09-03 持たざる者たち
「ティオーブの店舗の、たぶん三分の一くらいは『組合』と関わってるはずよ。だから私がよく利用していた連絡手段を使うより、無作為に店を選んで『組合』に取り次いでもらった方がゼルギウスの部下に気付かれにくいと思うわ」
そう言ったアディの頬がやや紅潮していたのは、焚き火の照り返しでそう見えたのか、あるいは緊張がそうさせていたのか。
ランドリックにはアディの考えや思いなど判らなかった。
頑張って推し量ってみようという気にも、あまりならない。
「『組合』に接触するにはいくつか方法があるけど、余所者が使うのは符丁ね。ようするに合言葉。まず『平らな靴をみっつ、水に沈めたい』って店員に注文する――まあね、あたしだってこんなのどうかと思うわよ。でもそうなってるんだから仕方ないじゃない」
眉を寄せ、不機嫌そうに息を吐く。
それが演技だったとしても、ランドリックは特に驚かないだろう。
「通じる店員だったら『必要な鞄の色と大きさ』を聞き返してくるわ。靴じゃないわよ、鞄のことを聞き返してくるの。で、あんたはこう返す。『赤、青、よそ行きのみっつ』ってね。これであたしが信頼してる女と渡りがつけられるわ。たぶん店員は何処其処の店に行けとか言ってくるでしょうけど、それは無視していい」
このときランドリックは革袋の葡萄酒をちびちびやりながら、ぼんやりとアディの話を聞き流していたように思う。ガルトは真剣に話を聞いていたし、同行するロジーヌも表情は変えずとも話を聞き漏らさぬよう集中していた。
が、ランドリックとしては「なんだか面倒だな」という気持ちが拭いきれず、どうしても話半分になってしまった。
十年前もそうだった。
あの頃はハミルトンの指示を聞き流しながら妙に苛々していたような気もする。しかし今は、そういう漫然とした不快感はない。
「ティオーブの東側に歓楽街があるわ。そこの『硝子の花』っていう娼館が窓口になってる。かなり小さな店だから気をつけなさい。一階が酒場で、二階が個室ね。店員が話しかけてくるから、『青い靴の女』って答える。話が通じてれば店の奥に案内されて、裏口から出られるわ。メリシェっていう女が待ってるはずよ」
ふと、アディの表情が緩んだように見えた。
ほんの一瞬、息を吐いて吸う短い時間だけ――ランドリックやガルトに見せたことのない、気の抜けた貌になった。
まるで親しい友人を前にしたような。
しかしそれは本当に一瞬だけで、ランドリックの見間違いだったかも知れない。焚き火の不規則な明かりのせいでそう見えただけ、という線も十分に有り得る。
「濃茶の短髪で――そうね、ロジーヌより短いわ。割と眉が太めで、ちょっと垂れ目ね。外見通りのおっとりした話し方をする女だけど、中身は腹黒だから絆されて余計なことを言わないように。あと、胸が大きいわ。……なによ、その目は?」
じろりとガルトを睨むアディだったが、ガルトの目付きは特に変わっていない。
女が――全ての、とは言わないにしても――どうして胸の大きさを気にするのかをランドリックはいまいち理解できないが、そういえばイースイールも同じようなことでいちいち腹を立てていたな、と思い出す。
あのぞっとするほど美しい魔女もそうだったが、他人のことでどうしてそこまで腹を立てるのだろうか。
もちろんランドリックも聖人ではないから、他人を殺したくなることだってある。実際、ムカついたからという理由で他人をぶち殺した回数は常人をはるかに越えるだろう。まともな人間は他人を殺さず生きているのだから比較にもならない。
しかし怒りを表明して無関係な他人をうんざりさせる必要などないはずだ。本当に許せないほど腹を立てたならぶち殺せばいいだけではないか。
ランドリックはそう思う。
そう思わない人間が大半だということは知っているが。
「どうせあの女は、あたしが生きてるだなんて思ってないわ。現実的に考えてあたしが生き延びられる可能性は低いし、ましてゼルギウスの部下は優秀だった。さっきの符丁はあたししか知らないから、たぶんあんたは私を殺したやつらの仲間だと思われるでしょうね。これに関しては都合のいい符丁も合言葉もないから、あんたがどうにかしなさい」
この言葉にガルトはうんざりしたような顔を見せた。
しかし結局、文句は言わなかった。
言っても仕方がないと思ったのだろう。
それに、この件に関してはおそらくアディは嘘を吐いていないとも思ったのではないか。実際、アディの仲間がアディの死を確信していたとしても全くおかしな話ではないのだ。楽観的にアディの生存を信じているなら、そちらの方が不安だ。現実的な判断ができない味方は妙なところで致命的に足を引っ張ることがある。
「でも……そうね、メリシェに会えたら『あんたの仕事だけは評価してる』って伝えておいて。それでなにがどうなるってわけでもないから、これはあたしからのお願いになるわ。そのくらい、してくれてもいいでしょ。お願いよ、ガルト」
珍しく真っ直ぐな言葉だった。
だからだろう、ガルトは多少面食らったような顔をしながらも、特に混ぜっ返すことなく普通に頷いた。
しかし――と、ランドリックは思う。
女というやつは、こういうときこそ嘘を吐くものだ。
◇ ◇ ◇
ガルトとロジーヌが出発して半日と少し経ち、日が暮れて夜が来る。
ランドリックとアディは街道から大きく外れた位置にある森の際あたりに馬車を停め、小さな焚き火を囲んで味気ない夕飯を腹に詰め込んでいた。
なにしろ調理を担当できる人間が出払っている。ランドリックも調理ができないわけではないが、得意料理といえば狩った野生動物の肉を焼く程度で、こういう野営でさらりと調理する手際とは無縁である。
そんなわけで本日の夕食はアディが担当したが、出てきたのは湧かした湯で保存食を戻したスープモドキに堅パンという、味も素っ気もない代物だった。
もちろんランドリックは文句など言わない。
文句を言うくらいなら自分でやればいいのだ。
なのでランドリックは馬車の荷台から干し肉を見繕い、ナイフで少しずつ刮いで焚き火で軽く炙り、口の中に放り込んでもにゅもにゅと咀嚼していた。
きつい塩気が頭を刺すようで、これを肴に葡萄酒をちびちびやるのが割と好きだ。焚き火を挟んだ反対側ではアディも似たようなことをしている。彼女の場合は塩干しにして乾燥させた豆を小動物みたいに口へ運び、温めた葡萄酒を呑んでいるようだった。
お互い特に話すこともなく、黙って時間が過ぎるのを待っている。
たまに馬が身動ぎする気配が伝わってくる程度で、あとは薪が爆ぜる小さな音や、あるいは葡萄酒を嚥下したアディがほぅと吐息を洩らす音が聞こえるだけだ。ランドリックの存在感のせいか、森に潜んでいるはずの獣の気配はまるで感じない。見渡す限りの墓地があったとすれば、きっとこのくらい静かだろう。
退屈ではあるが、実のところ「待つ」のはそれほど苦手ではなかった。
どちらかといえば突っ込んで皆殺しにするより好きなくらいだ。
なにもしなくても物事が進展するのだから、こんなに楽なことはない。自分の手が届かない場所で何事かが起こっていようが自分にはどうしようもないので、気に病むだけ無駄だ。
しかしそのような諦めとも悟りともつかぬ境地に立っているのはランドリックだけのようで、アディの方は折にふれて何事か言いたげに唇を動かそうとし、躊躇したまま結局はなにも言わず、無言を維持するのを繰り返していた。
「なにか言いたいのか?」
訊いたのはどうしてか、誰かに問われてもランドリックは上手い答え返せないだろう。なんとなく、程度の気紛れである。
「……じゃあ、言うけど。あなたはどうしてガルトを連れて行くことにしたの?」
葡萄酒を一口だけ嚥下し、アディは言った。ほとんどランドリックを睨むような眼差しで。
「ついて行くと言われたからだ。俺はあいつが嫌いじゃない。どちらかと言えば好ましく思っている。あいつに帰る家があるなら、もしかしたら断ったかも知れない。だが、どうだろうな。判らん。断らなかったかも知れない」
「あいつが便利だから? あなたの不得意な雑事を任せられるから、従者として使いたかったってこと? それとも、押しつけられたロジーヌをさらに押しつけた責任みたいなものを感じたわけ?」
「話の順番が違うぞ。ガルトが便利なやつなのは否定しないが、それはオーヴィを出発して初めて判ったことだ。それにロジーヌを鬱陶しく思っているなら、そのロジーヌがくっついているガルトを近くに置くのはおかしい話だろう。もうひとつ言うなら、ロジーヌを押しつけた責任なんぞ俺は感じてない」
自分のものをどうしようが、他人にどうこう言われる筋合いはない。
自分のモノを他人にくれてやろうが、勝手のはずだ。
「……ねえ、どうしてガルトに剣を教えたの?」
眼差しの鋭さは変わらず、けれど何処か、儚さが含まれているような。
そんな気がした。
ああ――と、不意に気付く。
脈絡や文脈というものを無視して、魔女が指先に炎を点すような唐突さで、ランドリックの胸に理解が訪れる。
アディにとって、ガルトは戦争孤児という共通点を持つ同類なのだ。
彼女自身は認めないだろうが、もしかすると血の繋がらない弟のように感じているかも知れない。そういう意味ではロジーヌも同様だ。
情報屋という組織に育てられ、組織の役に立つよう生きてきた自分自身を、たぶんアディは好んでいない。
だから、造られるように育てられたロジーヌを嫌っている。
だから、傭兵として育てられなかったガルトを羨んでいる。
だから、荒事に自ら足を踏み入れるガルトに苛立っている。
実際のところは判らない。
ただ、きっとそうなのだという根拠のない確信があった。
「どうせ必要になるからだ。おまえがどう思っているかは俺には判らんが、あいつは間違いなくこっち向きの性格をしてるぞ」
判断力、決断力、なにより思考の根幹が『戦場』のそれだ。
ランドリックがダリウスらを相手に立ち回りを演じたとき、ダリウスを除く誰より早く動いたのはガルトだった。
ガルトの育ての親であるグラウル・ヴァルトは、確かに息子を傭兵としては育てなかったのだろう。剣の素振りを見ればそんなことは明白だ。どう見ても敵を殺す訓練をしていない。
にも拘わらず、その生き方や考え方は、あまりにも荒事を基準としすぎている。
「だからって――あいつ、傭兵団の下っ端だったんでしょ? この状況で単独行動なんて、荷が勝ちすぎてるんじゃないの?」
「荷が軽ければよかったのか?」
「それは……」
「違うだろ。おまえは、せっかく自由になったガルトが自分から荒事に首を突っ込むのを見てムカついているだけだ」
言った瞬間、今度こそアディの瞳が冷え切った。
肌が切れるような零下の眼差し。
燃えるような怒り――なんて表現があるが、こういう種類の怒りもあるのだ。戦場ではそれこそ何百人の怒りや憎悪を一身に受けてきた。
だから、そう。
生まれ育ちがそこそこ不幸という程度の女がどれだけ怒っても、ランドリックを怯ませるにはあまりにも足りない。
そのことは、アディも判っているようだった。
視線はすぐに逸らされ、気を落ち着けるために葡萄酒を口に含む。ごくりと喉が大きく動くのを見るに、一口分にしては多めの量を嚥下したらしい。
「自由になりたいのか?」
ランドリックもまた葡萄酒に口をつけ、訊いてみる。
これにアディは自嘲するような笑みを浮かべて返す。
「自由? そんなもんになって、どうするのよ? 物心ついた頃から使われるために生きてきて、使われて生きていて……いきなり自由になったって、なにをすればいいかなんて、判らない」
この答えに、ランドリックは珍しくはっきりと笑ってしまう。
笑みの種類は、自嘲だ。
「そんなもの、俺も同じことだ。戦争が終わってからこっち、なにをすればいいのかなんか知らんぞ。なにかしたいことだって別にない。ああするべきこうするべき言うやつはいたが、そうしなければと思ったことは一度もない」
おまえには力がある。
だからその力を使うべきだ。
正しいことに。
人々のために。
正しさを主張する者たちは自分の立場をなにより大事にしていたし、守るべき人々の中には他人を貶めて薄笑いを浮かべる者がいた。
珍しいことではない。
この世にはそんなやつらが犇めいている。
たぶん――どんなときも、どんな場所にも。
うんざりだった。
村を襲われて怒り狂って飛び出して、敵を皆殺しにしてやった。ほんのわずかに気が晴れた。だからもっと敵を殺そうと思った。敵を殺せる場所に行った。『王狩』たちが場所をくれた。そうして殺し尽くした後は、もうやりたいこともやるべきこともなくなっていた。帰る家も。
元の自分がどんなだったかも、ランドリックにはもう判らない。
そして別に、それを残念だとも思わない。
「――あなたを英雄だなんて持て囃したやつらを、できることなら一人残らず張り倒してやりたいわ」
しばらくの沈黙を挟んでから、ぽつりとアディが呟いた。
ランドリックとしても全くの同感だった。




