エピローグ マイナスからようやく脱却できた二人のその後
「本当に良いのかなぁ……」
そう呟きながら天堂は会社の前で佇んでいた。
何時ものスーツではなく今回の為にわざわざ用意した無駄なほどに高級なスーツを体に纏い、直前に値段という意味でも予約という意味でも大変な美容師に頼み整えたこの姿。
それでこれから心機一転して働くのではなく、辞める前の最後の一花咲かせる為に使うのはいかがなものだろうか。
そう思う天堂だが『幸せになるなら嫌な目にあう場所からは離れないとね。嫌とは言わせないわよ』と言われている為どうにも出来ない。
その上で惚れたというどうしようもない弱みを抱えている天堂はこの事については断る事が出来なかった。
「まあなる様にはなるか」
元々緊張という物とは縁遠く、更に言えば既に一番面倒である社長の方には話も付けている為問題はない。
今から行うのはルアプロデュースによる復讐……の様な何かでしかなかった。
「それでも……気が進まないなぁ」
独り身でなくなっても独り言の癖が抜けない天堂は苦笑いを浮かべながらそっと会社の入り口に向かった。
明らかに様子の異なる天堂に動揺の声が上がる中、天堂はつかつかと上がり込み、直接の上司のテーブルの前に移動してから退職届をテーブルに置いた。
「辞めます」
ただそれだけを堂々と言い放つ天堂。
明らかにざわついた空気を戻す様に上司は天堂を見下した笑みを浮かべた。
「ただ辞めますと言って辞められる訳じゃあないんだよ会社って。まあ中学では習わないから知らないだろうけどさ。大体辞める理由は何だ? お前みたいな奴を雇う会社が他にあると思ってるのか? それとも今から高校でも行くのか?」
そう上司が言うと小さな笑いが広がった。
それは思ったよりも嫌な空気だった。
「はぁ。じゃあ辞める理由ですが仕事休んでいないのに勝手に休んだ事にされたり使っていない有給がお金事消えていたり俺のした仕事が上司やその上の物になっていたりともろもろですね。これで三割位ですかね。正直言いだしたらキリがない」
その言葉を上司は鼻で笑った。
「はっ。思い上がりも甚だしい奴だな。何が『俺のした仕事』だ。というかお前みたいなのが俺ってなんだそりゃ? 高校生デビューには遅すぎるぞ? ああ悪い高校すら行ってなかったな。だからそんな恥ずかしい事出来るんだな」
そう言って笑う上司に釣られ、部署は人を見下した愚かな笑いの渦に包まれた。
天堂はそっと書類を手渡した。
それを笑いながら受け取った上司は……その笑顔を強張らせた。
「おま……これ……」
そう言ってわなわなとする上司の声は周囲の天堂を馬鹿にする声にかき消される。
それは天堂の有給申請や休暇申請を不当に使い、利用した人物のリストと天堂が行ったはずなのに他人の功績になっている事の本当の記録とその証明が事細かに記録されていた。
当然だが会社の資料は共謀して既に改竄済みであり、そんな記録が残っているわけがない。
そうなのだが、それはどう見ても本物の記録だった。
「というわけで、辞めます。そのついでに本来の分の請求をさせてもらいますね。俺も金が必要になったので」
そう言葉にしてから返事も聞かず天堂は外に向かった。
「おい待て! お前そんな事してただで済むと思うのか!? 会社を舐めるなよ!」
そう言って追いかけようとする上司を天堂は無視した。
外にも、ルアによって用意された様々な悪徳の証拠が手元に残されている。
暴力や嫌がらせ、窃盗と天堂が被害にあった物からそうではない不倫など……この部署の人間のありとあらゆる証拠が用意されてた。
だが、それを天堂は披露しなかった。
理由の一つはルアに用意された物を使って偉ぶる事が恥ずかしく感じたからだ。
痛々しい記憶にしかならないだろうし最低限の義理を上司に果たせば後はもう逃げたい位である。
そう、これは天堂にとって最低限で回りくどくはあるが上司に対する慈しみの釘刺しである。
もしこれで大人しくし素直になればこれ以上酷い事にならない。
そう思っての行動だが……この様子だとそれは何の意味もなかった。
そしてもう一つの理由は、これからの事を考えても何一つ気分がさっぱりしなかったからだ。
相手が青ざめようと困ろうと慌てようと、どうでも良かった。
天堂はやはり他者に対して関心を持つ事が出来なかった。
こんな無駄な時間を使う位ならルアの笑顔を見ていたい。
そんな惚気を考える位には彼らに関心がなかった。
そして部署の入り口で申し訳なさそうに佇んでいる目上の人に、天堂はその証拠を手渡しそっと頭を下げた。
「ありがとうございました」
そう言葉にする天堂に、その人物は逆に深く頭を下げた。
「すまない。もう少し早く気づいていれば……。そして惜しかった。もしそうならワシはきっと最高の部下を持てただろうに」
「その言葉だけで嬉しいです」
そう言って天堂はその人――ここの社長と硬く握手をした。
その後社長は鬼の様な形相でさっきまで天堂のいた部署に向かった。
テイルは事前に社長の元に向かい証拠も交えて直々に話をした結果――天堂にとってあり得ないほどの幸運に恵まれた。
社長が理解ある人物とかそういう次元の話ではない。
なんとその社長と無二の友人となる事が出来たのだ。
ちなみに、天堂にとって最初の友人でもあった。
年齢も身分も違い、その上初めて会話したのだが……それでも真の友と言って良い関係となっていた。
その理由は単純で、社長も天堂と同じ様な境遇の人物だったからだ。
学校は小卒で実家の農家の手伝いをさせられ、食事は長男と家族だけで食べ自分は一緒に食べた事もない。
スペアというよりも備品の様な扱いを受け虐げられてきたからこそ一念発起に社長になった。
そんな人物がここの社長だった為、社長が天堂の事を知ると同情ではなく共感を覚え、二人は連絡先を交換しあいお互い気兼ねなく話せる位には無二の友となっていた。
社長の方には友人はそれなりにいるのだがその様な悲惨としか言えない同じ境遇の者はどこにもおらず、だからこそ天堂と無二の友であると断言出来るような関係にわずか数時間でなった。
お互い自分の境遇が酷いという事に、鏡の様な相手を見て初めてまともに認識しお互い笑う事が出来た。
それが昨日の事である。
だからこそ、ここの社長には特大の地雷があった。
学齢を馬鹿にすることである。
周りの人間と比べられてきた社長だからこそ、ずっとコンプレックスを抱えて来た社長だからこそそれは社長の逆鱗である。
そんな社長が天堂の境遇と言われてきた事を知れば、天堂と友情を育んでいなかったとしてもどうなるかは火を見るよりも明らかだった。
「……まあ良いか。あの人とはまた会えるし」
そう言葉にし、天堂はぺこりとその部署の方に頭を下げ、会社から出ていった。
その足は思った以上に軽く、背中に羽が生えている様な気分だった。
どうやら自分でも気づかない内に相当以上に嫌な思いをしていたらしい。
そう、嫌な事を感じなかったわけではない。
ただ、見ない振りをして生きていただけだったのだ。
それを天堂はようやく気付く事が出来ていた。
「ただいま」
そう言って部屋に戻るとぱたぱたとキャラ物スリッパを慌ただしく動かしながらルアがテイルの方に向かって来た。
「おかえり! どうだった? 嫌な事言われた? 処す? 処す?」
そう言って犬の様に駆け寄ってくるルアを見て天堂は頭を撫で首を横に振った。
「処すって何ですか一体。何もしなくても良いですよ」
「んでどうだった? 思った以上に早かったけど……」
そう言って心配そうな目でルアは天堂を見ていた。
天堂がこれから幸せになる為にルアに言われた事は三つ。
そう、あの三つの願いの相手に、天堂自身で大きな苦痛を与え復讐する事である。
天堂が罪悪感に縛られず壊した感情を取り戻す為にそれが必要だとルアは考え、その為のもろもろを用意し、絶対に失敗しない作戦も天堂に用意した。
そしてその上で……。
「ごめん。途中で止めたんだ?」
「……どうして?」
不安そうにそう尋ねるルアに天堂は恥ずかしそうに呟いた。
「いや、ルアの顔が見たくなって」
その言葉の意味が最初はわからずルアは首を傾げ、そしてその意味に気づき頬を朱に染めた。
「……そ、そっか。それなら止めてもしょうがないね。うん。しょうがないしょうがない」
にやけた様な表情のままルアはそう言葉にしてからエプロンを脱ぎ、出かける準備を始めた。
「どこか行くのですか?」
「せっかく早く帰って来たんからお出かけしましょ。やらないといけない事は沢山あるんだし」
新しい住居に新しい仕事。
それ以外にも二人で暮らす為にやるべき事はまだ山ほどある。
ただ、そんな大切な事であっても今のルアにとってはただの建前であり、そしてそれも天堂は理解していた。
本当の目的は、もっとシンプルなものである。
「うん。じゃ、おでかけしよっか」
そう言葉にするとルアは満面の、心からの笑みで頷き天堂の腕に抱き着いた。
ありがとうございました。
突発的な短編でしたがいかがだったでしょうか。
どうしても短編は上手くいかないのか評価が付き辛いので書くのが怖いのですが、それでも突然思いついたアイディアを書くには丁度良くあるのでついつい書いてしまいます。
特に現在書いているお話の主人公は女性でありつつも恋愛要素皆無のキャラである為ラブコメ分が足りずこの様な結果となってしまいました。
読んで下さった方には深く謝罪を表し、同時に感謝をささげたいと思っております。
では、ここまでお付き合い下さり本当にありがとうございました。
またどこかでお手に取っていただける日を心より願っております。