03-05 英雄との遭遇
組み立て椅子に座らされ、縄で両腕ごとぐるぐる巻きに縛られて固定される。
椅子自体は軽いので立ち上がろうと思えば椅子ごと立ち上がれるだろうが、真後ろに曲剣を抜いた傭兵が構えている状況でそれをやるのはただの間抜けだ。
右へ視線を向ければ赤毛の女がガルトと全く同じように拘束され、寒さを堪えるみたいに身を強張らせている。
それが正常な反応だろう、とガルトは思う。
さほど怖がっていない自分がおかしいのだ。
運が悪ければここで死ぬ、それは重々判っている。たぶんアディよりも正確に理解しているだろう。
何事にも不足の事態は起こり得るし、人は割と簡単に死ぬものだ。
例えば後ろに立ってる傭兵がくしゃみをしたついでに足をもつれさせ、転びそうになった拍子にガルトの首筋に刃を当てて滑らせる、なんてことも有り得ないわけではない。そうでなくとも単にランドリックに見捨てられれば、まずガルトとアディのどちらかは見せしめに殺される。それでもランドリックに人質が無意味だった場合に限り、生き残ったどちらかは放置される可能性もあるが……。
いずれにせよ、ガルトは顔も知らない英雄など信じていなかった。
むしろヴァルト傭兵団を壊滅させたゼルギウスの方がまだ信じられる。それは人格ではなく能力に対する信頼だ。
育ての親であるグラウルは酒癖も悪いし口も悪かったが、強さと指揮能力は優れていた。同じようにゼルギウスの魂胆や行動がどうであれ、その強さや統率力、判断力は信頼に値するはずだ。ある程度は。
ゼルギウスは、ランドリックが人質を見捨てないと踏んでいる。
だったらきっとそのはずだ。
そうでなかったところで、ガルトにできることなどない。
よくよく考えてみれば、ガルトにはどうしても死にたくない理由がないのだ。肉親など十年前に死んでいるし、帰るべき家だったヴァルト傭兵団は滅ぼされた。何処ぞに待たせている恋人などいやしない。
仮にここで自由の身になったとしても、なにをどうすればいいのか。
やりたいことなどない。
やりたくないことはそれなりに思いつくが。
ぼんやりと空を仰ぎながら、そんなことを考えていた。
森の木々に遮られた狭い空には赤が滲んでおり、見る見るうちに色濃くなっていく。何処か遠くで鳥の鳴き声が――
聞こえてこない。
「……?」
奇妙なほどに森が静かだ。
この「森の入口」周辺にはゼルギウスの傭兵団が展開しているので、野生動物が近づかないのは当然だ。しかしそれで遠くにいるはずの鳥が鳴くのを遠慮するかといえば首を傾げざるを得ない。
どうして鳥が鳴いていないのか。
不審を覚えた次の瞬間、森の奥側から黒いモノが駆け込んで来た。
人間だ。森に溶け込むような深緑の外套を着た男。
そいつは息を切らせながら陣の中心、ゼルギウスの元へ駆け寄り、手に持っていた茶色のモノをゼルギウスへ掲げるようにした。
剣……のようだ。
あるいは「鞘に収められた剣」を模した木彫り細工。
例の『魔剣』なのだろうか?
「目的の物だ。ゼルギウス、冗談じゃないぞ。あんな化物とは思わなかった。把握してる限り四人殺られた。人質なんか本当に役に立つのか?」
被っていたフードを振り払い、焦燥を噛み締めるみたいにそいつは言う。
銀髪の男前……物腰や肉の付き方、なにより雰囲気が傭兵らしくない。おそらく魔術師だ。もちろん鍛えているだろうし剣が使えないということもないだろうが、それでもガルトからすれば明確な違いが判った。
普通の傭兵は、得物を頼みに生きている。剣、槍、弓、戦鎚……変わったところでは戦棍など。それを使って生き延び、それを使って小銭を稼ぐのが傭兵というものだ。
外套の男は、たぶん違う。
頼みの綱になるものが傭兵と根本的に違う――ように見える。
「よくやった、ブラッカ。予定通り離脱しろ。後で合流する」
はっきりと怯えを見せるブラッカというらしき魔術師に、ゼルギウスは満足げな笑みを返した。おまえの懸念など百年前から知っていると言わんばかりの鷹揚さ。
「あ、ああ……予定通り、だな」
小石を呑み込んだような顔をしてブラッカは頷き、陣の外側へ向かった。待機している傭兵と共に馬車で離脱するのだろう。
ということは、あの木彫り細工はやはり『魔剣』なのか……。
ガルトは魔剣を――かつて英雄ゲオルグが使っていた実物を、という意味ではなく、いわゆる魔道具全般を――見たことがないので、木彫り細工が魔剣なのか否かの判断はつかなかった。少なくとも目にしただけで呪われそうだとか、ゼルギウスが放つような威圧感があるとか、そういう代物でなかったのは確かだ。
剣の形をした古い木彫り細工。
そう見えた。
だが、すぐにガルトの思考は止めざるを得なかった。
物事を考えるだけの余裕が消え失せたからだ。
◇ ◇ ◇
「――は?」
声を出すつもりはなかったのに、ガルトは思いっきり開いた口から疑問符をこぼさないわけにはいかなかった。
森の奥から、人間が一人、吹っ飛んで来たのだ。
つい先程ブラッカが駆けて来たのとは別方向から。
軽く二十歩分以上の距離を放物線すら描かず、人が真っ直ぐにぶっ飛んで来る。方向からして何処かの木の陰からぶん投げたようだが……いや、人を投げてこんなふうに飛ぶものなのか? 判らない。判るわけがない。だが眼前の光景は事実だ。
一直線に人間が飛来して――激突した。
陣を展開しているゼルギウスの傭兵団、そのうちの憐れな誰かに。
いわく言い難い低音が耳に届いた頃には、激突された傭兵が他の傭兵を巻き込んで後ろに薙ぎ倒されていた。投石機の直撃よりはいくらかましだが、角猪の突進を受け止めたのと同じ程度には被害がでかい。
宙を飛んでいた当人はもちろん、直撃を受けた傭兵も下手をすれば死んでいるだろう。巻き込まれた後ろの傭兵たちも勢いが強すぎて何処かしら負傷したかも知れない。
なにしろ、こんな事態は心構えの外側すぎる。
陣を構えて待ち受けていたのだから、傭兵たちだって臨戦態勢ではあったのだ。しかし起きた出来事が規格外すぎて、誰もまともに反応できなかった。
ガルトが間抜けみたいに口を開けていたように。
被害を受けなかった他の傭兵たちも、目撃した事実に驚きすぎて、誰もが数瞬だけ忘我していた――せざるを得なかった。
だって、人間がぶっ飛んで来るか?
それを予測に入れて気構えるやつなどいるわけがない。
そして――そのわずかな間隙に、獣が滑り込んだ。
全力疾走する四足獣のような速度と力強さで、木々の影から男が駆けて来た。いや、それはもうぶっ飛んで来たと表現した方が正確だろう。ついさっき飛来した人間と、速度はそう変わらないのだから。
アディの背後で彼女の首に曲剣を突きつけている傭兵の元へ、一直線に。
次の瞬間、がぼんっ、という音が響き、傭兵の頭が破裂した。
手に持っている大鉈で傭兵の頭をかち割ったのだ。羽虫を払うような軽い動作だったのに、熟れた果実を壁に叩きつけたみたいに人間の頭部が爆ぜた。
頭の中身がそこいらに飛び散るが、誰も反応できない。
こんなことが起こり得るのか。
眼前の光景は現実なのか。
ほんの一瞬であれ、それを疑ってしまうは当然だった。
否、一人だけ。
「ラァァンドリィィィック――!!」
止まることなく疾走る獣の前に、ゼルギウスが立ちはだかる。ガルトの後ろに控えている傭兵へ襲いかかろうとするその進路上に、当たり前みたいに割り込んだのだ。
いつの間にか抜かれていたゼルギウスの黒い剣が、やはりいつの間にか振られていた大鉈と相克する。
散る火花。
とても金属同士がぶつかったとは思えない奇妙な音。
それがほんの一瞬の間に三度。
恐るべきか呆れるべきか、大鉈を受けたゼルギウスの足元、踵のあたりが地面にめり込んでいるのが見えた。
受けた鉈の威力が強すぎて、体幹を伝って足元まで衝撃が辿り着き、なお足りずに地を抉った――そんな攻撃をする方もする方だし、受ける方も受ける方だ。どちらかと言えばゼルギウスの技量が常軌を逸している。ほんの少しでも受け方を間違えれば、衝撃が足元に伝わるどころか手首の骨が砕けている。そして次撃で頭を割られているはずだ。
「止まれランドリック! 女とガキと大事な魔剣が人質だ。こっちにゃ弓だってあるんだぜ! わざわざ首ぃ掻っ切る手間を省いたっていい!」
吼えながら大鉈を四度防ぐゼルギウス。
何処か愉しげに聞こえたのは――ガルトの気のせいか。
怒声を受けた獣、『鍛鉄』のランドリックは、さして表情を変えずに後方へ一歩だけ跳んだ。一歩といっても、英雄の一歩だ。
ひょいと後ろに跳んだだけなのに、常人の八歩分くらい移動している。
「……ゼルギウスか。なんの用事だ? おまえがレオノーラを盗んだのか?」
問うランドリックの声音は淡々としていた。
伸ばしっぱなしであろうぼさぼさの黒髪を首の後ろで縛っており、顎や頬には無精髭が目立つ。丈夫そうな衣服はいかにも山男といったふう――この場合は森人、というべきか――に見えるが、職人という感じはまるでしない。
ただ、森に住み慣れている男、という印象だ。
背は高く、体格もがっしりしている。しかし予想していたような大男とは違った。相見えているゼルギウスの方が巨漢であり、傭兵団に一人はいる力自慢みたいに肥大した筋肉の持ち主でもない。身長のせいもあって細身に見えるほどだ。
一見して強そうには見えない。
もちろん弱そうというわけでもない。
だからこそ、ひどい違和感があった。
グラウルやゼルギウスには強者の気配がある。
近くにいるだけで居心地の悪さを覚える威圧感は、身に染みついた戦闘経験の証だ。他人を殺すことに慣れすぎているが故に、他者の本能を否応なく刺激する。
だが、ランドリックは違う。
とんでもない膂力の魔獣かなにかが目の前に在る、ような。
そう――『いる』のではなく『在る』だ。
雷だとか、暴風だとか、氾濫した川の水流だとか、そういった『現象』のようなモノが、意思を持って目の前に立っている。
そんな気がした。




