02-04 奪取と追撃
小屋まであと少しというところでランドリックは違和感を覚え、眉を上げた。
このあたりは既に「小屋の周辺」であり、野生動物からすれば「ランドリックの縄張り」である。ランドリックが不在であろうともそれは変わらない。
だというのに、複数の気配があった。
にも拘わらず、気配がひどく希薄だ。
狡猾な野生動物であれば、もっと上手く気配を隠す。そうでない動物なら気配が希薄であることがおかしい。
つまり――気配を消した人間の、消しきれなかった気配がある。
ランドリックは歩調を早め、自分の小屋まで一直線に進む。
その最中にいくつかの気配が駆け去るのが判ったが、もういくつかの気配は残っている。こういうときに迷うのは拙いと経験上知っているので、去った方の気配は後回しにすることに決める。とりあえず、近い方からだ。
選択が正しいのか、というようなことは考えない。迷うことで生じる時間の浪費こそ、最も忌むべき悪手なのだ。
間がいいのか悪いのか――森の切れ目に出たのと、ランドリックの小屋から何者かが出て来るのが同時だった。
動きを阻害しない地味な皮鎧、足元は頑丈そうな脚絆付きの靴を履いており、腰には剣を帯びている。ただし騎士のような剣の提げ方ではなく、腰の後ろに鞘を取りつけて逆手で抜くといった装備の仕方だ。刀身も騎士や剣士のそれよりかなり短いだろう。
正規兵ではないが、装備が統一されている。
誰かが率いている部隊ということか――
と、そこまで把握した瞬間、左右の木々の影から気配。
ランドリックは反射的に前へ動いた。角猪を背負ったまま、一足跳びで実に八歩分。わずかに遅れて一瞬前までランドリックが存在していた空間を矢が通り抜ける。弓を引く時間はなかったはずだから、絡繰り式の十字弓か。
ほぼ同時に、小屋の前の男がランドリックに気付く。
が、手遅れだった。
放り投げられた角猪の巨体を避けるには時間があまりにも足りなかったし、そもそも男は眼前の光景を理解しきれていない様子だった。
人間でいえば成人男性五人分ほどの重量を有する獣の死体が、宙を飛んで己に向かって来るなど――信じられずとも仕方がない。
小屋の入口を巻き添えに、角猪という砲弾が男を粉砕する。
矢を放った左右の何者かがその光景に唖然とするのが判った。ランドリックの敵はかなりの確率でそのような反応をする。
だから隙が生まれるのも当然とばかりに、大鉈斧を持っていない方の手で解体用の小刀を抜いて左の誰かに投げ付けた。
ごっ、という固い音は頭部に投げナイフが突き刺さる音だ。何度も聞いたことがある。水気を含む固いモノにナイフが突き立つと、そんな音が響くのだ。
ランドリックは小刀を投げた動作を腕の振りへと変換し、右へ跳んだ。
一歩、二歩、三歩――常人が徒歩で稼ぐ距離の十倍をほんの一呼吸で詰め、小屋の前にいた男と同じ装備をしている男の――十字弓を持っているのが差異ではあるが――腹に一撃を叩き込む。殺さないよう、慎重に。
「ぶぐぇ――っ!」
よく判らない声を漏らし、男の目がぐるんと引っ繰り返った。ゲロを撒き散らさなかったのは運がよかったというべきか。
それから失神させたそいつの襟首を引っ掴み、今度こそ小屋へ戻る。
ぶん投げた角猪のせいで小屋の入口はめちゃくちゃに粉砕されてしまったが、全く気にしない。ざっと室内を確認するも、特に荒らされた形跡はなかった。
それもそのはずだ。
最も価値のあるものは、寝床に放り投げていたのだから。
「……昨日の今日だぞ。それで、このザマか」
思わず笑ってしまった。
もちろん苦笑いだが、こんなもの、笑うしかない。
あるいはハミルトンはこうなることを知っていたのか――いや、そうであれば単に忠告だけで済ませるはずがない。あの男ならばどんな手段を使ってでもレオノーラを回収したはずだ。そうしなかったのはランドリックと敵対したくなかったのか、それともレオノーラが奪われる可能性を低く見積もっていたのか……。
判らない。
ので、ランドリックは思考を切り上げる。そして襟首を掴んで引き摺っていた男を床に転がし、軽く蹴りを入れて目を覚まさせてやった。
どの程度の力で殴れば人は失神するか、どういう蹴り方をすれば気絶から目を覚ますのか、それほど学びたかった知識でもないが、経験で知っていた。
「よう、意識は戻ったか。なかなか素敵な目覚めだろう。俺の家もかなり風通しがよくなったからな。ぶち壊した戸の木っ端の匂いと、転がってる角猪の死体の臭いと、潰れたおまえの仲間の臭いが、風に運ばれてここまで来てる」
カチ、カチ、と音がした。
床に転がした男の歯が鳴る音だ。見れば震えているのは顎だけではない。全裸で雪山に放り出されたみたいに全身余すところなく震わせていた。
心胆を寒からしめる、といったところか。
もちろんその寒さを慮ることはない。
「質問だ。おまえらは何者で、レオノーラを何処へやった?」
そう言ってから、ランドリックは答えを待たずに男の右足を踏み潰した。
岩を落とすような足踏みが、肉と骨をまとめて挽き潰す。当然だが床板も踏み抜いてしまったが仕方ない。男の口からわけの判らない悲鳴が飛び出すが、わざとらしく左足を狙って足踏みしようとすることで悲鳴は止まる。
「よ――傭兵、傭兵だ! し、仕事! 仕事でッ! も、森の入口に部隊が待機してる! あんたが小屋を空けてたのは偶然で……だから、魔剣を回収して……雇い主は、俺は知らない。俺たちはミダイアにいたんだ」
「ミダイア?」
「こっからだと東の国……ハイギシュタよりも北東だ。団長が、上手い仕事があるって……こんなの、聞いてない……こんなの……」
「森の入口に部隊を置いてあるんだな? レオノーラを回収して、何処に行く?」
「し、知らない――それは団長が――」
「そうか」
軽く頷き、ランドリックは転がっている男の胸を踏みつけた。
男は「どうして?」というふうに目を丸くしていたが、わざわざ疑問に答える必要はなかったし、その必要があったとしても、のんびりと答えを聞かせる時間はなかった。胸骨が粉砕され、心臓が破裂しているのだ。冥土の土産を包んでいる間に手遅れになる。
そしてそもそもランドリックは男の疑問など気にも留めていなかった。心臓を破壊して命の灯火が消えるまでの間に、男の腰から剣を抜き取って駆け出している。
疾駆は、異常という他ない速度。
肉食の四足獣が駆けるような速さで獣道を突っ切り、周囲の気配に神経を尖らせながら、ランドリックは考える。
敵の目的――ではない。
そんなことは考えても仕方がない。
森の入口に部隊が待機している、と傭兵は言った。
ランドリックの小屋から見て「森の入口」は、カレンカという町の方向にしかない。他は「入口」ではなく単に「森」だ。獣道すらないのだから。
このまま走って待機している部隊に追いつければいいが、撤収されると困る。
部隊がどういった規模なのかは判らないが――部隊というからには五人以下ということもないだろう。それなら全員徒歩で小屋に来ていたはずで、部隊が待機しているとは言わないはずだ。
ある程度の人数が森の入口で待機している、と考える。
そして仮にその部隊が撤収したとして。
部隊であるなら軍事行動を取る。必ず何処かで補給しなければならない。馬がいるなら尚更だ。であればカレンカは通りすぎるにしても、何処かの街に行くはずだ。もし馬を使っているなら街道を通るだろう。
カレンカから延びる街道は東西へのいずれか。奪った魔剣を持って王都の方角である西へ向かう可能性は低いような気がした。このあたりは勘だ。ランドリックに追跡される可能性と、王都にいるはずのハミルトンに見つかる危険性を抱え込みたいかという話だ。敵はレオノーラを狙っていた、つまりランドリックが魔剣を持っていると知っていたことになる。何故? それは判らない。しかしランドリックを知っていてハミルトンを知らないということもないだろう。これも勘だ。
とにかく、森を出る。
敵がいなければ東へ向かう。
それだけ決めた頃には、獣道の脇を走っている誰かを発見できた。当然というべきか走る速度はランドリックに分がある。生まれてこの方、駆けっこで負けたことなど一度もないのだ。駆けっこなど数えるほどしかしたことはないが。
獣道を真っ直ぐ駆けていたのを、ランドリックは進行方向を右へ逸らし、速度を落とさず森へ飛び込む。それで敵兵はランドリックに気付いたようだが、気付いたからどうという問題ではなかった。
あまりにも速度が違いすぎで逃げ切れない――そう判断した敵兵が足を止め、振り返って腰の剣を抜き払う。
その瞬間には、剣が顔面に突き刺さっていた。
問答している時間が惜しかったので、踏み殺した男から奪った剣を投擲したのだ。物を投げるという行為が有効であるのは言を俟たない。規模や軍の位置関係にもよるが、投石による被害が莫迦にならないのは常識である。
ランドリックの投擲は、投擲物にある程度の重量さえあれば大抵の人間に致命傷を与えられる。走りながら腕の振りだけで投げたとしても、だ。
投げつけた剣の威力が強すぎて、顔面に刺さった剣が突き抜けてしまい、そこらの樹木に突き立ってしまったが、ランドリックは気にしなかった。
走る。
常軌を逸した速度で駆け、森を出る。
◇ ◇ ◇
そして、ランドリックは十年ぶりの再会を果たすことになる。