旅の終着と春告げの花
十三
カリクが身を覚ますと、薄暗い部屋に居た。潮の香りもせず、揺れても居ない様子だった。いや、微かに揺れている感覚が身体に伝わってくる。それは、残感覚であったがカリクは、今も揺れているのだと認識した。
身体が上手く動かせず、薄暗い部屋を目を凝らして視線だけで確認しようとした。視界はぼやけていてよく見えないが、柱も壁も薄汚れ手入れが行き届いては居ないのが分かった。しかし、どこか安心感を感じさせた。それは、この部屋に漂う土の匂いだとすぐに分かった。窓のカーテンの隙間から光が差してきて、室内に細い光が入ってきた。それでようやく、この部屋がカリクの実家の寝室だと気が付いた。
しかし、何故ここに?海の上にいた筈だ。と言う疑問にカリクの思考はすぐに答えを出せなかった。
胸を押さえつける様な苦しさが彼を襲い、吐き出す様な咳が喉から吹き出した。涙と鼻水が流れ出し、ひゅうひゅうと呼吸が音を立てた。苦しみに両手の指で胸を掻きむしる様に服を掴んだ。
「・・・カリク!」
カリクのその体を包む様に抱き留めた温もりが、背中を優しくさすった。カリクは、少しだけ身体が落ち着くのを感じた。
「水、飲める?」
呼吸を整えながら頷くカリクに、ガラスに注がれた水をそっと持たせてくれたが、手は震えガラスすら持たなかった。グラスを持たせてくれた手は、カリクの手を包み込み一緒に支えてくれた。そしてそのまま、グラスを口に運ぶのを手伝った。
こくりと、少しだけ水を喉に流し込んだ。しかし、同時に咳が漏れ水の殆どを吐き出してしまった。
「気にしないでゆっくり飲んで」
と、温もりは優しく促した。
カリクは、助けを得て再び水を喉に下した。水がすっと身体に染み込むのを感じた。
涙が溢れた。
カリクは、グラスを一緒に持ってくれている手を引き寄せる様に胸に寄せて泣いた。
「ごめん。アニル・・・」
カリクの手を支えていた手は、そっと彼を抱きしめた。
「ありがとう・・・」
カリクは、抱きしめてくれたアニルの肩に頭を預けた。
「おかえり、カリク」
「ごめん・・・ごめん・・本当・・に・・・」
カリクは、帰ってきた事を知った。
ニコフとカリクは、ボドゲイルの商船団に乗船し、一週間後に西国のタボサ連邦国に到着した。
船旅の中、カリクは終始船酔いとの闘いに抗うこともできずに敗北した。ニコフもまた二、三日は船の揺れに慣れずに酔いを経験したが、その後はけろりとした顔をしていた。カリクは、ハンモックの中でそんなニコフを羨ましくも恨めしくも思った。
タボサ連邦国は、宗教を同じくする四十程の部族が集まり出来上がった国で、首領同士の議会により国の方針が決まる以外は、それぞれの部族ごとで統治されている。船の着いたランラッタは、交易で豊かになった部族で他国に寛容であるが、他の部族はそうとは限らないらしい。
このランタッタには、カーナディア語を話す事が出来る者も多く、ひと月の滞在期間中メッテと言う男が、二人の通訳として付き添ってくれた。
ボドゲイルの商船団は、ここで香辛料と茶を大量に仕入れる事になるらしい。その見極めに二人もついて回った。作物の事となると、カリクにも興味が湧き農村出身のメッテとも話が合い、いろいろな事を聞く事ができた。
ひと月の間に品定めと価格交渉、積み荷を終えると、今度は船は南下してヘルナードに向かう航路を取った。ヘルナードの港町バルカッニの更に南西にある港ライナコートと言う港湾都市に向かった。バルカッニを経由する二週間の船旅であった。
そこでのひと月の滞在期間中にニコフとカリクは、高熱に見舞われた。そこまでの慣れない船旅の疲労の蓄積と、気候の変化に身体がついていかなかった事が原因だった。カリクはその事で、肺病を悪化させる事となったが、ニコフに詳しい病状を打ち明けることは無かった。
二人の熱が落ち着いたのは、十日後の事だった。
ライナコートは、この国最大の都市で都市中央には王城が威光を示している。豊かで美しい街並みの至る所に、女王の彫像が立ち人々の敬意を受けていた。人々は、女王を神の様に崇め膝をついて祈りを捧げている。それだけ絶対的な存在としてこの国を治めていた。
カリクもニコフもこの都市の美しさに心奪われた。
商船団は、この国での商談は行わなかった。と言うのも、ここから東側に回り込み、数々の島が連なる国、ナッツヘルムに行く事が目的だった。
ナッツヘルムの幾つかの島では金の産出が有り、その取引の為であった。問題点も多く、一つは天候が非常に不安定である事ともう一つは海賊が横行している事だった。ライナコートでは、対応策として護衛を雇う事になっていた。
ライナコートを出た商船団は、三隻の護衛船を含めた八隻の船団となり、大小百二十もの島々の中を三ヶ月間渡る事となった。
カリクは、船の旅に少しは身体が慣れてきたものの、天候の悪い日の荒れた波に揺られては、体調を崩す事となった。熱を出してから持病の悪化も著しく、三ヶ月の間にも何度も熱を出し、咳に苦しんだ。
「大丈夫か?」
天候が回復し、穏やかな日が続き何とか甲板に這い出してきたカリクをニコフは気遣った。
「あぁ、何とかな」
カリクは、そう言って穏やかな波に光る夕陽を眩しそうに見た。目を細めて眺める景色は、見たことも無い程美しかった。
「綺麗だな」
カリクが言うと、心配して曇った表情のニコフの顔に少し光が差した。
「俺たちは、この景色を見るために生きて来たって思える。俺は、お前とこの景色が見れて本当に良かった」
カリクは、同感だと頷いた。その胸が波打ち咳が溢れた。ニコフの前ではなるべく我慢しようとしていたが無理であった。
「カリク。無理してないか?」
「大丈夫。胸の病は昔からだろ。慣れてる。じきに良くなるさ」
強がるカリクにニコフは、そうだなと辛そうに笑った。
「メニアが生きていたら、一緒に見られたのにな」
カリクは、寂しげに笑った。
「俺は・・・」
ニコフは、カリクの事を見る事ができなかった。言葉の先が何処に行くのかも自分でも分からず宙に浮いたままだった。
「僕はメニアの事が好きだった」
「・・・あぁ・・・」
「ニコフ、お前もだろ」
「すまん・・・」
ニコフは、甲板の手すりを掴んだ指先に力を入れた。
「何で謝るんだ」
「・・・助けられなかった・・・手は届いた筈なのに・・・」
ニコフは、涙を必死に堪えていた。ずっと言えなかった懺悔の言葉だった。
「アニルが川に落ちるのを止められなかった僕の責任だ」
カリクの後悔だった。そして言った。
「僕たちの罪だ。一生償うことの出来ない罪だ」
カリクは、ニコフが自分を責めていることに気付いていた。あの町をコルトスを出る事を決めたのは、その所為だとも気付いていた。
ニコフは、カリクの言葉に救われた。一人で背負う覚悟をしていたものを一緒に背負うと言ったカリクに救われた。
ニコフはようやく泣いた。大声を上げて友に縋って泣いた。
事態が変わったのは、ナッツヘルムからライナコートに戻る航路であった。急激に天候が変わり、大きな嵐の渦が船団を襲った。海面は大きく揺れて、風は渦巻き船の進路を阻んだ。既に島を離れていた船団は、座礁を恐れ一旦沖に出たが、大きくうねる波は船が何処に有るのかさえ分からなくさせた。船員たちも、これまで以上の嵐に対応するために雨風の荒れ狂う激しい甲板で必死の作業をしなくてはならなかった。そしてこの嵐の中で四人の船員を失う事となってしまった。
カリクは、激しい揺れの中で体調を悪化させ、高熱を出していた。船医も十分な対処ができず、カリクは意識を失い死線を彷徨った。
数日後、嵐が収まるとこの機会を待っていた海賊が、ここぞとばかりに襲いかかって来た。全速力で振り切ろうとするが、疲弊した船員たちに余力は少なく、二隻の船が捕らわれ積荷と船員を失った。護衛の船もまた一隻、沈められてしまった。命からがらライナコートに辿り着いた残りの船は、修理と補給が必要であり、疲弊した船員たちの治療と休息にも時間を必要とした。
病状を悪化させたカリクの体調は、ライナコートの治療院に運ばれたが、一向に回復する兆しを見せなかった。それどころか、意識は戻ったものの免疫の低下した事が災いし、この土地の病気で有る赤痢熱に罹患してしまった。衰弱が激しく、本来なら治療を行えば一週間程で回復する病だが、ひと月後の出航の日も血は止まらず立ち上がる事すらもできなかった。カリクをこの地に留まらせて治療を行なうべきか話し合われたが、本人の意思で乗船する事となった。船医の治療の下、西国に渡り本来ならひと月滞在して、南国での商品の売買を行う予定であったのを一周早めて母国への帰港となった。カリクの赤痢は、回復したものの体力の低下著しく、肺病は彼の体を弱らせていた。呼吸するのもままならず、息をする度にか細くびゅうびゅうと音を立てた。頬はこけ、唇はカサつき、目は落ち窪んでいた。船医は、帰国までもたない可能性をニコフに伝えていた。
港に着くとニコフは、ボドゲイルに報告もそこそこに馬車にカリクを乗せて、街道を直走った。カリクの意識は、その時は殆ど無かった。ニコフの呼びかけにも殆ど反応せずに、薄らと開いた目は何も見ては居なかった。
せめて、故郷へ連れて帰りたい。それがニコフの願いだった。町に留まらせて治療を受けさせる事を皆が提案したがニコフには聞こえなかった。故郷に帰さなければいけないそれだけが彼の行動を支配していた。自分が誘った事で無理をさせてしまった事をニコフは強く後悔していた。カリクの持病も体が強くない事も知っていた。それなのに自分の我儘に付き合わせてしまったと、激しく自分を責めた。このままでは、メニアの時の様に指の間を大切な人の命が溢れて行ってしまう。それだけは絶対にダメだとニコフは涙でぐしゃぐしゃの顔を拭った。馬の為の休憩以外は、ニコフは止まる事なく進んだ。食事もあまり喉を通らなかった。カリクに食べさせる為にゆるい粥を作ったが、殆ど戻してしまい食べてはくれなかった。とにかく、カリクを帰らせる事が第一だった。彼の診察をよくしていた町医者に診てもらわなくては。彼自身にも旅の疲れが溜まっているのにもかかわらず進んだ。そう、ニコフの身体も既に限界寸前だった。
四日後の夕暮れ、ニコフの馬車はコルトスの町に入った。
馬車はそのまま町を抜けて、東側のカリクの家に向かった。夕食の支度をするこの時間だったが、見えたカリクの家には明かりが灯っては居なかった。扉を叩くが、反応は無かった。が、扉に鍵は掛かっておらず、引くと扉が軋んだ音を立てて開いた。家の中は、夕暮れの日が入るだけで暗かった。
ニコフは兎に角、カリクを部屋に抱き抱えて連れてゆき、寝室のベッドに寝かせると、ストーブに火を入れた。静かな部屋の中に炭が燃える音が鳴った。
部屋が暖まるのを確認すると、ニコフは町医者の元に急いだ。幼い頃からカリクを見ているかかりつけの医者だ。カリクの体をよく知っている筈だ。
夜のとばりが降り始め、町の家々には温かい光が灯り始めていた。ニコフには帰郷した安心感や温もりは微塵も感じられなかった。不安と焦燥感が心を支配し、真っ暗闇を何処に続くかわからない架け橋を渡る気持ちだった。
医者の家を訪ねると、見知った医者が顔を出し、ニコフを見ると驚いた顔でハグした。骨折したニコフを半年近く治療した彼にはニコフは息子の様に思え、この町を出た彼とカリクの身をとても案じていた。
ニコフは、医者を引き離す様にその腕を掴んだ。
「カリクが大変なんだ!親父さんも居ないし、早く来てくれ!」
必死の表情で懇願する少年の顔は、疲労と焦燥で影が濃くなっており年老いて見えた。
町医者は、目の前の少年の事も心配でならなかったが、カリクのその名を聞いて、その表情は曇らずには居られなかった。
「すぐ行こう。君はここで温かいスープを飲んでからゆっくり来なさい」
「嫌だ!僕も戻る!早くしてくれ!」
ニコフは、体全体で駄々をこねる様に拒否すると、町医者を急かした。
「すぐ支度して行く」
ニコフと町医者がカリクの部屋に到着すると、直様診察に取り掛かった。町医者がカリクの状態を診て居る間、ニコフは、湯を沸かすように指示された。
ニコフが台所で湯を沸かして居ると、ニコフは疲労ふらつき立っていられず椅子を引き寄せて座った。ケトルを炙る火を見て居るとニコフはうとうととし始めた。そこへ入り口のドアをノックする音が聞こえた。ニコフは、立ち上がろうとしたが、うまく立つ事ができなかった。椅子の背もたれとテーブルに手をついてようやく体を持ち上げると、ニコフは自分がどれだけ疲労していたのかその時になって気付かされた。
ニコフは、何とかドアに辿り着くとそこには、町医者の奥さんが居た。
ふらつくニコフに手を差し伸べて支えると、奥さんは彼を椅子に座らせた。そして、持ってきた荷物から小鍋を取り出すと、沸かしていたお湯の代わりにそれを火にかけた。かまどの薪をいじり火加減を調整し弱火にした。
町医者の奥さんは、椅子に座って辛そうにして居るニコフの髪を触り、額に手を当てた。そのままニコフの頭を胸に抱き撫でた。
「よく頑張ったわ。貴方はとても頑張った。今はあの人に任せてね」
愛おしい息子を労る様に優しい目で汗ばんだニコフの額を見つめて、心を痛めた。友人の少女を亡くした時もマルカブス・ムットに参加して大怪我をした時もこの少年は、彼女の知る限り強がって気丈に振舞っていた。そのニコフが、ここまで辛さを見せる事が今起きている。少しでも彼の力になってあげたいと奥さんは考えていた。
町医者の奥さんは、着てきた外套をニコフの肩に掛けてやると、温まった野菜のスープをニコフに出した。ニコフは、少し躊躇いがちに食べ始めたが、すぐに完食してお代わりをした。そして、身体が暖まるとすっと吸い込まれる様に眠りに落ちた。奥さんは、椅子を並べて置くと、ニコフの体を横たえてやった。椅子は四つしかない為、足までは乗せられないが上半身は横になれた。ここ一週間でようやくニコフは横になって眠った。
翌朝、ニコフが目を覚ますと、町医者がテーブルに朝食を用意していた。
「目が覚めたなら、椅子を一つこちらにくれないか」
冷たい空気が掛けられた毛布の隙間から流れてきたが、温かな茶の香りが彼の空腹を誘った。
起き上がったニコフは、茶の香りに意識が覚醒するとカリクのベッドがある部屋に顔を向けた。
「カリクは、大丈夫。いや、まだ大丈夫と言い切れる状態ではない。しかし、はっきりとした意識はない様だが、薬を飲ませる事ができたし、呼吸も落ち着いてきて居る。先程、スープを少し飲んでくれた。彼は生きようとして居る。だから、君もしっかりと食事しなさい。とても酷い顔だ」
ニコフは、自分の顔を触った。それからこくりと頷き、茶を飲むとパンにハムを乗せ頬張った。口に広がるパンの香ばしさと甘みが、彼に生きているを伝えた。
頬を大量の涙が伝い、カリクが生きようとして居ることに感謝し、彼が回復することを心から願った。
町医者がカリクの様子を診に戻ると、ニコフは気づかれない様に外に出た。
朝の日差しが、彼を包んだ。そして、この町を再び旅立つ決意をした。
町医者の家とアニルの家に、カリクを頼むと短い手紙を残して馬車をセラネーサスに向けた。
十四
カリクは、泣いた。
父親が死んだ事を知った。
ニコフに置いてかれた事を知った。
何日も泣いて過ごした。
その間、アニルは側に居てカリクを抱きしめ、そして、一緒に泣いた。
彼女もまた、ひと月前に母親を亡くしたばかりだった。
そして、数ヶ月が過ぎていった。
「カリクは、これからどうしたい?」
夕食にシチューを作ったアニルがそれをテーブルの上で皿に盛りながらカリクに尋ねた。
カリクは、レードルから皿に流れ出るシチューをじっと眺めながら曖昧に笑った。
季節は、もうすぐ春になろうとしていた。しかし、まだまだ気温は寒く風に乗って遠くの雪が運ばれてくる事もあった。そんな中でもアニルは毎日の様にカリクの元を訪れて体調の心配や食事の世話を焼いていた。
アニルは、いつかカリクがニコフを追って居なくなってしまうのではないかと不安を感じていた。
「ねぇ、聞いてる?」
皿をカリクの前に置きながら、アニルは不機嫌そうに頬を膨らませた。
カリクは、アニルの顔を見てから匙を手にすると、少しだけ掬い口に運んだ。その熱で口内が熱せられ身体が強張ったが、優しい甘みと香りが鼻を抜け、喉を通過すると身も心も暖かくしてくれてカリクは自然と笑顔になった。
「もうっ」
と、答えてくれないカリクに不満の声を上げつつも、カリクの表情にほっとするのをアニルは感じた。ずっとこのままでいられたらとアニルは思った。
「美味しい。・・・僕は、アニルにいっぱい感謝してる。だから、アニルは僕がどうしたら良いと思うのか知りたい」
カリクは、ニコフの後を追いたい気持ちと戦っていた。それをアニルも気が付いて居ると感じていた。
「私は・・・分かんない。ずるいよ、その言い方」
アニルもその事を悩んでいた。今は、カリクの体調が本調子でないから、ニコフを追って町を出て行くのを反対はして居るが、元気になったならそれに賛成してあげたい自分も居た。彼女にとってカリクとニコフは二人で居る事が当たり前だったからだ。本来そこには姉のメニアも含めて三人でいて欲しかった。
それを壊したのは、自分なのだとアニルはアニルで自分を責めていた。彼女の母親を苦しめ死に追いやったのも自分だと責めていた。
だから、アニルが何かを望む事に躊躇いがあった。望んではいけないとさえ思っていた。
川で姉が亡くなってから、彼女の母親は心を患ってしまった。毎日遺体の無いメニアの墓に縋り付いて泣き、川をメニアを探して彷徨い歩き、風が家を叩けばメニアが帰ってきたと泣いて家を飛び出して町を走り回った。そして、姉がいない事を知ると自殺未遂を繰り返した。アニルは毎晩姉の死と母親の事を思って泣き、父親に死にたいと縋った事もあった。が、昼間は気丈に振る舞い世間と接した。アニルの心も擦り切れそうであった。父親は母親にとってもアニルにとってもこのままでは良くは無いと決心して、母親を西の都市の大きな療養所に預ける事にした。その父親の精神もすり減っていた。その所為なのか、今まで以上に仕事に打ち込む様になった。アニルの家族は、あの日を境にバラバラになっていってしまっていた。そんな中、カリクとニコフがアニルに何も告げずに旅立ってしまったのは、やはり自分が引き起こしてしまった事なのだと、そう受け入れてしまっていた。それから数ヶ月後、療養所の窓から母親が飛び降りて亡くなった連絡が入った。その場にいた人の話では、「メニア、そこに居たのね」そう言って窓を開けて飛び降りたそうだ。窓に映った姿を娘だと思ったのではないかとも言っていたそうだ。母親の葬式の日、夫と娘は泣かなかった。疲弊し魂の抜けた様な姿で、母親が埋葬されるのをただただ眺めていた。父親は、より一層仕事に打ち込み残った娘の事を顧みることはなかった。アニルは、変わらず表面上は取り繕う様に周りに振舞ったが、その胸に空いた穴に常に冷たい風が吹き抜けていた。限界が近付いていたのかも知れない。そこに、ニコフからの短い手紙が届いたのだった。アニルは、直様家を飛び出していた。カリクを抱きしめながら、カリクの声を聞いた時、アニルの心の穴にカリクの手が蓋をしてくれた様に感じた。
アニルが、辛そうにして居る姿をシチューを食べる手を止めたままカリクは申し訳なさそうに見ていた。
再会してアニルは知った。カリクもまた、姉のメニアの死に責任を感じて、自分を責めてアニルを気遣って居る事に。そしてそれは、ニコフも同じなのだと。
「冷めちゃうから、早く食べよ」
アニルは、カリクにそう言うと、この話はもうしない様にしようと考えた。
カリクの父親が亡くなったのは、彼が戻る一週間程前の事だった。独りになった事で、酒量が更に増えていたのだろう。傷んだ内臓を更に悪化させてしまい、その結果昏睡状態になり、治療院に運び込まれた時には既に息を引き取っていた。家族の居ないまま葬儀が行われた。
父親の財産は一時的に教会預かりとなっていた。その為、カリクが引き継ぎ、農業を再開するには一度教会に訪れその上で役場で手続きをしなければならなかった。
カリクは、弱った足腰を引き摺り土手道を教会に向かう為アニルと歩いた。雪解けの冷たい水が川を流れている。いつもよりも澄んだ水音を奏でている様に聞こえた。川の周りに広がる畑には根菜の葉が並んでいた。カリクは、作物の生命力にふと笑みが溢れた。早く畑を耕す事ができる体力を取り戻したかった。土手と畦道に小さな紫色の花がまばらに咲いている事にカリクはその時気付いた。確か、アニリマレアという早春から咲き始める春告げの花だ。と、カリクは花の名前にアニルの名を連想してアニルを見た。
「アニリマレアが咲くと、もうすぐ私は誕生日を迎えるんだ」
「そうか、おめでとう。アニルの花だったんだ」
「うん。メニアーデみたいに華やかさは無いけど、可愛らしくてとても強い花で、お母さんが一番好きな花だから私に付けたって言ってた」
「僕も好きだよ」
カリクは、アニリマレアを眺めて言った。アニルの誕生日にこの花を描いてプレゼントしようとカリクは考えていた。
アニルは、カリクの横で赤くなって俯いた。カリクが花を好きだと言った言葉が自分を好きだと言ってもらえた様な気がして嬉しかった。
教会へ行くと、僧が出迎えてくれ父親の話をすると快く財産や土地の権利を渡してくれた。カリクはその中から、幾らかの布施を渡すと礼を言って役場に向かった。名義の引き継ぎをする為だった。
一通りの手続きを終えると家路についた。これからは、大人として税金を納めなければならないし、自分で生活していかなくてはならない。カリクは、町を旅立つ時よりも重くそれを受け止めていた。
家に着くと、メニアが茶を淹れてくれた。カリクがそれを飲みひと心地着いていると、アニルが言った。
「カリクに絵を描いて欲しいの」
カリクは、どきりとした。アニリマレアの絵を描く事は彼のサプライズにして置きたかった。
「どんな絵?」
「メニアーデが綺麗に咲いている絵」
カリクは、呼吸を止めて考えた。毎年花が咲くたびに辛い思い出が蘇るのにそれがいつも見えていては、アニルは辛い想いをするのでは無いのだろうかと。そして、深く息を吐きながら首を横に振った。
「だめ?」
「だってメニアを思い出してしまう。きっと辛いよ」
「私はね、カリクの絵が好き。お姉ちゃんが好き。ニコフが好き。カリクが・・・好き。だから、辛いけど、受け止めたい。お姉ちゃんにこれからの私を見ていて欲しい。だって、お姉ちゃんとニコフとカリクに繋ぎ止めてもらった命だから。それを忘れない為にも。お願い」
アニルは、涙を流しながらカリクに伝えた。絵があれば、カリクがニコフを追って居なくなっても耐えられそうな気がした。
「分かった。描くよ」
「・・・ありがとう」
アニルは、涙を流しながらにこりと笑った。
「この間の話しだけど・・・」
「?」
「僕はここに居たい。・・・アニルの側に居ても良いかい?」
アニルは、止まらない涙を拭い続けた。何度も何度も頷きながら涙を手で拭った。
「メニアーデの花が咲いたら、一緒に花を見に行こう。お茶を淹れてパンを食べよう」
アニルは、泣きながら右手をカリクに差し出した。
「絶対の約束だよ」
カリクは、にこりと頷き、アニルの手を取り小指にキスをした。
その年のメニアーデの花は例年に増して満開だった。
風に舞う花びらに祝福される様にアニルは十四歳を迎えた。光の花の溢れる中で、カリクはメニアーデの花を描いた絵をプレゼントした。川辺に満開の光が溢れるメニアーデの絵だった。
二人は川には近付かずに花を見ながら茶を淹れて飲み、パンと卵炒めを食べた。
「これ、見て」
と、アニルは大事に布に包んだ紙をカリクに見せた。それは、あの日カリクがスケッチしていたメニアーデの花の絵だった。
「この絵は、お姉ちゃんが私の命を繋ぎ止めてくれた証。カリクとニコフが必死に私の命を引き上げてくれた証。ごめんなさいと、ありがとうの証」
そう言ってから、カリクからプレゼントされた絵を手にして言った。
「これからこれは、私が生きる証。お姉ちゃん見ててねの証。・・・カリクは、その目で見ててくれなきゃ嫌だよ」
カリクは恥ずかしそうに頭を掻くと、分かっている、と応えた。そして、もう一つ用意していた包紙を取り出した。
「これは、僕からの気持ち」
そう言って、包みを解きアニルに渡した。それは、アニリマレアが一面に咲く草原の絵だった。澄んだ青い空の下に紫色の花が鮮やかに風に遊んでいた。
アニルの目に濡れた光が輝いた。絵を手に取り、じっと見つめた後、カリクの右手を取り手のひらに頬を寄せた。
「嬉しい。ありがとう」
アニルの目から溢れた涙がカリクの手も濡らした。
カリクは、アニルの頬に触れた手の指先で目の端の涙を拭うとアニルを抱き寄せた。アニルの額に頬を寄せ、柔らかな髪にキスをした。
唇を離すと、すぐ視界の下にアニルの目がカリクを見ていた。優しく潤んだ目がカリクの目を見ていた。
アニルの細い指先が、髪にキスした唇に触れてなぞっていった。そしてその指が耳を撫でた。頬に触れていたカリクの手のひらもアニルの耳を撫でてうなじに触れた。うなじに触れたカリクの手がアニルをより引き寄せると、アニルは目を閉じた。
二人はお互いの唇の優しい柔らかさに唇で触れ、お互いの暖かさを感じた。