葬列の行方
三
その日もウィックの母親は、黒いシンプルなドレスを着て泣いていた。
ウィックは、慣れない窮屈なよそ行きの服を着せられ泣き腫れた顔を更にぐしゃぐしゃにして、母の手に引かれるまま葬列を歩いた。
夜半から降り続く雨は、霧雨の様にその朝も降り続いていた。空はどんよりと暗く、灰色の雲が何処までも続いている。暗澹とした気持ちが町全体に広がり、誰もの足が鉛の様に重く雨に濡れた足下が沼になったようだった。葬列を遠巻きに見る人々の目は、親子を哀れむ気持ちはあったが、関わる事でその重みを受けたく無く直視せず目の端で追うだけだった。そうした気持ちが町に満ちていた。責任は私には無い。皆、そう心に思っていた。葬列は、町に漂う空気に押されずぶずぶと底無し沼に進んでいるようだった。
ウィックは、何の理解も追いつかず混乱した頭と気持ちがぐちゃぐちゃになってただただ泣く事しかできなかった。町に広がる彼らを取り巻く雰囲気も彼を追い詰めた。全てが闇の中で何も見えず、唯一右手を掴む震える母の手だけが今の彼を歩かせていた。
ウィックは、塔の上で気がつくと頬を流れていた涙に動揺した。四年前の雨の日の葬列を思い出したのは、ナオマクの農場の更に西側にある墓地を見たからだった。そこには、彼の父親カリクと父親の友人ニコフの墓がある。それは教会の裏手でもあった。かなり広い土地が墓地となっているのは、この町の特徴ともいえる。
四年前に立て続けに起きた、ウィックの大切な二人の不幸は少年の心に影を落とし消えることのない痣となっていた。四年前の祭りの日の二ヶ月前、ニコフは寝床にしていた彼の馬車の荷台で変わり果てた姿で発見された。発見したのは、ウィックの母親アニルだった。朝食に焼き立てのパンとスープを届けに行った時だった。
ニコフの朝は早く、いつもアニルが朝食を持って訪ねると、焚き火で沸かしたお湯で茶を飲んでいるのだが、その日はニコフの姿はなく、焚き火の跡が荒れている事に気付いた。不審に思ったアニルは、不審に思い焚き火跡を見ると周辺に人の足跡に混ざり獣の足跡に気付いた。ざわつく胸と呼吸を落ち着かせようとしながら、辺りを静かに見回した。しかし、何の気配もしない。最近、行商人や卸業の間で、東側の森に野犬が住み着いて周辺の農場に被害が出ている話を聞いていた。ナオマクの農場でも鶏を何羽かやられているようだった。だからその足跡が野犬の物であるとアニルは、直ぐに推測した。何の気配もしない。そうだ、とアニルは気付いた。馬も居ないのだ。馬車を引くニコフの二頭の馬もそこには居なかった。しかし、長年旅を続け今は各地を馬車で走り回り仕事をしているニコフが、野犬に襲われるような無警戒であったとは思えなかった。だから、野犬が来る前に馬を伴い、避難しているはずだとアニルは考えた。だから、今すべきは、日が出たとは言え野犬がまだ居て自身が襲われないかの心配だとアニルは注意を深めた。しかし、荷台に近付いた時、その考えは打ち砕かれた。荷台の後ろに血が付いていたのだ。それも何かを引きずったような跡だ。
アニルは、悲鳴を上げ持っていたスープとパンの入った籠を落とした。それでも何とか自分を保ち、大きく震える手で荷台の幌の幕をめくり中を見た。朝の柔らかな光がそっと荷台の中に入り込み照らした。アニルの鼻に獣の匂いが襲い掛かってきた。つん裂く様な刺激臭に混じり、錆びた鉄の様な匂いに生々しいねっとりとした匂いがアニルの胸に不快感を呼び起こした。吐き気と恐怖で、アニルの目に涙が溢れた。その先は見てはならぬと本能が訴えていたが、網膜は薄暗い荷台の中のそれを捉えてしまった。そこには、黒い血溜まりの中に仰向けに倒れたニコフの姿だった。腹は赤黒い闇に見えた。獣に内臓を食われ空洞になり、乾き始めた血の黒さに塗り潰されていた。顔も頬と顎を失いニコフと分かるのは左目と眉くらいしかなかった。そして右足と左腕は持ち去られたのかそこには存在しなかった。
アニルは、悲鳴も上げられずに気を失った。
ニコフの葬儀は、発見された翌日ウィックの家族と町長のモリヌだけで静かに執り行われた。ニコフには妻も子供も無く、両親も既に亡くなっており身内が居なかった事もその理由だったが、その年のマルカブス・ムットで飛ぶ予定だった事もあり、町長が公表する事を躊躇ったのだ。ウィックの父親のカリクやニコフと同じ年代の者がいれば、ニコフの事を知っているし、以前に飛んだ男としてある年代よりも上には有名人である。今回は町長が秘密裏に依頼してる事もあり、彼がこの町に帰って来ている事は知られていなかった。作業場への道も墓地側から行っていた。彼が居た事を知れば、今年のマルカブス・ムットに合わせての帰郷である事は予測がつくし、その彼が亡くなったとなれば、今年の祭りに影響を及ぼす可能性が高かった。そして、ニコフが野犬に殺されたと知れれば、町の者たちの混乱を招きかね無し、観光目的の来訪も減ってしまう。そちらの方が町長にとって不都合があったと言えた。
ウィックは、葬列を父親と母親に手を引かれ教会から墓地へと歩いた。ウィックにとって過ごした時間は短かったが、信頼し憧れ慕った初めての大人で最高の友人であった彼を失った事は大きな悲しみであった。もう会う事のできない事実に拭う事も忘れ涙を流した。母親は、その手を慰める様にしっかりと握った。父親も彼の手を握っていたが、その手はひどく震えていた。
埋葬が終わると、ウィックは気を失う様に倒れた。悲しみの感情を吐き出し疲れ体力が無くなってしまっていた。母親は、ウィックを抱き抱え家に帰った。父親は、町長と今後の事を話すと言って二人で何処かへと消えて行った。その時の父親カリクの表情は酷く青ざめ目は落ち窪んで居た。大切な親友を不幸にも失った夫の気持ちは推し量る事は出来たが、妻のアニルは少し違和感を感じた。しかし、腕の中の息子の心の疲弊と痛みが気になって、直ぐにでも休ませて目が覚めたら温かい食事を食べさせたいと考えて居た為、その事はその時は些事と感じた。夫の体の事も心配していたのだ。
昼過ぎたばかりのコルトスの空は、夏の強い日差しと色濃い青に真っ白い雲が浮いて居た。開けた平地を風が何処までも流れて居た。住宅地から離れた農地の川の土手道を、アニルはウィックを抱いた歩いた。力の抜けた息子の体は、思いのほか重く彼女が育て彼が育った年月を感じて居た。まだおぼつかない足で、教会までのこの土手道を手を引いて歩いて居た息子を回想しながら、汗が吹き出ようが息子をしっかりと抱えた。土手の緑は生い茂り、踏み固められた道にもくるぶしの高さまで伸びている。足を取られるわけでは無いが、農作業する時の格好とは違い足の甲や足首を草が撫でるのが分かる。アニルは、後で手入れしないと靴が悪くなってしまうなと、それだけは後悔した。
時折、体勢を整えたり、一息つくために立ち止まると、川に沿い風が抜けて行った。風が土手周りの草や田んぼの稲の緑をさぁっと駆け抜ける。その音と一緒に額の髪が遊ぶ。その爽やかさに少しだけ慰められた気がした。慰められたと感じた事で、自分が悲しみ傷付いてた事を再確認してしまった。アニルは家に着くまでは、この溢れてしまいそうなものを抑えなくてはいけないと唇を強く噛んだ。今、この道を家族三人で歩いて居ない事に気付き、アニルはぎゅっと息子の頬に頬を寄せた。不安になる気持ちを何とか支えてくれるのは、息子の柔らかさと重みだった。
季節は、町の色を変えていった。
田んぼは緑から黄金に変わり、今は土の茶色になっていた。周囲の草原も土手も次第に枯野色になりつつあり、今はマダラに乾いた風に吹かれていた。住宅地や街も、それに伴い装飾や服装を暖かなものに変え始めていた。
ここコルトスの町は開けた平野にある為、冬はさほど厳しい分けでは無い。だが、北から吹く乾いた風は強く冷たく、その対策に準備や心構えは必要であった。だから、まだその時期では無いが、冬支度前のこの時期は人々の気持ちを波立てる様だった。こと、この一月余りは余計であった。コルトスの秋祭りが来たのだ。
家の中に閉じ籠り、膝を抱えていたウィックの耳にも秋祭りを告げる炸裂火薬と旅芸人の奏でる音楽が微かに届いて来た。ウィックの心を踊らせるそれらも今はただの雑音でしか無く、いや、今のウィックのささくれを逆撫でる物でしかなかった。ニコフ小父さんが亡くなり、父親は家にいる時間が少なくなり、家の中は暗く冷たかった。それでも、外に足を運ぶ気にはなれず、学校にも行かずただただ日が昇り沈むのを窓からさす光で感じるだけだった。
顔を合わせる事が少なくなった父親は、たまにウィックと顔を合わせると、何かを堪えるような辛い表情をするだけで声を掛けてくれず、目も合わなかった。ウィックは、訳がわからず、そんな時は布団を被って泣くしかなかった。泣いているウィックの耳に隣室で言い合う父母の声が聞こえ、彼の不安は大きく深くなっていた。
「お祭りだから行ってみよう?」
母親が、疲れた顔で躊躇いがちにそうウィックを誘ったのは、朝珍しく食卓のテーブルにウィックが座ったからだった。二人ともこの二月近く気持ちが落ち込んでいた為、いよいよ参ってしまいそうだった。塞ぎ込んだ息子をどうにか元気付けたく何か理由を付けて外に連れ出したかった。
ウィックは、躊躇いながらも頷いた。彼本人も切っ掛けを欲していた所はあった。悲しみは少し薄らいだ気がしていた。それは、ニコフ小父さんが亡くなって、もう会えない事を受け入れ始めたという事だった。
躊躇いながらも賛同してくれた息子に母親は、少し気持ちが軽くなった。彼女には、旧友の死よりも家族の事が心配だった。特に息子の気落ちの大きさに心を痛めていた。だから、理由は何であれ外に連れ出す事を考えていたのだが、これは後に後悔へ繋がってしまうとはその時は思いもよらなかった。ともあれ、その時の彼女は、息子と祭り会場へと出掛けた。
住宅地を抜けると、商店やレストランが立ち並ぶエリアに入る。そこまで来ると祭りの様子はより華やかになり、すれ違う人々の表情は晴れやかで明るかった。中央広場から放射線状に伸びる通りでは、そこかしこで大道芸人や路上音楽家が芸を披露して愛想を振り、商店やバーや食べ物屋は店の前に露店を出して賑わっている。いつもよりも人がごった返しているのは、近隣や遠方からこの祭りを楽しみにやって来た観光客が居るからだった。中央広場は、一部馬車の通り道になっている以外は、流れる音楽に踊る人々や酒を酌み交わし大笑いしている者が溢れていた。
親子は手を取り合い、人々の間を歩き立ち止まっては音楽に耳を傾け芸人の技に目を奪われた。ウィックは、落ち込んだ暗い部屋からこんな華やかな外に出た事で、異世界に迷い込んだように、心と身体は目眩を感じた。その目眩は、彼の心を支配していたものを端に追いやり、今見ているものが現実からずれている様に感じる事が、気持ちのすり替えに助力した。曇りがちだった彼の瞳に一条の光が差すのを母親は見逃す事はなかった。
「何か食べたいものある?」
「・・・ポポノッフ・・」
ウィックは、躊躇いがちに言った。ポポノッフは、薄く焼いたお米の粉の皮に甘く煮込んだリンゴとナッツを包んだこの地方のお菓子で、シナモンや胡椒を入れる所もある。この町のポポノッフは、バターと甘酸っぱいベリーも入っていて人気がある。
「じゃあ、買いに行こうか」
母親は、頷く息子の手を離さぬようにしっかりと握り締めて引いて歩いた。
日が頂点から傾いた頃だった。数発の花火が上がり、町中に響いた。広場ではファンファーレが鳴り響き、塔の周りが騒がしくなった。塔の周りで祭りを楽しんでいた人々が止まり、一様に塔を見上げた。塔の根本の方からロープを持った人々が民衆を塔から遠ざけるように規制線を張っていく。鳴り響く音楽の中で、塔の周り百五十フィン(三十メートル)程の人の輪ができた。
音楽がパタリと止むと、広場は静寂が支配した。その時皆一様に息を飲み込んだ。その喉の音が聞こえる程人々はそれを待った。少し間があり、だんだん人のざわめきが生まれ始めた頃、塔の上に翼のような物の影が見えたのを数人が気付き小さく声を上げた。ざわつきながらも殆どの人々の目がその影に注がれた。下からは逆光の為、何者がそこに居るのかは判別出来なかった。それがある意味フィルターとなって、塔の上の何者かが命を掛けたチャレンジを煽る気持ちが皆の心に生まれた。颯爽と空を切り裂き頭上を越える事を想像する者が多かったが、そのまま墜落して広場の石畳に血が広がり、悲鳴がこの広場を包み込む事を想像してニヤつく者もいた。しかし、誰もが一編の詩の朗読を聴くような、一本の芝居を観るような、そんな面持ちで空を見上げていた。
ウィックたち親子は、広場から少し入った通りの店で、ぶどうの果汁の入ったミルクを飲んでいた。母親は、広場の動きに気が付くと、息子の手を引き帰ろうと促した。これからマルカブス・ムットが行われる。ウィックが知ればニコフの事を思い出してしまう。不安が過った。
ウィックは、広場の様子が気になって仕方無かった。心がざわついた。人々の気持ちがそちらに向かっているのが何となく分かった。だから、母親に手を引かれながら広場に目を向けようと何度も抵抗しながら振り向いた。しかし、まだ幼い少年の目線からは大人の背中や頭しか見えない。そして、少しずつ遠ざかる度にそれらは折り重なり厚いカーテンとなり阻んだ。
広場では大きな歓声が上がり、再びファンファーレが鳴り響いた。声が煽るように大きくなる。
そして、一瞬無音になった。
数秒音が消えた。
その数秒の無音の後、親子の背中の向こうで、ドっと何か重い物がが地面に落ちる音が聞こえた気がした。
広場から大きな悲鳴が上がり、それが連鎖していった。
息子の手を引く母親が、立ち止まり振り向いた。
嫌な予感が身体を支配した。
少年は、暗い影を引く母の表情に不安な顔で同じ様に広場を振り返った。
広場から慌てた表情で走って来る者、状況が気になり広場に向かう者、混乱に戸惑い立ち往生する者。
人々の渦の中、母親は離されないように息子の身体を抱いた。
少年は飛び交う怒号と悲鳴に耳を塞いだ。
降り頻る雨の中、少年は母の手をぎゅっと握り返した。雨と涙が入り混じって濡れた頬を歪めながら、氾濫する気持ちを抑えようとして、それでも感情は降り止まなかった。
ニコフの墓の隣に新たな墓穴が掘られており、葬列が運んだ棺が静かにそこに下された。教会の僧が死者を悼む言葉とその後の魂の安らかなる事を願う言葉を語る中、母親は花束をそっと棺の上に投げ入れた。息子もそれに倣いそうした。そして、これが本当の別れなのだと実感して、母親の体にしがみ付き大声で泣いた。
ウィックの父親カリクが死んだ。
マルカブス・ムットで塔から落ちたのは、カリクだった。妻も挑戦する事は聞かされていなかった。しかし、ここ最近の夫の様子を思い返し、思い当たる事があった。ニコフの死後、町長と話したのはその事だったのだと知り、町長を責めた。夫にそれを提案したのは彼である事は明白だった。しかし、町長は失敗したのは自分の所為では無いと突き放し、祭りを台無しにしたと苛立ちすら彼女に向けた。葬儀費用と見舞金を出す事でその場を終わらせる事となった。妻は納得は出来なかったが、夫の異変に気付きながら、止める事も相談する事もできず、ましてやニコフの死の疑惑すら彼に持ってしまった自分を責めた。自分がもっと注意深くしていれば、息子は父までも失う事は無かったのだ。すがり泣く息子の背中に手を添えて、母親は声を上げて泣いた。この先もう泣かない為に泣き切る様に泣いた。
四
上空で花火が鳴った。青い空に煙が舞うが直ぐに風でかき消された。ウィックは、それを見て風を強く感じた。
塔の下では、音楽隊がファンファーレを奏でた。マルカブス・ムットの始まりを告げるそれは、四年前にウィックが聴いたそれを思い出させた。言い知れぬ不快感が腹内に現れ、出ようとしていた。ウィックは、呼吸の回数を増やし深く吸わない事で、それを和らげた。大きく息を吸ってしまうと、違う物が溢れるのを喉の奥に感じてその気持ち悪さが目の端に涙を生んだ。人の渦巻く通りと母の必死の掌に滲んでいた汗を想起した。四年前の光景がフラッシュバックし、断片的に奔流のように駆け巡り、当時の音が反響を繰り返しぐわんぐわんとウィックの脳内を駆け巡った。ウィックはたまらず口元と胸を抑えた。翼を背負っていなければその場に蹲っていただろう。足下もガタガタと震え、自分がここに居る事の理由を見失った。直ぐにでも帰りたいと思い。しかし、何処に帰るのだろうか?と自問した。それはウィックにとって反逆的な意思によるものであった。自分を嘘つきとレッテルを張り何かに付けて、不満の捌け口にしてきたモールに対してであり、家族を残して死んでしまった父親に対してであり、自分を愛してくれなくなった母親に対してであり、冤罪を押し付け罪人として扱ったクラスメイトに対してであり、彼の英雄としてあり続けてくれなかったニコフに対してであり、ウィックを残して死んでしまったリークに対してであり、ウィックの居場所の無くなったこの町に対してであった。
視界の下方端で人の動きが見えた。塔の周りに居た人たちが塔を取り囲む大きな輪の様に遠ざかった。
いよいよその時が来てしまう。
ウィックは、不快な緊張から溢れる汗を感じた。四年前に墜落して亡くなった誰かの事を考えた。それが誰なのかを誰も教えてくれなかったが、今ここに来てようやくその誰かと同じ運命を辿る可能性を幻視した。
でも。と、ウィックは考え直した。ニコフ小父さんは出来た。ニコフ小父さんと一緒に翼作りをした僕が作った翼は大丈夫だ。そう不安を打ち消そうとした。
四年前の誰かが、失敗したから僕は嘘つきにされて、居場所を無くしたんだ。僕がそれを変えるんだ。ニコフ小父さんなら飛べたんだ。ウィックは、大きく息を吐き出した。
四年前、ウィックの父親が亡くなった後、数日間学校を休んだ。ニコフの死後から数えると三ヶ月近く学校を休んでいた。それでも何とか学校に足を向けたのは、父親の畑を母親が一人でやらなければならなく、忙しく彼にかまえなくなった事が一つの原因だった。ナオマクの教えをこい畑仕事に汗を流している間、ウィックは一人だった。時折ナオマクの家で奥さんの世話になったが、母親の力に少しでもなりたいと畑を手伝おうとした。しかし、母親は学校に行って勉強して欲しいとそれを拒んだ。ナオマクの奥さんにもそれが一番の助けになると諭され、ウィックは登校する事を決意した。
久々の登校は、足が重く逃げ出したかった。それでも、学校が近付くと、クラスメイト何人かが久々のウィックの顔に驚きながらも心配して声を掛けて来てくれた。
教室に入り席に着くと、隣の席のメアが心配そうな目を向けてきた。
「ウィック君。大丈夫?」
丸く大きな目がウィックの横顔を見つめていた。
ウィックは、ぎこちなく頷きながら「うん」と応えると。少しだけメアの方を見た。
「ずっと休んでいたから、心配したよ。今度休んでいた時のノート見せてあげるね」
メアの提案にウィックは「ありがとう」と応えながら背中がムズムズするのを感じた。真っ直ぐ見ることのできない憧れの女の子の目の端に見えた柔らかな前髪に、ウィックは救われた気持ちになった。
間も無く授業が始まるという時間に、後方の扉が乱暴に開かれる音を聞いた。ウィックは、反射的にそちらに目を向けた。そこには、モールとカテルとウートが居た。久々に会う友達の姿に気後れしながらも声を掛けようと体を向けたが、モールに睨み付けられウィックは声を出せなかった。先生の気配がして、不機嫌そうに席に着くモールの椅子を引く音がウィックの心を引っ掻いた。
授業が終わり皆が帰り支度を始める中、ウィックは今日一度も言葉を交わす事の出来なかったモールと放課後を過ごしたくて、支度をしてモールの席を見るともうそこには彼は居なかった。何度か授業中や休み時間に彼の様子を伺っていたが、目を逸らされたり睨まれたりして、ウィックは気後れしてしまった。ウィックには、モールの態度が分からなかった。何故、以前の様に話しかけたり帰りも誘ってくれないのか理解が出来なかった。
気落ちしているウィックに、隣で丁寧に帰り支度をしていたメアが「一緒に帰ろう?」と、声を掛けた。ウィックは、メアの方も見ずに首を横に振った。
「ママが言ってたの。ウィック君のお家大変だから、優しくしてあげようねって・・・」
「知らない!そんなの僕知らない!」
ウィックは、メアの方を見ないままそう言うと、乱暴に教室を出て行った。教室に残った居た数人の生徒は、声の強さに皆んなが止まった。目だけが教室を出るウィックの背中を追っていた。ウィックが教室を出ると、其々は状況の判断よりもそれまでしていた事に戻った。メアはただ一人、言われた事を消化出来ずに静かに泣き始めた。
教室を出たウィックの足は、早歩きから段々と速度を上げていき、校庭に出た時には駆け足になっていた。自身の抱えた感情が分からず混乱したまま、校庭を駆け抜けた。
校庭を出て、家の方に向かう道に曲がると、ウィックは息が切れてその速度が落ちていった。それと共に目に涙が溢れるのが分かったが、何故自分が泣くのか分からなかった。感情に理解が追い付かず、涙を袖で拭い堪えようとした。その滲んだ視界に影が差した。
視線を上げたウィックの前に居たのは、モールとカテルとウートだった。ウィックは待っていてくれたのだとホッとして、笑顔を作ろうとしたが、逆に涙が出て止まらず口元が震えた。手を伸ばし、近付いたウィックの手をモールははたき落とし、その手でどんとウィックの胸を強く突いた。ウィックは、予期しなかった事によろけて、足がもつれ尻を着いて倒れた。驚きに目を丸く見開いてモールを見上げた。カテルを見上げた。ウートを見上げた。三人が三人、悔しそうにウィックを睨め付けていた。
「嘘つき!お前は嘘つきだ!」
モールは、ブルブルと震えながら拳をぐっと握って居た。
「「嘘つき!」」
カテルとウートもウィックに感情を投げつけた。
モールは、悔しそうに涙を堪えて顔を真っ赤にして居た。ウィックが話したマルカブス・ムットの英雄に彼も又憧れ、夢を託して居た。祭りの日に飛ぶ姿を観て、そしてその背中を追い、自分も飛ぶ事を心に描いて居たのだ。それなのにモールたちの見たあの日飛んだ誰かは、飛ぶことも無く墜落死した。その事にモールは、酷く傷付き夢を見失い否定された気持ちになっていた。だから、英雄の事を話したウィックの事が許せなかった。モールが希望から裏切られたのはウィックの所為だからだと心から思っていた。
「もうお前は友達じゃない!裏切り者だ!絶交だ!俺は許さない!」
ウィックが、モールの泣いているのを見たのはこれが最初で最後だった。モールも又、自分の感情に振り回されてわけが分からなくなって居た。吐き出しても吐き出してもスッキリする事のないこの感情は、それでもウィックにぶつけずには居られなかった。
モールは踵を返し、感情のままに走り去った。その後をカテルとウートが慌てて追って行った。
取り残されたウィックは、仰向けに倒れ大声を上げて泣いた。
もうすぐ冬を迎えようとする空は、細かく千切れた雲が静かに浮いていた。