第二話 さまざまな扉 その一
昼食をすませた後、いつものように定められた勤めとして殿下の書斎の整理をしていたところ急な立ち眩みに襲われていた。
手近にあった椅子に腰掛けてみてもそれは一向に治まる気配もなかった。ふとした予感に与えられている部屋へ戻ると、棚の最も奥まった場所に置かれている鍵つきの箱から月知紙を取り出し、厠へと向かった。
殿下の御子を授かったことを知った。
嬉しくもあり誇らしくもあった。けれども、同時に複雑な思いも湧き上がっていた。
ふらふらと揺れるかのように時折痛む頭を押さえながら部屋より出ると、従者長にお会いして殿下の所在をお尋ねした。
今は王の館にて執務を執っておられる、ということだったので、殿下が戻られたら教えてください、とお願いし自分の部屋へと、転ばぬように慎重な足取りで戻っていった。寝具に身体を横たえしばらくまどろんでいたら、いつの間にか、扉を叩く音が室内に響いていた。急いで起き上がり扉を開けてみれば、従者長ではなく殿下が、私の部屋へ直にそのお姿をあらわされていた。
妊娠したことをお知らせ申し上げた。
とても喜ばれられたご様子であったものの、殿下はやがて少し複雑な表情をなされていた。置かれている状況をかんがみれば無理もない話だもの、と私もそう思っていた。
その後、殿下は立ったままの状態であった私の手を取って椅子まで導いてくだされた。
室内に差し込む陽の光は、私の足元に短い影を作っていたことを覚えている。
突然のことだった。そなたは生きよ、と告げられた。
何をおっしゃられているのか理解出来ないでいた私に、殿下がゆっくりとした口調でもって一音一音を発せられた。
生きよ、と。
お約束が違います。一緒に死なせてください。と、私は言い募っていた。目からは涙が零れ落ちていた。だけど、突然に、とても深く強烈な抗いがたい睡魔に襲われていた。
眠り、見ると、目が覚めた。
心配そうに体を抱きよせてくれている殿下へ、随分と奇妙な見たばかりの夢のことを、私は思わず口にしていた。
殿下に跪いてローブを外し剣を捧げる、白い髭を生やした騎士のことを。
一身を賭して、心をも捧げ仕えている高貴なお方の目の前で、椅子に座ったまま突然眠りこけてしまっていた。
その不作法さと恥ずかしさの入り混じった感情を、わずかでも悟られたくなどなかった。出来うる限りごまかしたかった。
問われもしないまま殿下へ話しかけるという不作法よりも、眠りこけたという事実の方をこそ、覆い隠してしまいたかった。ただそれだけ。それ以上の意味など、なかったはずだった。
そのはなはだ現実感に欠けた夢の話を黙って最後まで聞いてくださった殿下は、私の顔の頬に両手を押しあてると、ゆっくりと顔を近づけ息がかかるくらいの距離で、無言のまま、私の瞳を見つめ続けられていた。
私を見て、私を見ていない。ふっとそんな気がしもした。
長く、とても永い時間が通り過ぎた気がした。
だけど、窓から差し込んでいた太陽の残滓が作っていた短い影は、私のつま先からほとんど動いてなどいなかった。
「そなたもともに死んでもよい」
焦がれ渇望していたその言葉を耳にし、想いが通じた喜びに心が満たされていく。しかしながら、殿下はやさしく微笑まれつつ言葉を継ぎ足されていた。
「ただ、ほんの小さな賭けをしてみたい。陽が没してしばらくすれば、ヴェイロンが館へやって来るであろう。その時に、もしもそなたの見た夢が現実の光景となったなれば。そなたは生き、我が子を産み、育てよ」
殿下がお生まれになられる以前より故エルサ王妃にお仕えされており、王妃様が亡くなられた時分においては直々に殿下の後事を託されたといわれているヴァルフェルト様が、その身にまとった印を自ら剥ぐ。
そんな光景が実現するといわれるくらいならば、たった今すぐにでも王都郊外にお味方の大軍勢があらわれパルム公軍を一掃してくれる、と告げられた方がまだしも信じられる。
そう考えた私は殿下のお気まぐれが変わらないうちにと大きくうなずき、賭けとも思えない賭けに乗り……そして敗れた。
その後、殿下とそのお近くに侍っておられたヴァルフェルト様を含む五人の武人たちの前から、呆然としたままうながされるまま奥に設けられている殿下の寝室へと下がっていった。気がつけば、蜜蝋燭の薄灯りの灯る部屋の寝具でいつの間にか寝入っていた。
ふと気配を感じ眠りから目覚めた私の横には、まどろまれているご様子の愛しい殿下のお姿が見えた。その薄灰色がかった金色の髪の毛に、起こさぬように注意しながらそっと指を絡めてみる。
「半ば信じ、半ば信じてはいなかった。それにしても……そなたの見たとおりとなったな。他にも見えたものはあるのか?」
起こしてしまいましたかと謝ると、いや起きていた、いや眠っていたかも、と言ってはにかんでくだされる。ただ二人きりで過ごす最後の時間となるであろうこのひと時を、ひたすらにいとおしみたい私は、頭を殿下の胸に預けてそっと見上げる。琥珀色がかった双眸が、私を愛しく柔らかく包みこんでくる。我知らず、吐息が漏れてしまう。
「他にも何か見えているのか?」
再びの殿下の問いかけを耳にし、今がどのような時であったか思い出す。わずかに混乱している意識を切り替えつつ、慌てて答える。
「先ほど眠っていた時に。私とは別の私が、はっきりと見えたのです。
なんだか、なんだかとても大きな木の、白とも灰色ともみえる幹の根元でまどろんでいる、今より幾分か大人びた私が。そばを走り回っているのは、殿下をそのまま幼くしたかのような男の子。
少し離れた小高い丘の上には、後ろで束ねた長く白い髪が風にたなびくままに、山でしょうか、お城にもみえる緑がかったなにかを遠くに見つめていられるご様子のヴァルフェルト様。見えたのです」
少しばかり、とは言いがたいほど驚いた表情をされた殿下のお顔が近づいてくる。視界いっぱいに広がっていく。
「『視る』というのだ。いうなれば、そう……幻視。もしや、とは思っていたが……。神々の眷属が持つ力、とされている」
優しく、まるでそれが睦言でもあるかのように耳元で小さくそう囁かれるとともに、両腕に力をこめて私を強く抱きしめてくる。そのままの姿勢で身体を心持ち丸められた殿下の熱を帯びた息が、首筋にかかっていく。目を瞑り口づけを、待ち続けている私の唇に、触れてくるものはない。
「他に視たものは? もはや時間がない。出来うる限り、しるべとなりたいのだ」
殿下の指先が髪に絡まり、ほどける。肌をなぞるその指は、肩に達したあたりで動きを一度止め、再び這い下がっていく。
「後は、先だって申し上げていたように。跪いてローブを外して殿下へ剣を捧げられるヴァルフェルト様のお姿を」
そう答えながら、おのが身を優しく包みこんでくれる殿下の身体の温もりを、肌で直に感じていた。
今この時に聞こえてくるのは、二つの心臓がともに鼓動しあって奏でる愛しい音だけ。
「他には?」殿下のお声が耳へと届く。
実は見えていた。否、殿下のお言いように倣うのならば、視えたものはあった。視たくはないものであった。
「ありませぬ」
身体を、心を、命までも。全てを預け、仕え、慕い、捧げているお方に。初めての嘘をついていた。その思いもよらない大胆な振る舞いには、自分でも驚きを隠せない。
頬が上気し耳の端が赤くなり心音が高まるのを、抑えることが出来ずにいた。
「そうか。他には視えぬ、か」
その声に微量に含まれていた寂寥感は、耳からではなく皮膚から伝わってきた。
ハッとしていると、髪に触れていた息が、身体を覆っていた腕が、絡みあっていた脚が、はっていた指先が、全てが離れていった。
「さて、用意すべき文書や託すべき物もあまたある。手配すべきこともある」
私をいとおしんでくれる愛しい殿下としてのお顔を、王国を統べる統治者の顔へと戻されたエドガー王太子様が告げられた。
「使いを出して、東の詰め間にいる者らのうちまずは全ての近衛騎士を。いや、まず近衛騎士長であるヨエル・ファルクをのみ東の客間へ呼ぶよう手配してくれ」
畏まりました。といってベッドから出ようとする私の肩に、つい最前離れていった殿下のお手が触れてくる。振り向いた私の目に映るのは、愛しいお方の顔だけであった。まるで、再びの睦言のようなささやきが聞こえてくる。
「それと、黒茶を一杯淹れて欲しい。ヒルダの淹れる黒茶を口にすると、とても安らぐ」
「はい、エドガー様」
無意識にそうつぶやいていた。自分の声の意味するものを理解し、おのが顔が真っ赤に染めあがる。
「初めてだな。そなたが、ヒルダが我が名を呼んでくれたのは」エドガー様は、優しく微笑んでくれる。
「もっと、だ。聞かせてくれ」そう言って照れたような顔をされたエドガー様は、言葉を重ねてくる。「はやく」
その声を耳した私は、先ほどとは異なり、きちんと意識して声を出した。
「はい、エドガーさま」
……はい、あなたさま。もしも、かなうことならば、こうもいってみたかった。決して、口にすることなど出来はしなかったその短い言葉は、胸中でつぶやくのみに留める。
ヒルデガルドはベッドから起きあがると衣服を着なおして、エドガー王太子の寝室からいったん退出していった。
「我はヴェイロン・ヴァルフェルト。我は御身らへ誓いし者。我は国土を守る騎士。我が紡ぐ言の葉を聞き、願わくは神々よ。その力の一端を現わしたまえ」
暗き夜がもうすぐ終わりを告げようとしている。水晶宮を構成する幾多の塔のうち森の塔と呼ばれている塔の一室をエドガー王太子一行は訪れていた。
その塔は他の塔と比べれば随分と古びた印象を見る者に与えるであろう外観と、その印象以上に朽ちたように見える内部を有していた。一行の姿がみえる地下に設けられている一室には、入り口の扉を除けば燭台が二つきりで他は何も置かれてはいない。強いてあげるとすれば、壁面に描かれた扉めいたもののみが忽然と存在している。
他の者たちが遠巻きにしつつ見守る中で、扉の前に立っているヴェイロンは、誓いの言葉を古の韻律を用いて唱えている。
「光が満ち、欠ける。闇が満ち、欠ける。光と闇がまた満ち、また欠ける。全ての刻において。
私は勤める者であり、務める者である。
私は封土を望まない。冠を求めない。妻を娶らない。子を作らない。
私は定められし場で生きる者であり、持ち場で死ぬ者である。
私は根を下ろす樹であり、転がる石くれである。
私はアヴァロンの大地を、見、守る剣を手に握る者である。弱きものを、導く手を持つ者である。
邪を祓う雷である。闇を照らす炎である。歯車をまわす風である。慈しむ雫である。大地に、仕える者である。
私は先祖より受け継ぎしヴァルフェルトの家名、自らを示すヴェイロンの名にかけて、誓う。
名誉にかけて、誓う。
ランドガードとして、ここに、誓う」
ヴェイロンは、そう唱え終わるとともに剣帯から抜き出した尖小刀を左手に握ると、右手の親指の腹にためらいもなく突き刺し、引き抜いている。流れ出でる血もそのままに親指を上に向かって突きたてた右手を、目の前で扉に円を描くかのように一周させていく。次いで、描かれた扉、顔に擬するなら額に見えなくもない箇所にゆっくりと押し当てていた。
三呼吸分ほどの時間が過ぎていった頃、扉からくぐもった音とも声とも判別しかねるものが、ヴェイロンの頭の中へと直に響いていく。
ある種の懐かしさをもともなった、もはや二度と聞くこともあるまい、とヴェイロンが思い定めていたその音は、余の者には一切届いてはいない。
「路を望みし者、汝ヴェイロン・ヴァルフェルト。唱えを続けるがよい。汝が保護を与えたし者あらば、その名をも告げよ」
扉がゆっくりとした口調で囁ている。
「我ヴェイロン・ヴァルフェルト。我が保護を与えたし者の名はヒルデガルド……」
いったん言を止めたヴェイロンの声は最前までの落ち着きからは一転しつつあり、少なからず戸惑いを含んだ音となっていた。「ヒルデガルド……」
「フォルシウス」扉からの声は、その耳に届かずとも。事態を察したエドガー王太子の言が地下室に響いていく。
「ヒルダよ。今となってはこの家名、災いを呼ぶだけやもしれぬが。名乗りを我が子に伝え継いでくれるならば、喜ばしい」
「殿下。エドガー様……」想いが、心から押しあふれてくる。身体を震わせる。
「あなた……」想いが、口からこぼれ落ちていく。目に浮かぶ涙が止められない。声の震えが止まらない。
それでも、誇りに満ちた声で、明瞭な音で、小さく叫んだ。
「私の名は……ヒルデガルド・フォルシウス」
扉へと向けた目線をそらさないまま、首だけでうなずくヴェイロンの後ろ姿を、この場に集いし者たちが見つめている。
「我ヴェイロン・ヴァルフェルト。我が保護を与えたし者の名はヒルデガルド・フォルシウス。御身を通ることを望む、両名なり」
数瞬の間を置くと扉が震え始め、次いで壁がゆっくりと開いていく。
「誓いは全きに唱えられた。汝ら両名、この身を通ること、あたう」
扉の応えは、ヴェイロンだけではなくヒルデガルドにも伝わっていた。
何が起きたのであろうか。
この国では、いやこの大陸においては既に失われた力とされて久しいものが、いまだ命脈を保っていることを、壁に描かれている扉と誓いの騎士が示していた。
別れの時が近づく。
エドガー王太子は他の者たちの目もはばからず、いっそ堂々とした態で、ヒルデガルドと最後の抱擁を交わし、耳元で何事かをささやいている。
ヴェイロンは、見えてない風をよそおいつつ、その光景を微笑ましく目の端で捉えている。そして、よく知らぬ者から見れば怒っているようにしか見えない表情を作ると、腕を組んで立ち憮然とした顔つきを崩さないでいるヨエル・ファルクのもとへと歩み寄っていく。
「にきびだらけ野郎よ」といって、目だけで笑う。
その声を耳にし、小さく息を吸いこんだヨエル・ファルクは「この……老け顔野郎め」といいながら右の拳を持ち上げている。それを目にしたヴェイロンも同じように右の拳を持ち上げる。二人は、拳を軽くぶつけ、交差させると、さっと離す。
その後ヴェイロンは、ラーグレーブ、ハレン、ランフェルトそれぞれに向き合うと、一人一人と右の拳を左胸に重ねる騎士の礼を交わし、恐らくはこの世における永久の別れを無言のまま告げた。
再び、ヴェイロンは扉の前に立っている。そのもとに、ヒルデガルドの右手を握りながら歩み寄って来たエドガー王太子がいう。
「ヴァル爺よ、ヒルダと我が子を頼んだ」
「若……」としか声にならないヴェイロンへ「わかっている、爺よ」と応えたエドガー王太子はヒルデガルドの手をそっと離している。ヴェイロンの左手がヒルデガルドの右手を掴んだのを見届けると、三歩ほど後ろへ下がった。
二人は、老いた男と若い女は扉をくぐり、そして消えていった。
エドガー王太子は再び閉じられた描かれた扉を、しばらく無言のまま見つめている。ゆっくりと静かに扉へ手を当てると、名残りを惜しむかのように声にならない声で何事かをつぶやいている。
やがて、死ぬ為に生きる最後の時間を過ごすべく、地下から地上へと歩き始める。
後に続く四人の近衛騎士たちも、無言のまま粛々とエドガー王太子の後ろに付き従い地下室を去っていった。
それぞれの務めを果たすべく。