからね。こんなものは日常茶飯事さ。さあ、これで大丈夫だ」
「ありがとう」
二人の間に沈黙が落ちる。どうしたらいいのだろうか。今まで私達はどんな会話をしていただろうか?
私が手持ち無沙汰でそわそわと指を動かし、視線を泳がせていると、ランベルトに両手を優しく握られる。
「ランベルト、あの……」
「この間はごめん。君を傷つけた」
ランベルトのつむじが見える。彼はうつむいていて私からは表情が見えない。
「そんな謝ることはないわ。忘れてって言ったでしょう。私も変なことを言ってしまったわ。困らせてしまってごめんなさい」
ランベルトは不意に口元をひきしめて、真顔で私を見つめてくる。
「アメリア……」
ランベルトが口を開くと言葉を遮るように、医務室の扉がノックもなく力強く開けられる。
入ってきたのは額に汗をかいたクラウス様だった。
「クラウス様!」
私が立ち上がると、急いで駆け寄ってきて私の全身をくまなく観察してくる。
「怪我をしたと聞いたぞ!」
「け、けが? ああ、少し火傷を」
包帯の巻かれた指を見せると、クラウス様が項垂れるように大きく息を吐く。
「はー、心配させるな」
「心配ですか?」
「あ、それは、いや将来の皇太子妃に傷が残っては問題だろう」
「……そうですね」
最近、クラウス様はおかしい。こうやって私と過ごす時間を作るようになり、生徒会の仕事も真面目にこなすようになっていた。私がこの間、怒ってキレてしまったから怯えているのだろうか?
「ほら帰るぞ」
クラウス様が私の手を取る。
自然と手を繋ぐようになっているし、この人は誰だろう? クラウス様の中身が変わってしまったのだろうか?
「あっ! ランベルトが!」
ランベルトに視線を向けると、私ではなくクラウス様に鋭い怒ったような視線をぶつけていた。クラウス様もその視線に気づき口角を歪め挑発するように笑っている。
「あの……」
声をかけると二人の視線が私に戻る。
クラウス様は私の手を強く引き、有無を言わさず廊下へと促してくる。
「く、クラウス様?」
「アメリア、生徒会の仕事が溜まっているんだ。行くぞ」
「ええ、でも……、」
「アメリア!!」
私が医務室の中にいるランベルトが気になり振り返ると、強めに声をかけられる。
ランベルトが私の大好きな笑顔で笑っていた。笑っているのに目には悲しみの色が見えた。そのかげりのある笑顔に違和感を感じて立ち止まる。
「急なことなんだが、国に帰ることになったんだ。それをどうしても伝えたかった」
「え……、どうして?」
「それは」
喉がカラカラと渇いていく。呼吸がしづらくなり胸が痛い。ランベルトはなにを言ってるの? いつもの冗談なんでしょう?
「ああ、第一王子が流行り病を患ってしまったそうだな」
ランベルトが無言で頷く。
「お見舞い申し上げるとともに、アビゲイル王太子が一刻も早く病が快癒し公務に復帰されることを衷心からお祈り申し上げる」
クラウス様がランベルトの話しに被せるように喋っている。二人の会話が遠くに聞こえる。
私はなにも言葉がかけられなかった。彼がいなくなる。この国から、私の前からランベルトが。
そこからは覚えていない。どうやって学園の寮までたどり着けたのか。
ただ、頭にはランベルトがいなくなること、会えなくなることしか考えられなくなっていた。
ランベルトが学園を去る日が一週間と迫っていた。ランベルトの周りには、常に人がいて別れを惜しんだり、強気な令嬢は告白をしたりしているらしい。
ランベルトがたくさんの人に信頼され愛されていたのがよくわかる。きっと私もその内の一人だったのだろう。
「なにぼんやりしている」
「え?」
隣を見るとクラウス様が不機嫌さを隠しもせず眉間に皺を寄せている。私に確認してほしい書類を差し出している。
そうだ。夕暮れの教室で私達は二人で生徒会の仕事をしていたんだ。本当にだいぶ、ぼんやりしていたな。
「あ……、ごめんなさい」
慌ててクラウス様から書類を受け取るが、文字が目の前をただ滑っていくだけで集中できない。
「たしかアメリアは明日、倶楽部の日だったな」
クラウス様は書類から顔を上げず、なんでもないことのように話してくる。私が倶楽部に入ってるのを知っていたのか。
「明日は生徒会に来なくていい」
「え、でも、今は忙しいのに。それに紳士倶楽部は?」
「俺の好きなものは、アップルパイだ」
「えっ?」
「二度は言わない。倶楽部が終わったら、それを持って湖畔に来い」
クラウス様は甘いものが苦手ではなかっただろうか? 特にジャムとか果物を甘く煮詰めたものなんて嫌いだったような? 私は大好きだけれども。
「たまには婚約者らしいこともしよう」
顔はこちらを向いていないが耳が少し赤くなっている。照れているのだろうか?
堪えられずクスクスと笑ってしまう。
「やっと笑ったか」
「え?」
「その方がいいぞ」
「甘さ控えめの美味しいアップルパイを作ってきますね」
「ああ、楽しみだな……」
私の言葉にクラウス様が、少し寂しそうに笑っていた。なぜそのような表情をするのか理由は聞けなかった。
今のクラウス様となら、良好な夫婦関係が築けるかもしれない。男爵令嬢とも二人でいる姿を見なくなった。側近達も私を敬ってくれるようになっている。認めてくれたとは思っていないが私に気を使っているのだろう。
男爵令嬢の爵位では皇太子妃になることは不可能だ。なれて側妃だろう。二人がまだお互いに想い合っているのなら、側妃を持ってもいいと伝えよう。世継ぎの子も、私とではなく側妃との子をでいいと思っている。喜んで公爵家が後ろ楯につこう。
きっとこの婚姻は覆ることはない。ならクラウス様が幸せに過ごせるように尽力しよう。彼が歩み寄ってくれたなら私もそうしたい。素直にそう思えるようになっていた。
ちらりと頭の片隅に彼の顔がよぎるが追い出すように仕事に没頭した。
少し遅くなってしまったな。夕方を過ぎ少し薄暗い中を、出来立てのアップルパイを篭に入れ蓋をせず布巾をかけて持ち、慌ててクラウス様指定の湖畔へと急いでいた。カチャカチャとお茶をするための茶器も揺れて音をたてている。
「クラウス様ったら、本当にこんな時間に湖畔でお茶をする気かしら?」
少し疑問に思ったが、夜の湖畔も素敵かもしれないと思い直し足早に向かう。
湖畔につききょろきょろと辺りを見回す。
すると後ろからポンポンと肩を叩かれる。
「クラウス様、お待たせ……、しま、した」
振り返るとそこにいたのはランベルトだった。
私は驚いて言葉を失ってしまう。
「あー、僕はクラウス殿下に呼び出されたんだが……」
「私もそうです。婚約者らしいことをしようと。はっ、忘れてるのかもしれませんね。探してきます!」
気まずくてランベルトから離れようとするとパシッと腕を掴まれる。
「それは?」
ランベルトの視線が篭へと移る。
「これは……、アップルパイです。クラウス様が食べたいって」
「アップルパイは僕の大好物だ」
「えっ、そうなの?」
「クラウス殿下の好物なの?」
「いえ、むしろ苦手で私が大好きだからだとばかり……」
ランベルトが苦笑いしながら、私の手から篭を奪う。
「どうやらクラウス殿下が気を利かせてくれたらしい」
私にも思い当たる節があった。だから、あんな表情をしていたの?
「クラウス殿下に甘えようか?」
私は頷いて芝生にランチシートを広げる。ポットにもってきた紅茶をカップに注ぎ、アップルパイを切り分ける。
二人で並んで座る。
隣を見ると、子供のように目をキラキラさせてアップルパイを夢中で頬張っているランベルトがいる。彼に憧れる令嬢が見たら幻滅する人もいるのではないだろうか。私は可愛くて仕方ないけれど。
あっという間に二切れ食べ終え、紅茶で一息ついている。
「もう、そんなに焦らなくてもいいのに」
「いや、美味しくて夢中になってしまった。恥ずかしいな」
「また作る……、わ」
最後の言葉尻が小さな声になってしまう。もうランベルトと会うことはないのに。
「の、残りのアップルパイは持っていってちょうだい。いつもお世話になったランベルトの側近の方にも分けてあげて。今まで仲良くしてくれてありがとうと伝えて」
「ああ、伝えるよ。でもアップルパイは僕のものだ」
子供みたいな発言にお互いにくすくすと笑い合う。
湖畔にはもう夜の帳が落ちていてとても幻想的だった。夜空にはいつもより沢山の星が輝いている。
「そろそろかな? 上を見てごらん」
ランベルトの言葉に倣い夜空を見上げると、星が一つ一つ夜空を流れていく。たくさんの流れ星が夜空を駆けていた。
「わあ!」
「今日は30年に一度の流星群の日らしいよ」
「そういえば今日は星祭りの日だったわね」
この大陸周辺では何故かこの日、沢山の流れ星を見ることができる。それにちなんで城下では、庶民達が星祭りといってお祭りを開くのだ。参加したことはないが、それはそれは盛大だそうだ。しかも今日はそのなかでも30年に一度の日だ。とても盛り上がっているだろう。
「流れ星に願い事をすると叶うというけれど……」
ランベルトがぼそりとつぶやくが夜空に視線を向けたままだった。
「昔は一生懸命、お願い事をしていたわね」
「どんな願い?」
「そうね、ぬいぐるみが欲しいとか、新しいワンピースが欲しいとか。礼儀作法の授業がなくなりますようにとか? 他には……」
「ん?」
「笑わないでね。昔、お願い事は一つだけよって言われて、大好きだった絵本のお姫様になりたいってお願いしたの……」
「ハハっ、可愛いな」
「もう、本気だったのよ」
小さい頃、お願いしたことは物語のお姫様のように沢山の仲間と大冒険をして、素敵な王子様に見初められて幸せになりたいって本気でお願いしていた。見初められるとか幸せになるだとか言葉の意味もわかないのに。その世界はとてもキラキラ耀いていて、毎日ドキドキワクワクして夢のようだった。自分は流れ星にお願いしたからお姫様になれるんだって信じて疑わなかった。
ランベルトが肩を揺らして笑っていたが、ふと真面目な表情で私を見つめてくる。
「今は?」
「いま?」
「そう」
言ってもいいのだろうか。でも私の願いは、彼をとても困らせるものだろう。
でも、幼い頃からのお願い事は今も変わっていない。
「内緒! ランベルトに言ったら叶わなくなっちゃう」
なるべくおどけて明るく話をそらそうとする。彼は少し物悲しそうにうつむいてから、顔を上げていつもの笑顔を向けてくれる。
「じゃあ次に会ったときに聞かせてくれ。約束だ」
次か、次なんてあるのだろうか? あるとすれば各国の要人が集まる私とクラウス様の結婚式ではないだろうか。それにランベルトが招かれるのかもわからない。胸が少し痛くなるのを無視して私も努めて明るく振る舞う。
「わかったわ。約束ね」
それから私達は無言で門限になるまで夜空を見上げていた。少し動かせば、ランベルトの腕に触れるのに、私にはそれをする資格がない。それが私達の距離をまざまざと感じさせ、とても悲しかった。
その後ランベルトとは会うことはなく、この国を静かに去っていった。
私はというとクラウス様と静かで穏やかな日々を過ごし、運命の卒業パーティーを迎えていた。心配していた婚約破棄など起こらず、クラウス様と共に二人で挨拶回りをしている。お似合いだ、美しいなどと、以前は聞けなかった言葉でみんながもてはやしてくれる。
これもすべて……、ある人を思い出しそうになり追い出すように笑顔を振り撒く。
「愛想笑いができるようになったんだな」
クラウス様が意地悪そうに笑う。私は口を尖らせ反論する。
「クラウス様の隣にいると、自然と覚えてしまいました」
「ハハ。それでいい、皇太子妃は腹芸が得意でなくてはな」
「これからも、よろしくお願いしますね。婚約者様」
私が冗談を言うと、クラウス様が悲しげに苦笑いをもらす。
「クラウス様?」
私が訝しげに顔を覗き込むと、いいやと首をふる。
「そろそろ、お互いの友人のところへ行こう。これから、なかなか会えなくなるからな」
「そうですね」
クラウス様の心遣いが嬉しい。私は今後、後宮に入り次期皇太子妃としての準備が始まる。本格的に結婚式に向けて忙しくなるのだ。ジルとはなかなか会えなくなるし、公の場ではくだけて話すこともままならなくなる。
クラウス様と別れ、気のおけない倶楽部の仲間達と楽しく過ごす。広間に音楽が鳴り始め、みんなそれぞれの婚約者とダンスを楽しみ始める。私はクラウス様とファーストダンスを踊ったからもういいだろうと少し火照った体温を冷ますために庭園へと足を運ぶ。
庭園の中心にある噴水へと腰をかける。昔はこういうパーティーは針のむしろでいたたまれず、いつもここにいた。いつの間にか、その数も減ってしまったけれど。
以前の怯えた自分に会えるのなら教えてあげたい。少し勇気を出すだけで、あなたには沢山の仲間ができると。一生に一度の恋も経験できることを教えてあげたい。しかも同じ人を二度も愛することができるのだ。
「どういうことよ!!」
庭園にはあるまじき、かなきり声が響き渡る。顔をあげると艶のなくなった髪を振り乱し、パーティーに出ているとは見えない薄汚れたワンピースを着た、あの男爵令嬢がそこにいた。あの可愛らしい可憐な姿はどこにいったのか?
目は血走り自制できないほどの怒りで体を震わせ地団駄を踏んでいる。
その形相に驚き、ただごとではないことが起こっているのがわかる。
「な……、に?」
声がうまく出せずかすれる。
「なんであんたなんかが、クラウス様の正妃になんてなるのよ!」
なんでって、それはずいぶん前から決まっていたことだ。彼女は何を言っているのだ。クラウス様の前に男爵令嬢が現れなくなったので、私はクラウス様と話が済んでると思っていたのだ。側妃も作るつもりはないとおっしゃっていたし……
でも彼女は納得していなかったら?
彼女の手にきらりと光る刃物が見える。
ごくっと喉が鳴る。
彼女の瞳に光が消え、うっすらと微笑み感情が見えなくなる。刃物を両手で持ち直している。
逃げようにも後ろは噴水だ。彼女から狂気が伺え一歩も動けなくなる。
「ねえ? 死んでよ…… あなたがいなくなれば全てまるくおさまる。きっとクラウス様も目を覚まして私を正妃にしてくださる。何度も忠告してきたのにあなたって、全然めげないんだもの。でもこれで終わり」
男爵令嬢がぐっと刃物を持つ手に力を入れ、私に向かって突進している。
やっぱり結末は変えられないの?私は今日、死ぬ運命にあるの!?
最後に想うのはこんなときでも彼の姿。いるはずもないのに助けを求めるのはいつも彼だった。お願い助けて!
来るであろう衝撃に備えて強く目を閉じる。
「ランベルト! 助けて!!」
私が叫ぶと同時に、ガキンと刃が合わさる音がする。同時に男爵令嬢の悲鳴のような叫び声があたりに響き渡る。
恐る恐る目を開けると、右手を押さえ血を流しながら転げ回っている男爵令嬢が見える。
私を背に庇うように深紅のマントを風にはばたかせながら、男爵令嬢に刃を向けてるこの人は……
特徴的な銀髪が風で揺れている。この深紅はリカルド王国の王族しか使ってはいけない禁忌の色だ。
「ら、ラン、ベルト」
私が震えながら名前を呼ぶと、顔だけこちらを向けてくれる。綺麗な緑の瞳が弧を描く。
「良かった。間に合ったみたいだ」
私は立ち上がろうとしたが失敗して膝をついてしまう。それを剣をおさめたランベルトが支えて立ち上がらせてくれる。信じられない、この腕の暖かさはランベルトだ。恐ろしかったのもあるが、安心からか頬を伝って涙がこぼれ落ちる。
「どうして? どうしてよ! この泥棒猫!!」
男爵令嬢は地面に這いつくばったまま、まだ諦めてないのか刃物に手を伸ばそうとしている。その刃を誰かが足で遠くへと蹴り飛ばす。
クラウス様が男爵令嬢を温度のない冷たい目で見おろしていた。
「クラウス様、助けてください! アメリア様が私に嫉妬して害そうとしたのです!」
まだ自分は愛されているのだと疑わない眼差しでクラウス様を見つめて男爵令嬢が手を伸ばしている。
それをさっと避けると、皇太子直属の騎士達が現れ男爵令嬢はあっという間に取り押さえ連れていかれる。最後まで、気が狂ったように自分は正妃になるんだと喚き散らしていた。
庭園に三人だけが取り残される。最初に口を開いたのはランベルト様だった。
「クラウス皇太子殿下、この度は卒業パーティーにお招きいただきありがとう」
「ふん、よく言う」
二人だけで話は済んでいるようだった。
「なにが起こったのですか?」
「あの令嬢の男爵家はうしろ暗いことが多くてな。横領、密売、他国への情報漏洩、罪状はあげればきりがない。まあ、そのおかげで商人から男爵位になれたのだからな。上位貴族との繋がりも強くなかなか尻尾を掴めなかったんだ。だから俺が恋人のふりをして情報を出させた。正妃の立場と、その地位を得るために上位貴族へ養子に出す嘘の条件をだしてな。それで大人しくしてれば良かったものを満足できず、父親に言われるまま皇太子の婚約者まで害そうとしていた。だから……」
「だからってアメリアに辛く当たるのはどうかと思うけどね。男爵を捕まえるのが立太子の条件とはいえね」
「それは……、悪かったと思っている。アメリアの命がかかっていたから」
「説明くらいはするべきだろう」
ランベルトが肩を竦めて非難めいた表情をクラウス様に向ける。クラウス様はばつが悪そうに私から視線を逸らす。
「でも、何故ランベルトがここに?」
「それは……」
ランベルトの声を遮るようにクラウス様がごほんと咳払いをする。
「あとは二人で話し合ってくれ。俺は後処理で忙しいんだ」
クラウス様が踵を返して去ろうとする。
「クラウス様!」
私が駆け寄ろうとするが立ち止まるだけで、こちらに顔を向けてくれない。
「……婚約破棄だ」
「え……」
「危険にさらされたときに婚約者の名ではなく、他の男の名を呼ぶ女などこちらから願い下げだ」
「クラウス様……」
クラウス様は私に婚約破棄を告げると静かに歩き出す。
「クラウス様、助けていただいてありがとうございます! 今度、お礼に甘さ控えめのアップルパイを差し入れしますね!」
「……俺は甘いものは大嫌いだ」
クラウス様の背中に向かって大きな声で叫ぶと、少し肩を揺らして笑い今度こそ庭園から去っていった。
クラウス様が去ったあとも、ただ立ちすくんでいると、背中から優しく抱きしめられる。ふわりと漂う甘いこの香りは……
「ランベルト……」
「お菓子は僕だけに作ってくれるんじゃないの? しかもアップルパイは僕の好物なのに」
「そ、そんな約束してない……、わ」
「そうだっけ?」
懐かしい声と香りに涙がこぼれてくる。ランベルトは私が泣き止むまで後ろから優しく抱き締めてくれていた。
私が落ち着いたところで噴水の前で二人で向かい合い、ランベルトが甘い笑みを浮かべ恭しくひざまずく。正装姿のランベルトは、昔読んだ物語で姫を救う騎士様のようだ。
「アメリア卒業おめでとう。流れ星より先に君の願いを叶えるために舞い戻ったよ。また会えたら、君の願いを教えてくれると言ったね。約束を守ってくれるかい?」
星祭りの約束のことだろうか。ランベルトと二度と会うことはないと思っていたのに。
ランベルトが乞うように両手にそっと触れてくる。
「私の願いは……」
「君の願いは?」
「ランベルトのことが好き。大好き! あなたとずっと一緒にいたい!」
「うおっ!」
私はひざまずくランベルトに向かって思いっきり抱きつく。
ランベルトは私の勢いに押されて、二人で庭園に倒れこむ。
「うーん、この体勢は非常にまずい」
「もう会えないと思ってた! いつも驚かせて! 酷い!」
「嫌いになった?」
「嫌いになるわけなんてない!」
慌てて起き上がるとランベルトと瞳がぱちりと合う。満足そうに微笑むランベルトに急激に自分の頬の熱を感じる。
というか私ったらなんて格好をしてるの! 殿方を押し倒すなんて!
しかし急いで退こうとした私の身体を両手で押さえつけて、ランベルトは平然と言い放つ。
「アメリア、僕も大好きだよ。一生離さないから覚悟しといて」
ランベルトの言葉に呆然としていると、柔らかな湿り気を帯びたお互いの唇が合わさる。
恥ずかしさに耐えきれなくなり、離れようとする。しかしランベルトにしっかりと押さえつけられていて二人の距離は変わることはなかった。私は恥ずかしさのあまりランベルトの肩に顔をうずめる。笑っているのかランベルトの体が少し揺れている。
「願い事は叶ったかな? アメリア」
私はランベルトに顔をうずめたまま、涙を流しながら静かに頷いた。
私達を祝福するように流れ星がひとつ夜空を駆けていった。
時は流れ、私の心配をよそにあれよあれよという間に私はリカルド王国の第二王子ランベルト・フォード・リカルドの婚約者となっていた。
ランベルトのお兄様の病気というのは嘘で、もともと一年の約束で行ったはずの留学からランベルトが帰ってこず、業を煮やした第一王子アビゲイル様が仮病を使って連れ戻したそうだ。
もちろん留学から帰ってこない理由はアメリアだそうだ。申し訳なくてリカルド王国に行ったらアビゲイル様に一番に謝罪しなければ。とうの本人はしれっとしてるから腹立たしいが。
私とクラウス様の婚約破棄は揉めると思ったが現皇帝はあっさりと許可を出した。
ランベルトに聞いたが政治的な取り引きがあったらしく詳しく教えてくれることはなかった。リカルド王国に帰ってなにをしていたかといえば、軍と外交部門のトップに立ったそうだ。全てアメリアを手に入れるためだと言うから本当にこの人は恐ろしい。そのうち、適当に誰かに席は譲るそうだ。自分の願いは叶ったからと……
私を自分の膝の上に乗せて、私の手作りのお菓子を幸せそうに食べる満足そうな彼を見ていると自然と笑顔になる。こんなささやかな日常が自分の一番の願いだと平然と言ってのける彼が愛おしくて仕方ない。
たとえ、これから何度人生をやり直すことができたとしても私は必ずあなたと恋に落ちるだろう。