風はそこにいつも吹いていた
十七
ウィックは、翼を広げて声を上げながら空に飛び出した。翼が風を捉えるのを感じていた。体が軽くなるのが分かった。開けた視界を遮るものは何も無い。世界は大きく彼の前に広がっていた。
風が吹いた。
その風は、強く、国道を駆け抜けてきた。そこにいる人々の髪や服をはためかせ、帽子を舞い上がらせた。お気に入りの薄紫色の花飾りのついたアイボリーの帽子を飛ばされた少女は、髪を押さえながら手を伸ばしその行方を追った。
風は、人々を押しのける様にその先の塔まで吹き抜けて行った。そして、塔の広場を渦巻いた。塔の壁を駆け登った風が、ウィックの翼を持ち上げた。
カリクは、闇の中で息を殺して様子を伺っていた。
林の木の影に潜み、月明かりに僅かに輪郭が見えるニコフの馬車をその目は見ていた。月の光がその目の中に入り、悲しく光っていた。
林の中は、静かだが微かに生き物の気配がする。鳴いては止む虫の音や夜間行動する小動物が木の葉を揺らす音、それを狙う夜目の利く鳥の羽ばたき、林は静かに命が息づいていた。そこに潜むカリクは、この場にあまりにも異質であった。静かにゆっくりと馬車に近付いて行くが、裏腹に心拍数は上がり、呼吸は胸から肩になり大きくなった。その呼吸を音を立てずにしようとする程、カリクの目は暗い光を強くしていった。
祭りの日まで後ひと月と迫っていた。カリクはそれまでに何とかしなければいけないと追い詰められていた。
カリクは、馬車周辺に人の気配が無いかを慎重に伺った。この時刻にはニコフは寝ている筈だと自分に言い聞かせながら。右手に力が入る。そこに握られている物をしっかりと認識した。それは彼が使い慣らしたナタだった。そこに凶器がある事を再確認して、カリクの額に力が籠った。愛する家族を幸せにする為の道具が、今、殺意の籠った鋭利な感情に飲み込まれていった。これは、家族を守る為にしなければならない事だ。カリクの指先はその信念に震えた。
夏の夜の熱気がじわりじわりとカリクの背中を大量の汗で濡らしていた。顔から噴き出た汗は、顎を伝い落ち、頬と首を伝い胸元を濡らした。それは、気温だけの所為では無く、胸の内を渦巻く感情と張り詰めた緊張が、汗腺を開き流れ出ていた。
「どうしてなの?」
アニルの声が耳に蘇ってきた。それは、ニコフの元に食事を届けようとしたアニルを止めた時だった。
「なぜ、そんなにあいつの所に行くんだ!」
「大きな声を出さないで、ウィックがまだ寝てるのよ」
アニルは、ウィックに声が聞こえる事を嫌がった。
「とにかく、行くな」
「どうしてなの?それを教えて」
アニルは、ニコフの元へ行く事をやめる気は無かった。
「僕を置いて行くんだろ。あの時のあいつみたいに」
「カリク、何を言っているの?」
「あいつは僕を平気で置いていった奴だ」
カリクは、部屋の隅を見てぎゅっとズボンを手で掴んで言った。
「そんな事ない。ニコフはそんな事無いわ」
アニルは、カリクがこんなに不安定な感情を表した事に困惑していた。
「君はまだ、あいつの事が好きなのか?!だから、そうやって庇うんだ!」
「やめて、大きな声を出さないで」
「あいつといつも何しているんだ?」
「何もしていないわ。朝食を・・・」
「抱かれてるんだろ!あいつに!はっきり言えよ!」
アニルに掴み掛かる様に問い詰めてきたカリクをアニルは、振り払い突き飛ばすとその頬を平手で強く叩いた。アニルは泣いていた。叩いた右手を押さえながら泣いていた。
叩かれたカリクは、放心して叩かれた頬を押さえていた。ニコフに渡す朝食を持って出て行く妻の背中を見ている事しかもうできなかった。
息子のウィックが、ニコフの翼作りを手伝う様になっていた。ニコフが、マルカブス・ムットで飛んだ事が、ウィックの興味と尊敬を得た事はカリクの目にも分かった。そして、ニコフの男らしい性格が息子を惹きつけているとカリクは感じていた。
ニコフが翼作りの作業場にしている教会の倉庫にカリクは何度か覗きに行っていた。
ウィックは、ニコフの翼作りに目を輝かせているのが遠目でも感じられた。これ程率先的に作業に取り組む息子をカリクは知らなかった。指示された作業を丁寧に慎重に行い、何か気になる事が有ればニコフに声を掛けて相談や助言に耳を傾けた。カリクは自分の仕事を手伝う息子の表情や態度を思い出した。が、時折り興味のある顔をする事はあるが、大抵は面倒臭そうに足下の土を蹴るばかりで、カリクを困らせる事が多かった。それは、父親に対する甘えから来る我儘な態度も原因の一つと言えたが、カリクが見たニコフに対するものとの違いにカリクの心情はささくれた。
作業の休憩中にニコフの話を聞く時もウィックはとても楽しそうにしていた。ニコフがこの町に戻ってきて以来、カリクは息子と会話を交わした記憶が殆ど無かった。
ウィックの学校が夏季休暇に入ると、ウィックは友だちと遊ぶ約束が無い限りは、ニコフの元を訪れていた。それに伴いアニルも昼食を届けに通う様になった。
アニルは、カリクの気持ちを思うと長居をするつもりは無かったが、息子が入り浸っている以上顔を出さない訳には行かなかった。あの日以来、カリクは、精神面が不安定でアニルは心配でならなかった。にこにこと優しく接してくる事もあれば、アニルから話しかけても何も応えなかったり、些細なことで激昂する事もあった。ウィックがニコフの元にいる時間が多いので、息子がその姿を見る事は無かったが、明らかに息子と父親のコミュニケーションは、少なくなっていた。カリクが不安定な日ほど、夫婦の営みは激しく乱暴さを見せた。アニルは、嫌ではあったが暫くすれば彼も落ち着くだろうと我慢する事にしていた。カリクは事が終わると、アニルの胸に縋り泣いた。カリクの不安定がニコフの帰郷に起因するものとアニルは気付いていたが、問題はそれだけでは無くどうする事もでき無い事だとアニルは感じていた。たとえニコフがまたこの町を出て行ったとしても、カリクの心のバランスが崩れてしまった今では、それは解決では無い。母親が、姉を失った時に心身を患った姿を見ていたアニルは、根気強く寄り添い見守るしか無いのだと決意していた。
ニコフに相談したところで、解決はなく彼が必要以上に関われば良く無い方向に向いてしまうのではと懸念するアニルは、ニコフから距離を取る事を望んでいたが、ウィックがニコフを慕っている事は尊重してあげたかった。だから、引き離す事が出来ずにもどかしい日々を過ごしていた。せめて、自分は関わりを薄くしようと昼食を届けるぐらいの接触に留めていた。
カリクには、アニルの行動が不安で堪らなかった。多くの時間をカリクと過ごそうとしているのは分かっていた。しかしそれが、ニコフの元を訪れる為の偽装に思えて仕方なかった。ウィックが、ニコフの元に遊びに行っているのを口実にニコフの元に出掛けて居る。しかし、実はウィックは友だちと遊んでいて、ニコフの所にはいないのかも知れない。不安と疑いは、どんどん強くカリクを蝕んでいった。アニルの後を付けて行った事も何度もある。カリクには、アニルが喜んでニコフに会いに行って居る様にしか見えなかった。後を付けた日はいつもウィックはそこに居たが、偶然が重なっただけだと信じる事が出来なかった。いつか証拠を見つけ、現場を押さえなければとカリクは強く考える様になっていた。
馬車の幌の幕をナタの先でそっと捲ると、カリクは中の様子を伺った。
夜の闇に慣れた目は、僅かに入る月明かりの中に薄らと何かの輪郭を捉えていた。そこから、小さないびきを伴う寝息が聞こえる事に気付いた。
そこに居る誰かが寝ている。
そして、それはニコフである事をカリクは疑わなかった。
荷台の後ろを手で掴むと静かに脚を上げた。荷台より少し低い位置にステップがある。そこに脚を乗せると、もう片方の脚を荷台まで上げた。カリクの重みで荷台全体が揺れた。なるべく激しく揺れない様に静かに体重を移動して、荷台に乗り込んだ。
そこにニコフが居る事にカリクの身体の震えは強くなった。立ち上がる事はできなかった。荷台が揺れる事もそうだが、足腰の震えがそうさせてはくれなかった。
カリクはこれから行う事の恐怖に自ら慄き、顔中を引き攣らせて泣き顔とも笑い顔ともわからぬ表情をしていた。それは、闇の中で誰の目にも見えない事であったが。
震える手足で這う様にニコフに近付いていく程、寝息やニコフの温度を感じた。そこに確かに命があった。
カリクは、荒れる呼吸を必死で抑えながらニコフの傍に膝立ちになると両手でナタを持ち自分の頭の頭で振り上げた。呼吸が浅く速く加速していく。震える腕は、掴んだナタを振り落としそうな程に揺れていた。
ニコフを殺さなければならない。
カリクは、心の中で何度も繰り返していた。妻を奪い、息子を奪い、彼を置き去り、全てを奪われる位ならニコフを居なくさせなければならない。妻の裏切りも息子の心変わりも取り戻し許す事ができる。ニコフに捨てられて、彼の中で大きくなっていった劣等感や罪悪感や自己否定や焦燥感や孤独感、喪失感、そして自己嫌悪、それらを一緒に葬り去らなければならなかった。それが今、手にしたナタを振り下ろす事で成し遂げる事ができる。
カリクは、泣いていた。
自分でも気が付いていなかった。涙が、静かにカリクの頬を顎を伝って落ちていた。それは、ニコフの胸元に落ち、頬に落ちた。
「・・・ん、ん?」
その涙が、ニコフを眠りから起こそうとしていた。
だめだ!カリクは、頭の中をあらゆる感情が渦巻き警告していた。カリクは、悲鳴の様な声を上げて手にしたナタを振り下ろした。
グジュッッと、両腕に肉にナタが食い込む感触が伝わって来た。胸の骨を砕く感触と同時に、刃先が内蔵に食い込むのが分かった。
カリクの目の前に、半覚醒したニコフが強烈な痛みとしかし、現状の理解ができぬまま大きく口と目を見開いた顔があった。その目はカリクを捉えてはいたが、何も見えていなかった。唯急激に迫る死を見ていた。ニコフは声も上げられぬまま、気道と食道に溢れる血を口から吐き出した。死の淵で意識が少しだけ現実を捉えていた。何とか動く両腕で、カリクの両頬を包んだ。カリクを見つめる瞳は、一瞬悲しみに満ちたが直ぐに見開かれビクビクと痙攣した。
カリクは、ニコフの目を振り払う様にナタを抜こうとした。しかし、ニコフの体の肉と脂に阻まれて、うまく抜く事ができなかった。持ち直すと今度は手に付いた血が滑り引き抜けなかった。カリクは、引き抜くのを止めてナタを下に引き下ろした。ニコフの腹を引き裂き、ナタを抜いた。それでもニコフの手は、カリクの頬にあった。カリクは、泣きながら再び声を上げると、右手で待ったナタをニコフの胸の奥まで突き刺した。
パタリとニコフの手が落ちた。
カリクは、ナタを手にニコフを見た。
死んだ。殺した。この手で。人を。
カリクは、自分のした事を認識して先程とは違う震えが来た。震えた声を上げて、カリクは倒れ尻を打った。立ち上がる事ができずに脚をバタつかせて後退りすると、荷台から転がり落ちる様に出た。バランスを失い右肩から地面に倒れ込みながらもカリクは、フラつきながらその場を逃走した。
その姿を目撃した人物がいた。コルトスの町長のモリヌだった。
モリヌは、一月後に迫った祭りの打ち合わせにニコフを訪ねたのだった。この遅い時間になったのは、町民に気付かれたく無かったからだった。マルカブス・ムットの挑戦者を知らせてはならない。それが暗黙の了解になっていたからだ。今回訪ねる事は、ニコフに伝えてはいなかった。特に理由があった分けではないが、息子のモールが過去の挑戦者について調べている様であり、ニコフの手伝いをしているウィックが何か話したのでは無いかと考えていた。だからか、秘匿的に行動していた。ここに来たのも、打ち合わせもそうだが、情報の漏れを止める様に釘を刺したかった。
ニコフの馬車の付近まで来た時に、モリヌは不穏な空気を感じた。手にしたランタンに照らされたその場所は、焚き火も消えて時が経っている様子で人の動いている気配は無かった。しかし、そこに流れる空気に生臭さを感じていた。
突如聞こえた声は、馬車の荷台からだった。悲鳴の様な声は男のものだった。モリヌは、びくりと身構えて身を潜めた。暫くして、馬車の荷台から転がり落ちて来た人物が居た。灯りで照らすわけにはいかなかったが、月の光の中にその横顔が見えた。その人物は、カリクだった。その頬が赤に濡れていた。モリヌは、声を掛けるべきではないと悟り、カリクが居なくなるのを待って馬車に近付いて中を覗いた。そこに充満する血の匂いにモリヌはむせ返り、吐き気を催した。血に濡れた荷台の中で、ニコフは動かなくなっていた。モリヌは、状況からその犯人がカリクである事を疑う事はなかった。ただ、動機に関しては何も分からなかった。
遠くで、野犬の遠吠えが聞こえた。
カリクは、闇の草原を何度も転びながら走った。何度か立ち止まり、嘔吐した。嘔吐してはまた逃げた。
川がある所まで来ると、躊躇わずに飛び込み体に付着したニコフの血と自分の嘔吐物と涙と鼻水を洗い流した。右手に掴んだナタは、指が固まった様に動かず離す事ができなかった。荒れた息のまま左手で指を一本ずつ動かして漸く離すと、ナタと手にこびりついた血を洗い流した。体についた血は洗い流せたが、流れ続ける涙と唾液と鼻水は止まる事が無かった。カリクは、両手で頭を掴み川の水に沈めた。何度も自分の顔を水に沈めて息がもたなくなり水を飲んでむせた。大声で泣き、何度も水に沈めた。自分を殺そうとしたが、体がそれを拒否した。カリクは土手に転がり、ナタを手にしてその切先を胸に当てた。しかし、薄皮を裂いただけで、カリクはナタを突き立てる事はできなかった。カリクは嗚咽して体を縮めた。胎児の様に丸まって、「仕方なかったんだ。仕方なかったんだ・・仕方なかったんだ・・仕方なかった・・んだ・・仕方・・」と、呟き続けた。
月は、唯美しく、惨劇を照らしていた。
十八
高い所の風は、こんなにも吹き抜けるのだなとカリクはぼうっと考えていた。
街中を流れる音楽も人々の収穫を神に感謝する声も祭りを楽しむ笑い声も大道芸に対する歓声も客に呼びかける露天商の声も子供たちのはしゃぐ声もカリクには聞こえていなかった。
背中に背負ったニコフの作り途中の翼は、思っていたよりもずっと重くのしかかって来た。ふらつく足取りで、塔の上に立ち少し歩いてみる。風が吹くたびに翼に張られた皮が膨らむのが分かった。これは飛べたたろうなと、カリクは翼の感触を確かめた。
飛ぶはずだったニコフは居ない。カリクがその手で殺してしまった。知っているのは、町長のモリヌだけだろう。いや、もしかしたらアニルは気付いているのかも知れない。触れ回られる事はなかったが、ニコフの死は野犬によるものだとされている。実際、ニコフの死の匂いに誘われた野犬が遺体を食い漁った形跡があった。町内には、町の近くで旅人が野犬に襲われて亡くなった事が伝え広まり、警戒を呼び掛ける事となった。しかし、その被害者が誰なのかはっきりした事は伝えられなかった。あえてモリヌがそうしたのだった。ニコフが居た事が伝われば、今回マルカブス・ムットに挑戦するのがニコフだったと推測するものが現れるだろう。そしてそれは事実として伝わり、そのニコフが挑戦を待たずに亡くなった事を知れば、この祭りに災いを結びつけた考えが広がるはずだ。モリヌはそれを恐れた。
カリクは、アニルの事をふっと思い出した。あの日以来、殆ど口を聞いていない。会うとただ哀しそうな目でカリクを見ていた。それは、カリクにとって責められていると同じだった。ニコフが来た事で失った均衡は、ニコフを取り除いても戻る事はないのだとその目がカリクに突きつけて来た。息子のウィックもそうだ。籠りがちになり、時折顔を合わせてもその目に表情は無かった。
二人に何か声を掛けるべきだったのか。カリクは、そう思い浮かべたが、自身の行動の結果で起きた事に何かを口にする事などできるはずもなかった。
すまない事をした。カリクは、体が痛むのを感じた。
「君が、彼を殺してしまったのだろう」
葬式の日、町長に呼ばれて付いて行くと、言いづらそうに震えた声でモリヌにそう告げられた。
「・・あ、あれは・・野犬・・が・・」
カリクは、もごもごと言い逃れをしようとしたが、町長の目は不安そうながらもカリクを見ていた。
「偶然あの場に居たんだよ。君が荷台から出て行くのも見ている」
「・・・はい・・・」
カリクは、すぐに観念すると泣き出した。膝を突き顔を覆い泣いた。
「責任を取ってもらわなければ困るんだ」
カリクが逆上して来ない事が分かると、モリヌは冷たく重い口調でそう言った。
「でも、あれは・・・」
カリクは、何かを言おうとしたがそれ以上何も言えなかった。
「君と彼の間に何があったかなどは、どうでも良い。ただ、彼が飛ぶ筈だったマルカブス・ムットを君に託したい」
「え?」
「それさえ、承知してくれるなら、彼を殺害した事は墓まで持っていこう」
モリヌは、言いながら震える手を後ろ手に隠した。
「君と彼の間にあった事で、君があんな事をしてしまったのは不幸で罪深い事ではあるが、君に取って整合性のある事なのだろう?君はこうして後悔して苦しんでいる。その上で彼の代わりに成し遂げる事で、君の贖罪は十分だとは思わないか?」
悪魔の囁きの様なモリヌの言葉にカリクは、その時ただ頷く事しかできなかった。
その日以来、カリクは、畑仕事を終えると教会の倉庫に向かった。そこで夜遅くまで過ごし、帰り無言で食事を済ませて寝る生活を続けた。
倉庫には、ニコフが作り途中の翼が採光窓から差し込む夕日に照らされていた。それは、自然の鳥の翼を模した美しい姿でそこにあった。作りかけとは言え、殆ど完成した形をしており、机には設計図と制作工程の日程と今後のすべき事が事細かく記されていた。ある程度の知識があれば、ニコフの思い描いた完成へと辿り着ける様に思えた。しかし、カリクは何もせずに、ただずっと椅子に座り翼を眺めて時を過ごしていた。その間放心したかの様に表情は無かった。
カリクは、ここで時が来るのをただ待っていた。ニコフがやり残した事を引き継ぐ事などできなかったのだ。このままの形で背負い、この翼に委ねようとカリクは考えていた。
カリクは、ファンファーレが鳴り響くのを聞いた。それは間も無く、自分がこの塔から旅出す時間が訪れる事を意味していた。
彼の希望で、塔の上には合図をする係員は居ない。彼一人だけだ。これ以降の全てのタイミングは、彼に任されていた。
カリクは、声を出さずに泣いていた。
ニコフを手に掛けた後悔が、強く彼に押し寄せて来ていた。それは、ここから見える景色が、彼がかつてメニアを助けられなかった心の傷を抱えて見た景色であり、本来ならこの日、未来への決意を込めて見る景色であったと言う事実に気が付いたからだった。幻のニコフがカリクと重なった。ニコフは、不安そうにでも強い決意の目で、眼前の景色を迎えて入れていた。
カリクは泣いた。
メニアの手を掴めなかったニコフの心情が景色の中に見えた。自分の無力さを嘆き、この場に自分の根力を試し向き合う為にここに居た。
カリクは、あの時アニルを助けに行けなかった。メニアを助けに行けなかった。出来なかったことだけを嘆き苦しみ自分を憎み、ニコフが前に進もうとする事に薄情だと感じ、自分勝手に失望した。
カリクは泣いた。
前に進む事を諦め立ち上がらなかった自分をそれでもニコフは信じて手を差し伸べてくれた。足手纏いの筈の自分をニコフは、必要だと強く引っ張ってくれた。
カリクは泣きながら一歩進んだ。
ニコフは、きっとこの景色の先に自分たち家族を含めた未来を見ようとしていた事に気付いた。でもカリクは、ニコフの見る世界に置いていかれる事を恐れた。
カリクは泣きながらもう一歩進んだ。
カリクがニコフに重ねて見ていたのは、自身の心の底からくる恐怖心だと気が付いた。ただの幻想に過ぎなかったのだと気が付いた。
「世界の広さの一部を知った筈だったのに・・・」
カリクは、悲しく呟いた。
「僕は一歩でもニコフに近付こうと自分の力で歩いていなかったんだな・・・」
何て愚かで罪深いのだろうか。
カリクは、流れる涙で歪み滲んでゆく世界を見つめた。
もう、許される事はない。この罪から逃げる事も。アニルとウィックをこの手に抱けたこの世界はこんなにも優しかったのに、僕は自分を呪い、世界を呪った。呪いに曇った眼は、ニコフを憎ませた。許されてはいけない事だ。
「アニル・・ウィック・・・・すまない」
カリクは、両手を広げて翼を空に広げた。
第二のファンファーレが鳴り響いた。
「僕は僕の罪に耐える事はできない・・・でも、許して欲しい・・・」
カリクは、音が静まると、すぅっと鼻で息を長く吸った。
最期の故郷の空気を体一杯に吸い込んだ。
空を仰ぎ、渡る雲を見た。大きく静かな雲は、大地に大きな影を落としながら、ただいつも通りの様にそこに居た。
カリクは、両手を広げたまま、身体を宙に投げ出した。
一瞬翼が風を捉えてカリクを浮かそうとした。カリクの視界の景色がぐらついた。
その事が皮肉的な奇跡を呼んでしまった。
加速した思考の片隅の視界にアニルとウィックが塔を見上げている姿が映った。
アニル!ウィック!愛している!
翼が風を捉えたのは一瞬だった。カリクの体は、その後真っ直ぐに地上へと向かった。
カリクが石畳に激突して、少し間があったから人々の悲鳴が街に響いた。
カリクは、もう動かなかった。