第4回 小野妹子
小野妹子は、遣隋使として隋まで行った人物ということ以外は、詳しいことはわかっていなかった。
何より、生没年は不祥なのである。つまりいつ頃生まれて、何歳ぐらいで遣隋使として隋へと向かい、そして亡くなった時も、いつ頃、何歳ぐらいで亡くなったのか、という記録が一切残っていないからだ。
『妹子』という名前だが、実際には男だ。この時代は『子』というのは男の子につけられていた。
「私、小野妹子でーす!」
雑誌『歴史の旅と乗り物と名物料理』の取材を受けるのは、小野妹子…?
いやいやこちらは小野妹子に扮した女子高生だ。
そこは港。こちらは正真正銘の小野妹子の一行がやってきた。
ここから私、小野妹子の目線で語る。
その時、私は摂政の聖徳太子様に呼ばれた。
なぜ呼ばれたかはすぐに察しがついた。
現在我が国は任那をめぐって新羅と争っているが、苦戦を強いられ、
任那の者たちも、これ以上戦いを続けるよりも、いっそのこと新羅の軍門に下った方がいい、とまで考え始めていた。
そんな中で、聖徳太子様が隋に使いを送るように進言した。
推古天皇らも賛成し、あらためて隋に使いを送ることが決まった。
そうだ、これが決まった以上は誰かが行かなければならないからな…。
そして私は、太子様より直々にある手紙を託された。
「この手紙は我が国の命運がかかった手紙だ。
ここに書いてある内容は以下の通りだ。
必ずや隋の皇帝、煬帝に届けるのだ。」
「ははっ、必ずや隋の皇帝、煬帝様に届けまする。」
実は遣隋使は604年に第1回目が派遣されたが、この時はあっさりと追い返されてしまったという。
そのため、公式記録にも残らず、長らくそのことは伏せられていた。
それだけ、この時代の日本はまだまだ未熟な国とされていた。しかしそんな未熟な国だからこそ、大国の進んだ法律、制度、文化などを学び取ろうと考えていたんだけど…。
そして2度目の派遣となったのが、607年のこと。
これが小野妹子たちが遣隋使として旅立った時の話だった。
こうして小野妹子たちは、船に乗って隋へと向かうことにしたが、その船というのが何ともお粗末な代物だった。
「正直、こんな船で本当に隋までたどり着けるのでしょうかねえ。」
申し遅れました。私は、『歴史の旅と乗り物と名物料理』という雑誌の編集者、
高見不充彦という、平成末期の時代からこの時代にタイムマシンでやってきた者です。
私たち、この雑誌の編集者は、このようにして過去の時代を巡って取材活動を行っているんですよ。
では、引き続き…。
お粗末なと言ってしまったが、任那に出兵するための船を建造していたくらいの造船技術は、この時代にはあったのだから、遣隋使を派遣する用の船は、間違いなく特注の船だろう。
そしていよいよ遣隋使の一行を乗せた船は、浪速の港から、瀬戸内の海を経由して、大海原へと進む。
この時ばかりは、まさに必死だった。そしてその思いが通じたのか、見事に隋の都、洛陽に到着した。
洛陽の都は、碁盤の目のように道が整備され、見たこともないような立派な建物が建ち並んでいた。
「私が隋の皇帝、煬帝である。」
「小野妹子にございます。」
「太子という、日本国王の命によって、はるばる海を渡り、ここまで来たというのはそなたらか。」
「ははっ。」
「日本国王からの手紙があるとな。」
「これにございます。」
煬帝は手紙を手に取る。しかしその内容を見た瞬間、煬帝の表情がこわばる。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」
この有名な下り、意味は
「日の登る方角の国の天子から、日の沈む方角の国の天子さまへ、お元気ですか?」
ただ単に日の沈む方角、太陽は東から登って西に沈むのだから、東の方角の国から、西の方角にある国へ、という意味で、それ以上の意味は無かった。
それなのに、日の沈む国=衰えていく国、滅びていく国と解釈してしまった煬帝は、怒り心頭。
「このわしを日の沈む国の皇帝だと!?
この隋を日の沈む国などと、しかも倭国と、隋の国が対等に付き合うと…?」
怒り心頭になった時点で、倭国=日本と隋が同盟を結ぶという話は破談になってしまうと思われたが、
隋は高句麗との戦いを控えていた。
高句麗とは、当時の朝鮮半島にあった国の一つで、現在の北朝鮮のあたりにあった国。
高句麗の都は平壌であり、現在は北朝鮮の首都となっているところだ。
新羅と戦っている日本と、高句麗と戦うのに、日本とはできれば穏便に行きたいと考えた隋の煬帝の思惑が一致したのだった。
「とまあ、そういうことじゃ。今度はこちらからそなたらの国に使者を送るゆえ。それでよいな。」
「ははっ。」
その後小野妹子は、帰国した後にその功績を称えられ、官位十二階の最高位である大徳の位を授かった。
この時の小野妹子の功績があったからこそ、遣隋使はその後も派遣され、大陸の進んだ文化を早くから日本に取り入れることができた。
そしてそれが後の時代の日本の発展につながっていくことになる。




