第5回 蘇我氏三代
蘇我氏三代とは、馬子、息子の蝦夷、孫の入鹿の三代のことを言う。
西暦623年、聖徳太子は前年に亡くなり、もはや自らの邪魔をする者はいなくなったと思われたが、さすがの蘇我馬子も、寄る年波には叶わず、蘇我一族の家督を息子の蝦夷に譲っていた。
「わしにとっての最大の敵は、寄る年波であったか…。」
この時の蘇我馬子はまさに『年老いた没落貴族』であった。
年老いた没落貴族が、まだ若くて権勢のあった頃を振り返る。
父である蘇我稲目の後を継いで、蘇我一族の当主になったのは、若き日のこと。
以降、54年もの長きにわたり、蘇我一族の当主としての勤めを果たしてきたつもりだ。
蘇我の敵はたくさんいた。そんな政敵たちを次々と退けながら、蘇我は地位を築いていった。
そんな政敵たちの中でも、物部は蘇我と勢力を二分するほどの存在となり、事あるごとに蘇我に食ってかかった。
蘇我と物部の対立は、馬子と守屋のお互いの父親の代から続いていた。お互いに家督を継ぐと、さらに対立は激化していった。
物部を倒した後は蘇我の一強支配となるが、まもなく聖徳太子が摂政になると、蘇我をはじめとする豪族の力を抑えるような政策を次々と打ち出す。
しかしそれはそれで、お互いに様子を見ながら、利用し合いながら、どうにか生き延びていた。
やがて聖徳太子は亡くなるが、馬子も既に老齢となっていた。もはやかつての権勢は無かった。
蘇我馬子の気がかりは、跡取りの蝦夷には、自分のような才覚が無いということ。
蘇我馬子もそれはわかっていた。蝦夷もそれがわかっていながら、偉大すぎる、優秀すぎる父、馬子に対しコンプレックス、つまり劣等感を感じていた。
ただ、孫の入鹿は、もしかしたら自分以上の大物になるのではないか、実際その才覚があると、目をかけていた。
入鹿も語っていた。
「わしの願いは、偉大なる祖父、馬子をもしのぐ存在となること。」
まもなく馬子は亡くなり、蘇我氏は息子の蝦夷が後を継ぐが、既に入鹿への後継指名の準備が進んでいた。
「なに、大化の改新だと!?
はっはっは!起こせるものなら起こしてみよ!」
一方で蝦夷はというと、
「結局わしは、入鹿へのつなぎでしかないのか…。
何かわしにもできることはないのかのう…。」
蘇我一族の家督の重みというものを感じずにはいられなかった。