第七話 閉じた路の中で 想い、思う
庭へ張り出すように拵えられている白亜の石作りのテラスからは、昼の陽の光がまばゆいくらいに、部屋の中へと差しこんでいる。およそ二十人ほどが舞踏を舞っても余裕のありそうな広さのある室内には、四人の男女がおり、ただ一人、年若の男だけが柔らかなクッションの敷かれた随分と手のこんだ意匠の椅子に腰掛けていた。
「ヴァルじい。この子はだれだ」
「殿下。女官頭シーリアとも相談の上、本日より女官として新たに召し抱えた者でございます」
「殿下へご挨拶を申し上げよ」
そういって、後ろを振り向く壮年の男がいる。厳めしい顔つきをより強調するかのように、短い顎鬚を撫でている。その四歩ほど後方には、二人の女の姿がみえる。
一人は、髪にいくらか白いものが混じってはいるものの、かもし出している雰囲気は春に芽吹いている新芽のような若やいだ趣きがあり、口元にはやわらかな笑みを浮かべている。
もう一人は、姿かたちこそ幼いが、表情はひどく暗く翳っており、十歳の子供と聞いて人々が思い浮かべるであろう、野原を跳ねまわるような若鹿というような趣きは、ほとんど見受けられない。
二人のうちの一人。翳りを帯びた少女は、男の言葉を聞いて、ぴくりと身体を反応させた。
やや傾けた身体の前、位置にすれば下腹部辺りに、左手へ右手を添えるように重ねていた姿勢から、ついと上半身を起こす。
まるでからくり仕掛けのようなぎこちない動きで、顔はうつむけたままで。
「殿下へ、申し上げます。本日より、騎士ヴァルフェルト様のご推薦により、このレインストン離宮付きの女官として、雇っていただくことになりました」
少女は深々と頭を下げかける。たが、右横に立つ年配の女から左肘で軽くこづかれる。一瞬目を見開くと、いささか早口になりながら言い添えた。
「名は、ヒルデガルドと申します。今後は、よろしくお願いいたします」
「そうか、よろしくたのむ。よい、表をあげよ」
少年の言葉が聞こえていないのであろうか、緊張しているのであろうか、お辞儀をし続けている少女がいる。その耳に、横から小さな声が届く。顔をあげて、殿下のお足元あたりをみるのです、と。
慌てて少女は身体を起こす。そして、少女の目は少年の顔をまっすぐに捉えていた。
「殿下、これはとんだ不作法を」という声とともに、少女の背中へふわりと手が触れる。
その手の意図するとことに気がついたのであろうか、「お許しください」といいながら、少女は素早く上半身を曲げて頭をさげる。だが、足がこわばりすぎていた為ゆえか、身体の重心が前に行き過ぎており、かかとが浮く。結果、体勢を崩し、前のめりとなって三歩ほど前によろめいてしまう。
厳つい顔の男がとっさに少女を支えていなければ、恐らくは転倒していたほどの勢いであった。
すみません、すみません。といって謝っている顔を真っ赤にした少女を見て、笑いながら少年がいう。
「じいよ、なかなかおもしろそうな子だ。よい、ヒルデガルドよ。表をあげて、我の足ではなく、顔を、目をみよ」
つかの間、ためらっていたかにみえた少女は、大きく一呼吸をした。そして、先ほどまでとはことなり、しなやかな動作で一礼した後に、ゆっくりと顔を上げ、自身の歩幅で七歩くらいの先を見る。
広大な庭が一望できそうな、見晴らしのよさそうなテラスへ置かれた椅子に、少年は座っていた。
見たこともないような複雑な刺繍のある、とても滑らかそうな生地であつらえられた、着心地の良さそうな衣服に身をまとって。
少年は、薄灰色がかった金色の髪を陽の光できらめかせながら、楽しそうな表情を浮かべて、少女の目をまっすぐに見つめていた。
少年の顔を言われるがまま視線で捉え続けていた少女は、いくらかの戸惑いを隠せないでいる。異性の顔を見続ける、という行為そのものに、気恥ずかしさが胸中にこみ上げていた。
加えて、少なくとも、これまで少女が暮らしてきた街中で見知っている少年たちには感じたことのない、全く異なる表現しがたい雰囲気が少年にはあった。
もしかすると、と少女は思う。事前に自分より二つほど年下と聞かされていたのは、実は二歳年上の間違いではないだろか。
少女の戸惑いは続く。いつまで見ていてもよいものか。新たな命が告げられない限り、目を逸らしては失礼にあたるのだろうか。そういった判断の根拠すら分からないゆえに。
すると、少年は、鮮やかな夕焼けのような赤みがかった黄色い色の瞳で少女を見据えたまま、おもむろに両の耳を器用に小刻みに動かし始めた。
ぷっ、と思わず笑い声をあげてしまった少女は、恥ずかしさに顔ばかりか耳までも赤く染める。次いで、自身のおかれている状況を思い出し、血の気が引いたかのように青ざめ、あたふたと狼狽しながら「お許しください」といって、頭を何度もさげる。
慌てて少女の側へ足早に歩み寄り「なんというご無礼を。殿下、この者はいまだ宮中作法に慣れておらぬ身。どうぞお許しを」といいながらも、口元には笑みを浮かべたままの女官頭シーリア。
一方で、先ほど転倒しかけた少女を助けた騎士ヴェイロン・ヴァルフェルトは、顔に柔らかな笑みを浮かべながら「殿下、おふざけが過ぎますぞ」といっていた。
それぞれを、見比べでもするかのように眺めていた少年が、二度ほど軽く咳きこんでから、いう。
「これはすまないことをした。
ところで、シーリアよ。そのようなえみをうかべている者にいかがなものかとも思うが、いちおう言うておく。この子を責めるではない。
そして、ヴァルじいよ。この子の目はひどくかなしみにみちあふれているように思えたが、他のものがかくれているようにもみえた。ゆえに、変化させてみとうなった。
かなしみの目がその者のほんしつであるのならば、そういうたちの者と考えればよい。
だが、笑った目とのらくさがみえた。じいのすいきょした者であろう。
なにゆえだ、わけをもうせ」
殿下、もう一度咳をされたらお休みいただきます、という女官頭シーリアに、まだよい、と手振りを交えて示している少年の姿があった。
「殿下……。エドガー様……」
「おお、ようやく意識を取り戻されれましたか奥方様。いやヒルダよ。まずは安心いたした」
ヴェイロンの声が、耳に聞こえている。右手には温もりを感じる。
閉じた路の中で、急に光をなくし、漆黒へただひたすらに落ちていったはず。
けれども、今は。浮遊感すらともなう不思議な状態であるように、ヒルダには思えた。
理由は不明ではあったものの、意識を失う前と変わらぬ状況ということ。異なるのは仰向けに寝ているような姿勢をとっていること、ということが薄め目をあけてみたヒルダには分かった。
上半身を起こし、両足を揃えて座りこむような姿勢に変えたヒルダは、膝を伸ばして座った姿勢をとり、隣で心配そうに自分を見ているヴェイロンの顔を、見……。
「ヴェイロン様。また見えるようになっています」
ヒルダの驚きを帯びた声とは対照的に、落ち着いた口調でヴェイロンがいう。
「当然のこと。しかし、まさかこのような事態になろうとは考えてもおらず、そなたに言うていなかった。
突然、闇の中へと放りこまれたような心地であったであろう。済まないことをした。
ところで、そなた泣いているようにも見えたが、笑っているようにも見えた。
もしや、また何かを、視た、のか」
ヒルダは、少し遠くで微かに瞬いている星のような光へ、視線を向けながらいう。
「いえ、そうではありません。とても大切な思い出を、夢として見ていたようです。
私が、初めて殿下にお会いした日の出来事を。母が病に倒れてより笑顔を忘れていた私が、半年振りくらいに笑っている思い出を」
「それはまことに懐かしい。確か、殿下の二度目のレインストン離宮滞在時、シーリアもまだ健在の頃だな。そうか、よい夢を見たな、ヒルダ」
ヴェイロンの優しく柔らかな声が、ヒルダの耳に心地よく響く。
懐かしい過去を思い浮かべ、閉じた路の中にいるという状況を忘れたかのように、わずかな時間でこそあったが、追憶にひたっているヒルダであった。しかしながら、今はそのような場合ではない、と思い定めて意識を改める。
「父上様、私のことでしたら大丈夫です。先を急ぎましょう。意識を失う前のまま、荷も無くしていないようですし」
そういうとヒルダは左手を、肩から腰へと斜めにかけている帯状の袋へと添えた。
ヒルダがあまり見た覚えのない、困惑しているかのような表情を浮かべてヴェイロンがいう。
「実は、困ったことが起きた。そなたが意識を失う直前。レインストン近くの山中にある森の塔へ、わしの意識が達したのだが。閉じた路が既に何者かに使われて、まだいくらも日が経っていないようであった」
どういうことでしょうか、と問いかけるヒルダにヴェイロンがこたえる。
「ありていに申せば、国土を守る騎士が用いる場合、閉じた路にはいくつもの制約が存在している。
誓いを守らぬ者には、必ず代償が生じる。
導く手を求める弱き者のみを、ともなえる。
閉じた路の扉は、閉じた路の扉にしか通じてはいない。
一度用いた閉じた路の扉は、いくらかの時をおかねば蘇えらない。
見知らぬ地の閉じた路の扉には、通じてはいるが、通じてはいない。
他にもあるのだが、概ねそういうこととされている」
そういって、一呼吸ほどの間を置いたヴェイロンは言を続ける。
「どうやら、レインストン近くの山中の扉を、恐らくここ十日のうちに使った者がいると思われる。それとも知らずに意識を達せさせたわしは、例えるならば、川にかかっている橋が途中で途切れていることに気づかず、空中へ足を踏み出したような状態となった。
ゆえに、落ちた。
わしにとっては、初めての経験ではない。不意をつかれ、緊張はしたものの、意識を失わぬ、ということだけに気をつけながら、落ちるままに身をまかせていた。
わしの先達の言葉を借りれば。
落ちる、と言うても実際の身体は、落ちた位置からほとんど移動などしない。ただ、意識のみが、落ちる。その感覚に心が捕らわれ平静を保っていない場合は、いらぬものを見せることもある。
と、いうことだ」
少しばかり驚いた表情をしているヒルダを見ながら、すまないことをした、と再度謝りを入れたヴェイロンがいう
「しかし、ヒルダには、そのことをあらかじめ言うてはいなかった。先ほどは、初めてではない、と言ったが、めったにあることでもないゆえな。
いらぬ心配をさせるだけかと思っていたのだが、こうなると分かっていれば言うておくべきことではあったとみえる」
「あまりにも予期せぬことでしたら、仕方のないことでありましょう。無事だったのですから、ヴェイロン様から謝られるようなことでもありません」
ヒルダはそう応えて、いう。
「その辺りの事情はよく分かったのですが。今は、落ちる前のような、どこかへと運ばれているかのような感覚が、ないのはなぜでしょうか」
「わしが、意識を新たな別の扉に向けて発していない。一度、落ちると、再び意識を伸ばすのにいささかの時間が必要ゆえな。他にも理由がある」
そういって押し黙るヴェイロンをみて、ヒルダがいう。
「ヴェイロン様。お一人で考えられるより、二人で考えたほうがよい知恵が浮かぶのではありませんか。おっしゃったではありませんか、私は神々の眷属の一端である、と」
ヴェイロンはいう。
「ヒルダよ、そなたはレインストンの生まれ。その後、十歳で離宮付きの女官として勤め始め、いつしか殿下付きの女官となり、以降は殿下の傍らに控えてきた。
わしは殿下がお生まれになった日より、殿下付きの騎士として仕えてきた。
もっとも、常に殿下の側にいたわけではない。殿下の名代として、使いとして方々へ赴いたこともある。
ここで、見知らぬ地の閉じた路の扉には、通じてはいるが、通じてはいない。という閉じた路の制約が問題となってくる。
この意味、分かるか」
ヒルダは、しばし考えていう。
「つまり、私とヴェイロン様の双方が知る地でなければ、閉じた路が通じていない、ということでございますね」
「然り。よって、すまぬがヒルダよ。そなたが訪れたことのある地を書き出してはくれまいか」
ヴェイロンは腰に付けている物入れから、折りたたんだ羊皮紙と鉄筆を取り出した。
「この羊皮紙には、黒兜草の茎を煮詰めて乾燥させた、黒粉を散りばめてある。書くというより彫るに近いが、インクが無くとも用を足せるゆえ、戦場や野外での急用などの場合、重宝するものなのだが。
そなたの右手を離すわけにはまいらぬ。少々不便であろうが、左手で書いてくれ」
そういうと、ヒルダに羊皮紙と鉄筆を手渡す。
私は両利きなので大丈夫です、というヒルダを見ながら、ヴェイロンはそなたが書き終えるまで少し休む、といって座ったまま膝に顔を乗せるような姿勢をとると、目を閉じる。
だが、その胸中では、ヒルダに告げた懸念とは随分と異なることを案じていた。
どこまでを話すべきなのか……。
心よりの忠誠をささげ仕えていたエドガー王太子殿下にすら、我が身が国土を守る騎士であることを示唆するような話題は、避けていたほどである。
もちろんヴェイロンは、ヒルダの異能、それ自体が神々の眷族に連なっている証であることを、頭では理解していはいる。
しかしながら、いくら神々の眷族の力を持つようになった者とはいえ、幼き頃より見知っている、いわばいつまでも子供に過ぎないのがヒルダであった。
ましてや、ヴェイロンにとっては、年齢こそいくらか離れていたものの友人であったリスィアンの忘れ形見、それもなかなか子宝に恵まれなかった友人がその晩年にようやく得た一人娘、という想いも、そこに重なる。
二十七年前のある日など、婚姻の日取りが決まった、とのリスィアンから便りを受け取ったヴェイロンは、当時レインストンよりかなり離れた地にいたにもかかわらず、船を乗り継ぎ、馬で二昼夜を駆け通して、祝いの宴に遅れることなく加わったほどの大事な友であった。
リスィアンが亡くなった後は、親娘二人暮らしの住まいへは、なにやら気恥ずかしくもあり、妙な風聞が立って迷惑をかけることを恐れもした為に、訪ねた回数は両手の指で足りるほどになっていた。
しかしながら、未亡人リッサとヒルダの暮らしぶりについては常に気にかけており、遠目にではあったが見守るような心持ちであった。時にはレインストン離宮で用いる薬剤の原料仕入先として、リッサの勤めていた薬屋に便宜をはかり、店の主人に対して、その臨時の儲けの中から雇い人にも一時金を与えるように、と強く言いつけたことも何度かあるくらいに。
ただ、もし仮に、私的な要因による心象を全て除外し得たとしても、あと半年少々で六十になろうかという者が、二十歳を一つ超えたばかりの者に、案じていることの全てを軽々しく話せるものではない、という、気概なのか矜持なのか意地なのか、自身ですら判断を持て余すような思いもある。
加えて、エドガー王太子殿下よりの想いと思いとが託されている存在ともいえる妊婦に、いらぬ不安を与えるわけにはいかない、という意識もヴェイロンの胸中を強く占めていた。
そういったおよそ単純とはいえないヒルダに対しての思いとは別に、ヴェイロンは考えている。
いったい誰が、レインストン近くの山中に設けられている扉を用いたのか、ということを。
マーシア王国に健在の国土を守る騎士は、少なくともこの七年あまりは、知っている限り自分一人しかいなかった。
一時は、他国の者、もしくは新たな者が務めを誓い、扉を用いた為、とするのが妥当な判断であろうと考えもした……。
だが、国土を守る騎士であれば、閉じた路を用いた場合、扉が蘇えるまではそれと分かるような印が残る。
例えるならば、川にかかっている橋が今は途中で途切れていることを、表わす印がある。
とはいえ、印そのものには個人差があり、見落としてしまう場合もめったにないことではあるが、なくもない。ヴェイロン自身が、ヒルダへ告げたように、気がつかずに、落ちたこともある。
ただ、今回の場合は違う。一人ではないゆえに、いつもより慎重に事を行なっていた。意識を達せさせる前と落ちる直前に、二度にわたり確認もしていた。間違いなく……印は無かった。
閉じた路の扉そのものが封じられていたのか、とも考えもした。
国土を守る騎士が、西方大陸の大陸諸王家が一同に会した大会議において廃せられてより、路の存在が明るみになっていた場合、ほとんどの扉が封じられてはいた。
しかしながら、レインストン近くの山中のそれが、余人の目に触れていたとは考えにくい。
更に、もしも、封じられていた、というのであるのならば。
落ちる、まで気がつかないというのは、王都スプリングスにおいて夏に雪が積もるほどの異常な気象の中、それに気がつかないで水浴を楽しむ、というくらいの可能性に等しい。
と、なれば。
国土を守る騎士以外の誰かが扉を用いた、ということになる。
認めたくなどないが認めざるを得ないその結論に自身で達したヴェイロンは、思わずごくりと生唾を飲みこんだ。