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  作者: 無月雨景
1/10

風の吹き抜ける町

      一



 少年は、コルトスの街を見下ろしていた。

 いつもの街の景色とは違い、誰もが高揚し浮き足立った様子で家族や恋人や友人と寄り添っている。そして、今、その多くが彼の方を見上げていた。見上げる先に居るのがその少年であることは、彼らには分からなかった。しかし、そこにいる誰かがこれから行う事がこの街の発展や安全、人々の健康を祈願するイベントである事をよく知っていた。彼らがそれに対して出来るだけ上手く終わる事を願うと同時に、四年前のような事を繰り返して欲しくないと思う者が多数だった。しかしながら、四年前のような事が起きることを望む者も確かにいる。その双方の目は同じく期待と不安の入り混じった光を帯びていた。

 その小柄でぼさぼさ髪の少年、ウィックは、下から煽るような風に鼻先と前髪をくすぐられながら、コクリと息と唾を飲み込んだ。不安定な体勢にならないように、少しだけ顔を前に出し視線を下げた。そうする事により、彼の立っている塔の足元近くまで見えた。彼が想像していた以上に目眩を覚える高さに足が竦むのを感じた。確か、高さは約四十フィルク(約十八メートル)くらいだと言っていた。ウィックは、ニコフ小父さんに聞いた塔の高さを思い出した。何となくだが、具体的な数字を思い描く事で、恐怖から少しでも目を背けたかった。

 マルカブス・ムット。古い言葉で塔を飛ぶと言う意味を持つこのイベントは、文字通り高い塔から飛ぶのである。ただ飛び降りるのではなく、飛ぶ為に作った自作の翼を持って飛ぶのだ。数百年に渡り続けられて来た伝統的で儀式的なイベントではあるが、その起源を知る者は殆どいない。百年戦争が終わり、国の名前が変わったここ百年程は、この国の神話に登場する、蝋で固めた自作の翼で太陽を目指した青年の話が起源とされ信じられて来た。

 戦前戦中もこのイベントは毎年行われて来たが、死亡事故や怪我人が多く、今の国に統治されてからは、国教により自殺はタブーとされておりそれに準ずる行為だと一時禁止された。それでも、伝統であり祭りの大事なイベントである為町民の娯楽として残して欲しいと言う声が上がり、数年に一度にして安全にも配慮する様にとの役人の采配で、今の四年に一度開催する形となった。

 この町の町長モリヌは、塔のある広場を見渡すことの出来る商家の屋敷のテラスの席に座り、吹き出る汗を何度も拭きながら不安な目で塔を見つめていた。四年前の様な事が今年も起これば、彼の長としての面目は潰れて役人からの目も厳しくなる。そして、もしイベントが無くなれば、近隣や遠くから祭りを見に来る人々が減り、特産品や観光資源の乏しいこの町は立ち行かなくなりかねない。本来ならば、あんな子どもを飛ばすのは不本意でしか無かった。しかし、四年前の事があり今回は志願する者がなかったのだ。そこで、かつて彼の父親がしていた様に遠くの街で高額で人を雇い飛ばすことも考えたが、役人から咎められ罰金を支払わされていた事も思い出しどうにも動けなかった。それでも、イベントを中止する訳にはいかず途方に暮れる中、自らの意思で志願して来た少年にすがってしまった。だが本番当日を迎え、今更ながら上手く立ち上がれないほど後悔している自身に動揺していた。

 ウィックは、背中に背負った翼を動かしてみた。翼には中程に掴める革のベルトが取り付けてあり、それを手で持って鳥の様に羽ばたける様になっている。それを持って内に絞る様に動かすと、その手に空気を捕らえる様な抵抗感があった。その事で少し気持ちが落ち着くのを感じた。フッと息を吐くと、ウィックは目線を上げた。

 ウィックの居る塔の上は、飛ぶために開けた造りになっていて、ぐるりと町を見渡す事ができた。北のレイグス連峰の白い峰々や西の奥には、セラネーサス湾の水平線も見えた。

こんな景色は、今まで見た事も無かった。何年も彼にとってそれは何の意味も無い物でしかなかった。そして、今も彼の心を揺さぶったりはしなかった。そこに美醜を感じるまでの関心は起こらなかった。そこにあったんだなという程度の感想がふっとだけ湧いた。それだけの事だった。

 彼の関心は、別な所にあった。見えた景色よりももっと足下にある町の中にあった。この高さから町を見回すと直ぐに目につく大きな建物。それを視界に捉えて、ウィックは目と口許を歪めた。

「・・・モール・・・」

 その建物に重なって浮かぶクラスメイトの口にするのも嫌な名前を苦々しく呟いた。

 アイツのせいで僕は・・・

 ウィックは、モールによってもたらされた災いの数々を奥歯ですり潰そうとするかの様な表情で、建物に浮かぶモールの顔を睨みつけた。


 ・・・何で・・・やっぱね・・・酷いよ・・・貧乏人・・・出て行きなさい!・・・盗んだんだ・・・ニャァ・・・私だって・・・酷いよ・・・お前のせいだ!・・・あんたが居なければ・・・嘘つき・・・酷いよ・・・ニャァ・・・お前なんて要らないんだよ!・・・仕方無かったんだ・・・


 ウィックの朝は早く、日が上がる前から始まる。

隣のベッドで眠る母親を起こさぬ様に気を使い、そっと薄っぺらい布団をめくりベッドを降りる。真っ暗な部屋の中をゆっくりと足音にも気を使い、扉にたどり着くと両手で細心の注意を払い開けた。居間兼台所のテーブルの椅子に昨日のうちに用意したズボンとシャツを手探りで掴み、着替えると台所の脇の勝手口から外に出た。

 外はまだ暗く、星の微かな光で照らされているだけだった。それでも、室内の暗さに慣れたウィックの目には、あたりの様子が知覚できていた。

 少しの緊張から解放され、ウィックは体をぐっと伸ばすと大きく欠伸をした。そのまま手足を伸ばしストレッチをすると鼻から大きく息を吸った。朝冷えの冷たい空気が一杯に肺の中に入り、惚けた頭を少し明瞭にしてくれる気がした。

 ウィックは、自分の左頬をそっと触った。腫れてはいないが、昨日の帰り道でモールに殴られた頬の痛みはまだ少し残っている気がした。「こっち見るなよ貧乏人!クセェんだよ!」下校中のウィックの目の前に現れておきながら小柄な少年ウートがウィックに文句をつけて来た。ウィックの目の前には、モールとカテルとウートが立ちはだかっていた。「汚ねぇシャツ!ほんと臭そ」ヒョロ長い少年カテルもウートの言葉に乗って囃し立てた。その二人の真ん中に立ったモールは、嗜虐的な笑みを浮かべて右手の拳に左手を乗せ関節を鳴らした。その姿にウィックの体がこれまで何度となく殴られた記憶と痛みを呼び起こす。理不尽な状況と恐怖に逃げたい気持ちと竦む足が絡まり合い、逃げ出そうとしたウィックだったが十フィン(約二メートル)も逃げられずに足がもつれて倒れてしまった。仰向けになったウィックの両腕をカテルとウートが抑えつけ、モールはゆっくりとウィックの上に馬乗りになった。歪むウィックの表情にカテルとウートの笑い声が浴びせ掛けられた。「やだ!嫌だ!やめて!」涙を流しながら訴えるウィックの左頬に振り上げられたモールの拳が打ち抜いた。ウィックは痛みと恐怖に体を丸めた。その背中や頭を何度も強かに蹴飛ばされた。それからどれだけの時間が経ったのかウィックには分からなかったが、気が付けば辺りは夕暮れて三人は居なくなっていた。引き剥がされた鞄と片方の靴は、細い農業用の用水路に投げ込まれていた。

 ウィックは、昨日の事を思い出し滲む涙を指先で拭い、拳で太腿を何度か叩いた。その痛みが何かを麻痺させてくれる訳ではなかったが、声を上げて泣くのだけは抑えてくれた。

 ウィックは、勝手口の脇に停めてある自転車に手を伸ばした。ハンドルとサドルは朝露に濡れていた為、ウィックは、シャツの袖を使ってサドルを拭いた。ハンドルは拭かずに手で水気を払うと、両手で掴み自転車に跨った。ペダルに足を乗せ体重を掛けるとじわりと動き出す。足下の悪さから、よろめきながら不安定に走り出す自転車を何とかバランスを取り、整備の悪い道を進んだ。

 コルトスの町は、塔のある広場を中心に商店や宿屋がある街があり、その周りを囲う様に住宅地がある。そして、その町を横断する様に国道が貫いている。国道沿いは宿が多く軒を連ねている。戦争前は、かつての国境が近く、町の周囲に軍拠点が敷かれる事が多く、コルトスの集落は物流の要として戦争の恩恵を受けて来た。その所為もあり戦争中は幾度となく国の名前が変わった。その為の犠牲も計り知れなかったが、しかし、戦況が安定しさえすれば、集落は潤い人も増え活気付いた。戦争が終結し国が平定された今、物流の中間点でしか無くなったこの町は、しがない宿場町でしかなく、かつての都市に迫る繁栄も昔の話となった。

 ウィックの家は、国道から遠く北側の外れにあった。住宅地からは外れ、農地が広がる地域で川一本隔てた所にあった。住宅地がに住む人々と川向こうに住んでいる人々とは、見えない隔たりがある。それは、戦中に財を築いた者とそうで無い者を隔てる前者のプライドの名残と言えた。

 ウィックは、悪路を自転車で走りいつも通りにナオマクの牧場にたどり着いた。ナオマクは五十過ぎの体格の良い農夫で、畑と牛を飼っている。ウィックの父親がやっていた畑を母親が引き継いでから、アドバイスや手伝いをしてくれており、彼の奥さんもウィックを孫の様に目を掛けてくれていた。二人に子供が居なかった事も世話を焼いてくれる理由の一つだった。

 ウィックは、牛の世話の手伝いと牛乳の配達をする事で、多少のお金を貰っていた。父親が農業をしていた事もあり、将来は父親の残した畑を引き継ぐ事を考えていた為、ナオマクは、彼にとっていい先生だった。

 牛舎の入り口の脇に自転車を停めると、幾つかのランプによって照らされた牛舎に入って行った。奥からナオマクが、錆び付き形がひしゃげようやく用途をこなせる鉄のバケツを手に下げ現れた。

「おはよう」

 ナオマクは、ウィックの顔を見ると表情薄くそう言い、水を汲みに行ってしまった。ウィックは、いつもの通りに牧草にフォークを突き立て、持ち上げると牛たちの目の前の餌箱に配っていった。そこにバケツに水を入れたナオマクが戻り、餌箱に流し込んだ。ナオマクは、バケツを一旦置くと一頭の牛の柵の縄を解き、中に入ると牛の縄を持って牛を引き連れて来た。その縄を無言のままウィックに差し出した。ウィックは、チラリとナオマクを見てから小さく頷き、その縄を受け取り牛を先導するように縄を持って裏手に向かった。牛はいつもの事と分かっているらしく、彼の後を少し空けてついて行くので、縄には何の抵抗もなくだらんと緩んだままである。裏手には母屋から続く建物があり、搾乳の為に一頭ずつそこに連れて行くのだ。ウィックが入り口をくぐると、奥さんが待ち構えたようにそこに立っていた。ふくよかな体型で目は細く垂れていて優しい表情で見ている奥さんにウィックは何だかほっとした。正直ナオマクの事は尊敬はしているが少し苦手だった。

「朝ごはん食べな」

 搾乳場の隅に置かれた小さなテーブルに乗せられた、ミルクの入ったコップと目玉焼きの乗ったトーストを奥さんは手で示してそう言った。ウィックは、小さく礼を言うと木の椅子に腰掛け食べ始めた。ミルクもトーストも暖かく、ウィックの来るタイミングを見計らって用意してくれていた様だった。ウィックの落ち込んだ気持ちを少し持ち上げてくれる気がして、気付かれないように鼻をすすった。

 朝食を食べるウィックの横で、奥さんは牛を繋ぎ搾乳を始めた。搾られた乳が桶にたまる音がここ数年のウィックの朝の音になっていた。搾ったミルクを容器に移し換え、それを町の契約している家々に配るのがウィックの朝のメインの仕事である。朝食を食べ終わると、牛の入れ替えを手伝い配達の準備を始めた。カゴ付きの頑丈な三輪の自転車を納屋から出し、カゴにミルクの入った配達用の容器を積み込んだ。必要数を乗せると、作業を続けるナオマクの横顔に「行って来ます」と声を掛けた。自転車に跨り、ペダルを踏み込む。荷物の分重いペダルにグッと体重を掛ける。ゆっくりと自転車が前に進んで行った。


 塔の上から町を見ていたウィックの視線は、ナオマクの牧場から彼の家に移動していった。

 今、あの人は家に居るのだろうか?それとも祭り会場に居るのだろうか?ウィックは、ふとそんな事を思った。今日の事は、母親には何も伝えていなかった。反対するのは明らかであったし、一年近くまともな会話をした記憶が無い。だが、きっとこの会場に来ている筈だとウィックは考えていた。あの人は来る。あの時のように。ウィックは、拳を強く握った。

 ウィックの家から住宅地に入る道沿いに廃墟になった劇場がある。かつて町の人口が膨らんだ際に造られたが、人が減り経営が成り立たなくなり廃業してそのまま放置されていた。入り口も塞がれ人が立ち入れず建物も一部崩れている為、近所の子供たちはお化け屋敷と怖がった。それに伴い不気味な噂が立ち、近所の人間は近づく事も無くなっていた。それは、ウィックにとって都合の良い場所だった。かなり怖がりな彼も噂を聞いていた為、これまで近づく事など無かったのだが、二年前にモールの犬に追い立てられ夢中で逃げ込んだのがこの建物だった。薄暗く廃墟と化したその劇場は、独特の雰囲気があり不気味ではあった。その時ウィックは、息が上がり肩を大きく動かしながらもその光景に心を奪われた。夕方に差し掛かる薄琥珀色の光が崩れた天井の隙間から溢れ、スポットライトを無数に作り、舞台周りの装飾の雰囲気の中で神秘的な空間を作り出していた。静けさの支配する空間に光の音を聞いた気がした。

 一人になりたい事の多いウィックにとって静かで人が来なく、何より外界から隔離された空気感が呼吸を楽にしてくれた。それからウィックは、劇場に毎日の様に出入りしていた。ランプや布を持ち込み、自分なりに過ごしやすくスペースを作り、夕食ができるまでの時間、宿題をしたり絵を描いたりして過ごした。出来る限り家にも帰りたく無かったのだ。

 そこで過ごすメンバーが増えたのは、半年程前の事だった。雨の日にウィックは、子猫を拾い劇場に連れて来た。か弱く震える子猫の身体を拭いてやり、布でくるんで温めてナオマクに分けてもらったミルクを与えた。数日で元気を取り戻し、子猫はウィックの指先に戯れ付き舐めてくれた。弱々しくは有るが、その命の暖かさをウィックは愛おしいと感じた。子猫にはリークと名前を付けた。

「リークおいで」

 劇場の最前列の長椅子の座席に座り、ウィックが訪れたことに気付き舞台に顔を出したリークにウィックは声を掛けた。すっかり元気になったがまだ幼く短い足をちょこちょこ動かして、階段を降りてウィックの足元に来た。差し出したウィックの指先に顔を擦り付けるリークに自然と顔が綻んだ。リークの幼い毛のふわふわした感触に帰り際にモールに頭を理由もなく叩かれた不快感が霧散する。ウィックは両手でリークを抱き上げた。リークは不自由さに嫌がり手足をばたばたと動かした。幼い爪がウィックの手を引っ掻いたが、その痛みなどどうでも良かった。手の中に柔らかな命がある事の暖かさにウィックは幸福を感じた。

 ウィックは、リークを座る椅子の横に乗せた。

「今日はパンもあるからな」

  そう言って鞄から給食で配られたパンの残りを千切ってリークの前に置いた。

 リークは、すんすんとパンの切れ端を嗅いでから口にした。パンの弾力と乾いた歯触りが、上手く口内に留まらず何度も口から溢れてしまっていた。

「今、ミルクもあげるから」

 ウィックは、席の下に置いてある皿を取り出すと、ミルクを入れた水筒から注いだ。これも給食の残りを水筒の中身の水を飲み干して入れて来たのだった。後で自分で洗っとかなければ又母親に叱られるとウィックは昨日の事を思い出していた。

 残っているパンを千切り、自分の口にも入れた。パサパサした食感が水分を欲し、ウィックもミルクを口にした。残ったパンを自分の口とリークのミルク皿に入れると、ウィックは立ち上がり舞台によじ登りそこに置いたランプに火を入れた。薄暗い舞台が優しく照らされた。外はまだ明るい時間だが、閉鎖されたここはそうはいかない。光が差し込むと言っても限定的なのだ。

 ウィックは、ランプの灯りの中で今日出された算数の宿題を始めた。勉強は嫌いでは無い。でも、ウィックには落ち着いて集中する場所が少なかった。学校ではクラスメイトに怯えて、家では母親の苛立ちを感じてしまい、居心地の悪さを感じていた。時折泣いている母親の呼吸をウィックはいつも耳を塞いで聞かない様にしていた。

 ウィックは、算数の問題を解いている時、外界の全てから意識を逸らす事ができる様で気持ちが楽になった。そこにある記号や図形や数字は、いつもシンプルで答えは必ず見つかった。数字の純粋さは、ウィックには魅力的で優しいのだ。

 ウィックが算数の宿題を終えると、いつの間にかリークがウィックの脇に身体をつけて丸くなって眠っていた。ウィックは、座り直すとリークを抱き上げ膝の上に乗せた。リークは寝ぼけながら一度薄目を開けたが、ウィックの温もりを確認すると、ゴロゴロと喉を鳴らし再び眠りに落ちて行った。


「リーク・・・」

 ウィックは、塔の上でリークと過ごした時間を思い出して、鼻の頭がくすぐったくなった。しかし、直ぐに嫌な匂いを連れてきた。悲しい匂い。リークの血の匂い。

 あの日、あの朝、朝の仕事を終えてミルクをあげに行ったウィックが見たのは、舞台上に広がった既に黒くなった血と客席の通路に落ちていたまだ幼さの残る猫の前足の一部だった。その足がリークのものだとウィックは直ぐに気付いたが認められる事では無かった。しかし、どれだけ泣き叫んで名前を呼んでもリークは現れない。愛猫がもう居なくなってしまった事をウィックは思い知らされた。知ったがそれでも認めたくは無かった。

 その時ウィックには、四年前に亡くなった父親と野犬に襲われて亡くなったニコフの事が重なった。好きなものが居なくなってしまう苦しみと恐怖が蘇り、ウィックは体の中の全てを吐き出すかの様に嘔吐し、声を上げて泣いた。


 


      二



「俺は十五歳の時にマルカブス・ムットで飛んだんだ」

 焚き火の薪を弄りながらニコフは笑った。

 ニコフは、ウィックの母親アニルと父親カリクの古くからの友人だった。長い旅に出ていたらしくウィックは、それまで会ったことは無かった。もっとも会っていたとしてもきっと覚えてはいなかっただろうが。

 ニコフが、コルトスの町に戻って来たのは前回のマルカブス・ムットの行われる数ヶ月前だった。理由は、町長から頼み込まれ飛ぶ為に来たのだ。十二年前のマルカブス・ムットで飛んだ実績があり、この年の挑戦者が見つからず町長が必死で探し連絡を付けた。ニコフは、王都の商店などと契約し各地に商品を卸す仕事をしている。結婚はせず荷馬車を走らせ各地を回っていた。両親は既に亡くなっており、この町に親戚も居らずこの町に帰る事が無かった。この後初めて知ったのだが、ウィックの父親のカリクもニコフと共に少しの間旅をしていた。

「空を飛ぶってどんな感じ?」

 ウィックは、隣に座るニコフを見上げた。マルカブス・ムットの話は、クラスでも話題になっていた。四年に一度、祭りで行われるそのイベントは、子供たちにとっても一大スペクタクルであった。ましてや、歳の近い友だちはまだ誰も見た事はなく、見ていても覚えては無く、想像することしかできない。子供の想像の翼は無限に羽ばたき、何処までも行ってしまう。もう少し大きくなったら挑戦するんだと男の子たちは口にした。ウィックも例に漏れず大きな声では言わなかったが、胸の内に秘めた炎の熱に興奮した。そして目の前に生き証人がいる事は、少年の目を輝かせた。

「そうか、そうだな。ウィックは見た事が無いよな」

「うん。友だちのモールが言ってたんだ。マルカブス・ムットで飛ぶと英雄になれるって。いっぱい飛んだら、大陸を渡って海も越えられるって。僕、海の向こうまで行ってみたいんだ」

「それは凄いな。俺は何とか町を出る所までは飛べたが、ただ必死で、飛んだ時の事は半分も覚えてないよ。でも景色は凄かった。そうだな、地面に降りた時に足を痛めはしたが、俺はこれから何でも出来る!って気にはなったな。とても興奮してた。だから余計・・・」

 ニコフは、何かを言いかけて止めた。懐かしむ様な目ではあったが複雑な気持ちを孕んだ目でパチリと鳴る炎を見つめていた。ウィックは、炎の赤い光に照らされる男の顔に少年の純真な憧れを重ね目を輝かせた。照らされたニコフのその目の奥の哀しみは少年の目には映らなかった。

「飛ぶと言う事は、家族があれば一杯心配かけてしまうし、今思えば自分の事も考えていなかったな」

 この言葉は、ウィックには英雄の冒険譚の様に聞こえた。

「もしかして、飛ぶ為に帰って来たの?」

 ウィックは、英雄の凱旋と新たなる章の幕開けに鼻息を荒げた。

「そうなるな」

 ウィックの耳に本の一ページ目が開かれる音が聞こえた。

 ニコフは、わくわくの止まらない様子の親友の息子の頭をグリグリと乱暴に撫でた。この子の為にも今回で終わらせなければならないと、ニコフは笑みを口元に浮かべながら決意を強くした。


 ウィックにとって、ニコフとの出会いは誇らしく優越感を与えた。聞くところによれば、前回も前々回も挑戦した者達は、飛んだとは言えない結果で終わっている。一人は飛ぶ直前で翼が壊れてしまい飛ぶ事を断念し、一人は飛び出したが直ぐに落ちてしまい、広場を出る事も出来なかった。落ちた際に両足を骨折するという怪我もしてしまっている。つまり、成功した英雄が父親の友だちだという者は、クラスメイトの誰にも居ない。だから、少年心にその事を打ち明けてクラスで注目を浴びたいという欲望に駆られた。しかし、会った事は男同士の秘密にして欲しいとニコフに頼まれて、話さないと約束を結んだ。ウィックは、祭りがまだ数ヶ月後だと言うのに男子を中心に盛り上がって居る教室の中で複雑な心境だった。机の上に立ち、マルカブス・ムットの真似事をし、教室に来た先生に怒られているモールを子供だなと自分が飛ぶ事を達成した気分で哀れに思った。

 帰り道で、モールとカテルとウートと共に布を首に結びマントの様にして端を手で持ち、はためかせながら走り回った後、四人は町外れの丘に寝転んだ。

 四人はそれぞれ息が上がって胸で激しく呼吸をしていた。特にカテルとウートは、運動が苦手らしく口を大きく開けて目は閉じて呼吸だけしか出来ない様子だった。その様子を横目に少し走り過ぎたなと、整い始めた呼吸に身体を起こした。モールはウィックたちよりも少し上の丘で手を伸ばし、その先を見ていた。モールは、ウィックの視線が向いている事に気付いて、目を合わすとニッと歯の抜けた口を見せて笑った。ウィックは、モールの事が好きだった。少し乱暴で無茶な事を言う時はあるものの、彼は何時も前を向いていた。この四人のリーダーとして、遊びを提供してくれるし物怖じしない彼の態度は、遊びをエキサイティングにしてくれる。

 モールの視線は自分の手の先に戻っていた。それが何処に向かっているのかウィックには分かる気がした。少年が今空に描く憧れと期待と同じだと思った。少し、いやウィックが見るそれよりももっと先を見ている様に彼には思えたし、そうであるはずだと確信していた。先陣を切る事に尻込みしてしまう自分とは違い、自分たちも一緒にきっと連れて行ってくれるとその希望に満ちた横顔はウィックに期待させてくれた。ニコフが彼に抱かせるそれは、英雄譚の遠い憧れだがモールとだったら実現可能な思いとしてウィックの胸を熱くしてくれた。

「僕、マルカブス・ムットを飛んだ人と会ったんだ」

 だから、秘密を持つ事が罪の様に思えたのかも知れない。男の約束と言う禁断の果実が親友と秘密を共有したいと思う気持ちにより熟して弾けた。

「僕のお父さんの親友なんだ」

 モールの目が輝くのが見えた。

「これは男同士の約束だから、本当は話しちゃダメなんだけど、みんなだから話すんだ」

 ウィックは、果実の甘い匂いに酔いしれながらニコフの事を話した。三人の目は、少しの疑いを孕んでいたが次第に体が熱くなり、ウィックの話に夢中になった。

「誰にも話しちゃダメだよ」

 そう締め括って話を終えたウィックは、その晩なかなか寝付けない程興奮が後を引いて収まらなかった。


 ウィックは、学校を終えるとその日もニコフの元へと走った。モールたちがそれを察して、自分たちも連れて行くよう懇願したが、ウィックは誰にも内緒にすると約束しているからと断った。申し訳ない気持ちも確かにあったが、三人を置いてニコフに会いに行く道中は、優越感が優ってウィックの頬を緩ませた。三人に話した事によって、秘めた優越感は具体的な輪郭を帯び羨望と言う新たな香りが加わった。しかしその事が、少年たちの心に嫉妬や妬みを連れて来ようとは、今のウィックには想像もつかなかった。

 ニコフの作業場は、教会の敷地内の倉庫だった。煉瓦積みの頑丈な作りで、広さも五十フィン(十メートル)四方近くある。元々は貯蔵庫として使われていたが、今は一部を倉庫として使っている以外は殆どのスペースが空いている。戦中は情勢が変わる度人々の生活にも影響が出る事が多く、不安定だった為教会に食糧などの生活に必要なものを貯蔵していたが、国境が変わった今はその必要がそれ程無く空に近い。また町自体の経済状態が芳しく無いのも原因と言えた。その空いているスペースを使い、ニコフは翼の作成をしていた。

「おじさん」

 ウィックは、声を潜めてニコフに声を掛けた。しかし、空間が広い為反響した声は予測よりも大きくなってしまった。

「学校終わったのか」

  ウィックの来訪に嬉しそうにニコフは応えた。ニコフは、作業の手を止め額に浮き出た汗を首にかけた手拭いで拭うと、ウィックをテーブルの席に座らせ柑橘の果汁を絞った水を出した。ニコフは自分のコップに注ぐと一気に飲み干した。ウィックは、いつもの様に少し口にしてその酸っぱさに顔をしかめた。

「あ、ごめんな、ちょっと入れすぎたか」

 ウィックの表情を見て、すまなそうに笑った。

「ううん。大丈夫」

 ウィックはそう言ってもう一口飲んで我慢して笑った。

「翼は進んだ?」

「予定より少し遅れてるけど、何とかなりそうだよ。学校はたのしいか?」

「そうだね」

 ウィックは、自分の学校の話をするよりもニコフの作っている翼の事が気になって仕方なかった。椅子から立ち、作業中の翼に近付いた。

 軽い木をよく乾かしたものを軸に可動部に竹を使いしなやかさを出している様だった。まだ翼には見えなかったが、少年の好奇心を刺激するには十分だった。どの部品も磨き上げられており、手触りが滑らかだった。

「翼に舐めした皮を張る予定だが、軽くて強い素材が無くて強と軽さのバランスが難しくてな。今、強度を出せて軽く作れる骨格の設計を考えているんだけどな」

 ニコフは、興味深く骨組みを見ているウィックに説明した。ウィックは、こうやって子供扱いせずウィックの好奇心に向き合ってくれる事が何よりも嬉しかった。こうして毎日のように作業場に現れるウィックを邪魔にする訳ではなく、助手として簡単な作業もやらせてくれる。

「小父さんは、この町に住まないの?」

 それは、ウィックには大きな疑問でも有り願望だった。このままずっと一緒にいて欲しいと思っていた。

 ニコフは、切ない笑いを浮かべながら、「それも良いかもな」とウィックの肩を抱いた。

「前にも飛んでるし、今回だって絶対飛べるし、小父さんは英雄だから町の皆んなも喜ぶと思うよ」

 ウィックは、そう言ってニコフの事を見上げたが、辛そうに笑むだけで応えてはくれなかった。だが、ウィックにはその願望が現実になる根拠の無い確信があった。

 少年は、影が長くなった帰り道、ニコフと一緒に空を飛ぶ事を思い描きながら両手を広げ、風を切って家路を駆けて行った。

 それから三日後、ニコフが死んだ。






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