そもそも、他人のことなんて全て推測にすぎない
席は開かないようなので、吊り革に捕まり、俺は若干足を開いて立つ姿勢に入る。
「ハル!見て見て!花火大会だって!」
見て見て!などという馬鹿っぽい振る舞いはじつは計算され尽くしているのだろう。
立派な胸がたゆんたゆんと扇情的に揺れているのが一瞬視界の隅に入る。
誘惑に負けそうになるが、たゆんたゆんと揺れる二つの4号球の先にピカピカ光るボールを見つけ、理性を立て直す。
禿げたおっさんだ。略して禿げさんだ。
俺の勘だが、禿げさんは今懸命に闘っている!
禿げさんは約52歳、多分娘が一人立ちをする直前で、おそらく家には奥さんと娘と三人!
不確定だが彼は思春期の娘には距離を取られ、メイビー奥さんには倦怠期で嫌われている!
プロバブリィそんな彼の前に揺れる美少女の4号球!
天使は囁く!家族を裏切って良いのか?
悪魔は唆す!あんな家族良いじゃないか。ちょっと見るだけだよ……
スロットの如く表情を変えながらときどきチラッとクロの胸に視線がいく。
面白い。面白いことこの上ないが、禿げさんのような大人にはなりたくないな。
世の中には禿げさんたち反面教師が溢れかえるほどいる。
俺は思う。予備校の講師の話を聞くよりよっぽど禿げさんが教えてくれることの方が意味があると。
どんなに頭が……いや、頭脳が輝いていても、娘ほどに年の離れている女の子の胸を見ているようでは人間としてはダメだと思う。
そんな禿げさんの闘いとセンスのある髪型を内心で嘲笑っているとクロが再びちょっかいをかけてくる。
「見てよ〜ハルぅ〜………無視してると髪むしり取るわよ?」
「むしだけにってか?はぁ、聞こえるぞ」
「聞こえるように言ってんのよ。女子高生の胸チラ見する禿げのこと気遣う必要なんてないでしょ?
ほら、花火大会のところから!」
『ところ』ってなんだよ!最初のそれに反応し直せってことか?
それと、文句言ってるけど胸を揺らしたのは自分の計画だろ。
アピールする相手いないならそういうことするなよ……
いや、おっさんに悪口言う口実作りか?
「……あぁ、風流だな」
文句を押し殺して対応する。
俺だって髪は大事なんだ。小さい頃は植毛すればいいなどと夢を見ていたが、禿げさんのようなサラリーマンにはコスト的に維持困難な代物なのだ。
それを知って以来朝風呂を止めるというのはよくある話だと思う。
「はぁ、面白くないわ。ハゲジジイかよ!とかツッコミもらうつもりだった?」
「ボケてねーよ。素だよ」
あとハゲジジイとか大きな声で言うな。禿げさんの心の傷で顔面スロットが強制停止してるから。
「素でボケてるとなると本格的にジジイね……」
クロは俺をかわいそうなものでも見るような目で見てくるが、そんな視線は中学の頃にある病気にかかって慣れた。というか文脈的にどう考えてもその意味のボケじゃない。
「ボケてねーっつってんだろ」
「自覚症状なし、と」
好き勝手言いやがるな、おい。
「……ボケなどによって判断能力の欠如してしまった人間の遺言には効力はないらしい。俺はボケているから同様にさっきのクレープの話も無効だな」
好きなようにやられてやるのも癪なのでちょっとした反撃だ。
「診断書でもあったら考えてあげるわ。あと、ボケてる自覚が芽生えた分症状は回復したわね」
「っ……」
聞き齧りの内容で反撃したのが裏目に出た。
反撃に驚いた様子もなくあっけらかんと一手返されるとそこはもう俺の守備範囲外で、咄嗟に反論は浮かばない。
何かを言おうとして詰まってしまった時点でこの場はクロに軍配が上がったようだ。
俺が諦めて無言になるとクロは勝ち誇るような可愛げを見せることもなく話題を転換していく。
「そういえば玉屋さんはあそこにデートらしいわよ?1,500円のチケットも彼氏持ちだって」
俺の方をチラチラ見ながらクロが指さすのは電車内で俺の心を支えてくれるエアコンの風に揺らされる広告、乃絵島の花火大会のポスターである。
海の上に浮かぶ乃絵島と、切り立った崖の縁に立つ乃絵島の象徴、乃絵島燭火ノ塔。灯台のような見た目のそれをバックに夜空を彩る丸い花火。
俺の最も憎むべき存在の一つだ。
あと、俺はクロの彼氏じゃないしチラチラ見たところでクレープ以上に奢るつもりもない。
中学の時は夢見たものだ。
友達が「昨日乃絵島の花火行ったんだ」とか自慢してくるのを素直に羨むことが出来た。
よく、「俺もいつか」みたいに思ったものだ。
彼女もいないのにスマホでチケットの料金も調べたことがあるから分かる。
「特別席の料金は1,500円じゃないぞ。2,500円だ」
夢っていうのは大抵叶わず、いつかはいつかのままだ。
そんな当たり前のことに気付いたのは中学の最後か高校に入ってからか。
きっかけになりえた事柄は卒業時にふられたこと、高一の初めにずっと非リア仲間だと思っていた友達が隠れリア充と知ったこと……いくらでも要因は思いつく。
そしてやはりクーラーは俺の味方だ。
微弱な冷風でも広告を落とそうと、必死に世の中のリア充の幸せに反抗している。リア充レジスタンスの鏡だ。
リア充時代とも呼べるこの世界を変えようとしているのか。
なんて立派な奴なのだろう。
「残念だけど、ラインにはちゃんと1,500円って書いてあるわ」
スマホを確認しながらクロが返してくる。
ん?勘違いか?それとも値段設定が変わったのか?……まぁ俺には関係ないことだ。どうでも良いか。
「はぁ、帰りの電車はお前らリア充の巣窟かよ」
そう、花火大会は俺たちの向かう東京とは逆の乃絵島で行われるのだ。
そしてその日付は今日。
つまり、俺はリア充の巣食う電車を抜けて自宅を目指さなければならないということだ。
憂鬱さに意図せず溜息が出てしまう。
「リア充……リアルが充実してるってこと?彼氏がいるってこと?私が?はぁ、あんた周りの目が腐った奴らより、少しはましだと思ったのだけど、ほかの部位も腐ってたせいで分かりづらかっただけみたいね」
何が琴線に触れたのかクロの語調が若干強まる。しかし語調よりもその内容は聞き捨てならない。
「お言葉ですが、クラスメートの目が腐っていることを否定したのはあなただったはずですが?ついでにみんなに慕われて、崇められる白石さんのどこが非リアなんでしょうか?」
俺が腐っている、と言うのはまだいい。嫌ではあるが、こいつのいうことだ。どうでも良い。
しかし、リア充が非リアを名乗ることほどムカつくことは無い。
非リアを舐めるなと心から言いたい。
「あら、クラスメートの目については否定はして無いわ。確かに腐ってるもの。そして、私はリア充じゃ無いわ」
「おいおい、非リア舐めんなよ?
お前は自己紹介の直後、一人だけ学級委員に名前聞き直される奴の気持ちが分かるか?
2学期の初めに去年も同じクラスだった奴に名前間違えられる気持ち分かるか?俺の名前水田だぞ?杉下って誰だよ?名前忘れたなら呼ぶなよ。
毎回映画見に行こうと思うたびにアドレス帳に名前が無いことに悶える奴の気持ちが分かるか?
結局1人で見に行ってフロントで『学生チケット1枚で』って言った時に『あ、この人学生なのにぼっちだ』みたいな目で対応されるやつの気持ちわかるか?
ネットサーフィンしててもリア充の画像見るたびにいつの間にか爆弾の製造方法のページ開いてる奴の気持ちが分かるか?
日常って書いて孤独って読む奴の気持ちが分かるか?」
はぁ、自分で言ってて意味分からん。
全部いつものことで気にもして無いつもりだったのに、いざ「非リアでーす」みたいなリア充と向き合うと頭に血が上ってしまったようだ。
クロは少し俯いていて影が差した顔の表情が見えない。
大方笑いをこらえているのだろう。
自分が恵まれてることを自覚して、リア充ひゃっはーってなって、血圧高くなりすぎて、心臓から自爆しやがれ。
「大体分かったわ」
分かった?アホなのか?知ったかか?知らなくても知ってる風に装う熟練のバスガイドさんか?
俯いたままクロは続ける。
「あんたは自己紹介しただけの仲でしつこくメアド交換迫られる奴の気持ちが分かる?
一度も話したこと無い奴らに妙なテンションで絡まれて『まずお前ら誰だよ』ってなる気持ち分かる?挙句『白石さんちょっと話に聞いてたのとイメージ違うね』って何?誰から聞いたの?お前のイメージとか知らんから、てかお前の名前も知らんから。
毎回新しい映画が出るたびに男女の両方からやったら誘われる奴の気持ち分かる?もう見たって言っても別の映画提案してくる奴ら何者?大して見たくも無い映画に誘ったわけ?
結局見たくも無い映画に社交辞令で行って金飛んでく奴の気持ち分かる?
私がアニメの記事読んでるのわざわざ覗いて『白石さんってそういうの見るんだ。いがい〜』って言われる奴の気持ち分かる?爆弾の製造方法?調べてるのが見つかったらどんな扱いされるのかしら。
日常って書いて束縛って読む奴の気持ちが分かる?
その上ハルまで私のことをリア充だ?……リア充爆発しろ」
俺の言葉に意趣返しするようにまくし立てるクロ。
ようなく顔を上げたその口元には今までの長い付き合いの中でも一度も見たことがない謎の笑みを浮かべているように見えた。
俺のことを嘲笑っている……のとは少し違う。
あるいは笑ったように見えたのは気のせいで、単に言葉通り俺とは全く逆の辛さと言うものを伝えようとしてるのか?
どちらにせよあの表情は嫌いだ。
そして……
「分かんねーな」
分かる訳がない。
彼女は人気者でみんなに慕われている。
俺が持ってないものを持っているのに嘆いている彼女の気持ちなんて分からない。
「大丈夫よ。私もあなたに理解して欲しかったわけじゃないわ」
遠くに目を彷徨わせるクロから視線をずらし、無駄にでかく、夏の日の光を取り込んでしまう作りの窓からどこか遠くの住宅地を見やる。
言葉を返す彼女との距離が妙に近づいていたのに気がついて俺は一歩、彼女から離れた。