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その手

作者: 新井住田

 突然、腕を引かれた。

 私は恋人との激しい口論の真っ最中に起こった突然の出来事に、少し反応が遅れてしまった。

 そういえば、ここのところ喧嘩ばかりで、彼の体にはほとんど触れていなかった。まして手になどは、ここ一週間ほど触れる気配すら見せていなかった。男の手とは、こんなにも大きく、力強いものなのかと、改めて思った。

 思い返してみれば、彼の手には色々と助けられた。

 私と彼は、本を読むのが共通の趣味で、よく二人で本屋に通っていた。大型書店などは本棚が高く、身長が150センチほどしかない私は、よく上の棚の本を彼にとってもらっていた。店員さんに取ってもらうこともあったが、本が気に入らずにまた元に戻してもらうのが大変申し訳なかった。だが、彼ならその遠慮もいらない。何度も本を選んでいるうちに「まだかよ」といった表情をされたことも度々あったが、そんなときは「本に夢中で気がついていません」というフリをしていた。

 2年ほど前、私がストーカーにつけ回されていた時も、その手が助けてくれた。

 ストーカーは、当時働いていた居酒屋の常連客の一人だった。その客は、他のオヤジ客のように店でやたらと話しかけてきたり、ボディタッチをしてくるといったことも無かったので、最初、帰宅中の自分の後ろをコソコソとついてきているのがその人物だとは思いもしなかった。

 しばらくの間その男は、仕事終わりの私を後ろからつけてくるだけだったのだが、いつからか無言電話が掛かってくるようになっていた。郵便物を漁られることもあった。そのことを彼に相談すると、仕事帰りに迎えに来てくれるようになり、それ以来、ストーカーの影は消えた。

 ある日の仕事終わり、油断した私は店の外で彼の迎えを待っていたところを男に連れ去られそうになった。タイミングよく迎えにたどり着いた彼が、その手で男を取り抑えた。店の目の前だったため、騒ぎに気付いたお客さんが警察に通報してくれて、そのまま男は連行された。事情聴取のために、私たちも警察署へ連れて行かれた。そのパトカーの中でずっと私の手を握ってくれていた彼の手は、とても大きくて、震えた私の心ごと優しく包んでくれているように感じた。

 今、私の腕を掴んでいるこの手は、確実に自分に危害を加えようとしている。急に腕を引かれた混乱から頭が立ち直り、声を出そうとした瞬間、口を塞がれた。息ができなくなり、私の頭はまた混乱の渦に巻き込まれた。

 その隙に私の小さな体は、ひょいと持ち上げられ、肩に担がれる形になった。そのまま玄関先まで運ばれ、そこで初めて「たすけて!」と声を上げることができた。

 玄関を出てから外の空気に触れたのはほんのわずかの間で、すぐにアパートの前に停めてあった車の中に放り込まれた。放り込まれた際に後部座席反対側のドアに強く頭を打ちつけ、あまりの痛みに思わず患部を両手でさすった。私を放り投げた男も後部座席に乗り、ドアが閉められたと同時に車が走り出した。

 頭を座席に押し付けられ、身動きができない状態でなんとか目だけで男の顔を見た。一度、警察へ引き渡したことのある顔がそこにあった。運転手の男もまた、当時の常連客の一人だった。

 この車はどこへ向かっているのだろう。場所が分かれば、隙を見て助けを呼べるかもしれない。

 そこまで考えて、携帯が無いことに気付いた。そうだ、さっき腕を掴まれた時に離してしまったんだ。

 突然、電話口からいなくなった私を、彼は不審に思ってくれているだろうか。頭にきて電話を投げ出したと思われていないだろうか。

 そうだ。玄関先での悲鳴が、電話まで届いているかもしれない。あれさえ聞こえていれば、既に警察に連絡が行っている可能性が高くなる。

 また、彼の手に助けてほしい。

 私は闇に向かって走る車に揺られながら、そう願った。

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