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  作者: 無月雨景
8/10

舞い上がる火の粉は、闇に踊り消える

        十五



 その手紙は、春の終わりを告げる長雨の続く朝に届けられた。

 ウィックは、母親のアニルに揺り起こされると、眠い目を擦りながら窓の外を見た。数日に渡り不安定に降り続く雨は、今は降っている様子だった。またモールたちと遊べないやと、ウィックは唇を尖らせた。その窓の向こうを自転車に乗った郵便配達人が来るのが見えた。この家に便りが届く事が滅多に無かった為、六つになったウィックにも初めての光景であった。何かが起こる様なわくわくにウィックは、ベッドを飛び出した。先程までの憂鬱はどこかへと消えていた。

 ウィックは、テーブルの自分の席にいつも通りに座ると、目の前に朝食のパンと目玉焼きと野菜のスープが次々と置かれた。いつもと変わり映えのしない朝食にウィックは、少し下を出して、うえっと不満を表したが母親は知らないふりをした。そこへ、朝の仕事を終えた父親のカリクが濡れた上着を脱ぎながら帰ってきた。ウィックはその手に、先程届けられた何かがある事を目で探った。それは父親の左手にあった。

 上着を受け取ったアニルが、それを壁に掛けるとタオルで水気を拭き取った。そして、手にした手紙を怪訝そうに見つめる夫に視線を向けた。

「手紙?誰から?」

 アニルは言いながらも夫の朝食の準備の手を止める事はなかった。

 ウィックは、期待の目で父親の手の中にあるものを見つめて、朝食など意識から無くなっていた。

「ウィック。早く食べなさい。学校に遅れるわよ」

 アニルは、温まったミルクを息子の前に出しながら、朝食に手を付けない息子を嗜めた。しかし、当の息子はテーブルに手を突き、手紙に前のめりになっている。「もう」とアニルは口にしながらも、少し息子と同じ気持ちだった。一体誰からの手紙なのだろうかと興味があった。

 夫を見ると、差出人の名前を見たまま手紙を開封せずただ見つめていた。その様子にアニルは不安を感じた。

「ニコフからだ」

 アニルは驚いた。九年近く何の連絡も無かった友人からの手紙だった。九年前のあの日、彼から貰った短い手紙がアニルの胸に蘇った。そしてアニルは、ニコフに今の自分たちの姿を見て貰いたいと思った。しかし、夫の表情からはそれと違う仄暗い影を感じた。

「ニコ、フ?って誰?」

 ウィックは、両親の対照的な雰囲気など気にせずに疑問を口にした。その名はどこかで耳にした気もするが、ウィックにはぴんと来なかった。その人が、どんな事を運んで来るのかを想像して楽しみ始めていた。

「話したこと無かったかしら?お父さんとお母さんのお友だちよ。きっと、色んな町を旅して回っているわ。それが彼の夢だったから」

 色んな町に。それはこの町しか知らないウィックには、とても魅力的なキーワードだった。

「いいから、早く食べなさい」

 目をきらきらさせる息子にかつてのニコフとカリクを思い出し、アニルはクスリと笑った。男の子とはこう言うものなのかしらと夫を見た。

 カリクは、ようやく手紙を開けて内容を読み始めた。読みながら、少し寂しそうな表情をしたり頬を緩めたりしている姿に、アニルはほっとした。

「ねぇ、何て書いてあるの?」

 ウィックは、興味に体がウズウズして、座っている椅子の足を踵でかたかた蹴った。

「それ、やめなさいって言ってるでしょ悪い癖よ」

 母親に叱られてウィックは、頬を膨らませた。そして不満そうにパンを頬張った。

「ニコフがこの町に帰って来る」

 手紙を見たまま、カリクはそう口にした。それが彼にとってどう言う意味を持っているのか、妻も息子も知ることは無かった。


 ニコフの帰郷は、それからひと月程後の事だった。

 畑で仕事をしているカリク夫婦の畑の畦道に一台の頑丈そうな馬車が止まり、その御者台の上から男が手を振っていた。

 カリクは、その事に気付いたがすぐには手を振り返さなかった。少し近づきニコフだと気がつくと少しだけ手を上げて応えた。

 ニコフは、日に焼けて少し角張り精悍な顔立ちになっていた。それでも目元とどこか少年ぽさを感じる瞳は、カリクの知るニコフと変わらぬものだった。

 アニルもカリクがニコフと認識すると、安心して大きく手を振った。

「カリク!久しぶりだなぁ!」

 ニコフは、馬車から飛び降りる様にして降りて来ると、カリクを無理やりハグして、背中をバンバンと叩いた。

「アニルか?・・・いや、見違えたよ!すっかり綺麗になって!」

 ニコフは、カリクを抱き締めたまま、近付いてきたアニルの肩を優しく叩いた。

「ニコフこそ、日に焼けて男らしくなってて、ちょっと分からなかったわ」

「ははは!船に乗る事も多いし!外を走り回っているしな!カリクだって少し日に焼けて、健康的になっているじゃないか!」

 ニコフの腕がより強くカリクを抱きしめた。その腕がぶるぶると震えているのがカリクに伝わってきた。ニコフは泣いていた。

「よかった。本当に良かった。生きてる。カリクが生きている」

 ニコフは、腕の中にある親友の命の暖かさに泣いていた。

 それから三人は、カリクの家で茶を飲みながら近況の話をした。

 ニコフは、あれからボドゲイルの下で二年間働いた後、ボドゲイルと交流のある商人を訪ね歩いた。その繋がりで得た人脈で幾つかの流通先を開拓すると、それを繋げてネットワークを構築した。そして、何人かの信頼できる人物から人を紹介して貰い、そのネットワーク内を血流の様に物を動かす人材を雇い入れた。これによって、離れた各地の情報もいち早く入り、後はどう物を動かすかの采配をして行った。ボドゲイルの助力も有り、細く始まった流れは段々と太く速くなっていっているとニコフは楽しそうに話した。今後は、人員を増やして、海外へも流通路を増やす計画が有るらしい。コルトスにも近いうちに伸ばす予定だとニコフは言った。

 カリクとアニルは、ニコフの仕事がうまく行っている事だけは理解した。

「あれから、心配したのよ。ニコフは顔も見せずに行ってしまうのだもの」

「本当にすまない」

 ニコフは、一瞬何か言いたそうな顔をしたがそれを飲み込んだ。

「結婚はしているの?」

 アニルは、ウィックに出すつもりで焼いておいたクッキーをテーブルに出しながら言った。

「いや。二人はいつ一緒になったんだ?」

「七年になるかしら。六歳の息子も居るわ」

「そうか!息子が!」

 ニコフの喜びようが少し大袈裟に感じ、カリクは鼻の横を少し掻いて小さく笑った。

「ウィックって言うの。活発で元気な子よ。少し繊細な所はあるけれど。絵を描く事が好きな所はこの人に似たのかな」

「そうか・・・」

 ニコフは、なんだか眩しいものを見る様な目でアニルの話を聞いていた。その目が、壁に掛けられたカリクの描いたメニアーデの絵に止まり、少し悲しげに曇るのをカリクは見た。

 カリクは、鼻で大きく息を吸うと、それを少し溜めてゆっくり吐いた。

「どのくらい居られるんだ?泊まる所は?」

 そう言って妻に目配せをした。アニルは、目で頷くとニコフに言った。

「まだ決まってないのなら、うちの部屋が一つ空いているわよ」

「ありがとう。でも、大丈夫。長年、馬車で移動している所為か荷台で寝る方が落ち着くんだ。街道向こうの林のそばで野宿するつもりだ」

「せめて町に入ればいいのに」

 アニルは、ニコフの身を案じた。東側の森では、野犬の群れが住み着いたと聞いている。

「町に入るのは少し気が向かなくて。師匠もこの町を離れたしな」

 ニコフは、言い訳をする様に口籠もった言い方をした。

「大丈夫。慣れたものさ。雨も終わったし、これから暑くなる」

 それでも、まだ夜明けは寒いわ。とアニルは思ったが口には出さなかった。その時ちょうど、学校から帰ったウィックが、勢いよく扉を開けて入ってきた。

「ねぇ、おっきい馬車が停まっているよ!なに!」

 その姿を確認すると、ニコフは破顔して大声で笑った。

「君が、ウィックかい!」

「うん。おじさん誰?」

 突然近寄ってきた浅黒い父親程の年齢の男に、ウィックは後ずさった。

「馬車の持ち主で、お母さんたちのお友だちよ」

「え!あの馬車で来たの?!」

 ウィックの後ずさった足が、今度は一歩前に出た。

「あぁ。後で乗ってみるかい?」

「うん!おじさんは何て言うの?」

 ニコフは、右手を出した。

「ニコフだ。よろしくな」

 ウィックは、ニコフの手のひらを掴んで握手した。父親の手と同じ様にゴツゴツと所々皮が厚くなって硬い手のひらだった。その手は父親よりも力強かった。

「ウィック、おやつ食べるなら鞄を置いて、手を洗って来なさい」

 アニルは、息子を促すと恥ずかしそうに笑った。

 少し不満そうに部屋に荷物を放り込むと、裏手の水瓶に手を洗いに行くウィックの後ろ姿を、ニコフは優しく微笑みながら見ていた。

「いい子だな」

「なんだか恥ずかしいわ」

 アニルは、自分の息子の態度に落ち着きや礼儀が無い事を感じ、赤くなった。それでも、ニコフが息子の事を気に入った様子に嬉しく感じた。

 手を洗って来たウィックが、手を伸ばしテーブルのクッキーをつまむと口に入れた。アニルは「座って食べなさい」と、叱り座らせると、息子の目の前にジュースを注いで置いた。

「すっかり、母親だな」

 ニコフは、そう言って笑った。

 席についたウィックの頭を撫でると、ニコフは席を立ちカリクを外に誘った。

「どこ行くの?」

 着いて行きたそうに椅子から身を乗り出すウィックに、ニコフは、「君のお父さんと大事な話があるんだ」と、ウィックを制した。

 カリクは、ニコフと連れ立って家を出ると、馬車の御者台に二人で座った。

 以前の馬車と比べると、大きさも材質も良く御者台も革張りの椅子になっており座り心地が良い。

「何処かに行くのか?」

「いや、何となく座っただけだ。どれだけぶりかな二人で御者台に座るのは」

 ニコフは、懐かしむ様な目で遠くを見た。カリクは、その横顔を見て、眉間に皺を寄せた。ニコフの目はいつでも遠くを見ている。それは、カリクの心を波立たせた。ニコフの見ている遠くが、二人で過ごした過去であっても。

「・・・マルカブス・ムットに又挑戦する事になった」

 ニコフは、少し言いづらそうに言った。

「その為に?」

「あぁ、町長から懇願されてな。気は向かなかったんだが、やる事に決めたんだ。この事は町の皆には知らせないで欲しい。俺は、この町を出て行った人間だ。それに・・・いや、何でもない」

「分かった。必要な物があれば言ってくれ手配する。あまり町に顔を出したくないのだろう」

 ニコフは、カリクの提案に喜んだ。

 ニコフが町に入りたく無い理由はそれ程大した事ではなかった。彼自身の心のわだかまりの様なものだった。この町は、彼の失ったものを心に想起させ胸を苦しくさせる。それだけのものを失った町だ。両親の死がこの町に呼び、育ててくれた祖母を失い、愛した人を目の前で失った。そして、大切な友を置いて行った町だ。

 ニコフもカリクに会うのは怖かった。死ぬかも知れない状態のカリクを置いてこの町を出た。目の前で失うのが怖くなって逃げたのか、あの時残れば彼に執着して二度と旅立たないと感じたのか、ただ自分の夢に執着したのか、それは本人にも明確にはできなかった。結果、カリクを残して町を出た事実は、ニコフの心を重くした。その罪の意識が、苦しい状況でも一歩踏み出す意地を後押しした。彼が夢を実現して、その先を見つめられるのも、大切なものを犠牲にした意識から来る意地だった。こうして、この町に戻ったのも、町長からカリクの現状を聞いたからであって、自分から確かめる勇気が無かった。もし、あの時置いて行ってしまった事がカリクの病状を悪化させて死なせてしまって居たなら、ニコフは後悔と絶望でどうにかなってしまっていたかも知れない。確かめない事で、生きているカリクを想像して自分を誤魔化していた。町長からカリクの話題が出るまで、ニコフから聞く事もしなかった程だ。それが、友としてあまりにも酷い仕打ちだとニコフ自身も自覚している。カリクが、自分の事を恨んでいても仕方ないと思っていた。それでもここに来るまでに手足が震え何度引き返そうとしたか知れない。だから、こうして幸せな家庭を築き、自分と言葉を交わしてくれる事が奇跡の様でニコフは心から嬉しかった。

「あぁ、ありがとう」

 カリクに気付かれないようにニコフは少し泣いた。

 と、家の方からカリクの息子のウィックがこちらを見ている事に気付いた。ニコフにとって、彼こそ奇跡の結晶だった。

 ニコフは、にっこりと笑うとウィックに手招きした。六歳の少年は、一生懸命に走って来た。

「もう、お話終わった?」

 息混じりにウィックは、馬車の上の二人に尋ねた。

「あぁ!ウィック、君も乗るかい?」

 ニコフは、ウィックに手を伸ばした。その手をウィックは躊躇わずに掴んだ。

「うん!」

「じゃあ、その辺を走って来よう!」

 ウィックを二人の間に座らせてニコフは嬉しそうに言うと、軽く馬に鞭を入れて発車させた。

 ウィックは、世界が動き出す程の感動を流れる風と景色に感じた。



      

          十六



 アニルは、ウィックの手を引き、ニコフの馬車が停められている林に来ていた。

 初夏とは言え、早朝の日差しは静かで涼しい。林を渡る風の音は、より爽やかに二人を迎え入れた。

 つい先刻まで、眠そうに目を擦っていたウィックは、ニコフの馬車を見付けると大きく目を見開いて走り出した。

「おじさーん」

 馬車の荷台の後ろに、桶に入った水で顔を洗うニコフを見付けるとウィックは声を掛けた。

「ウィック!おはよう!アニルも!どうしたんだい朝早く」

 ニコフは、驚いた様に声を上げたが、動作は慌てる様子もなく、濡れた顔を手拭いで拭いた。

「朝食を持って来たの。食べるでしょ」

「それはありがたい」

 ニコフは、シャツを着ると、火を起こし始めた。

 アニルは、持って来た籠からパンとチーズとトマトを出すと、チーズとトマトをスライスしてパンの上に乗せた。それをニコフの持っているフライパンに乗せて鉄板の蓋をした。そして、ニコフの起こした火から少し離しておくと、蓋の上に、赤熱した薪をいくつか乗せた。しばらく待ち、フライパンから薪を取り蓋を開けると、パンが焼け、チーズが溶けてくつくつとなっていた。それを木の皿に乗せてニコフに渡した。

 ニコフは、礼を言い受け取ると、三人分の茶を淹れて二人にも渡した。

「うまい!」

 トーストを食べたニコフは、ニコニコとウィックに笑顔を見せた。その表情があまりにも美味しそうだったので、ウィックは自分も食べたくなった。それで、物欲しそうに母親の方を見ると、アニルは既に焼き始めていたフライパンの蓋を開けた。

「ウィックのもあるわよ」

 少し小さめの丸いパンを半分に切ったものにチーズとトマトを乗せて焼き、焼き上がったその上に切った上半分のパンを乗せてウィックに渡した。

「熱いから、気を付けて食べてね」

 ウィックは、嬉しそうに一口二口食べてから、「お母さんは、食べないの?」と、尋ねた。

「お母さんは、後でお父さんと食べるから今は食べないの」

 ウィックは、納得した様にパンを続けて頬張ると、茶を熱そうに飲んだ。

「カリクの体はその後どうなんだ?」

 ニコフは、聞きづらそうにアニルに尋ねた。

 アニルは、怒った目でニコフを一瞥すると、短く溜め息を吐いた。

「病状は何年も落ち着いているわ。疲れると咳が出るくらい・・・心配なら、何でもっと早く戻って来なかったの?」

 アニルにとって当然の非難だった。カリクにとってのニコフの存在の大きさは、アニルには入り込めない物があり、それを失ったカリクがどれだけ傷付いていたか、アニルは側で見て来たのだ。

「その通りだ。本当に済まないと思っている」

「仕事がそんなに大事だったの?」

「違うんだ。・・・そうじゃ無い」

 何を言っても言い訳にしかならない事は、ニコフには痛い程分かっていた。これまで、散々自分に言い訳をし続けて来たのだから。

 ウィックは、二人の様子に不安を感じていた。

「喧嘩しているの?」

「いや、違うんだ。小父さんは、君のお父さんとお母さんに酷い事をしてしまったんだ」

「じゃあ、謝らなくちゃだね」

「そうだね。そう、その為に来たんだ」

 ニコフは、何度も頷いた。

「ニコフ。私は、貴方がこうして来てくれた事を嬉しく思っているわ。勿論、これまで私たちをほっといた事に文句はあるわ。でも、こうして元気な貴方と又会えた事に感謝している。貴方が必死でカリクをこの町に連れて来てくれた事は先生から聞いているわ。貴方のおかげでカリクは生きている。文句も感謝も一杯言わなきゃ」

 アニルは、そう言って優しく微笑んだ。

 ニコフは、目頭が熱くなるのを強く感じた。何を言っても言い訳にしかならないのでは無く、本当はどんな言葉でも良いから相手を思っていれば伝わるものがあるのだとアニルの言葉に気付かされた。アニルは、カリクを置き去りにして去ったニコフの身も案じてくれていたと知った。

「俺は、君に感謝しか無いんだ。カリクを支えてくれてありがとう。カリクの家族になってくれてありがとう。カリクを愛してくれてありがとう。これからも頼む」

 ニコフは、涙を抑えきれずに泣いた。アニルは、ニコフをそっと抱いた。ウィックもそうする事がいい気がして、ニコフに寄り添う様に座った。ニコフは、そのウィックの肩を抱き寄せて。

「ウィック、生まれて来てくれてありがとう」

 ウィックは、肩を抱かれそう言われて、くすぐったい気持ちになったが嫌では無かった。

 その三人を遠くで見ていた人影があった。それはカリクだった。その耳に会話は聞こえてはいなかった。カリクは気付かれない様にその場を離れた。


 ウィックが、ニコフがマルカブス・ムットに挑戦する事を知ったのは、就寝前にカリクとアニルが話しているのをたまたま聞いてしまったからだった。それが何の事か、直ぐには分からなかったが、学校でモールが話しているのを聞いた時にそのワードが出て来た事で繋がった。モールの話だけでは要領を得ない為、夜に父親のカリクと共にニコフの元へやって来た。道中父親にもそれが何なのかと言う疑問をぶつけてみたが、「あれは見るべきものじゃ無い」と言ってちゃんと答えてはくれなかった。

 ニコフの馬車に近付くと、焚き火の前に座りコップで果実酒を飲んでいるニコフが居た。

「シチューとうちで採れた野菜だ」

 カリクは、持って来た籠から鍋を出し、ウィックに持たせていた麻袋をニコフに渡した。

 ニコフは、礼を言うともう二つコップを持ってきて、一つには果実酒を注ぎカリクに渡し、もう一つにブドウのジュースを注いでウィックに渡した。

 カリクは、ニコフが調理用に作った石積みのかまどに鉄網を乗せて、その上にシチューの鍋を乗せた。

「済まない。ウィックにマルカブス・ムットの事を話しているのを聞かれてしまったんだ。それで・・・」

 ニコフは、カリクの言葉を聞いてなる程と言う顔をした。

「教えてほしいんだ。今ね、学校で話題なんだ」

 ウィックは、ニコフに前のめりにそう言った。

「うーん。確かに、ウィックたちにとって興味があるのは分かるな。俺も小さい頃はそれはわくわくしたものさ」

 話し始めた二人の横で、カリクは焚き火から火のついた薪を幾つか抜くと、かまどに組んだ薪に焚べた。火がしだいに燃え移っていくのを見るのは何だか見入ってしまう。カリクも火が段々と大きくなるのに見入っていた。

「モールは、塔の上から鳥の様に飛ぶって言っていたんだ。塔ってあれでしょ、町の真ん中にある高いの。あそこから飛ぶの?」

「そうだ。あそこから翼を背負って飛ぶんだ。失敗してしまう事もあるとても危険なものなんだ」

「失敗するとどうなるの?」

「大怪我をしてしまう。死んでしまう事だってある。だから、お父さんやお母さんは、なるべくウィックには教えたく無かったんだ」

 ニコフは、優しくウィックに伝えた。アニルやカリクの不安はとてもよく分かっているつもりだった。知っている者が挑戦して怪我をしたり最悪死んでしまったら、それはとても辛い想いをする。それを息子に経験させたく無いのだ。なぜならそれは、かつてニコフが二人を辛い気持ちにさせたからだ。

「でも、飛んだ人はこの町の英雄だってモールは言ってた」

 ニコフは、自分を見詰める幼い目を見返した。ほんの少しの不安は見えるものの、期待と憧れがその目には宿っていた。この子の為にも、失敗は許されないと、ニコフはゆっくり深く息を吸った。

「俺は、十五歳の時にマルカブス・ムットで飛んだんだ」

 ニコフは、思い出す様にそう言った。



 ウィックは、いつの間にかニコフにもたれかかる様に寝息を立てていた。

 静かな林にパチッパチッと、木が弾ける音が微かに響いていた。

「どうしても、飛ぶのか?」

 カリクが重い口を開いてそう言った。

「後二ヶ月足らずで、誰かが飛ばなければならない。だったら、経験のある俺がやった方がいい。その為の準備も進んでいる」

 ニコフは、残った酒を飲み干すと、コップに継ぎ足した。カリクは、酒に唇を付けるだけで舐める程度しか飲んではいなかった。

「あの時だって、大怪我をして大変だったんだぞ。アニルが心配している。僕だって・・・もし、万が一の事があれば、ウィックだって辛い想いをする」

 コップを持つカリクの手は震えていた。

「今回、俺が飛んで、それでこのイベントは終わりにするんだ。その為にも成功させなくてはならない」

「飛ばない事でもそれはできないのか?」

 ニコフは首を振った。

「この町の祭りにどれ程の人が来るか分かるか?特に四年に一度のこのイベントに。今のこの町にそれ以外の何がある?その祭りも、段々と来る人が減っている。この町にまだ残った力がある事を来た人に見せ付けなくてはならないんだ。俺は、この町を流通の拠点にする計画がある。その為にはまだ時間が掛かるんだ。それまでにこの町を忘れ去られた町にしたく無いんだ。俺だったら飛べる。飛んで終わらせるんだ」

 ニコフのコップを掴む手に力が入っていった。

「知っているか、カリク?マルカブス・ムットの始まりを。・・・殺人ショーだ。四百年前のこの地域の領主が、自分に逆らった人間を高く建てられた櫓の上から民衆の前で突き落として処刑する事が始まったんだ。人々を恐怖と熱狂で支配する為に。時が経つにつれて塔は高くなっていった。そしてある時酔狂な領主が、咎人の腕に切り取った鳥の翼を括り付けて、飛べて生き残れたら罪を許してやると言った事から、マルカブス・ムットは始まったんだ。単なる公開処刑から残酷な見せ物に変わったんだ。わざわざ罪人を遠くから連れてきて行なった事も、ただ領主の馬車の前を横切っただけでその対象にされた例もある。旅をしながら調べたんだ。調べれば調べる程、吐き気がした。戦争中も兵士の娯楽の為、続けられた。捕虜が何百人も犠牲になっている。戦争が終わっても、祭りの行事として人を集める為に行われている。咎人から英雄にすり替えられ今も尚。だから、ここで断ち切らなけれなばならないんだ。飛べば、俺は一時英雄として扱われるだろう。そこで、俺の計画を話せばきっと賛同してくれる人々もいるはずだ。マルカブス・ムットの廃止もきっと分かってくれる」

 カリクは、ニコフの話しを聞きながら口元を歪めていた。

 ニコフは、カリクの様子に気が付かず、手に汗を握り熱弁した。ニコフは、自分が決意してやろうとしている事はカリクもまた同じ様に思い、感じてくれると今尚信じていた。

 パチリと音を立てて熱風に舞い上がった火の粉は、暗闇の中に踊り消えていった。

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