02-02 木こりと魔術師
住処である山小屋の脇にはいくつかの丸太と、それより多少多くの「丸太未満」が並んでいる。
ランドリックは引き摺ってきた樹木を「未満」の方へいいかげんに並べて置き、やや思案するように丸太を眺めていた。
ランドリックの住処はマクイール王国の外れ、北北東に位置する大森林の入口だ。領で言えばニリルギム貴族領ということになる。
ここより北には広大な森が広がっており、森を越えたところで山しかない。国の端ではあるが国境というにはやや意味合いが違う、そんな場所だ。
ちなみに森の番人をしているとかそういう事情は一切ない。
この森の樹木がそれなりに高値で売れると聞いて住み着いただけである。この大森林特有の樹木は「オロズの木」と呼ばれており、非常に堅くしなやかで木目が美しいが、言ってしまえば嗜好品の類だ。他の木で代用できないわけではない。
森の位置が位置なだけに搬送に不便なこと、オロズの木は伐採するには堅すぎること、そして頻繁に獣が出現すること。これらの理由からオロズの大規模な伐採は見送られ続けている。
ランドリックが伐採したオロズの木は一番近くのカレンカという町の商人が買い取りに来るのだが、その頻度はかなり少ない。これが魔力を備えた特殊な樹木であるなら話は別だっただろうが、ようは単に丈夫な木材だ。貴族の注文を受けた家具職人がカレンカの商人へ注文を出しているそうだが、そのあたりの事情に関してはランドリックの知ったことではなかった。
たまに売れて、それで少量の酒が買えれば文句はない。
食べ物に関しては森中をうろついているし、小屋の裏では畑もやっている。木の実やなんかも時期によるが食べ放題だ。
確かに、少々退屈ではある。
しかしマクイールの中枢に残って政治的な権力闘争に巻き込まれるよりはずっとましだった。多くの人間の思惑の渦に揉みくちゃにされるのは嫌だ、というのがランドリックの所感だったし、実際、単純に向いていないだろう。
こんなふうに人気のない場所に引っ込んで木を切って獣を狩って暮らしている方が自分には似合っている――向いているかどうかは別として。
並べた丸太や丸太未満をぼんやりと眺めながらそんなことを思っているうちに、ふとランドリックは違和感を覚えて首を傾げた。その様子は、獣が遠くの物音に反応してぴくりと耳を立てる仕草に似ていた。
獣は己の内に生じた違和感を、ほとんど疑わない。
違和感を覚えたなら違和があるに決まっている。
〈――気に食わないやつが来るぞ〉
耳の奧で幻聴が響く。
十年前にはよく聴いた声だ。今でもたまに聞くことがある。例えばあまりにおかしな方向に木を切り倒し、結局は周囲の木も切り倒すはめになったとき。あるいは仕留めた獣の皮を剥いで放っておいたら腐ってしまったようなとき。
からかうような調子で、その声はランドリックを罵る。
しかしランドリックは幻聴に返事をしたりはせず、森の入口側へ――というよりは、カレンカという町に降りる方向へ――意識を傾けた。
特に舗装されているわけではないが、それでも何度も人が行き来しているうちに道らしきものができている。そこを向かって来る者がいた。
数は少ない。
男が一人、女が三人だ。
魔術師が一、魔法騎士が三――と、半ば自動的にランドリックの感性が判断する。その反射的な戦力分析にやや遅れて、ランドリックは歩いて来る魔術師が知り合いだと気付いた。
「やあ、ランドリック。久しぶりだね」
癖のない金髪を肩の辺りまで伸ばしたその男は、名をハミルトンという。
ハミルトン・マーレイ。
十年前の戦争で英雄と呼ばれた四人のうちの一人だ。
身に纏っている衣装は魔術師らしい軽装だが、施されている刺繍が身分の高さを物語っている。しかし非常に旅慣れているようで、こんな森の中を歩いて来た割には疲れた素振りもない。十年経ったとはいえ、ゲオルグに振り回されて戦場を駆け回るよりは森を歩く方が百倍は楽だろうから、特に不思議ではなかったが。
四人の中で唯一、マクイール王国で出世することを選んだ男である。
ランドリックの記憶が確かなら、宮廷魔術師団長のはずだ。これは王国騎士団長と同格であり、扱いとしては将軍……正式な階級までは知らないが、とにかく、将軍だ。
ならば侍らせている魔法騎士の女三人はハミルトンの護衛か。
といっても護衛される側であるハミルトンの方が護衛を三人合わせたよりもよほど強いわけだが、それはまあ仕方のないことだろう。
「ああ。なんの用事だ、ハミルトン」
と、ランドリックは答えた。しかしまだ距離が遠く、明瞭に声を響かせたハミルトンとは違い、ランドリックのぼそぼそ声は何処にも届かなかった。
そもそも他人と喋ること自体、かなり久しぶりなのだ。
仕方ないので道の向こうからハミルトンが近づいて来るまで待ち、ランドリックは同じ科白を全く同じように吐き出した。護衛の女三人が何故か怯えているようだったが、他人に怯えられることには慣れているので別に気にしなかった。
「きみも相変わらずだな。旧交を温めようという気にはならないのかい? わざわざこんな辺境まで、王国の宮廷魔術師団長が直々にやって来たというのに、まず訊ねるのが要件とはね。まったく、悲嘆がこの世を覆わんばかりだよ」
わざとらしい笑みを浮かべながらハミルトンは大仰に両手を広げる。
十年前はもっと真面目な男だったんだがな、とランドリックは記憶を探ったが、あるいは記憶違いだったかも知れない。
よく考えると、あまりにもゲオルグが我が儘で口汚かったせいでハミルトンの嫌味が印象に残らなかっただけ、というような気もする。
「で、要件はなんだ?」
繰り返すランドリックに、ハミルトンは広げていた両手をだらりと下げて小さく嘆息する。ひどくわざとらしい仕草だ。
「まあいいさ。きみはそういうやつだものな。それでも『王狩』よりは随分とましだ。ああ、そういえば前に来たのはその話を聞きに来たんだったな。あのときのことは覚えているか?」
「……北の国でゲオルグが戦に参加したとかいう噂があった。おまえはレオノーラが使われたのではないかと思った。だからここに確認に来た」
「五年前の話になるね。要件のひとつは同じだ。同じことを聞くために来た。樹霊剣レオノーラは、まだきみの手元にあるかい?」
樹霊剣レオノーラ。
十年前の戦争で『王狩』のゲオルグが使っていた魔剣の名だ。
ハイギシュタ戦役が収束して戦後処理の段になったとき、ゲオルグが唐突にランドリックへ樹霊剣レオノーラを渡してきた、という経緯がある。
――これはもう俺には必要ない、だが権力者に持たせておくのはヤバい、だからおまえに預けておく――。
ランドリックとしては魔剣を預けられても迷惑でしかなかったのだが、ゲオルグに義理がないといえば嘘になる。もちろんゲオルグの方もランドリックに義理はあるだろう。割合を計算すれば貸してる分の方が多い気もする。
が、結局ランドリックは預けられた魔剣を、今も預かったままだ。
「ああ。小屋においてある」
「五年前と同じ科白を言わせてもらうなら、『王狩』の魔剣をぼろっちい小屋の中に無造作に置いておくんじゃない。盗られたらどうする?」
「奪い返す」
反射的に答えてから、そういえば五年前も同じように答えたな、と思い出した。
なのでランドリックは記憶にある通りの科白をもう一度繰り返しておく。
「あの魔剣は持ち主を選ぶ。魔剣を欲しがるようなやつをあの魔剣は持ち主にしない。魔剣を使われるという懸念は必要ない」
「五年前はそうだなと頷いた。しかし今は少し気が変わったな。確かに樹霊剣レオノーラが盗まれたとして、盗んだ当人はレオノーラに選ばれることはないだろう。だが、その盗人の手を離れたらどうだ? さらに何処かへ流れたら?」
忌々しげに頭を振るハミルトン。その金髪が動作に少し遅れてはらりと揺れる。そろそろ三十代になるはずだが、今も昔も色男ぶりは変わらない。
頭脳明晰、容姿端麗、常人離れして秀でた魔術の才。
この男ならば戦争などなくとも王国の魔術師として頭角を現したはずだ。
「誰かの手から誰かの手に。それを延々繰り返せば、いずれ誰かがレオノーラに選ばれる。そうでないとどうして言える?」
「そうでないと言うつもりはない」
「だったら今度こそ考え直せ。レオノーラを私に預けろ。王国で管理する」
睨むというよりは射貫くような眼差し。
ランドリックはしかしあまり心を動かされなかった。ただ、ハミルトンの眉間や目尻に刻まれているわずかな皺に気付き、この男にも時間は等しく流れているのだな、というようなことを考えた。
相変わらずの色男だが、それでも確かに変化はある。
変わらないのは――自分の方だろうか。
こんな誰も来ない森の中に引きこもっていれば、変わりようもないが。
〈――約束だ、ランドリック〉
幻聴が響く。
しかしそんなものが聞こえようが聞こえまいが、返答は変わらなかった。
「おまえにレオノーラは渡さない」
「そう言うと思った。ランドリック、もうひとつの用件を話そう」
「もうひとつ……?」
「五年前と同じように同じことを言いに来るほど私も暇じゃない。同じように断られることくらいは判っていたからね。ヴァルト傭兵団を覚えているか?」
話題の転換は、やや唐突だった。
「グラウルの傭兵団だろう。覚えている」
「ああそうだ。戦争のときはきみの指揮下に入っていた。といっても作戦の立案も王国騎士団側との折衝も私がやっていたが」
「現場で上に立っているやつが必要だっただけの話だ。それにあいつらはおまえと相性がよくなかった。ゲオルグは論外で、イースイールも傭兵団を従えるような性格じゃない。結局は俺しかいなかった」
「付け加えるなら、彼らはきみの部下になりたかったのであって、私たちの部下になりたかったわけではないからね。厳密に言うなら、彼らは私たちの下につきたかったが、私たちの部下にはなりたがらなかった」
「相性の問題だろう」
ヴァルト傭兵団の団長、グラウル・ヴァルトは暴力沙汰で飯を食うことに慣れた男だった。そこには傭兵稼業の流儀があり、規律があり、常識があった。そしてその流儀や規律や常識は、英雄たちの誰とも共有不可能だった。
ゲオルグは他者の規律や流儀をあまりにも気にしない男だったし、魔女イースイールは個人主義的すぎて人を動かすには向いていなかった。ハミルトンは逆に行動規範が洗練されすぎていて傭兵の流儀にはそぐわなかった。
たまたまランドリックが彼らの流儀に近い位置にいたというだけだ。厳密にはランドリックも傭兵という生き方とはそぐわなかったはずだ。
ハミルトンは頷き、続ける。
「相性。なるほど、そうだろうな。きみが騎士団に入らなかったように彼らも騎士団には入らなかった。まあ何人かは傭兵団を抜けて騎士団に入ったがね。ところで彼らと最後に会ったのは?」
「十年……いや、九年前だな。一度だけ顔を見せに来たことがあった。仕事のついでだとかで、部下を何人か連れて、酒を持って来た」
「つい先日、ヴァルト傭兵団は壊滅した」
会話の流れのまま、当たり前のようにハミルトンは言った。
「壊滅?」
「ああ、そうだ。彼らの拠点はリンブロムの郊外だった。覚えてるか? イースイールが吹き飛ばした貴族の屋敷、あの跡地を拠点にしていたらしい」
「それは聞いたことがある。土地が安かったそうだ」
「なにしろ縁起が悪すぎる場所だ。あの土地を買おうという貴族はいなかった。それに王国側としてもヴァルト傭兵団の所在が掴めるのは好都合だった。規模は縮小したといっても、それでもハイギシュタ戦役で最も戦果を挙げた部隊だからね」
「壊滅と言ったか?」
「ああ、そうだ。つい先日のことだ」
やはり変わらない調子でハミルトンは頷く。
「傭兵団の団員、彼らが雇っていた料理番や手伝いの女も含めて、拠点の全員が殺されていた。戦闘の痕跡もなく、ほとんど一方的に狩られていたらしい。ちなみに目撃者はいないし、当然だが犯人――個人か団体かは判らないが、犯人も見つかっていない」
「……何故だ?」
「何故、というのは? どうしてヴァルト傭兵団が狙われたのか、という意味かい? それなら現状不明と言わざるを得ない」
「どうしてその話を俺にする」
「考えを変えてもらいたいからだ」
「……考えを?」
「ヴァルト傭兵団を壊滅させた連中――まあ、さすがに個人ではないだろう。おそらくかなり練度の高い部隊だと思うが、その目的は? もちろん判らない。判らないが、わざわざ皆殺しにしたという部分に、なにか意思を感じる」
細い指先が顎をなぞる。その仕草は十年前によく見たものだ。如何に効率的に敵軍へ損害を与えるか、それを考察しているときの所作。
四人が揃ってから一年以内にハイギシュタ戦役を終わらせたのは、間違いなくこの男の功績だ。もちろんゲオルグの戦力やイースイールの桁外れな大規模魔法も必要だった。だがハミルトンがいなければ、ゲオルグはなんの下準備もなしにハイギシュタに攻め入って王族を皆殺しにしただろう。
そして戦争は混迷を極めたはずだ。
単純に王族を殺しただけで終わる戦争などない。
国家間の戦争を終わらせるには、落とし所が必要だった。いや、大抵の諍いを終わらせるにはそれが必要なのだ。さもなければ敵味方のどちらかを皆殺しにするしかないし、そもそも世の中は敵と味方にきっちり分けられるものでもないのだ。
だから、世界から戦いはなくならない。
「おそらく、ろくでもないことを考えているやつがいる。思うに最もろくでもない状況というのは、レオノーラが使われることだ。あの魔剣に選ばれた誰かが我慢をしなくなったとき――そのことを考えると、私は恐ろしくて夜も眠れない」
仕草は芝居がかっており、科白は大仰だ。
しかし装飾を取り払って残るのは、ハミルトンの紛れもない本音に思えた。樹霊剣レオノーラが使われることを本気で懸念している。
あの魔剣さえなければ『王狩』など成し得なかった。
つまり、レオノーラを使う者が現れれば『王狩』が再現されかねないということだ。もちろんそうでないかも知れないが、『王狩』を成し得るというだけで十分な脅威である。
振るわれた魔剣が何処の国の王を殺すのか、知れたものではないのだから。
「もう一度言う。樹霊剣レオノーラを王国に引き渡せ。それが嫌なら王国騎士団に入るんだ。レオノーラはきみが持っていればいい。これは友人としてのお願いだ、ランドリック」
〈――約束だ、ランドリック〉
また幻聴が聞こえる。
実際、ランドリックとしてはゲオルグとの約束を必死で守らねばならない理由はないのだ。義理や借りを考えても、とても魔剣を預かる面倒には足りないはずだ。
こんなもの、手放せるものなら手放してしまいたい。
そう思うこともある。
しかし結局、ランドリックは首を横に振った。
「答えは変わらない。俺は騎士団に入らないし、レオノーラは渡せない。国や大義に預けないというのがゲオルグとの約束だ」
返答に、ハミルトンの眼差しが針の如く細められる。
あまりにも鋭く、触れてもいないのに切れてしまいそうなほど。
「――身勝手に国を救い、身勝手に国を捨てた男との約束が、そんなにも大事か? あの男は、ただ癇癪を起こして暴れ回ったに過ぎない」
「それで救われた者もいた」
「私たちが協力したからだ。あの男だけでは無理だった」
「まあそうだな」
そこについては頷かないわけにはいかない。
ただ、全てに頷くわけにもいかなかった。
ランドリックは言う。
「あの頃、俺たちは若かった。俺も、やつも、イースイールも、おまえもだ。なにもかも背負うような義理はないはずだ。背に負う荷物を選んでもいいくらいには働いたつもりだと思うが、俺の勘違いだったか?」
「ランドリック、そうじゃない。責任とは己の意思に拘わらず勝手に発生するものだ。身の内から発生するものは責任感だ」
「そうかも知れないな。あいつには責任感なんぞ皆無だった」
「そんな『英雄』との約束を守らねばならないとでも? それは発生している責任よりも重い責任感だと言うのか?」
「ハミルトン」
ひどく久しぶりに名前を呼んだ気がした。
たぶん五年前は呼ばなかった名だ。
十年前も数えるほどしか呼ばなかっただろう。
「たぶん、おまえが正しいんだろう。だが正しいおまえに聞くぞ。誰が、なにが、その責任とかいうモノを俺に押しつけてやがるんだ? 言えよ、ハミルトン。今からそいつをぶち殺しに行く。一人残らずだ」
――ぎちり、と。
空気の軋む音がした。
ランドリックは足元に大鉈斧を放ったままで、ハミルトンは魔法構築の補助となる杖を手にしていない。どちらも身動ぎひとつせず、一瞬前と一瞬後で同じ姿勢を保ったままだ。構えることすらしていない。
だというのに、一瞬後にはどちらかが死んでいそうな。
両者の姿勢にはわずかな変化も見られないのに、ただ空気だけが、引き絞られる弓のごとく張り詰めていく。それもとびきり頑丈な強弓だ。架空の巨人でもなければ引けないほど強い弓が、ぎちぎちと音を立て――
ふと、物音がした。
ハミルトンの護衛騎士、女三人のうち一人が空気の圧力に耐えきれずその場に尻餅を突いた音だ。見れば残り二人も顔面蒼白で震えており、腰に提げた剣の柄に手を伸ばしたまま、抜くことができていない。
はぁ、とランドリックは息を吐き、空気を弛緩させる。
同時にハミルトンも嘆息混じりに両手を広げた。
「その決断を後悔しなければいいな、ランドリック」
この男にしては下手な皮肉だった。
ランドリックは小さく笑って肩を竦める。
「知らないのか。なにを選ぼうがどうせ後悔はするぞ。今もたまに思う。ゲオルグに手を貸すんじゃなかった、と」
そして実際手を貸さなければ、それはそれで後悔したはずだ
ハミルトンも小さく笑み、それで話は終わった。