第九話 スパイラルホーン
ヒルダは、ヴェイロンとともに閉じた路を通り抜けていた。
今は、ロザリアのブライトグリーン城を望める位置にある草で覆われた地面へ腰を下ろし、閉じた路の出口となったウォルナの木を、否、神々の樹を、そのかたわらで見上げている。
平均的な体格を有している大人の男が四人並んだとしても、まだいくらか幅に余裕のありそうなその巨木は、エドガー王太子やヴェイロン・ヴァルフェルトが言うところのヒルダが備えている幻視で”視た”時とは異なる圧倒的な存在感でもって迫るようであり、文字通りそびえ立っていた。
白い、陽の光の加減によっては灰色にも映える幹には、よく見れば人の顔とも見えるような、ヒルダが今朝未明に初めて目にした、マーシア王国の王都スプリングスに在する水晶宮、その一画にある森の塔の地下室に描かれていた扉のような、奇妙な紋様を有している。
もっとも、その記憶がなかったとすれば、ただの捻じ曲がった節にしか見えないであろう、不思議な模様ではあった。
どれほどの時間が経ったのか、正確なところは分からないものの慣れない精神集中の疲れからか呆然といった態で座りこみ、心持ち顔を上げ巨木の上の辺り、たくさんの枝と葉の生い茂る情景を何とはなしに眺めていたヒルダの耳へ、風にざわめく葉々の擦れる音が聞こえてきた。
その音からほんの少しだけ間を置いて身体を震わせているヒルダへ、ヴェイロンの声が届く。
「身体が冷えたのであろう。わしのマントも使うか」
「いいえ、平気ですわ」
そういって何気なく声の主の方へと振り向いたヒルダの視界には、小刀を右手に持ち刃先を首へ当てているかのようなヴェイロン・ヴァルフェルトの姿が映った。
「ヴァ、ヴァルフェルト様。何を」
あまりの驚きに、思わず二人で取り決めた呼び名を忘れ、小さく叫ぶとともに、うろたえているかのようなヒルダの姿がみえる。
もっとも、その驚愕ぶりとは対照的な、随分とのんびりとした声が返ってくる。
「いやなに。この髭をの」
ヴェイロンは小刀を器用に動かし、胸辺りにまで達していた長い白髭をざっくざっくと切っていく。やがて、いささか大雑把にではあるものの、顎から長さにして親指の半分程度にまで短く刈り揃え終えていた。
ヒルダは、自身が先ほど上げてしまった冷静さを幾分か欠いた声を恥じ入るかのように、心持ち頬を赤く染め、半ば照れ隠しでもあるかのように早口でいう。
「驚かせないでくさい。それにしても、お父様ご自慢の髭だったのでは」
ヒルダの意図に気づかぬ風を装いつつ、ヴェイロンは小刀を鞘に収めている。
「それは否定せぬ。が、今後のことを考えれば、な。
不要に目立つような風体は避けるにしくはないし、昨日までとは全く異なる生き方をしなくてはならぬであろう。
どれ、ヒルダの疲れが抜け次第、麓の集落へ向かうとしようか」
「私のことなら大丈夫ですので、先を急ぎましょう。
ところで、私たちは閉じた路の中でかなりの時間を過ごしてきましたよね。それにしては、あまり時が経っていないようにも思えるのですが」
そういって、中天に達しいくらか傾きを見せ始めている太陽を、左手をかざして眺めているヒルダへ、ヴェイロンがいう。
「ヒルダには言うてはおらなんだな。
このロザリアという国、西方大陸においては北西にあって、我らが今朝まで過ごしていたマーシアは東南に位置しておる。
ウェステニアの端から端、というわけでもないが、刻にして、およそ二刻ばかり陽の出入りが遅い。
そうよな、マーシアでは夕刻を迎えようとするあたりではあるまいか。
……いかがしたというのだ、ヒルダ」
急激ともいえるほど、血の気をなくし、まるで凍りついたかのように青ざめているヒルダの顔を見て、ヴェイロンは目を見開いている。
「……お父様。しばし、せめてあと一刻ほどはこの場に留まりませんか。
殿下が、エドガー様が。近衛の皆様方が……」
その後に続く言葉を、ヒルダは声とすることが出来ないでいた。
「そうであったか……。否も応もないことであろう。むしろ、よう教えてくれた。
殿下や皆の為に、この時を捧げよう」
ヴェイロンとヒルダは東南の方角へと身体の正面を向けて、両膝を地につける。次いで、左手を握り締め、その上へ右手を開き重ねた形で両手を組み、胸の辺りに添える。
二人は、やや頭を垂れると、瞑目し祈りを捧げ始めていた。
辺りに時折こだましているのは、風に揺らめく葉音と鳥のさえずりだけであった。
◇◇◇
時は少しばかり遡る。マーシア王国の定める刻にして第六刻。陽は、いよいよ天高くに達していようとしている。
水晶宮の、鉄で出来たぶ厚い表城門が、蝶番と鎖の軋む音を響かせながらゆっくりと開いていく。
完全に開け放たれたことを確認したエドガー王太子は、城門付属の塔内で開門作業をしていた将十二人が再び姿を現すのを落ち着いた態で待っていた。
彼らが眼前に揃うのを確認すると、騎乗のまま、無言でその全員の顔を見渡しつつ、一人一人にうなずいていく。
近衛の者四人。上将三人。下将十人。
全員を見終えた後、顔を上げ、右手をかざしつつ天を数瞬ほど眺めたエドガー王太子は、鐙を馬の腹へ軽く当て、水晶宮を後にする。
やがて、常足で進む馬の蹄が奏でる音は、土を踏むくぐもった音から石畳を踏む乾いた音へと変わっていく。
馬と人の作る足音だけが、周囲にこだましている。
しばらく後、石橋の過半を過ぎた辺りへと達したエドガー王太子は、馬のハミを軽く引き、すぐさま緩める。
そのすぐ後方に従う騎乗の近衛騎士四人、徒歩の将十三人。全てが一個のもの、とでもいうかのようにぴたりと足並みを揃えてその場で停まる。
相対するは、グスタフ・パルム公と彼に従う諸侯の率いる軍勢のうち、水晶宮表城門付近に陣を取るおよそ一万一千。
時折いななく馬の響き以外は、ただ風に揺れる旗だけが、音を鳴らすことを許されているかのように控えめにはためいていた。
ついと、エドガー王太子が前方へ視線を向けたまま、右手を軽く天へ上げる。
すぐ後方に控えていた近衛騎士長ヨエル・ファルクが、旗を、フォルシウス王家の、|紺地に黄金色で彩られた羊の渦巻角の旗を、高々と掲げた。
石橋の上の十八人は落ち着いた風で、王都スプリングスの地を踏みしめている約一万一千は固唾を飲むかのように静まり返っている。
動く者は誰もいない。
やがて。石橋の上の者たちと対峙していた軍勢の中ほどより、グスタフ・パルム公が供を従え諸侯を後ろに控えさせ、騎乗のまま前方へと進み出でると、静寂を破る。
「王太子殿下よ。これまでの時宜を得た処置の数々。さすがはフォルシウス王家、とでも言う他は無し。敵ながら見事であらせられた。
だが、これはいかなる仕儀であろう。よもやこの期に及んで、命乞いではあるまいな」
パルム公の辺りを圧するかのような大音声が響きわたると、それに追従するかのような嘲りを含んだ声の塊が気を揺らしながら波となって石橋の上へと達する。
だが、十八人は一人としてその声に微塵も動じる気配ももなく泰然としている。それを目視出来る位置にいる者たちから、笑いの表情が、次いで声が消えていく。徐々に、やがて後方まで至り、全てがならい静まりかえる。
再び、旗だけがたなびいている。
「パルム公よ」
先ほどの声とは対照的な、静かな、だが遠くまでよく通る声が響く。
「いささか、予定が変わりをみた。なに、大したことではない。この者らが」
そういって呼吸二つ分ほどの時間後ろを振り返ったエドガー王太子が、再び前を見据えていう。
「この者らがいうのだ。供する者がいささか少ないのでは、と。なるほど、と我も思うてな。
長らく、父祖代々にわたりマーシアの地を閲してきた、フォルシウス朝の王太子たるこの身が、滅するこの時。
供がらの少なきは、我の身にではなく、王国への侮辱になろう。
よって、ここに提案をしたい。
我こそはと思わんものは、我が配下と剣を交えてみては、とな。
見事、我が手の者を討ち取らば、その者にとっては生涯における誉れとなろう。
討ち取られても我の供として冥界へおもむける。それもまた栄誉であろう。
なに、我が手の者は見ての通り、鎧どころか胸甲すら、身を守る防具など寸鉄も帯びてはおらぬ。風にすら容易にたなびく薄い衣のみよ。
まさか、新たな王朝の開祖となるパルム公の配下ともあろう者らが、臆することもあるまい」
その声を耳にした相対するパルム公の軍勢の方々で喧騒が始まりかける。が、「静まれい」という叱咤の声を近衛騎士長ファルクが鋭く発する。
敵ではあるがその威に打たれたか、集団が発していたざわめきは急速に鳴りをひそめ、異様な静寂が再び全体を支配していく。
その光景を無言のまま眺めていたエドガー王太子が、ゆっくりとした口調で、再び言を継ぐ。
「ただし。
我は、兵どもがこの儀に加わることを一切認めぬ。
何故ならば、兵は兵であると同時に、我がマーシアの民草でもある。
それは滅び行くフォルシウス朝においても、興るパルム朝であろうとも、なんら変わることはない。
ゆえに、我が手の者が相手にするのは将以上の者のみ、としようではないか。
……いかがであろう、パルム公よ。
我の生涯最後の時を、神々へ捧げたいゆえの勝手。ファヴェネスの宴よ。ここに集うている者のうち、皆がとは請け負いかねるが、今年のファヴェネスをいまだ祝うておらぬものは数多にのぼろう。
認めてもらえれば、よい手向けになるのだがな」
エドガー王太子の言葉を聞き及んだパルム公に組する諸侯や将兵たちは、ある者は身体ごと、ある者は顔を、全ての者が耳を、その発する言を聞き逃すまいとでもいうかのように馬上のパルム公へと、向けている。
さなかパルム公に、その供の一人であるイェルケルが馬を寄せて小声で囁く。
「主殿。このような儀。御家に何の益がございましょうや。当初の手はずどおり、押し潰してしまいましょう」
つかの間その言に同意しかけるも躊躇いの態をわずかに見せ、パルム公は思考をめぐらせていた。
ファヴェネスの宴には神々の使いが二柱ほど登場する。冬の精霊ラシニニ、春の精霊カナピニ。二柱が戦い”必ず”ラシニニが敗れ果てる。……無様に崩壊しつつあった王家一党を曲がりなりにも纏め上げるほどの非凡さを見せていたとはいえ王太子殿下はまだまだ夏草のような若者。つまり、死に際を麗々しく飾りとうなったか。……そういう事であれば納得は出来る。
更に言を継ごうとしているイェルケルに小さくかぶりを振ったパルム公は大きく声を発する。
「よかろう。わしの旗下の者どもが臆している、とまで言われては我が家名の名折れである。加えて、ファヴェネスの宴というのも道理であろう。
兵は手出し一切無用の申し出も、理にかなっておる。
パルムの黒大烏旗に新たな栄誉を添えたいと欲する将は、前に出でよ。
わし自らが直々に見てとらせようぞ」
パルム公の声の意味することが周囲全てに伝わっていく。旗下の将が始めは一人、二人と、やがては潮のように前に進み出で、石橋へと歩み始める。
こうして、エドガー王太子にとって自らが閲する最後の戦い、その幕が開けた。
「殿下」早くも先頭は石橋の端へと達し、止まることなく押し寄せてくるパルム公軍の将らを見据えつつ、近衛騎士長ヨエル・ファルクが短い言葉を発する。
その声を耳に捉えているエドガー王太子は、前を見据えたままでうなずく。ファルクは将の一人に|紺地に黄金色で彩られた羊の渦巻角の旗を渡す。
騎乗の近衛騎士四人と徒歩の将十三人が前進する中で、馬を留めていたままのエドガー王太子は、自然と最後方の位置取りとなっていく。
「よいか」近衛騎士長ヨエル・ファルクの発している、いささか楽しげにすら聞こえる声が周囲の者たちの耳に届く。
「我らが主、王太子殿下はご不満であられる。供の数を増やしてさしあげようではないか」
「応っ」という短く鋭い声が馬上の者から、徒歩の者から返ってくる。
「将は槍壁の準備を。では、行こうぞ」
数瞬の後。
よもや相手側から押し寄せて来るなど想像すらしていなかったパルム公の将およそ三百人。最後方はいまだ石橋にも達しておらず、前にいた者らも隊列を組んでもいない。
結果、パルム公の軍勢から見て、右から順にトピアス・ハレン、コニー・ラーグレーブ、ヨエル・ファルク、マティウス・ランフェルトと並んだ、息の揃った槍騎兵突撃を真正面からまともに受けるはめとなっていた。
槍に貫かれて即死して倒れ伏す者、その場で身体の一部を斬り取られうずくまる者、負傷したまま石橋から湖面へと転げ落ちる者、馬の蹄にかけられ顔や身体の一部を陥没させる者などが続出し、散々な程をなしていく。
頃合をみたファルクが「おう」とだけ鋭く短く叫び馬を反す。と、ハレン、ラーグレーブ、ランフェルトも遅れることなく馬の踵を返している。
そのまま速度を緩めることなく疾駆させ、将が開いた槍壁の間を機敏に抜け、後方へといたる近衛騎士四人の姿があった。
「見事なものよ」
四人の騎士を出迎えた形となっているエドガー王太子は、顔を上気させ、朗らかにすら聞こえる声で感嘆している。
「まさか、こちらから攻めるとは思うてもみなかった」
「殿下。二度目は無い、とお思いでしょうな」
そういって、にやりと笑みを見せたファルクは、エドガー王太子へ馬上礼を捧げるとともに、再び馬を駆け始める。
すかさず、やや間を保ち、馬を駆って追従する三人の近衛騎士たち。その動きは、まるで十六本の足を持つ一頭の獣のように連動し躍動していた。
いささか以上ともいえる混乱をみせていたパルム公の将たちではあったが、普段より武でもって務めている者としての矜持もあれば、兵を率いている者としての戦ずれした判断力もじゅうぶん持ち合わせてもいる。不意をつかれた一度目の騎馬突撃が去った後、二度目はないと思いながらも、槍を水平に持ち隊列を組んで、油断の態を微塵もみせずにゆっくりと前進していった。
そこへ。正面から見れば無謀な一騎駆けとしか見えない騎兵が、再び疾駆し押し寄せてくる。
槍の穂先を揃え仕留めようと待ち構えていた彼らは、向かってきていた騎兵の操る馬が、その槍先のわずか五歩ほど手前で一際高く前脚を上げ竿立ちとなったのを目にする。
集団の最も前にいた者たちは、思わず釣られて二、三歩ほど足を前に押し出してしまい、隊列に隙が生じていく。
その槍先がやや乱れたパルム公の軍勢に向かって、地すれすれまで穂先を下げ身体をやや斜めに傾けた姿勢で馬を操る三人の騎兵が、一騎駆けに見えていた騎兵の後ろから、それぞれわずかに時間をずらして突撃をしかけてきた。
双方の槍と槍とが接した瞬間。パルム公の手の者たちは手にしている槍を、騎馬の衝突力とそれを操る者たちの膂力とによって、勢いよくかち上げられる。次いで、やや反り上がった身体の、鎧に覆われていない首筋を素早く貫かれていくと、短い悲鳴を残して絶命していった。
騎馬を取り囲もうにも、つい今しがた死んだ者らが無数の障害物と化して石橋に伏しており、前へと出ることも出来ない。
開けた場所ならいざ知らず、石橋の上においては、幅いっぱいに横へ十人ばかりが並んでいる状態では、左右に拡がる余裕などどこにも皆無であった。
再びエドガー王太子のもとへと戻ってきた四人の近衛騎士たちは、その横をすり抜けると、素早く馬から降りていく。
「殿下。誠に残念ですが三度目はありませぬ」
そういって、猛々しいまでの笑みを見せ、額に汗と血で貼り付いているかのような乱れたブロンドの髪を、頭頂部の方へと押し上げている近衛騎士長ファルクの姿があった。
二度にわたっての、自家の将たちのふがいなさを馬上から眺めていたパルム公は、歯をいささか食いしばりながらも、無言のまま戦いを見守るに徹している。
「しょせんは、悪あがきに過ぎませぬ」という息子のオットーへ何かを言おうとするが押し止め、その視線を再び石橋へと向けていた。
ファルクは長剣の柄に右手を添えつつ、前方を見据えている。
ざっとで五十ばかりを減らして、二百五十といったところか。数頼みに力押しされては早々に槍壁など破れてしまうであろうな。ここは予定通りに……。
強い視線を感じたファルクは首だけを素早く動かす。その先には、ファルクに負けず劣らず精悍な笑みを浮かべているランフェルトの青みがかった瞳があった。小さくうなずく。
「やってみせい」
「お任せあれ」という応えがファルクの耳に間髪をいれずに達する。
既にして、駆け始めている近衛騎士ランフェルトの後ろ姿が、その目に映っていた。
ちくりと痛みを発し、騎士服の上へ血を滲ませている自身の右足のすねを、つかの間ファルクは眺める。
それにしても、あやつ……手傷一つすらも負うておらぬように見えたが。
「聞けい。我が名は、ランフェルト。貴様らもこの五日間の戦で、この顔はよう見知っておろう。今日は、畏れ多くも近衛騎士様が、手自ら相手をしてやる。我と思わん勇士は、前へ出でよ」
先だってのパルム公はもとより、近衛騎士長ファルクをも超える大音声が石橋の上で轟く。
その身にまとっている騎士服は、既にして敵の血のみで方々が赤く染まっており、抜き放っていた長剣だけが陽の光を反射して、鈍くきらめいていた。
ふてぶてしくも単身で飛び出してきた勇敢な敵の姿を認め、隊列を組んで石橋を渡っていたパルム公の軍勢が思わず足を止める。
呼吸にして六つほどの後、一人の者が長剣を抜いておもむろに前へ進み出でた。
「これは嬉しき物言いよ。我が名は、ケネト。ありがたくも、パルム公家において下将を務めて早十三年になる。いざ参る」
その声を耳にした近衛騎士ランフェルトが、一歩ほど左足を前へと踏みこむやいなや。鎧をまとっている者とは思えぬ速さでケネトが、剣を頭上に構え、突進し、振り下ろす。
剣の軌道上に止まっているかのようなランフェルト。瞬間、その身体が斜めに沈みこむと、銀色の光が下から上へ一閃する。ケネトの首に一筋の赤い花が咲き、両者の位置が入れ替わる。
どうっ、と音を立てて倒れる者に、一瞥をも与えずランフェルトは吼える。
「ケネトの振る舞いの見事さよ。臆することなく初めに名乗りをあげたばかりか、堂々と向かってくるその気概。賞賛に値する。
だが、これで公家の下将だと。笑わせてくれるわ。知り人がいれば家族に告げよ。ケネトは王太子殿下の上将として旅立った、とな。他の、近衛騎士ランフェルトより剣技の手ほどきを受けたい者は、名乗り出でよ」
「我が名は、リヌス。パルム公家で扶持を受けて八年にならんとする上将。今日は、近衛の騎士殿を討ち果たすことで、生涯における誉れの日となろう」
そういうとゆっくりと歩み始めるリヌス。右手に握った剣を胸のあたりで水平に構え、左手の盾を押し出すような姿勢のまま、徐々に早足となり、やがては駆けるようにランフェルトへと近づく。
その剣が、上に振り上げられるかのようにみえるも、軌道をついと変え右に開くやいなや、斜めに鋭くなぎ払われる。
ランフェルトの、首から胸を目掛けて走らせていたリヌスの剣が、寸前で右手の肘ごと断ち切られていた。やがて、それが湖面へと落ちる音と、リヌスが首筋より血を撒き散らしながら石橋に倒れ伏す音が、ほぼ同時に辺りへ響きわたる。
「リヌスは、惜しむらくは盾の扱い方にやや隙があった。もっとも、ほとんどの者にとっては、隙とも見えぬであろうがな。しかしながら、剣捌きはなかなかのものである。王太子殿下の上将をも充分に務めるに足るであろう。このような勇士は得がたく、抱えていたパルム公にとっても誉れのことよ。
次の者、前に出でよ」
ランフェルトの声に応じて槌矛を持った一際大柄な男が声を発する。
「なかなかやるではないか。パルム公家に名高き武臣ヨナス・イヴァルとは俺のことよ。いざ勝負」
「そのような名、知らぬな」そう言ってにやりと笑みを浮かべるランフェルト。
「これより覚えて、そして死ね」
そう叫び放ちながら前進し、ランフェルトの剣が届く範囲の、やや前方より、踏みこみざまメイスを右から左へと横なぎに一閃するヨナス・イヴァル。剣で受けるそぶりすら見せず、一歩ほど後方へ跳ぶランフェルト。
「逃げるとは笑止。それでも近衛か」
「筋をみただけよ」
「負け惜しみをいうわ」
再び横なぎに、うなりをあげてランフェルトへ向かってくる槌矛の軌道。その中へ、先ほどとは逆に、自ら飛びこむランフェルト。
位置にすれば胸あたりを狙った槌矛が、ランフェルトの左腕に達しようとした寸前。身をかがめ、瞬く間に伸ばすとともに剣を走らせ相手の右腕を、その付け根ごと斬り捨てていた。
メイスを握ったままのイヴァルの右腕が、音を立てて石橋に落ち転がる。
素早く二歩ほど跳躍しているランフェルトへ、声が届く。
「わずか一度でまこと見切られていたとは……見事。左手のみで抗っても、見苦しきことゆえ、はよう、慈悲の一撃を」
「貴様の名、覚えておこう」
まるで舞踏を踊るような足捌きで歩を進め、ランフェルトは剣をヨナス・イヴァルの首筋へと一閃させる。
「ヨナス・イヴァルは、ただ今をもって王太子殿下の供をすることとなった。イヴァル家の者へは近衛騎士ランフェルトがそう申していた、と伝えるがよい。
さて、次は。誰だ」
その問いかけに応じる声はあがらず、パルム公の軍勢にただよっていた動揺ともいえる気が登り、集団が衝動へと変わりかける刹那。
「マティウス」
あまりにも戦場に相応しからぬ音色を帯びた声が、石橋の上に響く。
前方からではなく、後方から自分の名のみを呼ぶ声を耳にしたランフェルトは、颯爽と踵を返し反転すると片膝をつき、頭を下げて応じる。
「殿下」
「ラーグレーブがな、代わって欲しいそうだ。若い者に負けてはおられぬ、と」
「悪く思うでない」
そういってランフェルトの返答も待たず、重々しい足取りで、つい先ほどまで生きていた者たちの元へと歩み寄り、それぞれに一礼をほどこすラーグレーブがいた。
「パルム公の手の者どもよ」
ラーグレーブが立ち上がり、前を見据えて叫ぶ。
「このような誉ある勇士たちの屍を、この場に晒し続けるなど……。武でもって主に仕える者としての、恥を知れい。手は出さぬゆえ、引き取りに来い。
その後は、このわしが。近衛騎士ラーグレーブが、近衛騎士ランフェルトになり代わり相手をしてやろうぞ」
その言を耳にしたパルム公の将たちは、立ちこめつつあった気を一気に削がれる。各々が横を見、やがて数人がそろりと歩み出でる。
彼らは、腰に帯びている剣へ手を伸ばそうともせず両腕を組んだまま穏やかともいえる表情を浮かべているラーグレーブへ一礼し、三人の遺体を自らの側へと引き取っていった。
その情景を目に捉えつつファルクはいう。
「煽るだけでは、まだまだよ。怖れならまだしも、恐れの気のみを生じさせるなど。貴殿、いかがする」
ラーグレーブへ殺意すらこもった視線を送っていたランフェルトは、その言を聞くやいなや、愕然とし、次いで呆然とした表情をしていた。
「騎士長殿……未熟で浅はかなありよう……誠に済みませぬ。このランフェルト、取り返しのつかぬことを仕出かすところでありました。
殿下、何卒お許しいただきたく」
「いや、我も同じよ。ファルクに囁かれ諭されるまで、全く気づいていなかった。こういう機微は経験を積んだ者でこそ、であろう。ゆえに、我に詫びなど不要。学ぶのだ、マティウス。礼ならばファルクだけではなく、ラーグレーブにも言っておいてやれ。それとな、次はトピアスが出るそうだ。よってそなたはしばし休んでおれ」
「な」
「済まんな。もう決まったことよ」
トピアス・ハレンはそういって笑っている。
つかの間ハレンを見ていたランフェルトは前方を向くと、将たちの間を押し通り、前に出る。
「ラーグレーブ殿。よろしくお頼みいたしまする」
ラーグレーブの後ろ姿へそう声をかけたランフェルトは、深々と一礼を捧げていた。