指先に残る柔らかな記憶
十九
町は、祭りの喧騒でざわついていた。
毎年の秋祭りに比べて、四年に一度訪れるマルカブス・ムットが行なわれる年は、やはり人の多さが違っていた。
アニルは、自ら人混みを分け入りながらも早くこの場から離れたい衝動と戦っていた。四年前のこの祭りで夫を失った彼女には、この場は悪夢しか呼び起こさない。あの日の光景と、変わり果てた夫の姿と泣き続ける息子の姿と葬列が頭を離れなかった。アニルは、ずっと胸に宿り続ける不快感に奥歯を強く噛み耐えていた。
アニルは、この町を離れる事を考え始めていた。畑仕事も洗濯の仕事も放り出して、新たな生活を始めなくては、彼女自身も息子のウィックも壊れてしまうと強く感じた。もっともそれは、既に崩壊してしまっていると彼女にも思えたがそれでも決して諦めてはいなかった。
「ウィックを連れてこの町を出るんだ」
アニルは、決意を口にした。
祭りを楽しむ人々の風景が、四年前の夫の惨劇を何も振り返らない様子である事にアニルは愕然とし、この町に生きる事の無意味さと失望感に決意を強めた。
しかし、母親の決意の裏で、昨日の夜から息子のウィックが見当たらない事にアニルは不安で仕方なかった。何か事故に遭ったかもしれないと、今朝早くから探し回っていた。ナオマクや警備隊や市場の人たちに尋ねて回ったが、誰も息子を見た者は居なかった。ナオマクの所に顔を出さなくなったのはここ数ヶ月の事だとその時知った。それから思い当たる場所を歩き回ったが、どこにも息子の形跡すら見つけられなかった。一年近く息子から距離を置かれ、その間の息子の行動範囲や習慣をアニルは知らない。そんな事態を引き起こしたのは自分に責があるとアニルは唇を噛んだ。その彼女の不安に追い討ちをかける様に、祭りの為にこの町に訪れた人々が溢れ出して、探す事をより困難にした。
アニルは、遠くに見える塔を憎らしげに見上げた。今日、彼女が顔を上げるのは初めての様に思えた。
不眠と探し続けている疲労が色濃く、彼女の目は落ち窪み、頬はやつれて唇は乾燥してかさついていた。肌も荒れ、口元は不安に口角が落ち、老女の様な表情であった。
憎かった。
目に映るあの塔は、彼女に数々の不幸を呼んだ元凶に見えていた。
アニルにふと嫌な思いが浮かび上がった。
ニコフは、メニアの死から立ち上がる為そして夢への一歩を踏み出す為、自身を占う意味も込めてマルカブス・ムットに挑んだ。夫のカリクは、その真意はアニルには分からないが、ニコフの死とメニアの死に絶望して、自らの生をそこに委ねた様に思えた。
ウィックが直面した、かつてマルカブス・ムットを飛んだニコフの死。父親のカリクとの突然の死別。友人との不仲。学校での居場所の喪失。それを経験してしまったウィックが、そこで行なわれるマルカブス・ムットに何を思うだろうか。
アニルは想像した。
あの子は、現状を変えてくれる何かを欲している。自分の力だけではどうにもならない現実に立ち向かう為の何かを。
アニルは、顔を覆って声を上げて泣いた。
そうだ、あの子は、一人で立ち向かわなければならなくなってしまっていたのだ。私は、私自身の身の回りのことで精一杯で、あの子の心まで抱きしめてあげられていなかった。守らなければならないと決意した筈なのに、生活の為と言い訳して弱さに逃げてしまった。それは、きっと彼に失望させたのだ。そう考えて、アニルは自分を責めた。しかしそれは、彼女の責任だけでは無い。いつの間にか歯車は、彼女に選択肢を与える間も無く動き出してしまっていたのだ。それに気づく事ができなかったのだ。
たとえそれが仕方なかった事だとしても、アニルは自分を責めるしかなかった。何かの所為にする事はいくらでもできた。でも、それはもうしたく無いと、アニルは声を上げて泣いた。自分が責任を負う。それが今、母親としてウィックにしてあげられる最低限の事だと自分に言い聞かせた。
ウィックは、必ず塔の近くにいる筈だと、アニルは確信した。
だから、必ず見つけ出して無理にでもその手を引っ張ってこの町から出て新たな生活を始めるのだ。
アニルは、立ち上がり涙と鼻水をハンカチで拭くと、再び歩き出した。
強い母の顔で、塔へと立ち向かって行った。
二十
その日は、雨が降り続けていた。
父親が、突然亡くなってから、三年半近く過ぎていた。ウィックは、父親がどうして亡くなったのかちゃんと知らされてはいなかった。事故死とだけ伝えられていた。
同様に、友だちの信頼を失い、避けられ虐められる様になってからも三年が過ぎていた。最初は、モールたちから暴力や嫌がらせを受けるだけだったが、だんだんと周りが同じ様にウィックを扱う様になっていた。なぜ、ウィックがそんな目に遭わされているのか、モール以外の加害者の誰も理由を知らないまま、悪ノリは連鎖して行った。ウィックにとっては、最初の理由などもうどうでも良くなっていた。モールが傷つき、その痛みをウィックにぶつけたが、ウィックもまた、モールと同じ事に傷ついていた。だから、ウィックは、痛い事は嫌だと感じながら、自傷行為の代わりにしてしまっていたのだろう。しかし、それはエスカレートし、拡大してしまい、最早ウィックに収束や解決は不可能な状態にまでなってしまっていた。ただの児戯の快楽にウィックは、利用されてしまっていた。
その日は、雨の所為もあったのか、何事もなく学校の授業が終わった。
霧雨の中をウィックは、一人と足重に雨用のコートを羽織り歩いて帰った。気温はまだ肌寒く、ウィックは、濡れた指先や足元が冷えてかじかんだ。少しでも雨と寒さを凌ごうと、コートを掴んで首を窄めた。そのコートは、以前にナイフで何箇所か切られて裂けているのを自分の手で繕ってあった。下手くそに繕った所為で二箇所ほど風が吹くとひらひらとなびき、そこから雨が入ってきてしまう。この雨ならば、濡れる事はさほどなかったが、寒さが体をより冷やし、侘しい気持ちは否めなかった。
水溜まりを避けて小さく飛びながら泥濘んだ道を、ウィックは進んでいった。
雨の日は、ウィックは少しだけ気持ちが楽だった。雨に濡れて不快になる事はあったがそれ位だ。学校での嫌がらせや暴力も、教室にいる事が多く大人の目が届きやすい状況ではその頻度が少なくなった。それに、学校を出てしまえば雨に濡れたり泥に汚れるリスクを冒してまでウィックに手を出そうとはしてこなかった。だから雨の日は、ウィックは、自由を勝ち取れた気になれるのだった。それでも、ウィックは、少し遠回りをして帰る。待ち伏せされて何度も酷い目に遭った経験から、帰りの通路を変えるのが習慣となっていた。
この日も学校を出ると、最短経路では無い違う道へと入って行った。商店が並ぶ場所を選んで通る事で、少しでも軒下に入って雨に濡れるのを減らす考えもあった。家に帰る時間を少しでも遅くしたいウィックには、迂回する事は何の躊躇も無かった。それでも、店から食べ物の匂いがしてくると、寂しい気持ちがして心細くなる。だからせめて、それが何の匂いなのか突きとめようとウィックは考える。
パンの香りがする店を覗き込み、パンはパンでもあれは香草を練り込んだ生地を焼いた物だとか、あの揚げ物屋のフライは芋をほぐしたものが入っているとか、ウィックは観察して嗅ぎ分けて考察した。何気ない遊びではあったが、ウィックの孤独な心と持て余した時間を少しは埋めてくれた。
それでも空腹に耐えかねたウィックは、パン屋に入りパンを一つ買う事にした。
雨に濡れた姿の少年をパン屋の店主の女将さんは、乱暴な手つきではあるが、「あらら」と呆れた声を出しながらも拭いてくれた。
「雨宿り?それとも買ってくれるの?」
女将さんは、大きな吊り上がった目で俯き気味のウィックに尋ねた。
「それ、ください」
ウィックは、籠に立てられたバゲットを指差した。
「あいよ。まけといてあげるよ。今日は雨で湿気ちゃうから早く売ってしまいたいんだ」
女将さんは、そう言ってウィックからお金を受け取ると、その鞄じゃ入らないねとバゲットを半分にカットして包んでくれた。それとは別に、どうせ売れ残るからと木の実が生地に練り込まれたパンも持たせてくれた。
ウィックは、言葉少なく礼を言い店を出ると、このまま廃劇場へ行く事にした。
その道の途中で、ウィックは声を聞いた。
その声は、か細く弱々しかった。霧雨のヴェールに包まれて、聞き取れるギリギリの声をウィックの耳は捉えた。最初、その声がどこから聞こえてくるのかウィックは、判別する事ができなかった。聞き間違いかとも思ったが、それでも耳をそばだて目を凝らして辺りを探った。少年の好奇心を掻き立てた事もあったが、その声が助けを求めている様にも聞こえて、ウィックは放って置けない気持ちになった。
ようやく見つけたその声の主は、民家の低い生垣の下にいた。悲しげな声を上げながらも、ウィックが覗き込むと怯えた目で後退りした。ウィックが手を伸ばすと、逃げようとはするものの、雨に濡れて冷えてしまった事で体力を著しく奪われており、震えたまま動けない様子だった。
ウィックの手が、少し乱暴にその前足を掴むと生垣の下から引っ張り出した。それは、必死の抵抗を試みようとウィックの手を噛むが、小さな歯ではウィックの手に大した痛みも与える事ができず、ウィックの行動を止めさせるには至らなかった。
ウィックは、生垣から引っ張り出したそれを今度は優しく胸元に抱いた。雨に濡れて細く見窄らしく震えているそれは、小さな子猫だった。まだ小さい事を考慮しても、痩せ細り弱々しく今にも消えてしまいそうな命だった。
ウィックは、その弱々しく声を上げる子猫を抱えて廃劇場へ急いだ。
廃劇場に入ると、ウィックはすぐさまランプに火を入れた。光があまり入らない劇場内は、こんな雨の日はとても暗かった。
子猫はぶるぶる震えながらも、ランプに近付けてやると、その温もりに少し落ち着きを見せた。ウィックは、廃劇場に置きっぱなしにしてある毛布と手ぬぐいを引き寄せると、子猫の体を拭き、毛布でくるんでやった。毛布で丸くなった子猫はそれでも震えたままだった。
そこでウィックは、劇場内にある廃材を集めた。燃やして火を起こして子猫を温めてあげようと考えた。焚き火を起こした事のないウィックは、火種があっても上手く木に火を移らせる事ができなかった。しばらくかかってようやく、木のささくれて細くなった場所に火が移ったが、そこに木を乗せて大きくしようとしたら火が消えてしまった。ウィックは、もう一度挑戦して、今度は火が安定したのを見計らって少しずつ火を大きくしていった。そこで、ニコフが焚き火をしていた時のことを思い出して、空気の通り道を作りながら、木を立て掛けるように組んでいくと、上手く燃え始めた。湿った木は、周りに置いて乾かしておくといいと言う言葉も思い出して、雨に湿った木は火の近くに並べて置いた。火が落ち着くのに安心したウィックは、毛布ごと子猫を膝の上に置いて、その小さな頭を優しく撫でた。まだ子猫の震えは止まらなかったが、安心したのか子猫は眠っていた。
しばらく火を見ながらぼうっとしていたウィックだが、ふと気になった。焚き火の煙が外に出ているのを誰かが見たらここにいる事が知れてしまうかも知れない。しかし、ウィックの心配は、今日に限っては取り越し苦労の様だった。雨で出歩く人も少なく、煙も雨である程度目立たない。ただ、夜になって暗くなったら明かりが漏れてしまうかも知れなかったが。ウィックは、ふと浮かんだ心配よりも目の前の命の危機の方が大事だと不安を拭い去ると、思い出した様に鞄からパンを出して食べた。木の実の入ったパンは香ばしくて美味しく、ウィックは少し不安になっていた心が落ち着いた。
そうだ、とウィックは、もう一つのバゲットと残してあったミルクを鞄から出した。
バゲットの柔らかい部分だけを千切ると、ミルクに浸してそれを子猫の鼻先に近付けてみた。子猫の鼻先と口元がミルクで濡れた。子猫は薄らと目を開け、小さく口を動かして舌を出して口元に付いたミルクを舐めた。ウィックは、少しずつパンにミルクを染み込ませて、子猫に飲ませた。子猫の体から震えとは違うコロコロと細かい振動が伝わって来た。ウィックは、その振動に幸せな気持ちになった。
夜になってもウィックは、一度家に帰る事にした。とは言え、夕食を済ませたら寝たふりをして抜け出そうと考えていた。焚き火とランプを消して、毛布に包まれて寝ている子猫の横を静かに出て行った。
家に帰り、夕食を済ませてやり残していた宿題をしていると、戻るつもりだった筈のウィックは、疲れ果てうとうととそのまま眠ってしまった。
翌朝早く目を覚ましたウィックは、自分が寝てしまった事に後悔しながら、慌てて朝食を済ませた。母親のアニルは、朝早くから畑に出ている為、ウィックの朝食と弁当を用意したらすぐ出掛けたらしく既に居なかった。ウィックは、少し寂しさを感じていたが、認めずに気まずく無くていいとうそぶいて家を出た。
昨日の雨は上がっており、ひやりとした湿った空気が急ぐウィックの鼻を抜けていった。
ウィックは、心配だった。自分が寝てしまい行かなかった事で、子猫に何かあったらどうしようと考えていた。きっと寒さに震えているお腹を空かしているかもしれない。
廃劇場に着くとウィックは、静かに中に入った。子猫を驚かせてはいけないと言う配慮からそうした。目を凝らして見回すが気配は無かった。毛布のところに来たウィックは、強く後悔した。何で僕は寝てしまったのだろうと、ぎゅっと拳を握った。毛布の周りに黒い羽が幾つか落ちていたのだった。
僕が来なかったから、カラスに襲われてしまったんだ。そうウィックは、自分を責めた。脱力して、劇場の座席に座った。手をだらりとして天井の空いた穴を恨めしく見つめた。ウィックの目からじわりと涙が溢れた。
と、そのウィックの指先にざらりとした何かが触れた。えっ?とウィックが指先を動かすと、チョンチョンとその動きを追う様に何かが触れた。顔を動かして自分の指先を見ると、子猫がウィックの指先を小さな前足で突いていた。子猫は、ウィックが見ている事に気付くと、酷く掠れた声で鳴いた。
「いま、ご飯あげるからね」
ウィックは、目を拭うと鞄を開けて、昨日の残りのバゲットを千切り、新しいミルクを入れた皿に浸した。
子猫は夢中で舌を動かしてミルクとバゲットを食べた。あまりに夢中になり過ぎて、前足を皿に乗せてしまい、びちゃびちゃになりしまいには、皿が傾いてしまい残りを溢してしまった。
ウィックは、笑いながら皿を直してミルクを追加してやった。
子猫は、どうやらカラスに襲われ掛けたが、咄嗟に物陰に投げ込み助かった様だった。ウィックは、ちゃんと隠れられる場所を作ってやらなければと考えていた。
ひとまず、座席の下に毛布を敷いてやり、木材や板で囲って隠れ場所を作ってやると、子猫は気に入った様で、匂いを嗅いだり体を擦り付けると中に入って毛布の中に落ち着いた。
「学校に行ってくるから、大人しくしているんだよ」
ウィックは、そう言うと皿にミルクを注いでから劇場を出て学校に向かった。
授業を受けながら、ウィックは子猫の名前を何て付けようかずっと考えていた。
下校時間になり、ウィックは、何もかも振り切る勢いで走って廃劇場に向かった。
陽光が差して暖かい舞台の上で眠っていた子猫を抱き上げると、ウィックは光に掲げて言った。
「リーク!お前の名前はリークだ!」
ウィックの手の中で、迷惑そうに眠い目を開けた子猫のリークは、掠れた声でニャアと鳴いた。
二十一
風を受けたウィックの翼は、ぐっと彼の体を持ち上げた。しかし、それは一時の事だった。体を支えるほどの筋力のない彼は、急激な変化にバランスを取る術を持ち合わせてはいなかった。そして、可動域の多いニコフの考えた翼は、風を上手く捉えるために調整が可能な作りであったが、それを支える主軸のしなやかさと強度が必要な上、それを支えるための腕の筋力と風を捉える経験と知識が不可欠であった。ウィックには、決定的に筋力と経験が不足していた。加えて言えば、ニコフの翼を正確に再現出来ているとは言い難かった。だから、ニコフであれば好機の風は、ウィックに決定的な不運となってしまった。風が吹かなければ、滑空する事ができ、そして運が良ければ地上に降り立てたのかも知れない。
しかし、風は吹いた。
吹いた風は、ウィックの翼を持ち上げた。その事で、左右の大きさの違いから、ウィックの体は揺さぶられバランスが崩れた。それをどうすれば体勢を直せるかの経験がなく、ウィックはただ身を任せるしかできなかった。風に戻された為、後ろに反ってしまった右腕と右翼が塔の縁に強かにぶつかり、細く削った主軸がベキリと折れた。
ウィックは、落ちた。
右手の翼と左手の翼がほんの少しだけ落下の速度に対抗した。その為、ウィックの落ちる軌道は螺旋を描いていた。クルクルと風に踊らされていた。
ウィックの意識は、殆ど無くなっていた。急激な状態の変化に意識が飛んでいた。
「リーク・・・」
世界が緩やかに見える中で彼は、その名を呟いた。母親でも父親でも無く、ほんの少しの時間を共有することしか出来なかった子猫の事を思っていた。
リークは、ウィックの膝の上で喉を鳴らして安心した様子で寝ていた。その体を撫でてやると、まだ頼りない体に柔らかで暖かな毛がウィックの手のひらを優しくくすぐった。
元気になったリークは、ウィックが廃劇場に現れると小走りに駆け寄って来て、甘えた声を出して擦り寄って来た。
ウィックとの遊びに夢中になりすぎて、手を引っ掻いて傷付けてしまった時、後から痛そうなウィックの手を申し訳なさそうにざらつく舌で舐めてくれた。
モールたちにいじめられて劇場で一人泣いていると、リークは心配そうに涙に濡れた手を舐めてくれた。
思わず抱きしめて、その柔らかな毛に頬を寄せて居ると、迷惑そうに抜け出し毛繕いをしていたリーク。
ウィックが、救い、ウィックに寄り添ってくれた、小さな命。ウィックが、いなければすぐに失われてしまった命。だが、その命も守り切る事はできなかった。
ウィックに一人になる事の辛さや悲しさをより深く刻んだ。それでもなお、ウィックは、その温もりを欲した。
マルカブス・ムットに挑戦して成し遂げる事ができたら、元通りになるかも知れない。
ウィックは、どこかでそれを望んでいた。
突き放して逃げてしまった母の胸に帰れるかも知れない。モールが認めてくれて、また友だちに戻ってくれるかも知れない。せめて暴力や虐めをやめてくれるかも知れない。メアやクラスのみんなが、ウィックを称賛して冤罪を晴らしてくれるかも知れない。町の人たちのウィックたち家族に向ける目を変えてくれるかも知れない。母親があんな事をしなくなるかも知れない。
僕がここに居る事をみんなに認めてもらえるかも知れない。
ウィックは、失なってしまったものを取り戻したかった。自分が失ったと思って居るもの。手放してしまったもの。そして、自分自身が存在している理由や意味をそこに示したかったのだ。
僕を見て!僕はここに居るよ!
ウィックは、ずっと叫びたかった。でも何かに吸い寄せられる様に声は出なかった。誰もが叫ぶ事なく、誰かに自然と認められるその事が、ウィックには、ずっと遠く手の届かないものになってしまっていた。まるで、そうなる事が当たり前のようにここ数年でウィックの環境は変わってしまったのだ。彼にそれをどうする事ができただろうか。少なくとも彼自身に選択肢すら見えていなかった。
ウィックの希望を捉える筈だった彼の翼は、今、無惨にも折れてしまった。
「リーク」
少年の体が、螺旋を描き石畳に墜落する寸前、少年の口は再びその名を呼んだ。
広場の時は止まっていた。誰もが動けずにいた。ただ、石畳の目地を少年の流した血が、縁取るように流れていった。
少し遅れてその上に、柔らかな白い羽がゆっくりと舞い降りて来た。
まるで、少年の死を覆い隠したいかのように、真っ白な無垢な羽が、ゆっくりと舞い降りて来た。
ここまで呼んでいただきありがとうございます。
この話は、私が高校の時に書いた短編を二十年以上経った今、改めて書き直したものです。
書き足したい部分や説明を追加していったら、元の分量の五、六倍になってしまいました。
結末は変えられませんでした。
このお話は、哀しく救い無いものだと書いた私自身も自覚しています。
不快に思う方もいると思いますし、酷い話だと思う方も居るかも知れませんが、それでいいと私は思っています。
この話に何か一つでも感じて考えて貰えれば嬉しいです。
ちなみに私は、この話の母親アニルの目線で読み返すと辛くてたまりません。
この子にとても辛い事を押し付けてしまいました。
それではまた。