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アヴァロンの剣  作者: つかさく
第一部 誓い 北の章
19/21

第一話 首席兵部官

 はるかな昔、アヴァロンと呼ばれていた大陸が二つに割れてより、幾星霜が過ぎていった。


 自らの大地を西方大陸(ウェステニア)と呼称する国々に属する一定の者たちは、地続きでこそあるが|最も低き頂でさえ雲より高さを有する雪と氷に覆われた山々《ホワイトウォール》の北側を、半ば畏怖半ば侮蔑をこめて北の小大陸(ノルド)と、あえて分け隔てて呼び表すようになって久しい。

 もっとも、ホワイトウォールにしろノルドしろ、それらの名称はウェステニアの一部の者が独自にそう呼んでいる、というだけのことである。

 北部に暮らす有識者層に属する人々は彼ら自身の住まう地を|神々に祝福されたアヴァロン北部大地ハイランドと言い表し、ウェステニアを指して軟弱かつ愚か者の住む地という意味を込めてローランドと呼んでいる。

 どちらの言いようがより正しくより適しているのかなどという問題は、当事者以外にとっては、そして当事者たちにしてみても、瑣末時に属する事柄といえた。

 何故ならば、双方の地に住まう民は、はるかに高くそびえる山々の先に異なる国があることすら知っていない者が大部分を占めていた。様々な意味において統治階級に属する者たちの過半ですら、険しき山脈の向こう側にも別の国がある、という程度の認識でしかなかった。

 なにしろ、間違いを力ずくで矯正させるにしても、お互いが遠過ぎるのである。

 平面の地図の上でこそ地続きではあったものの、雲より高くそびえる峰々を超えた先との陸路による往来など、容易に成し得るものではない。

 周囲の海にしても危険に満ち溢れている。元は陸地であった多くの地がアヴァロンを二つに裂くかのような大変動時に海没したゆえなのか、境に屹立している峻険なる山々の影響からなのか。陸から海へと吹き降りる風は季節を問わず強く、まさに荒れ狂うがごときであり、おまけにその向きすら気まぐれにそして頻繁に変わりをみせる。

 喫水の深い船にとっては悪夢のような暗礁がそこかしこに存在している。浅底の舟では舵も効かなくなるであろう渦が方々に渦巻いている。

 加えて大陸の西側では上弦の月の底頂から上頂へ弧を描くかのような流れの速い潮流が存在しており、大陸の東側では下弦の月の底頂から上頂に向けて西側よりも更に速い潮流が存在していた。船乗りたちは西の海域を寡婦の巣穴、東の海域を後家作りの巣窟と呼び、近づくことすら忌み嫌っていた。

 |大陸の東側の海全体を示す《蒼い海》を超えた先に存在している風浪に恵まれたとしてもおよそ三十日前後は航海が必要なほど離れている東の大陸とを結ぶ航路。ウェステニア式にいえばホワイトウォール以北、ハイランド式の言い方に倣うとゴドランド(神々の寝床)以南に行き来する陸路と海路の困難さ。両者を比べれば、前者の方がはるかに安全な路であった。




 大陸の南西方に位置する地より比べれば、およそ二ヶ月ばかり遅れて北部にも春が到来していた。

 だが、春は、奇妙な病とともにやって来た。

 第一報がハイランド王国の首都であるインバネスの王宮へと伝えられた直後、政務に携わる者たちの間では、事態の不可解さに困惑を隠せない者が数多(あまた)いた。

 ルックアウトの砦に務める者たちの一斉離反ではなかろうか。否、東の大陸より訪れた募兵の者どもの口車にでも乗せられて傭兵契約を結んだのではなかろうか、という推測が多数を占めていた。

 砦の全員が消え失せる、行方も分からない事態など、他につじつまの合う理由が見出せず説明のしようもない。

 もっともその意見に組する派の寿命は時間にして半日も保たず、翌朝に第二報が届けられるまでのことであった。

 いわく、砦の南方にあるイエルグ村の住民が焼かれていた、と。

 謀反である。それも許しがたい非道の輩である。と、断じる者の主導により百六十名で編成された隊を三隊ほど、翌日早々に王都より派兵することが国王ヨナス八世の臨席する会議においてほぼ決まりかけていた。

 その協議の最中、より詳細な事実を記した第三報がもたらされる。その書面には、これまでハイロウ村からの訴えを受けてルックアウト砦一帯を調べていたサウスタワーの砦を守るオスカリ・カルタモンによる、私見と油紙に包まれた文書が特に添えられていた。


 ヨナス八世がまず一読した後、王の諮問会議に連なる者たちは順々に(くだん)の文書へと全員が目を通して終えていく。

 一同が事態の奇妙な展開に驚きを覚え、いくらかの戸惑いを見せつつある最中(さなか)、首席財務官の任につくダレル・ヤルヴァが、口火を開いていた。

「派兵の件。規模を大幅に縮小し、人員も変更し、かつ目的をも変えるべきでしょうな」


 つい先ほどまで、ライアム・ブレイズはルックアウトの変事、と仮の名称が与えられている騒動の始末をはかる会議において多数派の首領となり、王国最南端内陸地域への派兵を強く訴え続けていた。

 ルックアウト砦の総勢は、もしも全てが反乱に組していたとしても五十にも満たない。これを討つのにおよそ五百もの兵馬はいかにも過剰であった。が、その行方が第二報の時点ではようとして知れないゆえに万全を期し、かつ早期に解決を図るべくこれ以上の続報を待たず三隊ほど用いる。王国の直轄駐屯地である砦におけるいざこざに、たとえば最も近きベイランスの領主カレルヴォ・ホルソンに事態の始末の一端を委ねるなど王国としての鼎の軽重を問われる。そもそも砦の差配は王権にのみ属し、封建領主に口を挟ませる前例を作るべきではない。という主張は一応の筋が通っていた。

 それでもしぶる首席財務官ヤルヴァに対しては、事の終結後にルックアウトの砦に詰める人員を約半数に減らすとの素案を首席兵部官として提示することで、妥協点を見出すことに成功していた。

 もっとも、造反にせよ、逃亡にせよ、砦の者は皆が王室に属する領地の出身者であるにも関わらず、血縁の者をまずは捕らるべしといういわば当然の声を、誰も上げようとはしていなかった。

 続報である第三報が王宮に伝えられるまで、国王ヨナス八世の寵を争う二人の重臣による政治的な取引道具にルックアウトの変事は、半ば化していたゆえに。


 ライアム・ブレイズは軍権を王の名のもとに代行する立場の者として常々疑問を抱いている。街どころか村ですら付近に数えるほどしか点在していない、人が住み暮らすにはあまり適しているともいえない、ゴドランドの山脈の最も奥まったふもと近くの砦を維持し続けることについての意義そのものを。かかる費えに値するほどの価値を、兵部官となり歳月を経て首席に上りつめて以降も、見出せずにいた。

 ゴドランドに近い位置の砦、その全てに疑問をもっているわけではない。

 両端近く、翠の海と蒼い海を望む位置に設けている砦については、万が一の為に、ローランドの愚か者どもが襲来するやもしれぬ、とその必要性は充分に認めていた。海より離れた地にある砦の多くにおいても、欠くことなど考えられもしなかった。


 王国全土に散らばる四十八を数える諸侯たちは、つまらない境界争いを望んでなどいない。領していても益が少ないから境界なのだ、と承知していた。だが、境界付近に暮らす者からしてみれば事の重さは異なる。彼らの起こす揉め事を放置しておくことは、領主本人としての、更には自家そのものの名誉をも損うだけでなく、他家はもとより自領の家臣や民からも見くびられてしまうことにつながる。

 たとえば、境目の山域に生息している鹿を追って他家の領域に属する村人が越境したあげく代価も払わず狩っていった、その程度のいざこざなどさして珍しくもない。

 ハイランド全域に張り巡らせるかのように設けられている封建諸侯の権勢が一切及ばない砦は、王国と諸侯双方の都合によって制度が生まれ、以来長きにわたって維持され続けている。

 伝達網として、領主たちの動向を監視する耳目として、将や兵を甘美な誘惑には事欠かない都から遠ざけ鍛える場として、ストレーム王家の利益に適っていた。

 事が二つの領域にまたがる、つまりは境界の争いごとに限って王の名のもとに調停する権を与えられている砦の存在は、諸侯の統治における面倒ごとをいくらかでも軽減する役割を果たしていた。

 砦に詰めている人数は二十からせいぜいが六十という小勢でしかない。その為、武力としては諸侯に脅威を与えるものでは全くない。

 おまけに砦における一切の糧秣は近在の諸侯の領地内から後払いではなく常に貨幣で購うよう令でもって定められている。購入先が村にしろ街にしろその利益は年の単位で考えればむげになど出来ないものであった。街や村はその金で潤い、元手にして発展し、巡り巡って税としてそのいくらかは領主の懐に収めらていく。

 封土の内において自らの権が一切通用しない地が存在している、という心理的な不快感さえ受け入れてしまえば、手のかからない金……は大げさではあるが銀の卵を産む鶏を、領内に砦を抱える諸侯は飼っているようなものであった。


 王の直臣である首席兵部官という立場を仮に離れ自らを諸侯の立場に擬したとしても、なかなかに上手くしつらえられた制ではある、という考えをライアム・ブレイズは有しており、今回の変事が起きる以前よりいくつかの地に新たな砦を設けるべく財務官や内務官、該当する地の諸侯と交渉を重ねていた。

 しかしながら、内陸深くの辺境にあるルックアウトの砦については別である。砦そのものを廃してもかまわない、とさえ秘かに思っていた。その費えを、人員を、他にまわしたかった。

 けれども、砦が一ヶ所減るというのは指揮官の地位が一つ減ることと同義である。ゆえに、自らを含め兵部官の役職に就いている者の口からは、なかなかに言い出せるものでもなかった。

 変事を利用して人員を半数にする、という提案は我ながら良いところに目をつけた妙案である、とつい先ほどまでは自賛していた。王宮の、空が見えるはずもない王の執務室の一席に座り、万年雪と氷に覆われた連峰の威容を思い浮かべていた。


 ゴドランドの、何を見張るというのだ……。遠い遠い太古、神々の時代、赤い夜の時代、黒い夜の時代を経た後、数千年に渡って何を。

 ルックアウト砦から半年ごとに提出される記録簿は、羊皮紙の無駄遣いの見本のようなものであった。

”本日もゴドランドの氷雪は溶ける兆しなし”

 代々の指揮官により記述は多少異なるものの内容としては全く同様の記録簿が、史書塔に積み上げられている。

 何を見張るのか。それは分かっていた。だが、アヴァロンは、偉大な導く手を持つ神々は……いつになれば姿を再びお見せになられるのか……。


 およそ二十年ばかりの昔のこと、ライアム・ブレイズはハイランドの武技に自信のある若者の半ばが患うとされている冒険と栄光の熱に煽られたことがある。熱に促されるまま、母親の止める声に耳を傾けることなく東の大陸に渡り傭兵をして数年を過ごしていた。

 当時、東の地で流行っていた教義に染まった同郷の者が酔った拍子に口走った言葉が脳裏に蘇る。

 あの山々はゴドランド(神々の寝床)ではない。あえて名付けるのならば、そうゴドセメタリー(神々の墓地)、だと。

 他者が何をその心の内で信じていようが、つまるところ本人の問題であった。いくらかは苦々しく思わないではなかったものの、ライアム・ブレイズは同郷の者が異国の地において帰依して間もない新たな神について、とやかくあげつらう気などまるでなかった。

 だが、他者の信じるところをわけもなく侮辱するような言を聞き流してよいなどとは、少年期に受けた学びにおいて聞いたことはなく、神々が言われるはずもなかった。

 呪いにも等しい不遜の言葉を耳にした直後、不埒な輩を一刀のもとに斬り捨てていた。



「貴殿はいかに考えられますかな? 首席兵部官殿」

 思考の海を漂っていたライアム・ブレイズは声の主の方へとゆっくり顔を向ける。

 ヤルヴァめ……しぶしぶながら納得した態を見せていたはずであったのだが、事情が変わりを見ての変言、その早きことよ。


 王国の鋼鉄ハイランド・スティールという異名を奉られていたほどの勇名をはせた前任者の死去にともない国王陛下直轄領の兵馬を預かる立場に就いてより約五年。ハイランド王国においては、吟遊詩人に(いさおし)を歌われるような動乱や、人の口の端にのぼるような小さな乱なども一度たりとも起こってはいなかった。平穏無事、という他はない歳月が続いていた。

 しかしながら、ライアム・ブレイズにとっては安穏な日々とは言いがたいものであった。

 実績を求めていた。たとえ小さな謀反であろうと自らの手で収束させてしまえば、いくらかは功を飾りつけることが出来る。少々あざとくはあるが、そう考えていた。

 家格ゆえに首席兵部官の地位に就けたのだ、という陰口をわざわざ本人に注進する阿呆者がそれほど多くいるわけではない。だが、年齢や武勲をかんがみれば、ライアム・ブレイズ自身が他にもっと相応しい適任者がいるのではないか、とそう思わざるを得ない。その忸怩たる思いを少しでもぬぐい去りたかった。

 だが、ようやくといっていいほど待ち望んでいた機会は足早に去っていった。第三報に記されていたもろもろを考慮すれば、残念なことではあるが自らが出張っても益は小さい。むしろ、予期しかねぬことによる危険の方がいくらか大きいと判断せざるを得なかった。いったん引くべきであった。


「いや、ヤルヴァ殿の申される通りでありましょうな。最前までの私の出兵案は取り下げさせていただきましょう」

「ふむ……ブレイズ殿もご同意いただける、と。つまりは、ルックアウト(見張りの塔)の始末をルックアウトされた(他者に委ねられた)、と」

 何が面白いのか、つまらない言葉遊びをもてあそんでほくそ笑んでいやがる。まったく、ご老人は財貨の勘定だけをしていればよいのものを……。

 ライアム・ブレイズは、頭の中でダレル・ヤルヴァの葬儀に出席している自らを想定して多少の溜飲を下げていく。惜しむらくは、少なくともあと五年十年程度では死にそうにないという点が、想像上とはいえ興を著しく削いでいた。もっとも、ダレル・ヤルヴァは五十ではなく四十に近い年齢でしかないし、ライアム・ブレイズより四つほど年長なだけであったのだが……。


 年齢の割には老けた顔の、本人は銀髪と言い張っている真白な髪が耳の上側に微かに残っているだけの肉付きのよい男の声が、再び耳に届けられる。

「陛下、ここは一度休息を挟んではいかがでしょうか。事が病、それも疫病に類するものであれば、残念ながらこの場に集うている者は皆、人並みな知識しか持ち合わせておらず。いわば、門外漢という他はありませぬ。第三報により判明した実情、ルックアウト砦の指揮官ブロウトンが残していた文書、サウスタワーの指揮官カルタモンの私見を考慮しますれば、医薬に精通している者の意見がぜひとも欲しいものです」

「ヤルヴァの言い様、最もであろう。これより一刻ほど散会といたす」


 ヨナス八世陛下の言を受け、王の執務室よりひとまずは退出しながら、ライアム・ブレイズは思案を重ねている。

 自らの旗下や息のかかった者のうち、医薬を知る者というだけの条件であれば何人かの顔を思い浮かべることがただちに出来た。しかしながら、弁がある程度立ち、兵事にも精通し、かつヨナス陛下ご臨席の下での諮問会議において発言してもおかしくはない身分と更に胆力を併せ持つ者という条件を加味すれば、適した者が残念なことに一人もいなかった。

 ブレイズ家の家臣のうちに、心当たりが一人ほどいないわけでもなかった。だが、ルックアウトの変事の第三報が届けられるまでにおいて、政治的な駆け引きをいささか弄し過ぎていた。ここで自家の者を用いるなど……あまりにもあざとい露骨な身びいきと取られかねなかった。

 ダレル・ヤルヴァあたりがそう思うだけであるならば気にもしない。しかしながら、どう楽観的に考えても他の列席者のみならずヨナス陛下にすら、同様に受け取られる。そう思わざるを得なかった。


 こたびの変事についての主導権は手放すしかないか、といささか自嘲気味になっていたものの、ふと、あることに思いいたる。

 誰それ、とダレル・ヤルヴァにしては珍しくも名指しをしなかった。と、いうことは、あやつにしても……近しい者のうちで適した者の名があの場で思い浮かばなかった。そういうことではないだろうか。

 ゆえに、休息を提案した、とすれば納得はいく。

 さて、となれば条件を削るべきであろう。削るべきは……兵事に理解ある者……ではないな。それで通用するくらいならば、ヤルヴァの手駒のうちにも何人かはいようし、こちらにもいる。


 ハイランド王国の都、インバネスの王宮のよく磨かれている内廊の床に、接しては離れる行為を繰り返す長靴の音が小気味よく一定の調子で鳴り響いていた。その音の拍子は内廊を通り過ぎても変わらず、いくつかの扉をくぐり、次席以下の兵部官や将兵のたむろしている塔へと近づいていき、不意に止んだ。

 ライアム・ブレイズは一人の男の名と顔を頭に思い浮かべた途端、鍛えている身体に相応しい動作でもって機敏に(きびす)を返していた。突然の方向転換にいくらか慌てた様子で後に付こうとする従者に対し「よい。おまえは兵部の塔に戻っておれ」とだけ短く言い残す。

 その足はいくらか早い調子で長靴を鳴らしながら、内宮へ達する廊下へと向かっていく。

 しばらく後、従者が許可なく入れるはずもない、首席兵部官であるライアム・ブレイズにしても内宮に達するはるか手前の扉の前で、衛兵二人に誰何(すいか)を受ける。腰に帯びている剣を鞘ごと取り外し衛兵の一人に手渡しながら、用件を口に乗せる。

「王室付き侍医のうちポントス・ハルーザ殿に首席兵部官として至急の公事がある。面会を請うておる、と伝えてはきてはくれぬか」


 ……妙な間が空いていた。当然あるべき声が一向に聞こえないことをいぶかしむ。

 両の腕を音を立てて組みながら、やや上体をそらしていく。同時に、衛兵の一人を深い緑色の瞳で軽くにらみつけたまま顎を心持ち上へと傾け無言のまま、返答を促す。

 すると、いくらか以上に青ざめ困惑した表情を顔に貼り付けている同僚の様子を見かねたのであろうか助け舟を出すようにして、もう一人の衛兵が渋々といった態で口を開いた。

「それが……つい先ほどのこと。ダレル・ヤルヴァ首席財務官殿が、閣下と同じくハルーザ侍医官を名指しされ、応諾の返答を受けた後、内宮へと入っていかれました」

 その言葉を耳にし、思わず舌打ちの音を発したくなるが意志の力で押さえつける。と、うって変わって穏やかな表情で、親しき年下の従兄弟に対しているかのような口調でもって、先ほどにらむがごとく見つめていた衛兵に話しかけていく。

「さような事情であったか。いやいや、脅したわけではないのだ。すまぬな。これで」仕立てのよい東大陸産の絹で織られたシュルコ(上着)の内懐に素早く右の手を入れ、貨幣を二枚握りこむ。「これで、務め明けに二人で酒でもつまんでくれないか。釣り? そのようなものなどいらぬ。貴殿らの日々の勤務ぶりを敬しての、いわば手間賃よ」

 そう言いながら、返事を待たず衛兵の外衣の腰帯に銀貨を素早く一枚差しこんでいった。困ったような、それでいてにやけた表情をしている様子を眺めながら、もう一人の衛兵にもさっと近づき、離れる。二人の衛兵の腰帯には、それぞれ一枚ずつの銀貨が生えていた。

「一枚では足らぬ、と顔が訴えておったぞ。さては、娼婦付きの店で飲む気だな。この強欲者どもめが。まあ、よい。取っておけ、取っておけ。年長者からの贈り物を無下に断るのは、野暮というものよ」


「はは! ありがたく頂戴いたします」

「今宵は良い酒が飲めそうであります」

 そう、小さくつぶやいたきり、表情をやや崩し気味にしつつも謹厳な顔を維持しようとしている衛兵たちに向かって、やや困ったような口ぶりで語りかけていく。

「なに、ヤルヴァ殿と私の公事は恐らくは同一のことであろう。で、あるならば、だ。私も同席しても差し支えあるまい。すまぬが、ブレイズがそう申していたと、お二人に急いで伝えてきてはくれまいか」


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