10-04 『鍛鉄』の由来
呼吸十回分か、あるいは十五回分か。
そのくらいの時間を置いてから、ガルトとランドリックは家令の後を追う形で階段を上り、二階へ向かった。
外観から判断するに、屋敷は三階建てだ。
一階に使用人や下男などが詰めているとすれば、二階から上に来客用の部屋なんかがあるはずだ。ゼルギウスの部下が本当に客として招かれているなら、一階ではなく二階ではないか――とガルトは思ったが、ランドリックがどう思ったのかは判らなかった。
なんとなく二階に向かっただけだとしても、別におかしくはない。
階段は三階まで続いておらず、上がりきった先は入口広間と似たような広い空間だった。壁際に長椅子があり、テーブルがあり、銀色の燭台が並んでいる。燭台に点されているのは油燃料による炎ではなく小さめの魔導灯で、天井に吊り下げられている魔導灯の補助というよりは装飾的な意味合いが強いのだろう。
耳を澄ませば、奧からなにやら怒鳴り声が響いている。
が、二階の広間に限っては静かなものだ。
「なあ、おっさん。これって……」
「誰か指示の上手いやつがいるな。散発的に突っ込んで来るならその方が楽だったんだが、まあ、どうせやることは変わらん」
「マジで言ってんのかよ?」
「後ろは気にしておけ。挟み撃ちの形になったら俺が前を開ける。開けたら前に行け。それで俺が後ろに行く。敵がたくさんいるときは無理をするな」
「そいつは最高の作戦だな、まったく」
「信じられないか?」
「おっさんの腕前が信じられなかったら、この世のなにを信じりゃいいんだよ?」
「自分を信じればいい」
「自分を信じてるやつの半数はクソだ。自分を疑わないやつなんか信じられるか」
へらへら笑って肩をすくめておく。
ランドリックはそんなガルトを一瞥し、小さく笑んだようだった。すぐに振り返って歩き出したので、ひょっとすれば見間違いだったかも知れない。
ガルトも笑みを引っ込め、ランドリックの背を追う。もちろん「剣の届かない距離」を保つことは忘れない。それに、言われるまでもなく背後は気になっていた。後ろから敵が来れば真っ先に自分が死ぬからだ。
広間を抜け、廊下に差しかかる。家屋であるとは信じ難いほど長い廊下だ。その先にまた広間があるらしく、そこに人影が見えた。
「――ランドリック・デュートだな!?」
よく通る声が向こうから響く。
成熟してはいても、老いてはいない、そういう声音だった。
鉈を手にしたランドリックと人影の距離は、およそ三十歩分だろうか。さすがの英雄でも一瞬で詰められる間合いではない。
「そういうおまえは?」
と、ランドリックもまた声を響かせる。
人影はこれに驚いたようで、両手を広げて笑い声を上げた。
「ハハハ――まったくふざけた男だな。私はこの家の主、ディニーム・ラゼルだ。『鍛鉄』の英雄殿よ、我が家の人間を皆殺しにでもしに来たのかね?」
芝居がかった口調のせいで、見せている余裕が虚勢なのか判らない。
まさか本当に余裕があるとも思えないが、あるいは本気で余裕を感じているのかも知れない。貴族というものをガルトはよく知らないので、判断がつかない。
「自覚がないのか? 俺はおまえの客と、おまえを潰しに来た。誰になにを唆されたのか知らんが、自分の間抜けさ加減を呪うんだな」
「冗談はその存在だけにしていただきたいな、英雄殿。十年も前の亡霊に今更しゃしゃり出られても、率直に申し上げて迷惑千万だ。この国はもう英雄など必要としていないのだよ。我々の手で創り変える……そうしなければ、ずっと変わらない」
「だったら人を巻き込むな」
「巻き込む? これは異なことを。人の家に上がり込んで家人を殺して回ったのは其方ではないか。貴族を――ラゼルを舐めるなよ、ランドリック」
ふっ、と人影が消える。
単に廊下の先から横に退いただけだ。
それだけのことなのに、ガルトは強烈な違和感を覚えないわけにはいかなかった。それは瞬間的に空気が凍ったような冷たさであり、皮膚のすぐ下を無数の甲虫が這いずるような不気味さであり、至極単純な危機感だった。
どうして横に避けたのか。
射線上だから。
「伏せろ、ガルト」
ランドリックが振り返って言う前には、もうガルトは弾かれるように身体を前に投げ出していた。廊下の壁際へ肩口からぶつかるが、痛みに呻くどころではない。
射撃。
あれだけ気を払っていたのにも拘わらず、背後から矢が飛んできた。
空気を裂いてなにかが飛来する感じがした――と思ったときには、ランドリックが右手を動かし、撃ち込まれた矢を斬り払っていた。
「クソ――ッ!」
背後の広間から毒突く声が聞こえた。見れば深緑の外套に身を包んだ男が十字弓を片手に、階段を飛び降りるようにして撤退を開始している。
ふわりと翻る外套、印象的な銀色の後ろ髪。
オロズの森で『樹霊剣レオノーラ』をゼルギウスへ届けた、ブラッカとかいう魔術師だ。はっきり覚えている。傭兵団の人間でありながら、傭兵の雰囲気が薄かった。射撃に使用した十字弓はヴァルト傭兵団を襲撃した際に使われた物と同一だ。
ということは――あれだけ警戒していたにも拘わらず背後をとられたのは、ブラッカの魔術によるものか。
ガルトが思考に割いた時間は、たぶん呼吸二回分ほどの短い時間だった。そしてその短時間で廊下の左右に並んでいる扉が開かれ、武器を持った傭兵やラゼル男爵の兵士が現れた。見分けがついたのは、明らかに装備と雰囲気が違ったから。
「英雄殿を討ち取った者には褒美をくれてやる! それは素晴らしい報酬をな! 私はこういうことで嘘は言わん! せいぜい気張りたまえ、戦士たち!」
もはや姿を見せない男爵の、やたら通る声が――戦いの合図だった。
◇ ◇ ◇
とにかく、足手まといになってはならない。
その一心で身体を起こしたガルトは、しかし眼前の光景に目を奪われないわけにはいかなかった。
廊下を駆け込んでくる兵士が二人、よく練られた連携でランドリックに躍りかかり――それを認識したときにはもう、大鉈斧が二人まとめて薙ぎ払っている。
ばかでかい熊が、子犬かなにかを引き裂くような簡単さで。
一瞬前まで人間だったモノが、死体に豹変して壁に叩きつけられている。
だが、敵は怯まない。
否――厳密に言えば、我先に突撃しなかった者には明らかな怯えがあった。報酬に釣られて走り出した者たちが止まれなかっただけだ。
上段からの斬撃を鉈が粉砕し、逆の手が顔面を潰した。低い姿勢から短剣を突き出してきた男は、丸太のような前蹴りを喰らってぶっ飛ばされた。手槍という短めの槍でランドリックの太股を狙った男は、穂先を踏みつけられて狙いを外し、次の瞬間には鉈をぶちこまれて頭が破裂した。
瞬く間の出来事だ。
敵が突っ込んで来たと思ったら、敵が死んでいる。
そして何故かランドリックが数歩分、前に進んでいる。
ガルトがランドリックの戦いを目にするのはオロズの森で一度、ダリウスの部隊を相手で二度、そしてこれが三度目になる。
初回と二度目はランドリックの圧倒的な暴力が敵を挽き潰すだけの光景だった。どちらもランドリックから動いたからだ。
だからこそ鉈の一撃を受けたゼルギウスの技量は異常だと感じたし、だからこそ生涯を賭して練り上げた剣技をあっさり打倒されたダリウスに憐憫を覚えた。
だが、今は――そうじゃない。
ある男は廊下の壁際ぎりぎりに寄っての接近を試みた。ランドリックから見て右側、敵からすれば左側だ。得物は右手に持っており、鉈を振るには壁が邪魔になる。そして敵の方は左手側が塞がっているので、右手は自由に扱える。室内戦ならではの機転だ。
ランドリックは、あろうことか壁ごとぶった斬った。
壁の存在など知るかとばかりに、大鉈斧が振るわれる。描かれた斬閃は壁にぶつかっているにも拘わらず、斬撃そのものは敵の頭を爆散させている。壁材が破壊されて濛々たる塵埃が舞うも、ランドリックは気にした素振りもない。
常人ならば壁につっかえて剣など振れないはずだ。いや、そもそも常人なら右手側に壁があるのに得物を振ろうなんて考えることすらしないだろう。
五、六、七、八……。
まるで吸い込まれるみたいに、ランドリックに殺されるためのように――傭兵たちが突撃し、兵士たちが剣を振り、遍く全てを無効化されて死体に変わる。
敵は攻撃をしているのに。
殺意を乗せて武器を振るっているのに。
一切合切が、英雄に届かない。
ああ――と、ガルトの脳裏に理解が訪れる。
だからランドリックは『鍛鉄』なのだ。
森の中のくそでかい熊。ガルトはランドリックのことをそう評した。常人とは違いすぎる膂力と感性。人間はやわらかく、あまりにも脆い。それに比べてランドリックの強靱さは、異常の一言では片付けられない。
人間とはかけ離れたバケモノ。
差異というにはあまりに隔たれ過ぎている。
どうして、こんなにも違うのか。
今――ようやく理解した。
何故、ランドリックは『鍛鉄』と呼ばれるのか。
どうして『鉄』ではないのか。あるいは『剛斧』だとか『暴風』だとか、それらしい二つ名などいくらでもあっただろう。
なのに『鍛えた鉄』。
鉄なのは判る。強くて硬いからだ。力が強すぎる。心が硬すぎる。
たぶんラドリックは元から鉄のような人間だった。
才覚なのか、性質なのか、それは判らない。しかしとにかくランドリックという人間はそのように生まれ育ったのだ。本人が言っていたではないか。村を襲われたから襲って来た軍を皆殺しにした、と。
ただの村人だったときから、ランドリックは鉄だった。
そんな『鉄』に――熱を加え、鍛えてしまった。
戦争が。
戦場が。
戦闘が。
加熱して、赤熱させ、叩き上げた。
戦いの経験値が多すぎる。
人を殺した回数が多すぎる。
敵を迎え撃つことに、あまりにも慣れている。
鍛造された英雄。
だから――『鍛鉄』のランドリック。
「退けええぇぇ――ッ!」
誰かが叫んで、矢を射った。
おそらくゼルギウスの部下が三人、横に並んで十字弓を一斉に発射したのだ。
退くもなにも、射撃された時点でもうランドリックと剣を交えている者などいなかった。先陣を切って突っ込んでいった連中はとっくに皆殺しにされている。
だが、それでも彼らは叫ばずにいられなかったのだろう。
ガルトは咄嗟に身を伏せたが、あまり意味はなかった。
敵が開け放っていた扉を、ランドリックがいつの間にか引っ剥がして盾にしていたからだ。
そんな莫迦な――と、誰もが思ったはずだ。
射撃を察知してから行動したのでは間に合うはずがない。なのに現実には木製の扉を盾にされて、矢が防がれている。そしてそれだけには留まらず、盾として使われた扉が即座に投擲され、三人まとめて弾き飛ばされた。
「ガルト。そっちは一人だ。ちょっと身を隠しておけ」
軽い調子でランドリックが呟き、扉を失った部屋の中を指差した。
と、思ったときには廊下をずかずかと進んで、また戦闘が始まっている。こちらに突っ込んで来なかった分の敵が殺されているのだ。
ガルトは立ち上がり、言われた通りに部屋の中へ侵入し――ぽかんと口を開けて突っ立っていた憐れな誰かを反射的に斬り捨てた。
右下に流していた剣先を跳ね上げ、こめかみのあたりから頭部を薙ぐ。本当に咄嗟に剣を振ったせいで刃筋を立てる意識などなかったが、ダリウスの剣は上物だった。勢いよく人間の頭部へ叩き込めばそれだけで切断できてしまうくらいに。
がんっ、と柄越しに骨を断つ感触があった。
そいつはたぶんランドリックの暴虐に我を失っていたのだろう。目の前であんな光景が繰り広げられれば、誰だって忘我するに決まっている。味方であるガルトでさえほとんど思考する余裕がなかったのだ。単に敵がいたから剣を振った。そうしたら、殺せてしまった。
こんなふうに殺されるのは、不本意だっただろう。
ほんのわずかだけ脳裏にそんな思考が過ぎったが、しかしガルトはその考えを深掘りすることはしなかった。まだブラッカが残っている。それに敵が挟み撃ちをしたがっているなら、第二陣が後ろから大挙して来るはずだ。
……だから前方の敵をさっさと全滅させたのか?
戦いの呼吸のようなものが身に染みついているのだ。
屋敷に入って敵襲を報せるように暴れ、敵が迎撃態勢を取るのをわざわざ待ってから二階に上がった。だが、その待ち時間は長すぎず、満足な布陣を敷かせるには至らない。そして突撃してきた敵を正面から喰い破ったのは、挟撃の時間を与えないため……か。
たぶん、論理的に考えて動いているわけではないのだろう。
後からランドリックに「どうしてあのときこうしたのか」と訊いても、だから上手く答えられないはずだ。なんとなく、くらいのことは言いそうだ。
「……理不尽だよな、まったく」
はぁ、と息を吐いて独りごちる。
もちろんガルトのそんなぼやきは何処へも届かず、他人事みたいに響く殺戮の音に掻き消されてしまうだけだ。
別に、何処かへ届けたい呟きでもなかったので構わない。
そしてさほどの間を置かず、静けさが戻る。
ガルトは吐いた分の息を吸い込み、死臭に眉を寄せながら扉のない部屋を出た。廊下を見渡せば死体死体死体の死体だらけ。見事に誰も生き残っていない。
「怪我はないか?」
散歩のついでに馴染みの飯屋へ寄ったような気楽さで、ランドリックは廊下の向こうからひょいと顔を出した。廊下の地獄絵図も、おそらく廊下の向こう側に創り出されたであろう惨状も、『鍛鉄』の心を揺らすことはないらしい。
そしてガルトの方も――それほど心を痛めてはいなかった。
廊下に転がる死体の数々は直視したくないような有様で、飛び散った内臓や頭の中身がひどい臭いを発している。死屍累々の地獄絵図。しかしなにかが違ったら、こっちが似たような死体になっていたはずだ。
敵対するとは、そういうことだ。
こっちは命を懸けた。
あっちも命を賭した。
そしてどちらかが死んだ。
それだけのこと。
何処かで妥協できなければ、いずれはこうなる。
「ああ――こっちは問題ない。それより、ブラッカってやつが逃げたけど、そっち側で戦ったりしてないよな?」
「銀髪の魔術師のことか。ゼルギウスの部下だな。いや、まだ殺してない」
「逃げたと思うか?」
「さあな。だが、逃げてないような気はする。あいつはあいつで、なにか仕事があってここにいたんだろ。俺に襲われるのは計算外のはずだ。それに、あの貴族はあまり俺のことを判っていない。まだやる気だぞ、たぶん」
「……まともな頭がついてるとは思えないな」
改めて周囲を眺め、ガルトは嘆息する。
この地獄絵図を創り出せるような存在を相手に、なにをどうすれば勝機を見出せるというのか。現実的に考えれば、選べる選択肢なんか逃げるか投降するか死んだふりくらいしかないじゃないか、とガルトは思う。
「みんないろいろ違うことを考えるからこんな有様になる。特に、譲ることを知らないやつのせいでな。これは俺もおまえもそうだぞ」
軽く肩をすくめるランドリックだった。
ガルトも苦笑しつつ同じようにするしかない。
だって――向こうから奪いに来るんじゃないか。
譲りたくないものを奪おうとするから、こうなってしまうだけだ。けれどそんなものは単なる言い訳で、多くの人間がいろんなものを我慢して生きていることくらい、ガルトにだって判っている。
けれど、ダリウスの頭に剣を振り下ろさない未来なんか選びたくなかった。あいつがランドリックに殺されるのはひどすぎると思ったし、あそこで全てを投げ出して何処かの傭兵団に潜り込むのだって嫌だった。
救い難い。
我ながらそう思う。
さほど救われたいと思っていないあたりが、特に。




