第四話 さまざまな思惑
近衛騎士ランフェルトは、エドガー王太子より託されていた軍使としての務めを無事に成し遂げていた。そして、王都の市街区にある西大広場に面したパルム公の本営として接収されている邸宅から姿を現し、預けていた馬の手綱を馬番から受け取っていた頃。
先ほどまで会見の行なわれていた室内には、グスタフ・パルム公の姿がいまだあった。
座したままのパルム公は、姿勢をいくらか崩しており、椅子の背もたれに体重をかけている。
なお、この邸宅にあらかじめ置かれてあった椅子はほぼ全てがやや小さめのものであった。それゆえにか、年齢の割には引き締まってはいるものの、最近は年齢相応に丸みを帯びてきつつもあるやや大柄な、パルム公の身体が椅子に収まっている態は、窮屈そうにみえなくもない。
パルム公は、手に持った杯をゆらゆらと揺らしながら傾けている。そのワインの揺れる様を、心持ち首を傾け、やや青みがかった瞳で眺めつつ、近衛騎士ランフェルトが去って以降は一言も発せず沈黙を続けている。
部屋の中にはパルム公一人、というわけではない。
だが、後方に控えている者たちは一切の音を立てていないために、室内にはパルム公が持つ杯が卓にぶつかりながら時折発する、微かな音だけしか響いていない。
しばらくすると、パルム公は杯に残っていたワインを飲み干して席を立ち上がる。
ワインの揺れを眺めるに飽いだのか、何事かを心に決めたのか、決めかねているのかは、その表情からはうかがいようもない。
室内から出る途中で、控えていた従者へと顔を向け、オットーとイェルケルに東の小間で待機しておくように伝えろ、との命を出す。
そうしてエミル・ランフェルト侯が弟である近衛騎士ランフェルトに会うために、供もともなわずに訪れ、吉報を待っているであろう別室の方へと足を向けた。
出来るかぎり、他の諸侯たちやパルム公の家臣たちと顔を会わせずとも済むようにと、邸宅のいくらか奥まった位置に、エミル・ランフェルト侯の待つ部屋はある。
用件が用件だったゆえ、エミル・ランフェルト侯がそのように求め、パルム公が配慮して手配させたのであったが、今となってはその部屋へと向かう廊下を進む足取りは重く、そして遅い。
ようやく、といった態でその部屋の前に着いたパルム公は、控えていた衛兵に命じる。
扉を軽く叩かせ、次いで開けさせたパルム公は室内へと入り、エミル・ランフェルト侯が待っている長椅子の方へと歩んでいく。
長靴の発する乾いた足音が床に響く音を耳にしたゆえであろうか、エミル・ランフェルト侯は、瞑目でもしていたかのように閉じていた目を開けている。
その青みを帯びた瞳は、喜色を浮かべているようにパルム公には見えていた。
それは、ランフェルト侯の視線が動き、その視線がパルム公本人のそれと合っても変わらない。
分からぬ。と、パルム公は思う。
あやつの目に映っているのは、近衛騎士の弟殿に引き合わせる為の会見場へと、ランフェルト侯を案内するためのわしの家臣ではない。
長い間に渡って待たされたあげくに、わざわざ、わしだけがこの部屋を訪れたことの意味。
よほどの愚者でもなければ、悟ってもよかろうものを。
近づいてくるパルム公を前にしたランフェルト侯は喜色を浮かべたままであった。座っていた長椅子からやや太り気味な身体を起こし、立ち上がろうとしている。
だが、パルム公はその機先を制するかのように「そのままそのまま」と、言いながら素早く歩み寄って行く。
「侯よ、すまぬ。近衛騎士殿を、侯の弟殿を翻意させること、叶わなんだ。全ては、安う請け合うてしまったわしの落ち度だ。この通り」
そう言ったパルム公は、ランフェルト侯が止める間もなく、腰をかがめ頭を下げて謝罪の意を表していた。
置かれた現状をかんがみれば、早々にその頭上へ王国の冠を載せることが決まっている、といっても過言ではないパルム公よりの直々の謝罪。
それを自らは長椅子に座ったままで受けてしまい、かなり礼を失する形となってしまっているランフェルト侯は、いくらか慌てたような様子で立ち上がっていく。
「公よ、頭をお上げくだされ。全ては私の見識不足ゆえです。公の為されように、落ち度などございますまい」
その言葉を耳にしたパルム公は、「おお、侯のお心優しきことよ」といいながら、ランフェルト侯の対面へ位置する長椅子に素早く腰を下ろしつつ、表情を垣間見ている。
ランフェルト侯は落胆の色を浮かべながらも、そこに何やら偽りめいたものを糊塗しているようにも見えなくもない。
それを確認したパルム公は、先ほどとは逆の形となってしまっているランフェルト侯に「ささ、侯もお座りなされ」と言葉こそ慇懃にではあるが、聞きようによっては命じるがごとくに聞こえる声色で告げる。
長椅子に腰を降ろすランフェルト侯の表情を、さりげなくではあるがしっかと見据えながらパルム公は口を開く。
「まずは、わしよりの詫びを受け入れてくれたこと、感謝いたす。
ところで、侯の弟殿よりの言伝を預かってまいったのでな。先にいっておこう。聞かれよ」
少しばかり背筋を伸ばしたパルム公は、ゆっくりとした口調で言う。
「近衛の誓いは、そのように軽く扱われてよいものではない」
しばしの沈黙が続いた後、戸惑いを顔に浮かべている様子のランフェルト侯がぽつりとつぶやく。
「……それだけ、でしょうか?」
それだけよ、とパルム公は短く応えた後、声に力をこめる。
「なお、これから話すことは、わしへの弟殿よりの個人的な頼みだったのだが……侯にも関わりあることゆえ、伝えておくべき、と思うてな。
弟殿は、侯のなされた助命嘆願そのものを、とても恥じておられたぞ。そして、こうも言うておった。
この議が広まることあれば、エミル殿のランフェルト家当主としての見識を疑われることに繋がるゆえ、忘れてくれ、とな。
いやはや、内聞に済ませて欲しいではなく、忘れてくれ、には参った。その意気に免じ、忘れることを思わず約束してしもうた。
侯よ、弟殿に感謝なされよ」
我が威に打たれでもしたか。ランフェルト侯は、体を小さく震わせながら、うなずいていた。
パルム公は近衛騎士ランフェルトとの会見の場において、この件に絡んだ自身の失態を口にする気など全く無かった。
ランフェルト侯に話した内容に誇張などは全く含めてはいないが、ことさらに告げなくともかまわない内容もあった。
ばかりか、そもそも先だってランフェルト侯が実の弟である近衛騎士ランフェルトの助命を願い、供もともなわずたった一人で自身の私室に案内されてきた時には、人払いをして他の者の目こそなかったが、かなりあっさりと請け合っていた。
そんなパルム公の様子をうかがったランフェルト侯は、弟を翻意させられる、と少なからず受け取っていたようにみえたが……。
パルム公の認識は随分と違っていた。
若い時分は、ただ、騎士、というだけではなく、”令望の”騎士という異名を、それが公的なものではないとはいえ、王国内においてわざわざ奉られていたほどの男である。
父亡き後にその遺領を継いでより後は、パルム公とのみ呼ばれる機会がほとんどではあったが、誇り高さや矜持においてフォルシウス王家に仕える近衛騎士たちとは、同族といってもよい。
その意識においては同族が、よりにもよって今日のような日に、いくら実の兄よりの説得であろうとも。
仰ぐ旗を換えることに同意するなど、毛ほども想像してなどはいなかった。
そして、それは実際に軍使としてまみえた近衛騎士ランフェルトが実証してみせている。
五日間の水晶宮表門攻防戦における近衛騎士ランフェルトの働きぶり。
その武人としての手強さと兵の指揮ぶりの鋭さは、前線にあった将などから報告を受けていた。今日はエドガー王太子よりの名代として、使者の務めを果たす様を直接目にし、耳にもした。その振る舞いは、やや若さからくるのか未熟さというよりも、経験不足が時折見えはした。
惜しむらくは……。
わしのここ数日の指揮ぶりを愚鈍なものとでも、内心思っていたのだろう。その侮蔑意識を完全には表情から糊塗しきれてはおらず、時折それが浮かんでは消えていた。
今日に至るまで、水晶宮を落とせなかったのか。落とさなかったのか。
その違いを前線の将兵を束ねつつも理解出来るようであれば、年を経て、より経験をも積み重ねれば、将軍にして宰相が務まる才なのやもしれぬ。だが、惜しむらくはその辺りの資質はあまり持っていないように、パルム公には近衛騎士ランフェルトが見えた。
しかしながら、それはある意味で当然のことともいえた。そもそも近衛騎士にそういった資質を求めるのは筋違いともいえようし、武を束ねる臣が文をも司るのははなはだ危険なことでもあった。
とはいえ、一国を統べる視点から離れ令望の騎士グスタフ・パルムとしてみれば、一介の武人としての近衛騎士ランフェルトのあり様は、様々な面を含めて若き日のおのが身と比べても、軽い嫉妬すら覚えるほどの見事なものとしか言いようのないものであった。
もっとも。パルム公としてはかなりの不満が残った。
少なくとも、実の兄に会いはするだろう、と。そう考えていた。
会った、という既成事実さえ握ることが出来れば、パルム公としてはこの兄弟の件についての目的を達せられたはずだった。
既にして、新たな王朝を開くことが決している身としては、今後のことを考えないわけにはいかない。
たとえば目の前に座している男。エミル・ランフェルト侯は、挙兵早々に自分への味方を表明するとともに、軍勢を引き連れて近くはない路を馳せ参じてきた。
平時に十や二十を供連れた自領内への物見遊山ではない。
自領よりまとまった人数の将兵を引き連れて出兵するからには、連れて行く家臣と残す家臣、領地に残す将兵や周辺諸侯との関係をしっかり把握していなければ、適切な人数をはじき出せるものではない。
加えて、他家の領地を穏便に通過する為の交渉、武具に防具、馬の手当て、持参していく兵糧に軍資金。
触れを出し、兵の動員が完了するまでの時間なども含め、成しておくべきことは多々あるはず。
なのだが。まるで事前に、このことあるかを予期でもしていたかのような早さで、おまけに二千六百というたかが一人の侯が自領を遠く離れての援軍としてはかなりの兵数でもって、更に王国の東部を縦断するかのような行程でもって参陣してきた。
エミル・ランフェルト侯の統治しているレッドフラワー領は、鉄鉱山と交易の盛んな港を有しており、王国の諸侯領のうちでも豊かな部類に入る。
それゆえ、常に様々な人、物を含めた備蓄量そのものに余裕があるだけなのか、と。
パルム公は、目の前にいるおろおろとしているようにしか見えない男を眺めていると、そう思えてならない。
実際、これまでの諸侯を集めた軍議の場においても、戦場においても特に機知を示したわけでもなく、率いている軍勢も数こそあれど、さほど精強ともみえない。
やはり、愚者かと思えるのだが。
だがしかし、旗幟を鮮明にする決断の速さと実行力だけは認めざるを得ない。
それだけは疑いようも無い事実であった。
おまけに、いくら近衛騎士に任じられた者が生家とは完全に切り離され、公的には別個の個人として扱われるとはいえ、人には情というものがある。
端から見れば趨勢定かではなかったであろう、むしろこちらが劣勢にしか見えなかったであろう時期に、マーシア王国フォルシウス朝に対し決起したこのパルム公へ従うことを早々と表明し、文字通り我が陣営に多数を率いて馳せ参じていた。つまり、王国に近衛騎士として仕えている実の弟をあっさりと見捨てていた。
目の前の頼りなさげな男は……実に近しい身内を。
我が身に置き換えてみれば、出来るであろうか?
……出来はしない。否、そのようなことが出来るのであれば。
そもそも決起など、出来はしなかった。
決起したからには、己の中での勝算はあった。もっとも、これほど早く収束に向かうことになるとはあまり考えてはいなかったが、一年やそこらは余裕を持って戦えるだけの準備はしていた。むろん、こと敗れ、無様に負けた場合の覚悟もつけていた。
パルム公は近しい者らには、決起直前にほのめかし、示唆してもいたが、怯む者もいた。彼らを懐柔しながらも、逡巡を当たり前のこととして受け入れて、割り切ってもいた。
諸侯同士のいざこざ戦ではない。
王国を長きにわたって統べていたフォルシウス王家への謀反というのは、比べてみるまでもなく、いざこざ戦とは鼎の重さがまるで異なる。
近しい者、というだけで巻き込まれるなど、わしがその立場ならばごめん被りたい。
決起とともに、全ての諸侯へ味方として起つよう檄文を送りはしたが、中立でいてくれさえすれば事が成った暁に何も問うことはしない、とも記していた。
味方など、勝っていれば勝手に増えるものだし、負ければ自然と減る。
実際、王都でパルム公とともにある味方諸侯の三分の二近くは、趨勢がこちらに傾いてから参陣してきた者どもであった。王都まで軍勢を引き連れてくる必要はなし、近隣のフォルシウス王家側についている諸侯を押さえておけ、と命じた味方諸侯を含めればその比率は更に跳ね上がる。
そのような状況であったにも関わらず。
七代前に我が家から嫁いだ者の血が、五代前に我が家に嫁いだ者の血が。混ざっている程度のもはや縁者ともいえない、しかも常の交流などほとんど無いに等しかったはずの、わしの目の前に座っているレッドフラワーの領主は”血縁の義により”などと言いながら早々に参陣してきた。
その程度の血の濃さを血縁というのであれば、フォルシウス王家を含め諸侯の大半は、皆だれかしらの血縁の者といっても過言ではなくなるし、ランフェルト家にもフォルシウス王家の血が、軽く四百年は遡るものの女系を通して確かに流れていた。。
そして、流れている血の量で言えばパルム家には王家の血が三滴ほど入っている。最も近き縁としては三代前のパルム公の妻、自身の曾祖母にあたるお人の降嫁する前の身分はエイリク道路王の、つまりはフォルシウス王家の王女であった……。
つまり、血縁の義などではなく、利で味方についた。言外においてランフェルト侯は明らかにそう主張していたことになる。
参陣しているだけであった。諸侯との軍議で決まった役割を淡々とこなすだけで、強いて功など求めようともせずに、実際上げることもなく今日にまで至っていた。
もっとも、決起早々に味方として起つことを表明し遠き地より軍勢を引き連れ東部を通って我が本領まで馳せ参じてきた。この一事のみで随分な武功ではあった。
狎れ、であろうか。
たまたま、わしが勝つ方へ。どういった理由かは知らぬが早々に賭けてみた。それだけのことなのか。
結果、愚か者らしく狎れをみせて、弟殿の助命を頼みに来た。
そう考えれば、つじつまが合わないでもない。
賢い者であれ、愚か者であれ。理を重んじる者であれ、利を重んじる者であれ。
分かっていれば対処のしようはあるのだが……。
グスタフ・パルム公は、改めてエミル・ランフェルト侯という男を見据え観察する。
……分からぬな。どうにでも取れてしまう。
まあ、今は良いか。
やらねばならぬこと、考えねばならぬこと、決断すべきことは、それこそ山のように積もっている。
目の前の、その人となりを判断つきかねる者にだけ、関わっている時間などさして無い。
ランフェルト侯が差し出してきた機会を、近衛騎士の弟殿の見事な矜持によって、完全に利用しきれはしなかった。
公的な軍使との、それも王国の王太子の名代として派遣された軍使と新王朝の開祖たる予定の我が身の会見場において、私情を優先させた男。
と、してしまえば、論功の場でも、それ以降でも手綱を握りやすくなったものを。
会った、という事実さえあればいかようにも出来たものを……。
ランフェルト侯がこの邸宅にいた、というだけでは何にもならぬ。
文書すらなく、いかようにでも言いつくろえる。
わしの家より漏れるのは、あの近衛騎士殿に礼を失する。第一おのれの矜持が許さぬ。
残念ではあるが、こたびは釘を刺しておくに留めておこう。
そう当座の結論をつけたパルム公は、先ほどまでとは異なる、親しみを込めた声色で再び口を開いた。
「それにしても、侯よ。弟殿は、実にあっぱれなフォルシウス家よりの軍使ぶりでしたぞ。まだお若いのに機知もあり、胆力も備え、爽やかさすらみせておった。
まこと、見事なもの。散らせるには惜しいのう」
わしがさほど気にしてなどいない、と見てとったのか。
ひたすらに複雑な表情を浮かべていたランフェルト侯の顔にほんのりと朱が差している。
再度、念を押すかのような態で、威をみせておく。
「侯よ、まこと弟殿に感謝なされよ。
この議の委細を知っておるわしの家の者らにも。といっても、知るのはわしを除けば二人しかおらぬが。後ほど口外を固く、固く禁じておくゆえ、な。
よって、この議については今後あずかり知らぬ。
侯も、そのように、心得、なされ」
ランフェルト侯は再び体を震わせながら、栗色の髪をいくらか振り乱しつつ、額に汗を浮かべ、うなずくだけであった。
やはり、よく分からぬ男よな。
「さて、出来ればもう少し侯との会話を楽しみたいところなのだが。残念のことに、所用が色々と押しておってな。後ほど諸侯が一同に会する場にて、改めてお会いしましょうぞ。
それでは、途中までお見送りいたそう」
そう言うやいなや立ち上がったパルム公はランフェルト侯の返事を待たずに歩き始めていた。やや遅れて、ランフェルト侯がパルム公の後を追いかけている。
部屋を出たパルム公は入り口に待機していた衛兵に「侯はお帰りになられる。侯の陣所までご案内してさしあげよ」と命じた。
パルム公は立ち止まっている。「では、また後ほど」と別れの挨拶を告げて、ランフェルト侯を邸宅の入り口前のホールで見送っている。
返礼をかえしたランフェルト侯の姿が邸宅から完全に出ていく様を確認して、親指だけを折り曲げた右手を上げ、控えていた従者を呼びつけた。
「オットーとイェルケルが東の小間に待機しておる。わしの私室へ来るよう言うてこい」と命じる。