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アヴァロンの剣  作者: つかさく
第一部 誓い 南の章
3/21

第二半話 閉じた路の中で

 夜が明けきるには、いまだいくらかの時を必要としている頃。ヴェイロンの左手を握り、水晶宮にある森の塔の地下室から、描かれた扉の中へと入っていったヒルデガルドは、見渡す限りの一面の暗闇の中にいた。

 当初は、わずか二つの燭台による薄明かりといえども光の灯った室内から移動したゆえに、ただ目が慣れていないだけ、と考えていた。だが、深呼吸を三度四度と繰り返してもヒルデガルドの目は、何ものをも捉えることが出来ないでいる。

 耳には届いている。自身の呼吸音が、ヴァルフェルト様の息遣いが。

 手には届いている。自身の右手は伝えている、隣にいるヴァルフェルト様の感触を。

 ただ、四方全てを見渡しても何も瞳には映らない。

 ヒルデガルドは自身がおかれている状況が理解できず、その心臓が早鐘を鳴らし始めていた。


 不意に。足元が地面から浮いたような、いや正確にいえば地面が突如崩れ去り、にも関わらず身体は静止したままで、それでいてどこかへと運ばれているかのような、圧迫感こそ伴わないものの水の中で流れるがままに身をまかせているかのような、説明しがたい感覚におちいっていた。

 思わず小さな悲鳴が漏れる。自身の両手で口元をふさごうとする。だが、ヒルデガルドの右腕は、ぴくりとも動かない。


 その時、ヒルデガルドの右手を握っている、ヴェイロン・ヴァルフェルトが口を開いた。

「奥方様。落ち着きくださいませ。とは申せ、すぐに慣れる様なものでもありませぬが。まずは、お気を確かにお持ちくだされ」

「……ヴァルフェルト様? 何故、そのような言いようをなされるのでしょう。これまでどおり、ヒルデガルドとでもお呼びいただければ」

「そういうわけにはまいりませぬ。あなた様は殿下の御子を宿されているだけではなく、フォルシウスの家名の名乗りを、殿下より直々に認められたいわば奥方様。もはや、女官でもなく、ご愛妾でもありませぬゆえ」

 その言葉の示唆する最前の出来事が、つかの間ではあったとはいえヒルデガルドの胸中を想いで満たしていた。

 殿下が奇妙な扉の前で発してくれた、誇らしく愛しい言葉がよみがえっている。

 だが、今はそのような想いにひたれる時ではなく、しかも今後のことを考えれば無為に時を過ごせば過ごすほど好んで危険を招くだけになる、と子を授かった母親としての本能が、ヒルデガルドにそう告げていた。

 ヒルデガルドはいう。

「ヴァルフェルト様。これからのことを思えば、子供を育てていく上で、フォルシウスの家名を掲げることは……。

 殿下が、エドガー様がおっしゃったように災いを、とまでは申しません。ですが、いらぬ詮索を自ら好んで招き寄せるだけではないでしょうか。私には、殿下との思い出とあのお言葉だけでじゅうぶんでございます。

 家名はこの子が……」

 ヒルデガルドは左手をそっと自身のお腹にあてがうと、言を続ける。

「この子が大きくなった暁に。全てを聞かせ、その上で名乗るかどうかを自身で決めればいい。そう思っています。それに……」

 ヒルデガルドは、自分の服装に視線を落としながら、いう。

「私の服装にしても、毛織でできた足元までを覆うチュニックと麻のベルト、鹿革の半マントと編み上げ靴ですよ。これで奥方様といわれましても、とても違和感がありますわ。

 ヴァルフェルト様のご衣装にしても、麻生地の上着と毛織のベストに長ズボン、鹿革の半長靴にマントでございますれば」

「奥方様……そうは申されましても。それでは、いかようにお呼びすれば良いのでありましょうや」

 ヒルデガルドは、ほんの少し、黒茶を一口飲むくらいの時間ほど考えるといった。

「親子、ということにしてはいかがでしょうか。私はヴァルフェルト様の娘ということにしては。そして、ヒルデガルドという名は縮めて、今後はヒルダとお呼びくださいませ」

 その提案を耳にし、むぅ、と小さく声を漏らしたきり、しばし押し黙っていたヴェイロン・ヴァルフェルトが口を開く。

「さすれば……ヒルダ様。わたくしめ、ではなくわしのことは、ヴェイロンとでもお呼びいただければ、幸いに存じます」

「話し方も変えていただかなければ。娘へ畏まった物言いは、おかしく思われます。そうではありませぬか」

「……ヒルダよ。そなたの物言いもいかがなものであろう。もう少しくだけた物言いにしなくてはなりますまい。……いや、ならぬぞ」

 まあ、と声を出したヒルデガルドがいう。

「父上様のおっしゃるとおりですわね」

 ヒルデガルドことヒルダは、小さく笑った。


 ヴェイロンは、突然出来た娘の存在にいくらかのおかしみを感じてはいた。だが、今は。意識を切り替えて改まった口調で話しかけていた。

「ヒルダよ。この場より出でるまで、何がおころうとも我が手を離してはならない。何も見えぬことは心細くもあろうが、心配することはない。まずは、そのことをこそ心得ておくがよい」

 しばらく待っても返事が返ってこないことをいぶかしく感じたヴェイロンは「どうしたというのだ」と、ヒルダに声をかける。

「いえ、あのヴァルフェルト様。いえ、父上様。先ほど、左手を私のお腹に添えた時あたりより。目が慣れてきたのでしょうか。周囲が薄っすらとですが目に映っているのです。遠くを眺めれば、そこかしこに光るものが見えています。

 と、いってもまばゆいほど、というわけではなくて。まるで、そうまるで雲ひとつ無い星々の輝く夜空の中を浮かんでいるかのような……」

 理由こそ分からないが、ヒルダの手にはヴェイロンの微かな震えのようなものが伝わってきている。

「父上様。いかがなされました。驚かれる様なことではないかと思いますが。闇の中で目が慣れた。ただ、それだけのことではありませんか」

 ヴェイロンは、口を開く。だがそれは、先ほどまでとは異なる幾分かこわばった声色を帯びていた。

「ヒルダよ。そう思えているだけではないのか。今は、戯言(ざれごと)をいうてよい時ではない。何ものも見えるはずがなかろう」

 険しい表情となったヴェイロンは、右腕を動かし指をいくらか折り曲げていく。

「わしの右腕はどうなっておる。いっさいを詳しくいうてみよ」

 その言葉を受け、身体を右にひねりヴェイロンを見上げるような姿勢を取ったヒルダが応えている。

「脇を開かれ、肘を曲げられ、その手は額に添えられています。指は親指と人差し指を伸ばされて、他の三本は手のひらに握りこまれています」

 ヴェイロンは、ヒルダの言を耳にしたものの、信じられぬといった気配をただよわせたまま沈黙していた。


 無言の時がヒルダに突如訪れている。常の場所ならば、気にならないほどの時間ではあった。だが、不安に煽られていく。

「あの? ヴァルフェルト様?」といいながら、心配そうに見上げて、ヴェイロンの顔を覗きこんでいく。と、ヒルダとヴェイロンの瞳とがかちりと合う。ヒルダの耳へ、大きく息を吐き出す音が聞こえてきた。

「……誠に見えているのだな。それは、認めねばならぬ。だが、いかようにして……分からぬ。女人の身で、国土を守る騎士(ランドガード)であろうはずもなし。そなた……何者だ」


 何を問われているのかすら理解出来ぬままでありつつも、ヒルダはこたえる。

「誰と言われましても。ヴァルフェルト様もよくご存知のとおり、ヒルデガルドです。レインストン離宮の御文庫に勤めていた学者リスィアンと、街の薬屋に勤めていたリッサの間の一人娘です。

 一歳になる前に父を亡くし、十歳の時に母をも亡くした私を、途方にくれていた私めを女官としてヴァルフェルト様が離宮にご推挙くださった、ヒルデガルドです」

 そう一息に言い終えても、ヴェイロンの瞳に宿っている不信めいたものが一向に減じている様には、ヒルダには見えなかった。

「リスィアンの忘れ形見にして、リッサの娘よ。そのようなことはよう分かっておる。そのようなことではなく……この場所は、わしのように誓いし者とある種の不可思議を有した者以外には、ただ一面の闇でしかないはずなのだ。

 ……まさか。いや、まさかとは思うが。視える、とでもいうのではあるまいな」

 問われていたことがようやくヒルダの腑に落ちようとしていた。視える、という言葉に反応する。

「もしかすると。昨晩、殿下がおっしゃっておられました。私には、視る、力がある。確かそれは、(いにしえ)の神々の眷属が持つ『幻視』というものである、と」

 ヴェイロンの目が大きく見開かれ、ヒルダは強く見据えられていた。と同時に、ヒルダの右手は少しばかり痛みを訴えてくる。強い力でがっしりと握られていた。

「殿下が、まことそのように……。確かに、『幻視』と言われたのだな? 試みに問うが、そなたいつから視えているのだ」

 より痛みを増していくばかりな自身の右手に視線をやりながら、ヒルダはいう。

「昨日です。殿下の御子を授かったことを知って後、何度か夢の中で。私は単なる夢、とばかり思っていました。ですが、それを殿下へお話したところ、視えている、といわ……ヴァルフェルト様、手が痛うございます」

 ハッとしたのであろうか、ヒルダの右手にこめられていた力が弱まっていく。しかしながら、ヒルダを見据えているヴェイロンの瞳は先ほどまでと同様に強ばったままであった。

「これは済まぬことをした。ところで、そなた。何を視ている。視たままの一切を、包み隠さず、話すのだ」

 ヴェイロンのきつい言いようは、ヒルダへ圧迫感すらともなって迫る。

 それでもつかの間、幾分かの躊躇いをヒルダはみせていた。

 だが、やがて。自身が視た三つの情景のうちの二つを応えていく。しかしながら、三つ目については話すことをせず、口を強く閉じる。

 無言のまま耳を傾けていたヴェイロンが、ヒルダの初めて耳にする様な似合わぬ声で急かし、迫ってくる。

「それで、もう一つは何だ。言わぬと申すのか!」

「ヴァルフェルト様。いえ、父上様。

 ……それは、それだけは言えませぬ。殿下の……ご最期のご様子なのです。この場所に入りこんで、どれほどの時が経ったのかなど私には分かるはずもありませぬ。

 ですが、外はもう夕刻だと思えるほど、過ごしているとはとても考えられません。つまり、殿下はいまだ生きていらっしゃるのです!

 ……それでも、言わなくてはならないのでしょうか」

 そういってヴェイロンを見上げるヒルダの瞳には、頑ななまでの決意が秘められており、それを隠そうともしていなかった。

 だが、ヴェイロンにとっても、それは心より同意できるものであった。ヒルダの目に映る表情は先程までとは一転しており、声色も同様であった。

「いや、よい。詫びさせてくれ。これは済まぬことを強要していた。そのような畏れ多きこと……聞くに及ばず。

 そう、わしが死んだ後にでも、墓前で手向けとして。いつの日にか語ってくれさえすれば、それでよい」



 ヴェイロンはそう言うと心持ち顔を上にあげていた。しばし瞑目し、在りし日のエドガー王太子のことを想っている。

 と、同時に思ってもいる。

 国土を守る騎士(ランドガード)としての我が身を見抜かれた後、ヒルダより二度目の視えた情景を聞き、それを神々の眷属の力、と判断された。と、ヒルダは述べていた。

 これについては殿下の才と知識を考えれば、全て、ではないもののある程度は納得出来るものであった。

 しかしながら、ヒルダが最初に視たという時の顛末を聞く限り、いささかの疑問が心中に生じて来ざるを得ない。

 殿下は……いったい何を見られていたのであろうか。

 ヴェイロンは、口を開きかける。

 だが、今は詳しく問い質す時でもないと考え直す。そもそも、殿下にこそお尋ねしたいことであった。ヒルダに訊きたいこともあったが、この場で求める解が得られるとも思えなかった。

 加えて、昨夜からの運命の変転には歳と経験を重ねた自身ですらいささかならず翻弄されていた。うら若いヒルダへ、殿下の御子を宿している身にこれ以上の心理的圧迫を加えるべきではない、と案じてもいた。


 死後などと……いつか母として子に伝える日もまいりましょう。その時に我が子のお側でお聞きください、というヒルダの声を耳にしながら、ヴェイロンは意識をこの場へと引き戻す。そして、努めて朗らかな口調で言う。

「なるほどのう、ようやく腑に落ちたわ。殿下からヒルダを連れて逃げるように、と言われた時のことよ。

 わしがランドガードだということを知っておる者は、生者には、少なくともこの国にはおらぬはずなのだが、まるで確信を持たれているかのように告げられた。

 先ほどヒルダは、半ば信じ、半ば信じてはいなかった。との殿下の言を申したな。その辺りを含めて考えれば、あの一連の言われようも納得も出来ようものよ。

 今にして思えば、まこと殿下らしい、見事な諧謔(かいぎゃく)すらうかがえる。それに」

 いくらか目を細めて、朗らかな声でヴェイロンはいった。

「殿下とお姿がよく似ておられる御子とそなた。その側には、わしもいる。という情景をヒルダは視たという。

 これは先の楽しみであろう。良いことを聞かせてもらった」

「髪を、今よりも随分と伸ばされたお姿でしたよ」と、釣られたのかヒルダが明るい声色で言っている。

「わしが髪を伸ばすとはな」

 ヴェイロンは、右手でさして長くはない髪をすくってみせた。



 その仕草を眺めていたヒルダは、あたたかな心持ちになっている。だが、ヴェイロンの打って変わった厳かな声色が耳へと届き、我に返る。

「……神々の眷属となったヒルダよ。そなたには、語らねばなるまい」

 重々しさすらただよわせ、謹厳な表情をしているヴェイロンの姿が目に飛び込んで来る。

 ヒルダはごくりと唾を飲みこむと、うなずいた。


「今、身体を支えているはずの足は、何も踏みしめていないような感覚であろうが案ずることはない。ただ、浮いている、そう思っていればよい。これから話し聞かせることに比べれば、些細なことゆえな」

 よいか、と目で問いかけてくるヴェイロンにヒルダは、こくりと小さく首を動かしてうなずく。

「今、わしらはレインストン近くの山中にある森の塔へと向かっている。塔といっても、一見すると石で造られた小屋の廃墟にしか見えぬであろうがな。そして、何とはなしに分かっているであろうが、歩いて向かっているわけではない。

 わしがその地を想念することにより、まずは意識が達し、次いで身が届く。そのような仕組みとなっている」

 いったん言を切り、うかがう様な視線を投げかけているヴェイロンへ、ヒルダは言う。

「仔細は分かりませぬが。そういうことである、と分かりました」

 その言葉を受けたヴェイロンの口が再び開いていく。

「王都よりレインストンの地までは、馬で早駆けしても三~四日、いやもっとかかろう。だが、この場所を移動すれば。閉じた路、というのだがな。およそ二刻もあれば届く。

 慣れておらぬそなたを連れているので多少遅れはしようが、それでも四刻はかかるまい。

 今後については、レインストンの山中から出でて後、川沿いに下り、どこかの港で他国へと渡る船を探し、いっかいの旅の者として乗り込む。常の移動であれば徒歩でも、馬を買ってでもよいのだが、今は戦の最中であり、そなたは身篭っておる。なるべく身体へ負担をかけないようにすべきでは、と殿下ともご相談の上、そう決めた」

 思わずヒルダは疑問を投げかけていた。

「父上様。この地。閉じた路は、水晶宮からレインストン郊外にしか通じていないのでしょうか。もし他にもあるのでしたら、何故に初めからレインストン以外の地、たとえばもう少し国境近くなどへ、直接に向かわないのでしょう。

 殿下のお決めになられたことに意見を挟むようで、差し出がましくは思っております。ですが、危険を避けるのであれば、その方が良いのではありませんか」

 当然の問いであろうな、という表情を浮かべているヴェイロンの声が、ヒルダの耳へと届く。

「その疑問に答えるには、まずはこの地の成り立ちを知らねばならぬ。ヒルダも、ランドガードの制度は、とうに廃されていることは知っていよう。

 そもそも、ランドガードが守ると誓った”国土”とは属している王国の国土を指してのことではない。蒼い海の向こうの、東方大陸(オスティアナ)に住む者どもがいう、我らが暮らしている西方大陸(ウェステニア)のことでもない。

 これはほぼ全ての者が、もしやするとエドガー王太子殿下でさえ誤解なされていたであろうこと」

 そう言うと、待っているかの様なヴェイロンに、ヒルダはうなずく。

「はるかな、はるかな昔、一つの国として、とても長らく富み栄えていた一つの大地があった。ところが、あまねく統べていた一族が、暮らしていた地ごとある日忽然と姿を消してしまう。

 理由は伝わっていないゆえ不明なれど。……消え去ってしまったのだ。その後、残された者たちで争う混乱の時代が訪れる。何世代にも及んだその争いは、北に住む者らが常に南に暮らす者らを圧倒していた。だが、突如として地が二つに割れた。……ここまではよいか?」

 少々お待ちをとヒルダは言い、しばらく後ヴェイロンへうなずいてみせた。

「割れた、というのは誤謬があるやもしれぬ。およそ六分の一が北に裂かれた、とでも言うべきか。

 その裂かれた地を指して、北の小大陸(ノルド)という。もっともこの呼び方をノルドの者どもは恐らくは用いてなどいまい。あやつらは自らの大地をハイランドなどと昔から呼称していた。

 留まった地を、西方大陸ウェステニアと呼ぶ。ノルドとウェステニアの境には、いくつもの火山がそれこそ端から端まで隆起し、大地は割れ海に没していった。後、噴火を止めた火山はそれぞれが連なって巨大な山脈を形成した。その山々は、裾野以外は夏でも溶けることのない万年雪と氷に覆われ、山の頂きは最も低き所ですら雲に達しているほど高い。

 ノルドの周囲の海は、危険にあふれている。元は陸地であった地が多く海没したゆえか、ウェステニアとの境に出来た山脈の影響ゆえか。風の流れは速くそして気まぐれに向きを変え、喫水の深い海船にとっては危険な暗礁が無数に隠れており、底の浅い川舟では流れが速過ぎ舵も取れなくなるであろう渦が方々にあり、容易に難破してしまう。

 つまり、ノルドとウェステニアを安全に行き来するすべは、ほとんどなくなったといってもよい」

 一息つく為であろうか、ヴェイロンが言を止めていた。ヒルダが先をうながすべくヴェイロンを見ても、沈黙したままであった。どうされましたかと問おうとしていたヒルダの右手が心持ち強く握られ、すぐに元へと戻る。と、ともに再び声が耳に届く。

「この二つの地。北の小大陸(ノルド)西方大陸(ウェステニア)とに裂かれるより前の大地を……アヴァロンと呼ぶ。

 国土を守る騎士(ランドガード)がいう国土とは、アヴァロンの地をのみ指す。ランドガードは、アヴァロンをあまねく統べていた一族の側近くで仕えし者の末裔とも言い伝えられている。

 ゆえにこそ……ランドガードは、神々に誓う騎士は、廃された」


 ヒルダは戸惑いを隠せなずにいた。アヴァロンという言葉などこれまで耳にしたことがなかった。……いや、幼き頃に炉辺で母リッサが寝物語に語ってくれた顔も覚えていない父リスィアンの思い出話の中に出てきたような覚えがぼんやりとはあった。

 よいか、と心配そうな表情で問うてきているヴェイロンの声が聞こえてくる。

 話の先をうながすべく、ヒルダはうなずく。

「廃された理由は、いくつかあるのであろう。わしはこのように推し計っている。

 先ほどヒルダに言うたように、世の(ことわり)とはまるで異なる方法でもって秘かに行き来する者の存在など、ウェステニアの各地を統治している諸王や諸侯らにしてみれば面白き事柄ではない。

 しかも、己が属する王国や諸侯、家といったものへの誓いに、最も重きを置いている者ではないのであれば、尚更であろうよ。

 それでも、千年を超えそこに幾百年をも加えた歳月において、ウェステニアの諸王国ではたとえ王朝が代わろうともその制度を維持してきた。いつの日にか山が溶け、海が枯れ、割れたはずのノルドと再び接し、北の地の者ども(ノルマンニ)の襲来を受ける歳月が復活してしまうのではないか、ということを恐れて。

 ノルマンニにウェステニアの全土が占領されず、時には反撃さえ出来ていたのは、ランドガードの貢献が大であったゆえに、な。だが、長きを経ても、二つの地を隔ててい」



 と、その時であった。突然表情をこわばらせ、口を閉じ、立ちすくむヴェイロンの姿がヒルダの視界に映った。

 ヒルダは、おのが身を包む浮遊感こそそのままではあったものの、運ばれているかのようであった気配が急に途絶えたことを察し、思わず声をあげる。

「父上様。これは」

 ヒルダの右手には、ヴェイロンがその左手を軽く力を強め、次いで常態に戻している様子が伝わってくる。

「よいな。まずは気を落ち着かせるのだ」というヴェイロンの頼もしく力強い声が聞こえてくる。

 その頼りがいのある落ち着き払った声を耳にし、ヒルダはほっとする。

 だが、その瞬間。

 目の前が、周囲全てが闇へと変わっていた。身体が、浮いていたはずの身体が。まるで巨大な何者かにつままれ、ぷいと放り投げられたかのように。

 頭を下向きにして、真っ逆さまに引き落とされていった。


「ヴェイロン様!」

「手を放すでないぞ!」

 声以外の音が、耳に達しない。

 いくら目を凝らそうとも、一筋の光すら見えぬ漆黒の闇の中を、ただ引き摺られていく。

 勢いよく落ちている感覚であったが、肌が露出しているはずの顔や首筋には何も感じない。額にかかる前髪すら、揺れてもいない。

 だが、ヒルダの身を覆っている半マントは、音もなく、ひたすらに激しくはためいている。

 肩から腰へと斜めにかけて結わえているはず帯状の袋だけは。たとえ何を失おうとも、エドガー様より託されたこれだけは決して手放すまいと、左手を強く胸へ押し付けるようにして袋を圧迫する。

 ヒルダは意識を失った。

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