その冬降り積もった雪は、春雷の前触れ
九
ウィックは、今までで一番大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐いた。
波打つ様に来ていた緊張の波形が次第に大きくなり彼を襲っていた。どくどくと心臓の鼓動が肋骨や胸の筋肉、首にまで響いていた。目の前の風景がぼやけているのか、それとも近くに見えているのか、それすらはっきりしなかった。極度の緊張が世界の平衡感覚をウィックから奪ってしまった様だった。
辺りは静まり返っていた。塔を見上げる人たちは、塔から距離を取り上を見上げ固唾を飲んだ。売り子の接客の声も駆け回っていた子供たちの声も止み、その場の緊張に呑み込まれていた。空には鳥の羽ばたく音が微かに聞こえるだけだった。
ウィックは、前に進めなかった。あと二歩は前に行かないと塔から飛ぶには遠い。助走を付けて走って飛ぶ方が良いのかも知れないが、それには距離が近いし、より怖いと感じた。そのウィックの背中をそっと手が当てられた。
「やめたって良いんだ。俺は君を責めたりはしないよ」
ウィックを塔の上まで連れて来た係りの男が、そう優しく言った。
ウィックは、泣いた。泣きながら首を横に振った。ウィックには、ここでやめるという選択は捨てたつもりだった。男にその選択肢を提案された事で揺らいだが、ここに来てそれは自分に許せなかった。ウィックは、振り払う様に一歩進み、もう一歩震える足をゆっくりと出した。風が強くなった。
塔の下では、ウィックの翼の影が見えた事が合図となり、音楽隊が開始のファンファーレを奏でた。
静まり返って居た世界に音が帰ってきた。期待の空気感がウィックにも流れてきた。
見上げる人々の視線の多くが期待よりも心配が強かった。それは、四年前の事を思い出した人々のものだった。このマルカブス・ムットが多くの危険を孕んだイベントだと気付いた人々が多く居た。しかし、ここに足を運び今塔を見上げているのは、その危険を含め目撃したいのだ。それを孕んだ偽善な視線は、冷たい風となってウィックの頬を撫でた。もう後戻りはさせないとその風は告げている様だった。
ファンファーレが止み再びの沈黙の中、ウィックは五歩ゆっくりと下がった。勢いを付けて風を捕まえようと改めて考えた。少しでも遠くへ飛びたいと思った。今広場で見上げている人よりも遠くへ。
ウィックは、大きく息を吸い、目一杯腹に息を溜めると、「うわぁぁぁぁ!」と、大きな声を出して走り出した。
十五歳のニコフは、両腕を目一杯広げ、助走を付け大声を上げて飛び出した。
背中の翼が風を受けて膨らむのが分かった。体が少し軽くなる。行ける。と思った瞬間に丁度塔の端を足で蹴る事ができた。翼が風に乗り、体を運んでくれるのが分かった。両足を目一杯に広げた。そうする事で、ズボンの足と足の間に縫い付けた帆布が広がり、風を受けた。その事で少し両足が持ち上がり飛行のバランスを取りやすくしてくれる気がした。
ニコフは、だんだん下に落ちて行く。しかし、それでも何とか滑空し前に進んでいた。塔を見上げて居た人々の頭の上を越え、大通りを抜けて行った。その中、ニコフはただ必死にぐらつく体制を安定させる事にだけに意識を集中していた。少しでも傾いた状態を戻せなければ石畳や建物に激突して大怪我を負ってしまう。高度は下がって、十六フィルク(約七メートル)程になって居た。後、約三メルス(約千五百メートル)で町を抜ける。そこまでは行きたかった。
ニコフは、体中が汗で濡れて居た。これ程までに筋力と体力を必要とするとは考えても居なかった。このままではいつ落ちて大怪我をするか分からない。怪我ですまないかもしれないと過った。しかし、何とか保って行くしかなかった。
ぱき、ぱき、と右側の翼が音を立てているのが、振動と共に伝わって来た。何処かが負荷に耐え切れずに亀裂が生じたのかも知れない。しかし、この状況では対処できる訳もなく祈るしか無かった。何とかもう少し持ってくれと、ニコフは町の切れ目を見つめた。
高度は十フィルク(四メートル半)まで落ちてきた。町を抜ける迄、半メルス(約二百メートル強)。ここに来て、ニコフは、焦った。このままの勢いで地面に着いたら、一体どうなってしまうだろうと。速度を落とさなければ。ニコフは、ほんの少し翼の角度を上に上げた。体が少し上がった。それと同時に足を下向きに微調整した。風の抵抗を受け、少し速度が落ちた。行ける。とニコフは思ったが、右側の翼が悲鳴を上げている。何とか騙し騙し行くしか無い。町を抜ければ草原がある。多少のクッションになってくれる筈だから、そこを抜けたら減速させよう。と、考えた。
町の端を抜ける直前、ニコフはここだ!と減速させようと翼の角度を変えた。その瞬間に風が変わった。通りを抜ける向かい風は、両脇の建物で制限されていたが、町を抜けると建物が無くなり急に開ける。そこの風の流れは、通りの風とは違っていた。ニコフの翼は、角度を変えた事により強くその影響を受けてしまった。変えなければそれ程受けなかったかもしれない。その衝撃で限界を迎えていた翼が崩壊した。勢いは少しだけ緩和されはしたが、ニコフは右側に急旋回する様に草の上に落ちた。
「ニコフ!」
町の外で待機していたカリクが、地面に投げ出された親友の安否を心配して駆け寄った。不安で真っ青な顔で。その後ろではアニルが両手で顔を覆い悲鳴を上げていた。
駆け寄ってくる親友の声に、ニコフは左手を上げて手を振った。
地面に落ちた時の衝撃で、ニコフは折れた翼によって右腕に裂傷を負い、両足は骨折していた。
広場では、町を越えて飛んだ英雄に対して賞賛の歓声と音楽が響いていた。町の外では、救護班が慌てて担架を担いでニコフの元へと走って行った。
「旅に出ようと思う」
ニコフがマルカブス・ムットで飛んでから半年が過ぎた頃、カリクにそう言った。
折れた両足も治り、歩ける様になって居た。腕の傷も浅い所は塞がっていた。二の腕の所は深く傷跡が残ってはいたが、日常生活には支障は無かった。
ニコフは、かなり前から旅に出る事を決意していた。きっかけは祖母の死が大きかった。ニコフが十四歳になる年の冬に風邪を患い、そのまま亡くなってしまった。かねてより心臓の機能が低下する病気に罹っており、それが悪化したのが死因だと医者は言っていた。祖母を亡くし、ニコフは独りになってしまった。それが、彼を世界を見て回りたいという夢に向かわせた。マルカブス・ムットに挑戦したのも、気持ちの踏ん切りを付けたいという事が要因の一つであった。もっとも、それ以外の気持ちの方が大きくはあったが。
祖母が亡くなってからニコフは、学校を辞めカナークと言う商人の店を手伝いながら、商売の勉強をしていた。いつか両親の様に旅をしながら商売をして生きて行きたいと考えていた。
カリクは、十五歳で学校を卒業して、今は本格的に父親の元で農業を学んでいた。父親の体調がこの所良く無い為、作業の殆どを一人でやっていた。父親の体調不良は、酒の量が原因だった。妻を亡くしてから、その悲しみは癒える事なく酒に頼ってしまっていたのだ。今では、内臓を壊し土色の顔で仕事をしていた。
カリクの仕事がひと段落して、休んでいる所へニコフが現れた。
「そうか」
カリクは、内心動揺しながらも隣に立つ親友を見上げて言った。それは、いつかは訪れると分かっていた事だった。
「一緒に来ないか?」
ニコフが言った次の言葉にカリクは、強く動揺した。
逆光の中、手を差し伸べる親友に目を丸くした。そして、少し考えた後、目を逸らした。
「僕は行けない」
不貞腐れた様に呟くカリクにニコフは、右手でその頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「じゃあ、来てくれ。行きたくない、じゃ無いんだろ」
「行きたくない」
「嘘つけ」
カリクは、声を殺して泣き出した。心が苦しくて泣いた。ここから連れ出して欲しいと思っているのは彼自身だった。メニアの居なくなってしまったこの町は、悲しみに溢れている。そしてニコフも居なくなってしまうのならば、その悲しみを分かち合い慰めてくれる者は居ない。
「俺と来い。ここにこのままの居たら、俺もお前も壊れてしまう。俺との約束を果たしてくれ」
ニコフは、泣いているカリクの頭をぽんと叩いた。
「二日後の夜明けに出発する。西側の町の入り口で待ってる」
そう言うと、ニコフは戻っていった。
二日後の夜明け、カリクは荷物を背負い西側の入り口にいた。
まだ明け切らぬ薄闇の中に馬車の車輪と蹄が石畳を進む音が聞こえてきた。それはカリクの前に停まった。
「よう、早かったな」
御者台から、ニコフが声をかけた。そこから手を伸ばした。カリクは、今度はその手をしっかりと掴むとニコフの隣に座った。
まだ知らぬ世界に向けて馬車が進み出した。その背中に登り始めた太陽の光の帯が広がっていった。
十
カリクとニコフが旅立った日より約一年前。
その年の冬は、数年に一度の大雪に見舞われ、コルトス周辺にも膝まで埋まるほどの積雪があった。カリクとニコフは珍しい積雪にはしゃぎ、雪遊びを楽しんだ。そこにはメニアとアニルの姉妹も参加していた。
カリクもニコフもメニアに対する気持ちは未だ伝えては居なかった。
雪の中で踊る様にはしゃぐコートを着たメニアの姿に二人は見惚れ寒さで赤くなった顔をさらにほてらせた。その二人の顔面に同時に雪玉がぶつけられ、二人同時に退けぞった。びっくりしてそちらを向くと、アニルが笑いながら二人を見ていた。そして、舌を出してからかった。
「「やったなぁ」」
カリクとニコフは、すぐさま雪玉を作りアニルに投げた。ニコフの雪玉は、アニルの肩に当たり砕けたが、カリクの雪玉は届かずに手前で落ちた。
アニルは、再び雪玉を投げた。ニコフに反撃しようとした雪玉は避けられてしまった。そのアニルを雪玉を持ってニコフは追いかけた。アニルは嬉しそうに笑いながら走って逃げようとする。しかし、お互いに雪に足を取られ大股で雪から足を抜きながらの追いかけっこはばたばたとしていた。その姿が滑稽で面白くてカリクは笑った。と、その横面に強かに雪玉がぶつけられた。カリクはまるで殴られた様な衝撃に視界がぐらつき倒れそうになった。それ程までに硬く重い雪玉の一撃だった。
「あはははっ!カリク、ニヤついてる!」
声に視線を向けると、膝に手をついて大笑いしているメニアがいた。
「雪玉を固め過ぎ!すげー痛かった!」
文句を言うカリクに、視線を上げ笑って溜まった目尻の涙を手袋の指先で拭った。そのメニアの仕草にカリクはどきりとして、鼓動が高鳴った。しかし、直ぐに青ざめた。そのメニアの手には、がっちりと固められた雪玉があった。
メニアがそれを笑顔で投げるのがカリクの目に映った。
「カリク助けて!」
そのカリクにタックルする様にニコフに追い詰められたアニルが縋り付いてきた。アニルの背後からの不意打ちにカリクは、対応できずにそのままうつ伏せに雪の上に倒れ込んだ。そのカリクの顔があった空間をメニアの手から放たれた高速の硬い雪玉が抜けて行った。
「くらえー」
アニルに向けて、雪玉を投げようとしているニコフがその雪玉の先にいた。
「ぐあ!」
振りかぶったままのニコフの顔面にメニアの雪玉が命中し、ニコフはその威力に吹き飛ばされる様に雪の上に倒れた。
カリクは、雪から顔を上げてメニアの雪玉に倒れたニコフを笑った。アニルも同じ様にニコフを笑った。
何とか起き上がったニコフは、「このやろぉ」と、カリクの上に飛び付いた。雪玉を投げたメニアにではなく、二人に八つ当たりの様に襲いかかった。三人は戯れあいながらゴロゴロと雪の上を転がった。
「私もー!」
そこにメニアが飛び込んで来た。三人を抱きしめる様に手を伸ばして、三人を巻き込み四人でまとまって転がった。メニアの手が髪が頬が唇が、すごく近くにある事にカリクは嬉しさと恥ずかしさに目が回った。それはニコフも同じ様だった。
転がり疲れて四人は、並んで雪の上に寝転んだ。四人が吐き出す息は、体温の上昇でより白く広がり、そして混ざって空に消えた。
カリクは、隣で呼吸を整えるメニアの息遣いに首を横に動かして視線を向けた。空を見上げる彼女の首と顎の美しいラインに本当に綺麗だと感じた。その視線の端に上下する胸が見えて、カリクは彼女がこちらを見てないと思いこっそり視線を向けた。コートの上からではその膨らみを確認できはしないが、ついそこに目がいってしまう自分に気付き恥ずかしくなった。もう一度綺麗な横顔を見たいと視線を戻すと、ほんの少し釣り上がった彼女の目がカリクを見ていた。
「どこ見てんの?」
メニアが、他の二人に聞こえない様に声を潜めて悪戯っぽく言った。視線に気付かれた事を知ったカリクは、誤魔化そうと視線を外そうとしたが出来なかった。メニアが恥ずかしそうにでも少し嬉しそうに優しく笑っていたからだ。カリクは、メニアが愛おしくて堪らなくなった。
「ばーか」
そう言いながら、メニアの指がカリクの指を掴んでいた。
ニコフは、アニルの向こうのメニアがカリクと何かをやりとりしている事に気付いていた。それでも、少し視線を向けただけですぐに空を見上げた。その横顔を目をうるわせながらアニルが見ている事に気付かずに。
春になると、厳しかった冬が嘘の様に温かな日が訪れた。春を待っていた蕾が綻び、一気に花開き草原は春の花でいっぱいになった。カリクの家の周りの草原も紫や黄色の花が絨毯の様に柔らかな風に揺れていた。
「メニアーディの花を見に行来たい!ティッティス川の川べりにいっぱい咲いてるんだって!」
授業が終わると、校庭でカリクとメニアを待っていたアニルが両手の拳を胸の前でぶんぶんと振りながら訴えてきた。
ティッティス川は、コルトスの町から北東にある川で、山から流れヨムヒアネッツィ川に合流する川だ。百フィン(二十メートル)程の川幅があり、コルトスの町の近くを流れる川はこの川から分かれた支流である。
「いいなぁ」
カリクは、畑仕事の手伝いをしていた時に遠くに見えた木に咲く白い花を思い出した。
メニアーデは、春になるとこの地方に咲く白い花だ。この地方を代表する花で、学校や教会の周りにもその木が植えられている。花が咲くと、大きな綿菓子の様に可愛らしく美しい。花はとても繊細で、風が吹くと風に乗って飛んで行く。たくさんの花が咲いている場所では、その光景はとても幻想的で美しい。
「私も行きたい」
メニアも目を輝かせてカリクを見つめた。
カリクは何故、この二人に決定権を委ねられたのか分からなかった。いつもの様に、ここに行く、とメニアに宣言されればカリクは何処へだって付いて行くのだ。微妙な女心を感じ取れなかったカリクだが、「一緒に行こうか」と、二人を誘った。
アニルは少し言いづらそうに「ニコフも来られるのかな」と、ぼそりと言った。カリクは、確かにニコフも居た方が楽しそうだと納得して、「無理にでも連れて行こう」と拳を上げた。
「うん。連れていこー」
隣でアニルが真似をして拳を上げた。そして、ニシシと可愛らしく笑った。
その日は、晴天でどこまでも青い空だった。
カリクは、町の入り口で三人を待っていた。待ち合わせた時間よりも早かったが、こうして春の空を眺めるのは好きだった。町から飛び立った数話の鳥が、東側の森に飛んでいくのが見えた。東の森は、国道よりも南側のヨムヒアネッツィ川近くに有る。その一帯だけ少し小高い丘になっており、川の氾濫が起きてもそこには水が来ない為、生き物の避難所の様になっており、多くの生き物がその森の中に生息している。鳥たちは、その森と町を往復しながら草原に居る虫を捕らえているのだろう。
最初に来たのは、ニコフだった。特に手に何も持たずにやって来た。カリクも他人の事は言えないが、肩に下げた鞄にはスケッチする為の紙と鉛筆と板が入っていた。
「いい天気だな」
カリクと一緒に空を見上げてニコフが言った。
「ああ」
カリクは、ぼぅっと応えた。
「何処までも行けそうな空だ。鳥になったら気持ち良いだろうな。ずっと遠くまで見えて何処だって行ける」
「そうでも無いさ。あいつらだって生きるのに適した場所はある。何処でも生きられるわけじゃ無いさ」
「俺は、ここでは無い違う場所にそれを探しに行きたいな。ここは俺の生きる場所とは思えない。お前はどうだ?」
「僕は・・・分からない」
でも、お前と居たい。カリクは、そう言おうとした。しかし、言葉にはしなかった。
メニアとアニルが大きな荷物を持って現れた。
「お待たせー」
メニアはもう疲れたと言う息遣いで言うと、荷物をニコフに押し付けた。ニコフは何で?と言う不満な顔をしたが、「手ぶらでしょ」と突き放した。
アニルも又荷物を背負っていた。カリクは、手を差し出し「その荷物持つよ」と、アニルに照れ臭そうに笑った。アニルはカリクの手を見て嬉しそうに「うん。お願い」と、背負い袋をカリクに渡した。それは予想していた以上に重く、ずしりと背中にのしかかって来た。
「これを背負って来たの?何が入ってるの?」
「えへへ。秘密」
アニルは、笑って可愛く舌を出したが、カリクは背中の袋には鉄の何かと石が入っている様な感触を感じていた。
目的のティッティス川は、町を出て北東に八メルス(四キロ)程歩いて行かなければならない。四人が到着したのは昼頃であった。
「ぐぁぁ!疲れた」
川べりに到着したニコフが、声を上げてその場に座った。メニアから渡された荷物が余程重たかったのか、両腕の筋肉を交互にマッサージしている。道中も持ち手を入れ替えたり、両手で持ったりと疲労を分散させようと苦難していた。カリクの背負う荷物もかなり重かったが、背負っている分にはそれ程負担は無かった。カリクもそこに荷物を置くと、ニコフの横に座った。
「はい、お水」
メニアは、首から下げていた水筒からコップに水を注ぎニコフに差し出した。
「ありがとう」
ニコフはそれを受け取り、くいっと一口飲むと息を吐き一息ついた。そして残りをカリクに渡した。受け取ったコップには、ほんの少ししか水は入っていなかったが、何も言わずにカリクはそれを口に流し込んだ。水は冷たく、心地よかった。
ティッティス川の川べりは、真っ白なメニアーデの木に覆われていた。カリクたちがたどり着いた河岸から、両側に川に沿って五、六メルス(ニ、三キロ)に渡ってメニアーデの並木が続いている。川の向こう岸にも同じ様にメニアーデの白が続いていた。
カリクとニコフは、座ったままその幻想的な景色に魅了された。遠目にも美しかった白い連なりは、近づく程にその神秘を深める様だった。白い花弁は、光を受け白さを増しまるでそのひとひらひとひらが光を放っている様で世界を柔らかく包み込む様であった。一陣の風が吹くと、花びらが舞い光が弾けた。その光の潮流が、草原を、川の水面を撫で再び舞い上がる。それは、見る者の心に音楽を奏でた。音の途切れることのない滑らかでいて、心を浮き上がらせる軽やかなワルツの様な。
メニアとアニルは、その光の中に遊び踊っていた。光の音楽に身を任せ、手足を伸ばし、髪を躍らせた。指先で風に踊る花びらを追い、全身で光を受ける様に遊ぶ少女たちに、少年たちはただため息をつき見惚れた。いつまでも見ていたいと思う程に。
「カリク。荷物頂戴」
ひとしきりはしゃいだ二人は、戻ってきてカリクに言った。
アニルは、袋から布を取り出すと広げて木の下に広げて敷いた。布は広げると二、三人が座れる大きさだった。メニアはその上にニコフに持たせていた荷物をどんと置くと、中から幾つも籠を出して並べた。それは、弁当だった。四つにはパンと切れ目を入れたパンに野菜やハムを挟んだものが詰められていた。それよりも大きなカゴには、溶いた卵を焼いた料理や魚のフライ、薄切り肉を香辛料をかけて炒めたものなどが入っていた。
「二人で朝から作ったんだよ」
アニルが、自慢げに言った。その隣でメニアは、バツの悪そうな顔をしているのがカリクは気になった。カリクの視線に気付いたメニアは言いづらそうに、「作ったのは殆どアニルで私は詰め込んだけよ」と正直に言った。
「お姉ちゃんは、味の決定をしてくれたし、いいの」
「それって、つまみ食いしてたって事だな」
ニコフが、茶化して言った。メニアは、顔を真っ赤にして不機嫌な顔をした。
「そんな事言うなら、ニコフにはあげない」
そう言ってメニアは、ニコフの前に置いたパンの籠を取り上げた。
「じぁ、こっちもあげない」
アニルもオカズの入った籠をニコフから遠ざけてしまった。その表情は何だか楽しそうだ。
「えぇー」
ニコフが本当に残念そうに声を上げた。すると姉妹は、楽しそうに笑い声を上げて、顔を見合わせた。
「食べたい?」
「はい。ごめんなさい。食べさせてください」
ニコフは、芝居がかった仕草で両手をついてお願いした。
「うん。美味しい」
そのやり取りの横でカリクは、一人食べ始めていた。歩き続けて腹が減っていて、目の前の食事に我慢ができなかった。
「ほんと?」
カリクの言葉を聞いたメニアが、嬉しそうに言った。
「うん。サンドも美味しいし、この卵炒めもうまい」
「その卵炒めは、お姉ちゃん作だよ」
アニルが自慢げに言うとメニアは、照れながら水をカリクに渡した。
「嬉しい」
カリクは、水を受け取り飲むと、魚のフライも口にして、美味いと頷いた。
「それは私の自信作!」
アニルは、カリクの反応に嬉しそうに手を挙げて反応した。
「ほんとうまいな。こっちの卵もうまい」
ニコフも食べ始め、弁当の味に顔を綻ばせた。
「やった。こっちのお肉も食べて食べて」
アニルは、楽しそうにニコフに自分の作った料理を勧めた。カリクはアニルの嬉しそうにしている姿に微笑ましい気持ちで笑顔が絶えなかった。
カリクの横でメニアは、くすぐったい表情でチラリとカリクを見て、弁当を頬張った。
ニコフは、視界の端にメニアの姿が見えて、その表情が気になって胸がちくりと刺した。
食事を終え、カリクとアニルは辺りを散策し始めた。
カリクは、何処かスケッチをする場所を探す為だった。何となくではあったが、自分がメニアの近くに居るとニコフが哀しい表情で笑っている気がしていた。ニコフもまたずっとメニアのことが好きで、彼女との時間を大切にしたいと思っている事をカリクには痛いほど分かっていた。ここの所ニコフがメニアの前で空回りしているとカリクは感じていた。その原因は、学校を辞めた事が大きい。こうして、四人で遊ぶ事はあるが、どうしても一緒にいる時間は制限されてしまうし、ライバルであるカリクがメニアの近くに居られる事の優位性をニコフはどうしても感じてしまう。それに、カリクは気が付いていないが、ニコフには見えてしまう事もあった。それは、メニアの気持ちがカリクに向いていると言う事だ。ニコフは、カリクに対する嫉妬心と妬みと焦りに悩み戸惑っていた。
カリクは、二人の様子を気にしながらも、川べりを歩いた。ティッティス川は、増水して濁った水が流れていた。普段は山からの清流が流れ、夏は川遊びできるほどの深さと穏やかな流れだが、今は濁り流れも速い。山に積もった冬の雪が、急な気温上昇で一気に溶け出した事が原因であった。カリクはしばらくして、いつもと違う川岸に登れる程の巨石を発見し、その上に座った。大人一人分位の高さに上がると景色が一変する。木の下では、見上げていた花が今は目線の高さに花がある。しかもそこからは、どの方向にも花がある。カリクはその景色に眩暈を感じ、興奮して記憶と記録に残したいと思った。
「うわぁすごぉい!」
写生用の板を出そうとしたカリクの横に顔を出したアニルが感嘆の声をあげた。カリクは、アニルが付いて来ていたことにこの時に気付いた。顔は出したが、上まで登れずにいるアニルにカリクは、手を差し伸べて引っ張り上げた。
「きゃっ」
登る際に足元を滑らせてしまったアニルは、体のバランスを崩して落ちそうになった。それをカリクは差し伸べたもう一方の手で、抱き上げる様にアニルを引き上げた。アニルも落ちまいと、カリクの肩に腕を伸ばしてしがみ付き、二人は岩の上で抱き合う形になった。
カリクは、すぐ鼻の先に寄せられた柔らかな髪から香る仄かな花の香りにどきりとした。抱き留めた腕の中にいるアニルの腕や腰の華奢で柔らかな感触にカリクはドギマギした。
「ごめんね」
助けてもらった事に対して謝罪をするアニルの丸い額が、カリクの顎と唇に当たり、カリクの動揺が増した。
「あ、あ、いや・・・」
言葉も出ずに、アニルを立たせると、カリクは顔も見れずに座って絵を描く準備を始めた。
アニルは、額に当たった感触がカリクの唇の感触だと気付き、顔を真っ赤になりそれを両手で隠す様に覆った。手に熱が伝わるのが分かり、余計に動揺した。意図的では無くとも、カリクに抱きしめられキスをされた事実に十二歳の乙女の心臓は、ばくばくと脈打ち、隣に居るカリクに聞こえてしまうのでは無いかと心配した。
カリクは、アニルにとって優しくて頼れる兄だった。困った事があれば何時も助けてくれる。そして、ニコフは、格好良くて引っ張ってくれる彼女にとって物語に出てくる騎士だった。二人と居ると楽しくて、あったかい気持ちになれた。何があっても二人が助けてくれる気がして、お姫様の様な気分にもなれた。でも、二人にとってのお姫様は、別にちゃんと居る事も知っている。二人が好きなのは、自分の姉のメニアだと言う事を。
ニコフは、スケッチに出かけたカリクが自分に気を使って行動した事に気付いていた。昔からそう言う男だと知っている。ニコフは、カリクに苛立った。カリクの態度が、余裕なお節介なのか諦めなのか分からなかったが、自分の気持ちを抑えつけてこの時間を作った事にニコフへの遠慮を感じた。そんな事をされても嬉しく無い。そう考えながらも、すぐ隣に好きな女の子の気配がある事に緊張とニヤけと焦りに手汗が止まらなかった。
一方のメニアは、カリクが背負っていた荷物から色々取り出していた。出て来たのはティーポットとケトルと四客のティーカップ。草のない場所を少し掘って石で小さなかまどを作ると小枝を組み火を付けて、ケトルでお湯を沸かし始めた。
「あの、さ」
ニコフは、メニアの様子を探りながら声をかけた。
「なに?」
汚れた手をハンカチで拭きながらメニアがニコフを見た。
「何してるんだ?」
「花を見ながらみんなでお茶を飲みたくて。料理はアニルに任せきりになっちゃったから」
メニアは、恥ずかしそうに笑った。その笑顔にニコフは、鼻の頭を掻きながら花に目をやった。
「本当に綺麗だな。来てよかった」
「私の名前」
「え?」
「この花の名前が由来なんだよ」
「そうだと思った」
「まんまだからね」
「まんま、だな」
だから綺麗なんだな。とニコフは言えなかった。頭をぐしゃぐしゃとかいて目を伏せた。
「カリクがね。私たちが知り合った頃、気付いてくれて、綺麗な名前だって言ってくれたの」
恥ずかしそうに言うメニアが、とても可愛いとニコフは思いながら、その話を知らない事に疎外感を感じた。だからだろうか、今話さなければずっと言えない気がした。
「メニア、俺さ。メニアの事が・・・」
「知ってる」
最後まで言い切れないまま、メニアが言った。
「そうか」
「と言うか、分かっちゃったの。カリクって、優しくてお節介だね。それで、鈍感で臆病」
「あぁ。めんどくさくて、良いやつ。ムカつく位に」
「ほんとだね」
鈴の様に笑うメニアを見てニコフは幸せだった。そして気付いた。いや、確信した。メニアの気持ちを。
だから、伝えた。
「メニアの事が好きだ」
「ありがとう。でも、私はカリクが好き」
「うん」
メニアの目に溜まった涙がつぅっと頬を伝った。そして、メニアーデの花の様にふんわりと笑った。ニコフは、この子を好きになって幸福だと心から思った。
だが、春雷は、すぐそこに来ていた。