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  作者: 無月雨景
3/10

色鉛筆の描く明日

     五


 春先のまだ肌寒い朝空の下、ウィックはミルクの配達を終えてナオマクの農場へと戻ってきた。朝の風はウィックの肌に強く冷気を届け、鼻や耳は赤くなっていた。今にも垂れそうな鼻水をぐしぐしと袖で拭い、カゴ付きの三輪自転車を納屋にしまうと、ウィックが戻った事に気付いたナオマクの奥さんがマグカップを持って家から出てきた。

「寒かったでしょう」

 そう言ってウィックに差し出したマグカップの中では、ミルクで煮出した紅茶が湯気を上げていた。

 その温かさで手指を温めながら、ウィックはそっと口に運んだ。紅茶とミルクの優しい香りと一緒に蜂蜜の甘い香りがした。熱さに気を付けながら一口飲むと、暖かさが体の中に入って落ちていくのが分かった。ウィックは、ひと心地着いて、ふうっと息を吐いた。

 ニコフと父親のカリクが亡くなって、三回目の冬が過ぎていった。

 ウィックは、半年前からナオマクの農場を手伝いをしていた。母親が働き過ぎて倒れた事がきっかけだった。父親のカリクが残した畑は上手くいかず、一年前から母親は洗濯の仕事を始めていた。土木関係の仕事をしている会社に洗濯物を受け取りに行き、洗って届けるのだ。それまで、そこには専属の洗濯を担当する女性が居たが、高齢の為辞める事となり、その後を担う人物を探していた所だった。その仕事は、町長を通してウィックの母親のアニルの元に来た。彼女には畑仕事があり、その場に常駐しての仕事は難しいと断ったが、金銭面での生活苦もあり洗濯を持ち帰り、畑仕事の合間にできる限りやるという事で合意した。夫の残した畑を止めるという選択肢は彼女には無かったのだ。それで始めた洗濯の仕事だったが、農作業と洗濯の仕事を抱え子供の面倒を見るのはかなりの負担を彼女に強いていた。そこへ昨年の川の氾濫が重なってしまった。その夏の終わりに訪れた大雨が、北の山々を洗いそこから流れ出した土砂を巻き込んだ水が、コルトスの東側に溢れたのだ。コルトスの東側にはかつての国境となっていた、ヨムヒアネッツィ川があり、その川幅はニメルス(一キロ)程あるのだが十数年に一度氾濫することがあった。広範囲に氾濫してしまうのにはこの地域が平地である事が起因している。その氾濫に巻き込まれない為、コルトスの町は川から約八メルス(目算で四キロ)離れていた。ウィックの父親の畑も祖先から受け継がれた物で、五メルス(約三キロ)は離れており、今まで水害に遭ったことは無かったが、今回の氾濫は規模が違った。その上、畑は少し低い所にあったのが不味かった。流れ込んだ水は瞬く間に畑を流して行ってしまった。今回の氾濫で東側に畑を持つ者は殆どが作物を失った。ウィックの家自体は、それよりは町に近く高所にあった為被害は無かったが、五百フィン(百メートル)の所まで水が迫っていた。

 畑が被害に遭ったことで収入が減る上、母親は畑の立て直しもしなくてはならなかった。ナオマクの協力も得られたが、精神的な負担の方が大きかった。その心労も重なり母親は限界を超えて倒れてしまった。母親が過労で倒れたその何日かをナオマクの家でウィックは過ごす事となった。

「僕に農作業を教えて欲しい」

 夕食を食べながら、ウィックはナオマクに言った。ナオマクは、少し困った顔をしたが「良いんじゃないの?教えてあげな」と言う妻の言葉に「分かった」と、短く言った。

 早朝から、ウィックが学校に行くまでの時間が、ナオマクの元で学ぶ時間となった。ナオマクの農場で牛も育てている為、早朝の仕事は朝の牛の世話から始まった。ひと段落つくと、ウィックの家の畑に行き畑仕事を教わった。

 数日後、母親も体調を取り戻し、作業に参加する事ができると畑は以前よりも捗り、母親の洗濯の仕事もうまく回った。ウィックは、その事が嬉しく母親が復調した後も手伝いをさせて欲しいと提案した。それからウィックは、ナオマクの農場の牛の世話の手伝いとミルクの配達をして、少しのお金を貰い母親に渡していた。ウィック自身、モールたちとの関係が上手くいかず、学校での居場所も見失っていた為何かに打ち込めるのは嬉しかった。

 ウィックは、時間があれば畑を手伝い、宿題をこなして過ごした。友人と呼べる者を失い、孤独を埋めるかのように過ごした。母親は、それが心配だった。時々ウィックが傷を負って帰ってくる事がある。それでもウィックは何も言わずに不貞腐れた顔で「大丈夫」と言って何が有ったのかは語らなかった。母親は、片親になった事で、ウィックに何らかの負担を負わせてしまっているのだろうと想像した。遊びたい盛りに仕事をさせてしまっているのは可哀そうだと考えた。だから、少しでも楽のできる環境を作ってあげたいと母親は決意した。

 

 その日のウィックは、早朝から視界がぐらぐらと揺れていた。腹も痛く、熱も有るようだった。体調が悪いのは自分でも分かった。それでも、ナオマクの農場に行って母親の為に働きたかった。だから、誰にも悟られないようにウィックは、歯を食いしばって牛の世話をし、ミルクを配達した。ナオマクの奥さんは、辛そうなウィックに気付いて声を掛けたが、ウィックは精一杯強がって「大丈夫」だと笑った。

 ふらふらしたまま学校に向かい、なんとか教室にたどり着いた。

「ウィック君顔色悪いよ。大丈夫?」

 そうメアが尋ねた。ウィックは、ぎこちなく頷き席に着いた。それでもメアは、納得いかない表情でウィックの様子を見ていた。

 それから暫くして、がらりとマーキス先生が教室に入って来た。四十過ぎの女性の先生で、一昨年からウィックたちのクラスの担任をしている。眼鏡をかけ背が高く痩せていて、生真面目な性格で指導は厳しい。生徒たちの背筋は、自然と伸びていた。ウィックも姿勢良くしたが、視界がぐるぐる回り汗が額を流れるのを感じた。胃の辺りがじわりと痛んだ。堪えようとすればする程、息が乱れ眉間にシワが寄った。自分が考えていた以上に、身体は悲鳴を上げていた。

 出欠確認の後、最初の授業が始まった。算数の授業はウィックにとって少しだけ気が楽だった。問題を解くのに夢中なフリをしてノートに体を寄せて、体を折り腹を摩った。

 最初の授業が終わると、ウィックを寒気が襲って来た。摩っていた腹は、少し楽になった気がしたが、無理をしている事で熱が上がったようだった。視界も少し狭くなり、視界の端がぼやけていた。そのぼやけた視界の中、メアが動くのが見えた。マーキス先生の所に行き何かを話している。ウィックは、それを見ながらどうしたら今日を乗り切れるのかを考えていた。とにかく、楽な姿勢を探った。頬杖を付いたり、腕に頭を乗せてみたりしたが、あまりしっくりとこない。一番楽だと感じたのは、机の冷たいところを探して額をつける事だった。しかし、すぐに熱を帯びてしまうから、都度位置を変えなくてはならなかった。

 楽な位置を探して彷徨うウィックの頭を影が覆った。ほのかに洗濯石鹸の香りがして、ウィックは視線をそちらに向けた。マーキス先生が、眉間にシワを寄せながらウィックを覗き込んでいた。ウィックは、驚いてはいたが俊敏に体は反応せず、少し息を飲んだだけだった。

 マーキス先生は、ウィックの額に手を当て熱を測った。明らかに発熱しているのを確認するとマーキス先生は、腰を屈めウィックに視線の高さを合わせて、「お家に帰ろうか?」と、諭すように言った。ウィックは、少し躊躇い考えていた。帰れば母親が心配して午後の仕事が出来なくなるかもしれない。でも、このままここに居ても体調は良くはならない。

「歩けなそうなら、保健室で寝てようか?迎えに来てもらうようお母さんに伝えて貰うから」

 ウィックは、首を振った。それはだめだ。

「歩いて帰る」

 ウィックは、机に手をついて身体を持ち上げた。

「大丈夫なの?」

 心配するマーキス先生に目一杯強がってウィックは頷いた。

 

 学校から帰ることにしたウィックは、敷地を出てから体が少し楽になった気がした。気のせいではあろうが、学校に対する居心地の悪さは体調に多少なりとも影響があったらしい。気持ち的な圧迫感が軽減したのだろう。足取りは軽くはならないが、立ち止まる程動けなくはなかった。なにより、皆んなが授業を受けている中、自分だけ帰ると言う特別な状況の背徳感にウィックは、不思議な浮遊感を感じた。

 風が冷たく吹き抜け、ウィックは薄い外套を掴み風の侵入を防ぐように首を縮めた。熱を帯びた頭には、冷たい風は心地良くすら有った。が、身体は寒気を感じている。なるべく早く家に帰り、母親に気付かれないように布団に潜りたかった。きっと今は、洗濯の仕事を川辺でしているはずだ。

 住宅地を抜けると、一気に視界が広がる。今は地面に生える草花も少なく、川向こうに行く為の道がはっきりと見える。橋の向こうに小さくウィックの家が見えた。建物で遮られていた風が、遮蔽物が無い道に出ると一層ウィックの体を冷やしたが、もうすぐ家に帰ることのできる安堵感がウィックの歩調を助けた。

 橋を渡ったところで、なんとなくではあったが、ウィックの足が止まった。言い知れない不安が、ウィックの胸を過った。今、家に母親が居るのかもしれないと何故か感じた。

 家の入り口に立ち、ウィックは音を立てないようにドアノブに触れた。母親が居たら気まずい気がして、少し開けて中を伺った。しかし、中に母親の気配はしなかった。ウィックは、少しホッとしてドアを開けると中に入り、鞄を椅子に置いた。

 早く横になりたい気持ちが、そのまま寝室の前までウィックを連れて行った。ウィックが、その扉の前に立った時に嫌な予感が大きくなった。部屋の中から物音が聞こえた。それは、人の呼吸のように聞こえた。聞いた事のない息遣いがその部屋の中にある。二つだ。木が軋む音も聞こえた。ドアを開けようとしていたウィックの指が恐怖に震えた。何か良からぬ事がこの部屋の中で起きているのを感じ取った。それが何なのかウィックには予想も想像もできず、できたことは逃げ出すか耳を澄まして探ることだった。ウィックは、後者を選んだ。聞こえる息遣いは、大きくなっている気がした。

 二人居る?

 その息遣いが、二種類聞こえることに気付いた。ウィックの身体を汗が流れた。それが体調不良の汗なのか、対峙している不安や恐怖に由来するものか本人にも分からなかった。ただ明らかに身体は辛く彼の呼吸も乱れた。全身が心臓の様に鼓動が激しくなったのは、その二つの聞こえてくる呼吸の一つが、愛する母親のものだと気付いたからだった。そして、もう一つが大人の男のものだ。ウィックは、母親が危機的状況にある事を確信した。

 しかし、子供の自分が一体何が出来るのか分からなかった。母親が暴力を振るわれているのなら、力の弱い子供に救う事が出来るだろうか?ウィックの結論は、出来ない。だった。それでも、母親を助けなくてはいけないと勇気を振り絞ろうとした。緊張で呼吸が浅く早くなった。手足がぶるぶると震えた。顔は血の気が引き蒼白で視界もぐらぐらと定まらない。それでも母親を救わなければならない。ウィックの足が一歩前に進んだ。

 ドアは、ゆっくりと開いた。ウィックの手足に力が入らず中途半端にドアを押したしまったのだ。ゆっくりと、寝室の薄暗い部屋がウィックの視界に映った。

 ベッドの上に二人いた。見知らぬ大人の男と母親だった。

 二人とも衣服を着ておらず、裸だ。男は筋肉質で大きく逞しい。その身体でウィックの母親に覆いかぶさり、乱暴に身体を前後させている。その度ごとに揺れる母親の乳房が男の体の下に見えた。母親のやつれた細い腕が男の首元を抱いていた。まだウィックに気付かない二人の息遣いが続いていた。

「・・・あ・・あぁ・・・」

 何が起こっているのか理解できないウィックは、しかし、それが衝撃的で絶望的な事だと心が叫んでいるのを聞いた。悲鳴も言葉も出てこず、ウィックは心と呼吸が乱れるのを感じた。

 先に気付いたのは、母親だった。開け放されたままのドアの前に立ち尽くしている我が子の姿に母親は、目を見開いた。その姿を目にした瞬間幻覚ではないかと疑ったが、はっきりとそこに居た。数秒の間、男に抱かれたままの姿で思考が止まり何が起きているのか全く分からないまま、身体は男に反応していた。激しく女を責め立てていた男の体が女の変化に気付き、その動きを緩めた。呼吸が乱れたまま体の下の女が見ている方にちらりと目をやると、八つか九つくらいの男の子が居るのが目に入った。

「なんだガキか」

 男の感想はそれだけだった。

 今抱いている女が、夫に先立たれて一人で子供を育てているのは聞いていた。その生活費を稼ぐ為に男の働く会社に洗濯の仕事をもらいに来ている事も。だから男は、金を渡してこうして性を提供する事を女に持ちかけたのだ。弱みに付け込んだ自覚はあるが、女がそれを受け入れた事は事実だと男には理屈があった。そして、これはお前の為にこの女がしている事だとこの女の息子に見せてやろうと言う下衆な思考が男に生まれた。同時にこの事が、今後は今より安くこの女を抱く為の弱みにもなるかもしれないと言う下劣な算段も立てていた。

「出て行きなさい!」

 母親は、立ち尽くしたままの子供にそう叫んだ。

 自分の中のモラルが崩壊した男は、興奮して激しさを増していた。母親はそれを押し退けようとするが、仕事で鍛え上げられた身体は強く重く動かす事すらできない。

「早く出ていきなさい!」

 母親は、そう叫ぶ事しか出来なかった。その表情は鬼気迫り、必死だった。

 ウィックは、母親の見た事もない激しい感情に恐怖し、体調の悪さもこの瞬間は霧散し、走って逃げ出した。

 その息子の後ろ姿を母親は、自分のしている事に対する後悔と怒りに泣いた。

 男は、欲望の沸点に達し、声を上げて欲望を放出した。


 ウィックは、訳も分からず土手を走った。走って走って、足がもつれて転び、土手の坂を転がり落ちた。休ませている田んぼに転がり、草と土まみれになって仰向けに倒れた。

 母親があの男と何をしていたかと言うことよりも、母親の激しい感情にウィックは動揺していた。いや、確かにそして絶対的に彼の目にしたものは、彼を恐怖させ絶望させた。しかし、彼を逃走させたのは母親の声と表情だった。

 拒絶させたとはっきりとウィックは感じた。あの優しいお母さんが体調が優れない僕に出て行けと言った。ウィックの動揺は激しかった。普段叱られるのとは明らかに違ったこんなにも母親の感情が胸を突き刺しえぐったのは初めてだった。

 ウィックは、泣きながら激しくなる吐き気と腹痛に身体をくの字に曲げて耐えた。しかし、耐えきれずに田んぼの脇に腹の中の全部を吐き出した。

 吐き出してなお、胸と腹に残る不快感が無くなってくれない事に唾液と涙が溢れて流れ落ち、土の上に落ち吸い込まれていくのをぼやけた視界で長い時間見ていた。

 



      六


「これ、パパが東の国のお土産に買ってきてくれたの」

 そう言ってメアは、薄い木の箱に納められた二十四色の色鉛筆を彼女の周りに集まったクラスの女の子たちに披露していた。今日は給食を食べた後、教会に行き絵を描く授業があり、メアはその為に父親が贈ってくれた色鉛筆を持って来たのだった。クラスの皆が待っているのは、十二色か八色でメアの持っている二十四色の色鉛筆など見た事が無かった。当然その事が、クラスで注目を浴びるだろう事はメア自身も予想していたし、そうなる事を望んだ。だから今朝登校して真っ先に仲良しのファナンに見せた。見た事もないものに目を輝かせたファナンの反応は、予想通りメアの周りに人を集めた。

 絵を描くのが好きなウィックは、耳でメアたちの話を聞いていた。何度かの席替えが有り、今はウィックとメアの席は離れていた。だから、そのやり取りは離れているところで行われており、その色鉛筆がどんなものかウィックは、気になって仕方なかったが、横目でちらりと見るだけだった。しかし、女の子たちの人だかりで見る事ができずにもどかしかった。ウィックは、自分の持ってきた色鉛筆の箱を手に取って、そっと開いてそこにあるもうだいぶ使って短くなっている自分の色鉛筆に小さく溜め息をついた。羨ましくなんかない。と頭で考えてみるが、同時にそれだけの色があったらどんな絵が描けるのだろうかと考えていた。せめて、今と同じ色数でも新しい色鉛筆が欲しい。いや、減っている黒と青と水色と緑と黄と茶と赤の色鉛筆だけでもいい。そう思った。

 ちらちらと見ているウィックにメアが気付いて、メアの気持ちに少しだけ親切ぶった自己顕示欲が湧いた。

 メアが立ち上がり、女の子たちの壁を抜けウィックの席に来ると、二十四色の色鉛筆を見せながら、「ウィック君絵が好きだし上手だから、使いたい色があったら授業中だったら使わせてあげても良いよ」とにこりと笑った。

「・・・いい」

 ウィックは、その提案に魅かれながらも首を横に振った。

「なんで?」

「せっかくメアちゃんが言ってくれてるのに」

「断るなんて変」

「どうして?」

 それを見ていた、女の子たちが口々にウィックの答えを批判した。メアは、少しだけ気分を害され、「なら、別にいいけど」と、そっぽを向いた。女の子たちは、「だったら私にも使わせて」と、メアに言い寄った。

 その様子をウィックは頬杖をついて、一瞥し違う方を見た。

「色が多くたって絵が上手く描けるもんか」とウィックは、誰にも聞こえないように口の中で呟いた。

 そのやり取りをモールは無表情で、後ろの席から見ていた。


 事件は、翌日発覚した。

 昨日、屋外での写生の授業は、絵が描き終わった生徒から先生に提出してそれぞれ帰宅したのだが、メアは絵を描くのに夢中になり、他の皆んなよりも時間が掛かってしまい、帰宅が遅くなってしまった。その所為で帰り支度を慌ててしまい、画材を入れていた手提げを机の横に掛けたまま忘れてしまったのだ。その事に気付いたのが帰宅して、宿題をする為に荷物を広げた時だった。メアは、慌てたが母親に明日持って帰ってくればいいと諭され、取りに戻るのを諦めた。それでも気が気ではなく、宿題は捗らず苦手な算数の問題は解けず、数字がぐちゃぐちゃなまま夕飯の時間になってしまった。

 翌朝メアは、いつもよりも早く起きて朝食を済ますと学校に駆けて行った。

 冷たい風は容赦なくメアの目や鼻の粘膜を刺激して、鼻水や涙を流させた。その事が、不安をかき立てた。本当は忘れて来たのではなくて、無くなってしまったのかもしれないと悪い想像が頭を行ったり来たりした。

 学校に着き教室に入ると、自分の席の横に鞄が見えてメアはほっと胸を撫でた。席に着き、いつもの鞄を机の上に置くと、画材の手提げを撫でた。麻の布の感触が手に伝わって来た。安心ついでに自分の色鉛筆が見たくなった。朝の光に照らされてきっと素敵に見えるはずだとわくわくした。手を伸ばし、袋の中を探ったが、そこにあるはずの感触が無かった。あれっ?と思い、手提げの持ち手を片方フックから外して広げて見たが、やはり無かった。色鉛筆をしまっている箱がそこには無かった。


「今朝、メアちゃんの色鉛筆が無くなっている事がわかりました」

 いつもよりも早く教室に来たマーキス先生が、生徒の前でそう言った。

 ウィックは、朝教室に来た時に女の子たちの様子がおかしく、メアが泣いているのを見て不穏なものを感じていたが、その理由がそこにある事をその時知った。

「昨日、メアちゃんは、教室に色鉛筆を入れた手提げ袋を忘れて帰ってしまいました。それで今朝、教室に来たら袋から色鉛筆だけが無くなっている事に気づきました」

「見せびらかすから誰かが取ったんだろう」

 カテルがニヤニヤと言った。

「ひど〜い!そんな事なんでいうの?」

「そんな事言うあんたがやったんでしょ」

 女の子たちがカテルの言い方と言い分に不快感を示した。

 モールは、その様子を一瞥してふんっと鼻息でバカにするようにそっぽを向いた。

「何か知っている人が居たら先生に教えて欲しいの」

 ざわつく生徒たちの声を遮るようにマーキス先生が声を出した。

「女子じゃないの?俺たちさっさと提出して遊びに行ったから」

 男の子の何人かがそう意見を言い、お互いに「そうだ」と相槌を打った。「色鉛筆なんてきょーみねぇよ」それが、男の子の大半の意見だった。男の子たちは、女の子の中にこそ犯人が居ると訴えた。

「私たちそんな酷いことしないよ」

 一人の女の子が、そう泣き出したのをきっかけに、教室をほぼ二分する言い合いが激化した。

「ちょっと待ちなさい!先生はまず、何か知っている人がいるか聞いているの!」

 マーキス先生の声が強く響くと、少しだけ教室が静かになった。メアの我慢していた泣き声が堪らず教室に響いた。

「ウィックじゃねぇの?絵を描くの好きだし、川向こうの貧乏人だし」

 誰かがぼそりと言った。それはモールだったが、いつもはっきりもの言う彼の印象とは違った為、皆は誰が言ったのか気が付かなかった。

「え?・・・」

 予期せぬ事にウィックは、言葉を失った。勿論そんな覚えなど無い。

「確かに、昨日遅くまで残って絵を描いていた」

 泣いていた女の子が思い出したように言った。

「でも、僕は知らない」

 昨日遅くまで残って描いていたのは、色を一杯持っているメアよりも上手に絵を描いて証明したかっただけだった。色鉛筆の種類の多さがだけが絵の良さじゃ無いと。だから、僕が色鉛筆を取るわけが無い。そう言いたかったが言葉は出て来なかった。

「ウィックくんは、何か知っている?」

 マーキス先生の眼鏡が、外光に光ったようにウィックに見えた。

「知りません」

 ウィックは、プレッシャーにぎこちなく答えた。何だか教室全体が自分を疑っているように思えた。でも、絶対に僕は関係ない。それは彼にとって間違いなかった。次の瞬間までは。

 コトリとウィックの足元に何かが落ちた。それはウィックだけが気付いた。ウィックはそれが何か視線を落として確認した。確認して呼吸が止まった。それは軸から折れた色鉛筆の先だった。そして、それが自分のものでなく、今話題に上がっているそれだと気付いた。気付かれないように、足でそれを踏み、隠した。汗がだらだらと流れて来るのが分かった。何故それが自分の机の中から落ちたのか分からなかった。もしかしたらと、机に手をそっと突っ込んでみる。指先に細いものが当たるのが伝わって来た。それは幾つもあった。一つをつまみ、視界に入るギリギリまで引き出すと、やはりそれは落ちたものと同じメアの色鉛筆だった。

 ウィックは、真っ青になり固まった。今、調べられたら確実に犯人にされてしまう。とは言え、この危機的状況を切り抜ける手段など無かった。ただこれ以上の追及がないことだけを願った。でも、どうしてこんな所に色鉛筆があるのかぐるぐると考えを巡らせた。ウィック本人に覚えがない以上、何者かがメアの色鉛筆を盗みウィックの座る机の中に入れたのだ。それも箱から出し、わざわざ色鉛筆を折っているところを見ても悪質だ。

「机を調べてみれば?」

 ぼそりと誰かが言った。それがモールの声だとウィックだけが気付いた。その言葉が、モールがこれをやった犯人だとウィックの疑念を強めた。ウィックがモールの方を振り向くと、モールは一瞬ウィックと目が合い、その目が笑ったようにウィックに見えた。

「先生はそんな事したくありません」

 マーキス先生は、眼鏡の位置を直しながら生徒たちを見回した。それぞれが不満な顔をして先生と目を合わせようとはしなかった。疑われているウィックも俯いて辛い顔をしているのが分かった。このままでは、何も解決しないのは明確だったが、彼女は犯人探しをして吊し上げるようなクラスにはなって欲しくないと考えていた。

「私も・・・返ってくれば・・・それで・・・」

 メアもまたクラスの雰囲気が、自分の事がきっかけで悪くなっている事に耐えられないようだった。

「机の中見せろよ」

 いつのまにか、ウートがウィックの横に立っていた。

「ウート君、席に着きなさい」

 マーキス先生が、穏やかな声でウートに言った。

 ウィックは、机を隠すように手で押さえたが、それが悪かった。指先に触れた色鉛筆がバランスを崩し落ちてしまいそうになっていた。

「見せろよ」

 ウートは、ウィックの肩を掴み席から立たせようとした。ウィックは、抵抗して体を強張らせたが、揺らされた事によって手元が動いてしまい、押さえていた色鉛筆が崩れ落ちた。緊迫した教室に、板貼りの床に色鉛筆が散らばる乾いた音が響いた。

 教室全体の目がウィックの足元に注がれるのが分かった。ウィックは、狼狽し頭を抱えて項垂れた。

「違う・・・違うよ・・・僕じゃ・・・」

 ウィックのその言葉は、間違いなく真実だったが彼が発しようとした言葉には何の意味も最早持たなかった。

 女の子たちの悲鳴のような声が響き、メアの泣き声が聞こえた。「やっぱりな」「泥棒!」「お前かよ!」「あいつが盗んだんだ」男の子たちの声もウィックに容赦なく投げつけられた。

 ウィックが振り向いて見たモールは、顔を真っ赤にして笑いを堪えていた。ウィックは絶望に涙が流れた。涙を流しながら、「違う!僕じゃないんだ!」と訴え続けた。その目にショックと軽蔑の入り混じった泣き顔のメアが「酷いよ・・・」とウィックを責めて声を上げて泣いていた。

「待ちなさい!みんな落ち着いて!」

 マーキス先生が声を上げているのも聞かず、男の子たちはウィックを席から引きずり、女の子たちは散らばった色鉛筆と箱を拾い集めながら、口々に彼を非難した。

 ウィックは、完全にクラスでの居場所を失った。


 翌日、マーキス先生に母親共々呼び出され、事の経緯を母親に説明し、何故そんな事をしたのかをウィックは問い質された。しかし、彼に身に覚えがあるわけもなく、モールが仕組んだ事だと訴えたが、証拠もなく罪の擦りつけと言われるだけだった。

「・・・ウィック君は、今難しい時期かも知れません。お父様が亡くなられて、気持ち的にもまだ不安定なのかも知れません」

 マーキス先生が、母親に話している間、ウィックはぎゅっと拳を握りしめて耐えていた。

「家でも何も話してくれなくて、私もこの子が何を考えているのか分からない時がありまして・・・」

 母親は、泣いていた。ウィックの拳に込める力が強くなった。ウィックは、母親の気持ちが分からなかった。確かにウィックは、母親に何も話さなくなった。しかし、あの日以来、母親はウィックを抱き締めてはくれなかった。距離を最初に取ったのは母親の方だとウィックは悔しかった。

 マーキス先生との話が、結論も解決策も見出せぬまま終わり、陽が傾き始めた廊下に出ると、今回の事の説明を受けに来ていたメアの父親とメアが居た。母親は、気付くと直ぐに

胸に手を当て、「本当に申し訳ありませんでした」とメアの父親に謝罪した。

 メアの父親は、困った様な表情でメアの肩を抱いた。

「いえ、この子も不必要に自慢してしまった事が良くありませんでした。責任は買い与えた私にも有ります。それに、今回の事は彼のやった事では無いかも知れないと、娘も言っておりますので、余り責めないであげてください」

 メアは、父親に抱かれたまま泣き腫らした目で一瞬だけウィックを見た。ずっと不貞腐れたままのウィックとその瞬間目が合った。メアの目は、父親の言っている事とは違うようにウィックに感じられた。その目は彼を責めているように見えた。

 メアはこの事を父親に話した際、叱られていた。人より恵まれている事をひけらかせば、当然妬みや反感を買い、人の心に波風を立てるのだと。それも、父親を失い心と生活の拠り所を失った者に対して配慮の無い事をしたのだと。そして、彼の机から折れた色鉛筆が出て来た事は、彼がやったと言う証拠としては余りにも理屈が合わない。もしも、メアが人に見られてはいけない罪を犯してしまった時、直ぐに見つかって罪を問われる様な場所に証拠を残すかい?そう問われてメアは、そんな事になる前に罪は起こさないと答えた。父親は、私の愛するメアは、そんな事はしない。そう私も信じているよ。と、メアを抱きしめた。メアは、愛する父親の温もりを感じながら、父親の居なくなってしまったウィックの事を考えた。そして、この温もりを失いたく無いと強く思った。だから、父親の言う通り、自分に非があった事を父親に告げた。だからと言って、父親のくれた大切な物を失った悲しみは消えない。それが、ウィックが犯人で無い可能性があったとしても、彼が関わりある事には変わりない。彼が被害者の一人だとしても。だから今後、彼に関わる事にメアは強い抵抗を感じた。


 家路を歩く母と子は、隣りを歩かず子は距離を空けて後ろを歩いていた。

 太陽は町の向こう側に沈んで行く。親子の背中を紅く染めていた。影は長く二人の前に伸びていた。

 母親のアニルは、自分の影の横に少しだけ伸びている息子の影を見ながら、あの日以来向き合って来なかった息子の事を考えていた。どうしたら良かったのか、あの日も今も何も答えは出ない。逼迫していたとは言え、洗濯の仕事をしている会社の男たちにお金と引き換えに身体を許したのは、間違いであったと今ははっきりと思っていた。しかし、それは今でもずるずると続いている。断れば男たちの報復に合い、噂は大きく拡がり役人に罪を問われるだろう。そうなればこの街にも居られなくなってしまう。

 アニルは、立ち止まり息子が追い付くのを待った。ウィックは、俯いたままで、母親が立ち止まっている事に気付いて居ない様だった。段々と影が寄り添って行く。母親の隣に来た時、ウィックは影が並んだ事から母親が立ち止まっていた事に気が付いた。ウィックは、視線だけ左に流し母親の足下を見た。彼の歩調に合わせて歩き出したのが分かった。

 アニルは、躊躇いがちに右手を息子の左手に触れさせ、掌を重ねた。一年以上振りの息子の手の感触が伝わって来た。しかし、それは直ぐに終わった。ウィックが手を振り払い、母親の手を振り解き、早足になり母親との距離を空けた。

 母親は、何も掴んでいない右手と先を歩く息子を見比べた。身体の奥から悲しみが溢れて来た。右手に微かに残った息子の温もりを胸に抱いて、アニルは肩を震わせて泣いた。

「どうしてなの・・・どうしたらいいの・・・」

 母親の泣き声が聞こえるのを、ウィックは聞こえない振りをした。ウィックの悲しさや悔しさを彼自身もどうにも出来ずに居た。

「私だって・・・私だって!・・・」

 母親の堪えていた感情が溢れ出して止まらなくなった。両手で顔を覆い、道に膝を突き声を上げて泣いた。

 ウィックも泣いていた。悔しくて悲しくて哀しくて寂しくて、両腕をだらりとして紅く染まる空と雲に向けて泣いた。誰にも受け止めて貰えない感情を空に向けて泣いた。

 母親は、止められなくなった感情のまま、ぐしぐしと纏めていた髪を手で乱しながら泣いた。

「どうしてなの!私が何をしたのよ!・・・悔しいよ!ばか!カリクのばか!なんであんな事したの!・・・あんたが居なければ!私は・・・」

 ウィックは、泣きながら遠ざかっていく母親の声に震えた。泣いた事で頭の中で自分の泣き声が反響していた。だから、母親の言った父親の名前は聞こえて居なかった。ウィックの耳に届いた母親の言葉は呪いの様に彼の心に消えない爪痕を残す事になった。

 親子の悲しみは、訪れる夕闇の中に人知れずに吸い込まれていくだけだった。



 

 

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