散華は旅の始まりを告げる
十一
ウィックは、その遠くに白く見える川を目指して歩いていた。
母親が見知らぬ男といる所を目撃してから一ヶ月程経過していた。親子を噂する、周囲で聞こえていた声が、段々と刃を持ち始めている様にウィックは感じた。ウィックと母親に遠巻きの心配や同情を向けていた人々の声は辛辣なものへと変化していった。それは、母親が洗濯の仕事の傍ら男を誘っていると噂が立った事がきっかけだった。母親の事を売女や商売女など、陰で噂した。しかし、直接的な嫌がらせや虐めが無いのは、彼女の夫の事も有り同情的な心情が有るからだろう。とは言え、それは息子のウィックの耳に多少なりとも聞こえてくる程になっていた。町を歩いていて、同年代の子供にその類いの言葉でからかわれることも有った。が、言っている子供も言われている彼もその言葉の意味も不確かなままだった。それでも、ウィックはこの町で自分と母親を言い表す悪い意味の言葉が広がっている事は感じた。やり切れない怒りと苛立ちと哀しみが、彼をこの町から離れたくさせた。父親が恋しいと感じた。
ウィックの家の壁には、父親の描いた絵が幾つか飾られている。
草原を紫色に染める花の絵は、父親のカリクが何度も描いていた。毎年描いて、毎年違う絵を飾るのが慣わしの様になっていた。その中、それとは違うモチーフの一枚の絵は、常に見える場所にずっと飾られている。父親も母親も、その絵をとても大切にしていて、眺めては少し寂しい様な悲しいような顔をしていた。
その絵に描かれているのは、満開に咲くメニアーデの花であった。
ウィックもその絵が好きだった。美しい絵だからと言うこともあるが、その絵にはとても優しい気持ちが込められているように感じたからだ。春の陽だまりのように家族を見守っていてくれる気がした。
ウィック自身もメニアーデの花にも思い出がある。
毎年満開の時期になると、家族でティッティス川の近くまで弁当を持って花を見に行くのが恒例行事だった。毎年同じ様にパンと溶き卵の焼いたものが入っていた。食べ終わると家族三人で、お茶を入れて飲むのだ。蜂蜜を入れて飲むお茶がウィックはとても好きだった。
ウィックは、何時も不思議に思っていた。父親も母親も川の近くには決して近寄らなかった。それどころか、ウィックが川に近づこうとすると真っ青な顔をして、引き止められ怒られた。幼い頃からこの川に近づく事を禁じられ、この川に近付く事は今まで両親が居なくてもしなかった。
部屋に飾ってあるメニアーデの花の他にも、メニアーデの花を描いた父親の絵がある事をウィックは知っている。それは、母親が大切に保管している。ウィックと母親の二人だけの時に見せてもらった事があった。それはスケッチで、描いてある絵もようやく判別できる程汚れていた。しわくちゃになってしまったものを何とか伸ばしてある様だった。母親は、この絵を泣きそうな目で笑いながら、「とっても大切な絵なの」と、ウィックを抱きしめて頭を撫でた。
ウィックは、母親の表情を思い出し辛い気持ちになった。母親を否定する気持ちの端を幼い自分が掴んで引っ張るのだ。認める事のできない、母親に愛されたいと言う気持ちはまだそこにあった。その自身の整理し切れない気持ちのささくれを少しでも落ち着かせたかった。
ティッティス川の近くに来ると、メニアーデの花がウィックを包み込んだ。凄いとウィックは思ったが、一向に気持ちは晴れなかった。ウィックはそのまま川に近付こうと歩いた。しかし、川が見える距離まで来ると、ウィックの足は重くなった。じわりと汗が染み出し、気分が落ち着かない。それでもウィックは、足を進めた。何故そうしたのかは彼も分からなかった。何かを振り切りたい気持ちがそうさせたのかも知れなかった。
俯き気味になりながらも川岸にたどり着いた。目を上げると、川幅の広めの綺麗な川があった。只、それだけだと、ウィックは思った。
透明度の高い穏やかな流れに、風によって散ったメニアーデの花びらが静かに流れていく、只美しい景色がそこにあった。
ウィックは、メニアーデの木の幹に寄りかかって座った。濃い茶色の少しざらつく木の幹の感触が、とても心地よかった。春の日差しにうとうととしながら光る川面を眺めていたウィックは、いつの間にか眠っていた。
彼は、ほんの少し周りの雑音から解放された。
アニルは、手を伸ばしメニアーデの花びらを掴もうとしたが、幾つも振り落ちる花びらはみな彼女の手をすり抜けてしまった。
メニアーデの花びらは、風に流されてティッティス川の水面に落ちた。増水した川の流れはその花弁をスッと飲み込み、まるで無かったかの様に消してしまった。
カリクは、春風で舞う花びらを紙に写しとろうと手に持った鉛筆を動かしていた。もともと白い紙に光の化身の様なメニアーデの白い花を描くのは、風を手で捕まえるかの様に指の間から溢れるそれの痕跡をイメージで繋ぎ止めるしか無かった。口数の少ないカリクは、イメージを言葉にするよりも絵で直接描く方がロスが少ないと感じる程、紙と鉛筆を手にして来た。そのカリクの指先はその光をそっと捕まえて紙に宿していった。はたから見れば、そこに光あふれる木々がありありと見てとれたが、カリクは首を傾げ何枚目かのスケッチをまた始めていた。
アニルは、その横に座りカリクの描くメニアーデの木と目の前の満開のメニアーデの木々を交互に見ていた。アニルは、絵が描けるカリクの事をとても尊敬していた。思い通りに絵が描けることは何て不思議なのだろうと、カリクの鉛筆の先に見惚れてしまう。真っ白な紙の上をカリクの鉛筆で撫でると世界が生まれ、まるで元からそこにあった様にアニルには見えていた。
そのカリクの鉛筆が、時折止まる事があった。それはカリクが、ニコフとメニアがいる方に視線が行く時だった。アニルが盗み見たその時のカリクの目は、少し眩しげで哀しそうに見えた。その気持ちが、アニルには分かる気がした。アニルもニコフとメニアが一緒にいるところを見ると何だか胸が苦しくなった。ニコフがアニルの姉のメニアの事を好きなのは以前から気が付いていた。ニコフがメニアをどんなに優しい目で見ているのかアニルは痛いくらい知っていた。それだけニコフの事を見ていた。そして、自分の胸の痛みが何から来るのか理解していた。
「ニコフが好き」
何の前触れもなく口にした言葉にアニル自身も戸惑った。カリクにそれが聞こえなかったのならその方がいいと思ったアニルだったが、カリクの手が止まり横顔が強張るのが見えてしまった。
「あ、ち、ち、違う」
アニルは、咄嗟に否定したがあまりにわざとらしくなってしまい、赤くなって俯き膝に顔を埋めた。
カリクは、自分が告白されたわけでは無いのに耳まで赤くして目がどこを見ていいのか分からず彷徨っていた。それで、「あ、あ、いや、その、うん、うん?」と、聞こえなかったふりをするのか相談に乗るスタンスを取るのか選択できないまま、アニル以上に混乱していた。その姿にアニルは何だか笑えてしまい、膝に顔をつけたまま笑った。カリクは、あたふたしたままアニルが何故笑ったのか分からない顔で頭をかいた。人を好きになる気持ちは、たとえ自分のものでなくとも、そして、自分に向けられていなくても、こんなにも心の底をざわつかせるものなのだとカリクは知った。そして、恋を自覚して、揺れている姿はなんて愛おしいのだとカリクは泣きそうになった。
「違わない。私はニコフが好き」
「そうか・・・」
「カリクとニコフは、お姉ちゃんが好きなんだよね」
「え、あ、え?・・・」
「ばればれだよ」
「・・・そか」
カリクは、ほんの少しメニアとニコフの方を見てから、アニルを見た。アニルは、気持ちを打ち明けた事でスッキリした顔をしていた。そして、カリクと目が合うとにこりと笑った。
「私が、ニコフの事好きだって気が付いたのは、一年位前。雨が降った時に、ニコフの上着を二人で雨除けにして一緒に帰ったの。その時にね、どきどきしちゃって、好きだなって気付いちゃった」
カリクは、アニルの思い出しながらアゴに手を当て首を傾げる潤んだ表情に恋慕の情の美しさを見た。
「僕は、出会った時だと思う」
「うそっ。お姉ちゃんは、出会った頃のカリクは私の事嫌って避けようとしたって言ってた」
カリクは、まいったなという顔で鼻をかいた。
「うん。確かに避けようとした。あの時ニコフを取られる気がしたから。でも、最初会った時から、あの真っ直ぐな目に心を掴まれたままなんだよ。とっても綺麗な目だなって。自分がこんな気持ちになっちゃうのだから、ニコフだってって。そしたら、案の定いつの間にかニコフもメニアの事を好きになってて」
「いいの?」
アニルの問いかけにカリクはぴんと来なかった。
「カリクは、ここに居て。今、ニコフとお姉ちゃんと二人でいるんだよ。カリクはそれでいいの?」
ああ、成る程と、カリクは気付いた。アニルは、僕が自分の気持ちを殺して辛い気持ちになっているのでは無いかと心配してくれているんだ。と。
「僕は二人とも好きだから、選べない事に気付いたんだ」
「嘘つき。だったらどうしてそんなに辛そうにしてるの?気になって仕方ないって顔してる。カリクって優しいけど馬鹿なんだ」
「年上に向かって馬鹿は酷いよ」
カリクは、苦く笑って言った。プイッとそっぽを向いたアニルの横顔は怒っていた。
「じゃあ、これは私の我儘。カリクがお姉ちゃんとお付き合いして」
「それは難しいよ。僕なんて」
「私の我儘。私の為なの」
アニルは、怒った目でカリクを見た。
「僕なんてなんて言っちゃだめ!だってこんなに素敵な絵が描けるカリクを、私はとても魅力的な人だと思ってる。少し面倒臭いけど、とっても優しいし」
「面倒臭いは、余計じゃ無いかな?」
アニルの言葉はカリクにはとても嬉しかった。でも、ニコフと比べる自分はとても見窄らしく思っていた。だから、二人を見守る事が最善だと思っていた。確かに、アニルが自分の想いを成就させる為には、カリクとメニアでなくてはいけないのだ。カリクは、アニルの真っ直ぐな瞳に姉妹なんだなと改めて感じた。
「私は、カリクが素直になれば良いだけだと思っているよ。だってお姉ちゃんは・・・」
カリクは、アニルの目を見たまま逸らせなかった。その瞳が、少しだけ揺らぐのを見た。
と、二人の間を一陣の風が吹き抜けた。
風は、アニルの肩までの髪を瞬間的に乱暴に乱し、アニルは髪先が目に入らぬ様に右目を閉じ、左手で髪を手で押さえた。カリクは、風に煽られ波立つ紙を押さえた。しかし、突然の風にカリクの反応が遅れ、その手の下から何枚かの紙が舞い上がった。
「あぁ」
カリクは声を上げたが、追うつもりは無かった。だが、アニルは違った。アニルは、咄嗟に右手を伸ばし紙を掴もうとした。それは指先に触れたもののすり抜けてしまった。しかし、もう一枚の紙がアニルの目に入った。そこに更に手を伸ばした。中指と人差し指の間に紙を挟む事ができた。アニルは、「やった」と心の中で声を上げた。が、アニルの体は、岩の上から離れていた。紙に意識が行きすぎて自分の足場が疎かになってしまっていたのだった。カリクは、目の前で岩から体を投げ出して彼の描いた絵を掴むアニルが川に落ちそうになるのを見た。なんとか手を伸ばしてその体を掴もうとしたが、その腕をすり抜け、アニルの体は川の中に吸い込まれて行き、水飛沫がカリクの目を襲った。
「アニル!!」
必死の声を上げるカリクの目の前に紙を掴んだ腕が水面に出た。それと同時に頭が出た。その目はカリクに助けを求めていた。カリクは立ち上がり、流されるアニルを追った。
何か長いものを探さなければ。飛び込んだところで、泳ぎが苦手なカリクにアニルを引き上げる術はない。とにかく走り、辺りを探った。太く長い木が落ちているのを先に見つけた。カリクは必死で走り、それを持ってアニルの流される先に早く行かなければならなかった。
「メニア!?」
ニコフの声が聞こえた。
カリクがそちらを見ると、スカートとシャツを破り捨てる様に脱ぎ捨てたメニアが、川に飛び込んだ。そのすぐ後をニコフが追って川に飛び込むのも見えた。
「アニルゥ!!」
濁った川の中で、メニアは沈みそうになりながら妹を呼び探した。気を抜くと川底に引き込まれそうになる流れに流されながら見回した。重い川の濁流は容赦なくメニアに牙を剥き、何度も水を飲んだ。息継ぎと咳き込みが同時に起こり、メニアの息はままならなかった。何としてでも妹を助けたいと言う気持ちがメニアに力を与えていた。その腕をニコフが掴んだ。
「メニア戻れ!危険だ!」
しかし、メニアは必死の形相でその手を振り払い、妹の名を呼んだ。
その時、カリクの持った木の先にアニルの服が引っ掛かり、アニルは何とかその木の先に掴まることができた。物凄い荷重がカリクの腕に掛かってきた。カリクは、両腕で木を掴み脇で抑え何とか耐えていた。しかし、アニルの手は流れに押されて木を掴んでいられず、離してしまった。
再び流れ出したアニルの体をメニアが抱きとめた。
「カリク!もう少し先に行け!・・・俺が・・二人を!」
ニコフが叫ぶのが聞こえた。
「分かった!」
カリクは、叫び応えると木を持ち上げ、再び走り出した。川に目を向けながら息も絶え絶えになりながら走った。その目にニコフが二人の所に辿り着くのが見えた。
カリクは、筋肉疲労で震える手足を奮い立たせ、がっちりと木を持つと川に伸ばした。ニコフたちが流される先に木を持っていくが、川の流れに押されて維持する事が難しい。木は流されて、岸の方へと押しやられてしまう。それでも何とか踏ん張って持ち上げると、三人の頭が見える先に木を下ろした。アニルを抱えるメニアの腕を掴んだニコフの反対の腕が木を掴むのが見えた。荷重がかかるのをカリクは、必死で耐えた。木を掴む手のひらに折れた枝の根元のささくれが食い込み血が滲んだ。それでも歯を食いしばった。
メニアの腕が、木を掴みそこにアニルを寄せた。川の水を飲み意識を失いかけたアニルは、それを掴めなかったが、ニコフがその体ごと木にしがみついた。カリクは、限界に近付いていた。水に流されながらも何とか木を引っ張り、岸に寄せて行った。ニコフもメニアも力は残っていなかった。
何とかニコフの腕が川岸の草を掴む事ができるところまで来ると、ニコフとメニアはアニルの体を押した。カリクは、木を引き寄せアニルのぐったりとした体を引き寄せ、そのままニコフの腕を掴んだ。カリクとニコフとアニルの体が川岸に上がる事ができた。ニコフは、メニアを掴んだ腕を引き上げようとした。
メニアは気を失っていた。アニルを押し上げる事で力を使い果たしてしまっていた。ニコフの腕を掴んでいた手から力が抜けて、ずるりと滑り落ちた。ニコフは残った力を振り絞りその腕を掴もうとしたが、ニコフの腕にもその力が残っていなかった。咄嗟にそこに伸ばしたカリクの手にももう力は残っていなかった。力を失ったメニアの体は川の流れに逆らうこともできずに沈んで行った。
「「メニア!!」」
二人は、悲鳴を上げた。
ニコフは、川に入ろうとしたが、アニルの体を支えていてそれができなかった。できたとしても、力なく一緒に流されるだけだったろうが。
カリクは、二人を何とか引き上げると、すぐさま走り出した。木を持つ力は残されてはいなかったが、立ち上がる事はできた。
「メニア!メニアァ!メニアァァァ!」
声を上げ、水面を探したがメニアはどこにも見当たらなかった。走り続け声が出なくなるまで探し続けたが、どこにも見つけられなかった。
膝が崩れ、倒れながらカリクは、メニアの名前を泣き叫んだ。
十二
ニコフは、馬車の御者台に座り街道を走らせていた。カリクは、荷台の幌の中で横になって押し寄せる不快な吐き気に青ざめていた。
二人が町を出発して一週間が過ぎていた。もう少しでセラネーサスの港町に到着する。そこの商人に南国の織物の取引する予定だった。それは、ニコフが親方であるカナークから餞別がわりに渡されたものだ。彼の好意で先方とも取引の話は付いている。ニコフに人の繋がりを与える事が一番の餞別だった。相手のボドゲイルと言う商人は、幾つも船も所有しており、国内外に取引先を持っている。セラネーサスでは、ある程度名の知れた商人である。そして、ひたむきな若者の力になりたいと考える懐の深さもある。とは言え、商人としての誇りと信念は熱く、仕事は厳しい。だからこそ信頼のおける人物と言えた。ニコフは、ボドゲイルの人となりを聞いていた。だからこその緊張感が彼を震わせた。お膳立てされた事とはいえ、初めてのビジネスに失敗は許されない程の相手だ。これが上手くいかなければ、この先は商取引の仕事を続けるのは難しいかも知れない。それも含められたカナークからの最終試験だった。
一方、カリクは、慣れない馬車の揺れに初日から酔い、吐き続けていた。途中立ち寄った村で少しだけ体調を戻したが、再び馬車に揺れて酔ってしまい、今は町に到着するまで横になる事にした。初日よりはマシなのだが、すぐに立ち上がれない程気分は良くなかった。夢見た旅の始まりがこんな状態でカリクはニコフに申し訳が立たなかった。
「町が見えてきたぞ」
ニコフの声が、幌の中に響いた。
カリクは這うように御者台に近づいて行った。ニコフの肩の先に白色の壁の家々が見えた。
町の入り口でニコフは身分証と通行証を役人に見せ金を払い、許可証を受け取ると町の大通りを馬車で進んだ。観光目的なら何も必要無いのだが、この町で商売をする為には必要な事だった。許可証なく商売をすれば、捕まり罰せられる。許可証のない者と取引した者も罰せられるので、商人はお互いに緊張感がある。商売で無くとも、多額の買い物をする際には身分証を求められる事もあった。と言うのも、このセラネーサスは、通商の要となっており海外との交易の窓口でもある。密輸や密入国を取り締まる為に厳しく管理されていた。王都から兵士も派遣されている。
とは言え、セラネーサスの町は活気に満ちていた。コルトスの倍以上の規模があり、人口も三倍近く居るだろう。この町の大半を占める交易や商売が中心の商業地区、漁業が中心の漁民地区、人々の住む住宅地区と大まかではあるが分けられている。
二人は、商業地区の中心地であるサミラ通りにやって来た。ここは、大商店街で軒を連ねるのはこの町でも名の知れた商人がオーナーの店ばかりで扱っている商品の質も値段も庶民には手が出せない程である。
そこを走る馬車も歩く人も華やかで、カリクはその場違いさを感じ荷台に隠れた。ニコフの方は、緊張は見えるものの背筋は真っ直ぐ堂々としていた。
「こっちがビクビクし過ぎてした手に出たら、折角の商品も安く見られてしまう。だからせめて態度は堂々として居なければ良い商売は出来ない」
そう教えられたのだと言う。時と場合によって態度や顔色を使い分ける必要があるらしい。
そう言うものなのだろうかと、カリクは首を傾げた。畑の作物は、出来不出来で価格の変動は有るが、その時々の主に気象的要因による総合的な収穫量によっての変化が大きい。市場に持って行った際にせりは行われるが、ニコフの言うような駆け引きとは無縁に思えた。だが、確かに自信を持って出荷した作物が安く買い叩かれるのは辛く嫌だとカリクも思う。カリクも父親が価格が安い時には値段の交渉をしているのを見た事を思い出した。
「ここだ」
二人の乗る馬車は、大通りの商店の一つの前に停まった。ニコフは、馬車を降りて入り口に居る身なりの整った紳士に話しかけた。
ニコフは、紹介状と許可証と身分証をその男性に見せると、男性は興味深そうにカリクが顔を覗かせている馬車を見た。そして、近くの小間使いの少年を呼ぶと、何やら指示を出した。
「カリクはここで待っていてくれ。俺は、中で話を付けてくる」
ニコフは、そう言うと荷台の荷物を小間使いの少年に運ぶのを手伝う様に頼み、自身もその内の一つを持ち建物の中に入って行った。
カリクは、荷台から這い出し御者台に座った。酔いは随分と良くなっていた。風には港町特有の潮の匂いと魚の匂いが乗っている事に気付いた。
「コルトスとは違うんだ」
カリクは、今気が付いたかの様に呟いた。
ここに来るまでに幾つかの村に立ち寄って来たが、自分の身近な人たちと何ら変わらなく、故郷の延長の様な感覚だった。
街中で暮らしていたニコフは違うのだろうか?とカリクは、往来する馬車や人々を眺めながら考えた。そう言えば、最初に寄った村でニコフは「俺にはもう、帰る場所が無いから進むだけだ」そう決意を語っていたのを思い出した。多分あれは、コルトスから離れた事を自覚した言葉だ。引き返すことのできない道行に対する。カリクは、悲しいと思った。同時に自分にはまだできていない覚悟だ。コルトスを想えば父親の顔が浮かぶ。それが、ニコフには無いのだ。あるのは祖母の墓だけだ。家は既にカナークを通じて売却して、この旅の資金となっている。
この大通りは、馬車の行き交う内側と人が通る外側とで違う色の石が使われており、それにより区分けされている。その歩道側を数人の若い女性が連れ立って歩いて来た。カリクは、頬杖を突きその女性たちを眺めていた。歳の頃はカリクたちと変わらないくらいだろう。大人びた表情だが、幼さが見え隠れしていた。着ているものは皆派手ではないが、動くたびに揺れる生地は滑らかで軽やかだ。背筋は皆ピンと伸びて、躾と教育の行き届いた物腰で美しい。カリクは、そんな姿には心を動かされず、一年近く前に失われた少女の面影を重ねていた。
メニアが着たらきっともっと素敵なのだろうな。
スカートの裾を風に揺らし、自分の名を優しく呼ぶ愛しい少女の姿がカリクの心に現れた。その笑顔は、一つも陰る事なく今も彼の中にあった。そしてその姿は、いつも深い喪失感を連れてくる。
カリクの感傷的な表情をどう捉えたのか、女性たちはカリクの視線にクスクスと笑った。決して蔑む様な態度では無かったが、同年代の女性に視線を向けられた事に恥ずかしくなり、髪を弄る振りで顔を背けた。カリクは急に自分の姿が見窄らしく感じ、顔が赤くなるのを抑えられなかった。そして今自分がここに居る事の不自然さを感じた。周囲の目が自分を好奇の目で見ている様な錯覚に居心地の悪さが襲って来た。
早く戻って来い。と、カリクはニコフが建物から出てくる事を願ったが、少しの時間も長く感じられるのかいつまで経ってもニコフの姿は見えないままだ。
ニコフは、どう思って居るのだろうとカリクは考えた。町を出る事を誘ったのはニコフだ。今の所、ニコフの思い描いたプランの中にカリクは居て、カリク自身の目的も動機も無いままだ。旅の費用も蓄えの少ないカリクは、ニコフに頼らざる負えない状況になる。ニコフは、これからやる商売は二人の共同事業だと言っているが、実質ニコフの実績と能力によるものだ。畑しか知らないカリクには、ニコフのして居る事がどう繋がって行くのか見当もつかない。つまり、今のカリクは荷馬車の荷物でしか無いとカリクは考え始めていた。自分が居なければ、もっと物事が早く動く筈だし、実際カリクの体調不良の為に村に寄らなければ、二日は早くこの町に入れたし、滞在費や食費等の費用だって少なくて済む。商売を学んだニコフにその計算が出来ないはずがないとカリクは不思議だった。
カリクは、空を見た。故郷の畑から見た空と何ら変わりない空だ。違いがあるとすれば、建物の影が顔にかかり、光を直接感じられない事だ。カリクは、それが寂しいと思った。自分がこんなに寂しいのだ。姉を失い、二人の友人の居なくなった故郷の空の下でアニルは、どんな気持ちで居るのだろう。カリクは、アニルに何も伝えずにここまでは来てしまった事を後悔した。
「カリク、待たせたな」
空を見て考え込んでいたカリクにようやく戻ってきたニコフが声をかけた。
「あぁ」
少し反応が遅れて、カリクがニコフを見ると彼は先刻建物に入る際に話しかけた紳士と話をしていた。
「では、四日後の日の出の時刻にお待ちしております」
紳士は、そう言うとニコフと握手を交わした。
「よろしくお願いします」
ニコフは晴れやかな表情で応えた。
「そちらの方もどうぞよろしくお願いします」
紳士に話しかけられたが、事情が飲み込めずカリクは戸惑ったが、ニコフの商談がうまく行った様子に水を刺さぬ様、頷いて「よろしくお願いします」と、繕った。
ニコフは、馬車に乗り込み馬に鞭を入れると、カリクににんまりと笑顔を見せた。
「うまく行ったみたいだな」
カリクは、そう言ったものの他人事の様に言ってしまったと後悔した。
しかし、ニコフは気にも止めずに嬉しそうに笑うと、カリクの肩に腕を回し背中を叩いた。
「最高だ!宿に着いたら詳しく話すが、俺たちは世界を見られる!」
喜ぶニコフの横でカリクは不安を募らせた。
ボドゲイルの手配してくれた宿に着き、ひとまず二人は落ち着くと宿の食堂で食事を済ませる事にした。
質素な雰囲気の宿で、カリクはほっとしていた。良い宿を手配してくれていると聞いて、先程の通りを歩いている人たちが利用する様な宿だったら居心地が悪そうだと不安だった。ボドゲイルの手配してくれた宿は、漁民地区と商業地区との境目に有り、町が商業で栄える前からある宿らしい。建物のそこかしこに歴史が刻まれている。カリクは、実家に帰った様な安心感を感じた。
カリクは、この宿での食事に非常に驚いた。コルトスでは魚は川魚しか食べたことはなく、海魚は干物くらいしか見たことが無かったしそもそも高級品だ。しかしここでは、当たり前ではあるが、新鮮な海の幸が目の前に並んだ。それだけでは無い。料理に使われている野菜もこの土地の物で無い物もどれも新鮮だ。そして味付けに香辛料が多種使われており、どれもとても美味しいと感じた。コルトスでは、近隣に塩を生産できる場所もない為、塩の値段も高く淡白な味付けになりがちで、これ程までに味に広がりのある食事は初めてだった。
ニコフは、カリクの反応を嬉しそうに見ながら食事をしていた。彼は、カナークに連れられて幾つかの町を訪れていた。この町も一度だけ立ち寄った事があった。その時の自分を振り返りながら少し笑った。
「もっと流通が盛んになれば、物はいろんな場所に供給されるんだ。生鮮品は難しいとしても、加工品や香辛料がもっと身近な物になる筈なんだ。そうすれば世の中はもっと豊かになる」
「こんな美味しいものを頻繁に食べられる様になるなら嬉しいな」
カリクの素直な気持ちだった。
ニコフは、カリクが自分の考えに賛同した事に気を良くした。
「俺は、旅の中で繋がりを作って、ゆくゆくは会社を立ち上げたいんだ」
「会社?」
「そうだ。必要なものを必要としている場所に定期的に届ける。俺一人では、場所も量も限られてしまう。だから、何人もそれをする人が居れば、それだけ物が動かせる。今だって行商人は居るが、それでは物流の効率が悪すぎる。ボドゲイルさんも同じ考えだった。現状、主要都市への供給は滞り無いが、行き渡っているわけじゃ無いんだ。コルトスだって、主要な国道が通っているのにも関わらず、海産物は届かず塩も高価だ。馬車で数日の場所にこんなにもそれが有るのに。それは何故か。届ける人が居ないからだ。数が少ないから高くなる。だったら増やせば良いんだ」
「でも、それじゃ、高く売れないだろ?商売なら儲かったほうがいいじゃないか?」
「だから、沢山売るんだよ。一つ一つの儲けは少なくなっても、売り上げは高くなる」
「そう言うものなのか?」
カリクには、分からない事だらけだった。
「カリク、世界を見に行こう」
「え?」
「世界には、俺たちの知らない物が一杯ある。ここから海に出て、西の国に行く!」
「いや、でも・・・」
「ボドゲイルさんから、四日後に出港する商船団に乗船しないかと言って貰えたんだ。この目で海上物流の現場を見られるんだ。向こうの国も見る事が出来る。俺たちは、世界の入り口に立てたんだ。一緒に行こう」
カリクは、すぐには応えられなかった。それは、ニコフの力だ。僕のでは無い。そんな気持ちが心の隅からこちらを見ていた。しかし、爛々と輝くニコフの目に見つめられた状態でカリクに首を横に振る選択肢は無い様に思えた。
ニコフにまで置いていかれたく無い。
カリクの頬を、メニアの幻の指先がそっと撫でた。
カリクは、「行こう!」とニコフに応えながら、引き攣った笑顔をしているなと裏腹な自分に苦く笑った。
カリクの賛同を得たニコフは、嬉しそうに笑い、冷めた料理を旨そうに口一杯に頬張った。
カリクを誘いながらも、ニコフは不安だった。自分はやれると思いながらも、天涯孤独の身となってしまった彼はずっと目の前が暗かった。カリクと出会い、メニアと出会い、次第に足元に光が差したと感じた。二人が居たから夢を抱けたと実感していた。しかし、メニアを失い、ニコフは闇に心を囚われかけた。聞けなかった。メニアを助けられなかった事をカリクがどう思っているのか。だから、マルカブス・ムットに身を委ねてしまった。神は死を望むのか否か。自分では選べなかった選択肢を。翼を作り死に抗うイベントに。そして、やり遂げた彼が得た物は、彼を心配する親友の顔だった。彼と一緒だったら出来ると確信した。
ニコフは、カリクに言えずに居た事がある。メニアが、カリクを好きだと言った事を。伝えたら、きっとカリクは一生メニアの死を悼んで暮らすだろう。愛した少女を失った二人の絆がバランスを失ってしまいそうでニコフは怖かった。メニアを失った事よりもカリクを失う事を恐れている自分を知られたら、カリクはどう思うのだろうか?ニコフは、ここ迄の旅の間眠れなかった。
ニコフはその夜、朝が来るまでぐっすりと眠った。
カリクはその夜、朝が来るまで眠る事ができなかった。