08-03 ロジーヌ_01
ロジーヌは戦争孤児である。
この点においてはガルト・ヴァルトやアディと同様だ。おそらくはもっと多くの同類がいるだろうし、たぶんそのうちの八割以上はもう生きていないだろう。
人は一人では生きていけない。
多くの人間は、というべきか。
稀にランドリック・デュートのような例外が存在するけれど、ロジーヌはそのような例外ではなかった。
というより、ほとんどの人間はあんなバケモノではないはずだ。
ガルト・ヴァルトは傭兵団に拾われたという。
アディという赤毛の女は情報屋に。
多くの戦争孤児は誰にも拾われることなく、飢えて死んだ。
あるいは裏町の浮浪児として生きた者もいるだろう。
――ロジーヌの場合は、暗殺者の老人に拾われた。
生家の村は領の外れにあり、十年前の戦争で敵兵が村を蹂躙した――のではない。そういう直接的な被害はなかった。
戦争というものは消費の激しい経済行為であり、その波及がロジーヌの村に及んだというだけの話だ。
ハイギシュタ戦役におけるマクイール側の消耗は異様に少なかったと言われているが、戦時が訪れたことは確かであり、それだけでも経済は動く。そして波及に耐えられるだけの豊かさを村は持ち合わせていなかった。
村を捨てられる者はまだよかった。
老人や病人を抱えた家、村を出て生計を立てられるだけの金がない村人、そこで朽ちていく以外の選択肢を持たない者もいた。頼るべき伝手もなく何処とも知れぬ何処かへ漕ぎ出し、強く生きられる者ばかりではない。
ロジーヌの母は病気がちだった。
村に戦争の影響が届いた頃にはもう手遅れで、両親とロジーヌは村で耐えることを選ぶしかない状況になっていた。
戦争が終わり、消耗が終わり、ほんの少しの豊かさが戻ればまた平和に暮らしていける。そう信じて戦時の貧窮をやり過ごそうとした。
もちろん、村には平和など訪れなかった。
ただでさえ少ない村人の流出を招いてしまった時点で終わりだったのだ。あとはどれだけ延命できるかという話でしかない。
手の回らなくなった畑をいくつも潰し、残った畑も野生動物に荒らされ、収穫量は絶望的に落ち込んだ。若い働き手がいない村では生活用水を確保するのも大変で、気付けばありとあらゆる余裕が失われていた。
老人、病人、あるいは貧乏人。
そして――ロジーヌのような子供。
これで発展や豊穣が訪れるわけもない。
戦争が終わったことを知ったのは、終戦翌年の冬だった。
村を去った者たちは誰一人として村に戻らず、残った村人の数は半分にまで減った。病気がちだった母は秋の途中で死に、父は母を弔った四日後にふらりといなくなった。そのことに絶望するだけの余裕すら、なかったように思う。
ロジーヌは、ただ耐えていた。
ほんのわずかな畑の収穫を、まるで鼠のつまみ食いのように少しずつ消費し、ときには森に入って野草を採った。川で釣りをすることもあった。その収穫を近所の老人に振る舞うこともした。
たぶん冬は越せないだろう、そう思っていた。
そんなときだ、奇妙な老人が村にやって来たのは。
◇ ◇ ◇
その男は暗殺者だった。
後から聞いたところによると、戦時中はあまりにも英雄が活躍しすぎたせいで出番が訪れず、さらに雇い主の貴族は英雄と対立して家ごと潰されてしまった――そんな経歴の持ち主だった。当然ながら老人は失職し、何処かの田舎に引っ込もうと考えたらしい。
その男がロジーヌの村に訪れたのは、ただの偶然だ。
誰も知らない場所に行こうとした老人が辺境の村へ足を運んでみたら、もはや村ともいえない廃村寸前の場所だったというだけ。
その男がロジーヌを拾ったのは、ただの同情だ。
きっと独りで死ぬのが嫌だったのだ――ロジーヌはそう思う。彼女に暗殺技術を教え込んだのも、たぶん同じ理由だ。自分が生きていた証のようなものを残したかったのだろう。思えばあの頃にはもう、老人は死ぬ準備をしていたのだ。
あるいは拒否したのなら普通に育てられたのかも知れない。
けれどロジーヌは暗殺者の教えを受けると決めた。
老人には強さがあり、彼のように強ければ、あの村に独り残されていても生きられるだろうと思ったからだ。
弱さは罪だ――なんてことを言う者がいるらしい。
その通りかも知れない、とロジーヌは思った。
しかし老人は「違う」と言った。唾棄すべきとばかりに顔をしかめ、酒場でくだを巻く酔っ払いのようにあれこれと言葉を重ねた。
弱さは罪ではない。ただ、弱いと死にやすいだけだ。死にやすいことは罪ではない。死にやすいことは、死にやすいことでしかない。それは氷が冷たいとか、薄刃は肌を裂くとか、そういうことと同じだ。それ自体に善悪などあるものか。
もし弱さが罪なら、死にやすいことが罪だとでも? 阿呆らしい。人は誰でも死ぬ。ならば生ける者すべてが罪人だ。そう思いたければそう思えばいい。だが、そうは思いたくない。そうではないか。
生まれた赤子を抱き慈しむ母を見て、咎人と断ずるのか?
暗殺者にしてはよく喋る男だった。
なにか返事をすればその三倍は喋る人だった。そのせいで、いつの間にかロジーヌは無言を維持するのがくせになっていた。それでもロジーヌが話を聞いていることは気配で判るようで、老人の口数はあまり減らなかったけれど。
老人と少女の二人連れで、いろんな場所を巡った。
ひとつの町にはあまり留まることなく、町から町への移動が多かった。最初のうちはある程度の規模の都市で老人が何処からか依頼を受け、それをこなして金銭を得ていたようだが、いつの頃からかロジーヌも手伝うようになり、そのうちロジーヌ一人で仕事をすることも増えた。
最初に人を殺したとき、特になにも感じなかったのを覚えている。
誰かに殺しを依頼される人間であること、それは弱さのひとつだ。そこらの村人は暗殺者に殺される心配などしない。それは強さのひとつだ。強者には弱味が生まれ、弱者には強みが芽生える。奇妙なものだな、とロジーヌは思った。
後から考えると、その全ては訓練だったのだろう。
町で、都市で、街道で、草原で、森で、山で、川辺で――ありとあらゆる場所で、老人は知と技をロジーヌに教え込んだ。いや、それはもう刷り込んだとでも評すべきかも知れない。職人が革を鞣すような丹念さで、老人はロジーヌという少女を暗殺者につくり変えていった。
そして結局、老人も死んだ。
人を殺して糧を得ていた者にしては珍しく、老衰だった。
老人は死期を悟ると交易街オーヴィへ向かい、ロジーヌの身柄をオーヴィの情報屋へ預けると言い出した。『組合』の長は老人の知り合いだという。
老人が組合長に頼んだのは、たったひとつ。
ロジーヌの主に相応しい人間が見つかれば、そいつにロジーヌをくれてやれ。
組合長はその依頼を引き受けた。
そしてロジーヌは先の戦争の英雄、『鍛鉄』のランドリックに仕えることになって――結局はただの一日も仕えることなく、ガルト・ヴァルトという少年が主人になってしまった。
まあ、別にいいかな。
それがロジーヌの感想だった。
本当に嫌なことを命令されたなら、そのときは逃げればいい。
どうせもう、独りで生きられるだけの強さはある。
だけど――どうだろう。
あの老人が独りで死ななかったのは、強かったからだろうか?
七年の歳月をかけて少女を暗殺者につくり変えた老人が、死の間際にそこそこ満足そうだったのは、彼の強さに起因するのだろうか。
ロジーヌはたまにそのことを考える。
いつも答えは出なかったけど。
◇ ◇ ◇
出発は、翌日の昼になった。
ロジーヌが加わったことでガルトの準備は中途半端なものになってしまい、二頭立ての馬車を三頭立てに換え、追加の荷を積む必要も生まれた。
実のところ『組合』の方から物資の支援なども考えていたようだが、ゼルギウスとかいう人物の部下はなかなか優秀だったようで、旅路に必要な物はあらかた屋敷に運ばれていた。その中からなにを見繕うかという問題であり、その問題は夜が明けてからガルトとアディが顔を突き合わせて話し合っていた。
結局、『組合』が用意したのはロジーヌの着替えや装備など、細かいものだけだ。それも組合長の部下が夜半のうちに取りに行っていたので、特に命令を下されていないロジーヌは彼らの荷造りを黙って眺めているしかなかった。
ランドリックもガルトもアディも、いちいちロジーヌに「これまでのあらすじ」を説明してくれなかったのだが、傍で話を聞いていれば、どうにか「ことのあらまし」は想像できた。
タンクレート領の領主、オットー・タンクレートによる陰謀。
十年前の戦争で『鍛鉄』のランドリックの部下だったゼルギウスという男が傭兵団を率い、タンクレートの企みに乗ったこと。
彼らの作戦が上手くいき、ランドリックは『魔剣レオノーラ』を奪われた。ランドリックに対する人質としてガルトとアディが見繕われた。
ガルト・ヴァルトはヴァルト傭兵団の一員だった。
アディという赤毛の女はティオーブという街の組合員である。
そのティオーブの組合はゼルギウスの部下によって頭を押さえられている。
ランドリックは『魔剣レオノーラ』を取り返すつもりでいる。
ガルトはそんなランドリックについて行くという。
アディは……たぶんランドリックが助けるのだろう。ティオーブで『組合』を制圧しているゼルギウスの部下を皆殺しにでもするつもりだろうか。
英雄の腕前は――暗殺者として十分な実力を備えているロジーヌからしても異常の一言に尽きる。それ以外に言い様がない。
オーヴィに潜伏していた『ゼルギウスの部下』とやらを素手で撲殺する様をロジーヌは図らずとも間近で目撃することになったが、それはなんというか、趣味の悪い冗談のような光景だった。
単純にぶん殴るだけで人間が絶命するのだ。
顔面に一撃入れたと思えば相手の頭がぐるりと曲がった。首の骨が折れ、ありえない角度まで頭が回り、ついでとばかりに身体もぶっ飛んで、派手な音を立てつつ何処かにぶち当たった。あるいは腹を殴れば肋を粉砕して内臓を破り、胸を殴りつければあまりの衝撃に心臓が破壊されていたように見えた。
まるでヒトガタの魔獣だ。
そんな魔獣がいるのであれば、だが。
とんでもない人物が主になってしまった――と、そのときは思ったが、結局それからすぐに主が変わってしまったのは、良かったのか悪かったのか。
ガルト・ヴァルト。
ぱっと見た印象は「ちょっとすれた少年」でしかない。ロジーヌがその気になればあっさり殺せるだろう。もちろんそれを実行してランドリックの不興を買うのは拙すぎるのでやらないが、はっきり言えば特殊性など感じない男だ。
しかし同時に、不思議な少年でもある。
矛盾する感想だが、そうとしか言い様がない。
間違いなく「簡単に殺せる相手」だ。なのにガルト・ヴァルトは『鍛鉄』のランドリックに怯まない。ロジーヌだって無言と無表情を維持はしているけれど、実際のところランドリックのすぐ近くにいるのは緊張して仕方ないのだ。
だって、保有している暴力の桁が違う。
ちょっと気が向けば、もしくは気が向かなければ、ロジーヌは枯れ木を折るような簡単さで殺されるだろう。なまじ暗殺者として訓練を積んだだけにはっきりと判る。なにをどうやってもこの男には殺されてしまうだろう、と。
それはロジーヌの人生の否定だ。
死にたくないから暗殺者としての訓練を積んだ。
丸々七年間、生きることが即ち修練だったのだ。
その時間が――ランドリックの前ではあまりにも無意味。
なんて恐ろしいことだろう。
身に着けた技術にさして矜持のないロジーヌでさえそう思う。これが例えば戦いに人生を捧げた武人であるなら、『鍛鉄』のランドリックなど存在そのものが理不尽だろう。
そんなランドリックと、ガルトは親しげなのだ。
口調や態度だけなら、アディもランドリックに対してくだけているように見える。けれどガルトとアディの違いは明確だ。
警戒の有無。
ガルトはランドリックを警戒していない。
最初からそうだったとは思えないから、なにかをきっかけに警戒を放棄したのだろうが――あのバケモノを前に身構えずにいられるのは、異様だ。
高速回転する薄刃があったとして、目と鼻の先にそれがあれば誰だって落ち着かないはずだ。野生の大熊を前にして身の危険を感じずにいられるわけがない。
そしてランドリックの方も、ガルトに気を許しているように見える。
夜が明ける前、『組合』の者たちが死体を処理するためにやって来る直前、ランドリックはガルトにこんなことを言った。
「ダリウスが使ってた剣を回収しておけ。あれは割といいやつだ。それで、しばらくの間は肌身離さず持ってろ。飯のときも、寝るときも、小便のときも」
歳の離れた兄が弟へ向ける素っ気ない優しさに似た、相手を思いやる言葉だ。思いやった結果が人殺しの得物を身に着けろという話なのだから、それはそれで呆れるべきかも知れないが。
「ああ――判った。そういやダリウスにも言われたんだよな。どうせ使うことになるから、剣は振っておけって。俺は、才能はない方だと思うけどな」
「ろくに剣を振ってないなら才能以前の問題だ」
「それも言われたよ」
「ダリウスに、か?」
「ああ。ダリウスに」
「そうか」
頭に剣を叩き込むことになった相手と一体どんな話をしたのか、ロジーヌとしては少々興味をそそられる議題だった。
が、ランドリックは「そうか」の一言だけで、それ以上を訊かない。そんな英雄に、ガルトは曖昧な苦笑を見せていた。
少し嬉しそうに見えたのは――たぶん気のせいじゃない。
でも、どうしてあんなバケモノと親しげに話せるのだろう?
自分の主となった少年のことが、ロジーヌにはどうにも理解できなかった。
◇ ◇ ◇
ともあれ、そのようにしてロジーヌは一年近く身を寄せていた交易街オーヴィを去ることになったのだが――特に感慨を覚えたりとか、そういうことはなかった。
何処へ行こうが、なにをすることになろうが、ただ失われていくだけの寒村で身を縮めているよりはきっとましだ。
そのことだけがロジーヌには重要だった。
今のところは。




