第一話 薄青色の花
「死ぬるは怖いか」
表門へと通じている長大な石造りの橋。その向こう側からは、足音を隠そうともせず、むしろ誇示するかのごとく響かせ、金属のぶつかりあう音すら添え、近づいてくる集団があった。
門楼からそれを遠目に見、思わず気を削がれた態をみせた若い兵に、豊かな白髭をたくわえた男が声をかける。
「まあ、誰でも恐ろしい。実はな、わしも。怖い」
そう言ってにやりと不敵な笑みを見せたその男は、若い兵の肩を軽く叩く。次いで、皺の刻まれたその風貌とは裏腹にまるで青年のような年齢を感じさせない身軽さでもって門楼から大地へと穿たれている階段を駆け下り、先ほどよりけたたましげな鳴き声をあげ続けている軍馬にひらりとまたがった。この場を支配している張り詰めた気配を敏感に察してのことだろう。荒々しく首を上下に振り、脚をかき、歯を剥き出しにし、興奮を抑えきれずにいたその馬を、白髭の男は巧みな手綱さばきでもってわずか二呼吸の間に落ち着かせていく。
その後継を垣間見ていた、周囲の、戦慣れしある種の図々しさすらその身にまとっている老将兵達からも「ほう」という感嘆の声が思わず上がっていた。
「聞けい。死ぬるが怖いは我らも同じ。敵も同じ。同じであれば、今この時。我らがあやつらに劣っている道理など」馬上の人となった白髭の男は表門内において出撃の時を待つ将兵へ向けて、しわがれた、だがよく通る声をひときわ張り上げる。「一欠けらもあろうはずがなし!」
ふてぶてしさのみをただよわせたその口調とは裏腹に、大兜の下にある目元からは周囲全てを慈しむかのような柔和な光が、幾らばかりか漏れていた。と、まるでそれを恥じいるかのように、覆い隠すかのように目を閉じている。一瞬後に再び開いたまぶたの中の瞳からは、猛々しさ以外をうかがわせるようなものは、毛ほどもうかがうことが出来なくなっていた。
「皆、よき面をしておるわ。誇れ」
ヴェイロンは白髭を風に揺らしながらそう言うと、降ろしていた面頬を上げ、右手に握った馬上槍を天にかかげる。
やがて。おもむろに傾けたその槍の穂先を、わずかに開いている表門へ指し示すやいなや、かかとの拍車を使って軍馬へと己の意志を伝え、勢いよく駆け出していった。
初秋に始まった戦乱は、冬に花を、真っ赤な死に花をほうぼうで咲かせながら、遂に王都へまで到達した。
別のことわりで動いている自然は、死をまき散らす人々の争いには一切関知しない、と主張しているかのごとく、春の先触れをそこかしこで告げている。粛々と、だが確実に新しい命を芽吹かせている。
「おまえは。生きておるのだな」
本格的な春を迎える前に、芽吹いてしまったいささか気の早いともいえる一輪の花は、朝日と勘違いしたのか夕日をその身に浴びながら、薄青色の花弁をまとった蕾をまさに開かんとしていた。その花の有り様は、つい先ほどまでヴェイロンの間近にあふれていた死と、あまりにも対照的な生といえた。
表門外における戦闘を終え、生きて再び門をくぐり、王宮の奥へと通じる道の端で一輪の花を見つけたヴェイロンは、馬の歩みを止めしばしたたずんでいる。
ほんのわずかでも、触れてしまえば壊れてしまいそうな、そのはかなげな姿に魅入られでもしたかのように。
そっと、下馬をする。足音を聞かせることすら躊躇うように、ゆっくり近づいていく。かがみこみ、花の蕾に顔を寄せる。
花の名は、思い出せない。否、知ってなどいない。
知るはずもないその花は、懐かしいようなどこかくすぐったいような香りをヴェイロンの胸中に満たし、そのまま包み込まんとでもするかのようであった。
だが、死は。すぐそこにある。
ヴェイロンは、もはや長きを生き延びることなど考えてはいない。それはフォルシウス家の掲げる王旗にいまだ忠誠を誓う将兵のほぼ全てが、心より同意していることでもあった。
王都を、いや事象を正確述べるのであれば、王都に付属する王宮を包囲しているグスタフ・パルム公が直接率いる軍勢はおよそ一万七千を数える。
のみならず、仰ぎ見る旗を換えることを肯んじえた諸侯達の率いる二万を超える将兵たちが、王都市街区域の主だった建物、道路、外壁、門といった要所要所を全て制圧し、王宮の周囲にも展開していた。
王国中を見渡せば、新しき旗を認めていない諸侯はいまだ存在するものの、既にして過半以上を占めている古き旗を捨てた軍勢に対しては、王国のほうぼうで劣勢を強いられており、王都への効果的な援軍を期待出来るものではない。
水晶宮という異名で世に知られている王宮は、隣接する市街区全域に数倍する面積を有する湖の内にある。湖に浮かぶ丘陵状の島全体を外壁で囲むことによって、湖それ自体が天然の濠となっており、その名が示すとおり陽を浴びて、あるいは月に照らされ湖に映える様は水晶がきらめくがごとしで、平時であれば市街区や湖岸より王宮を望むものをこの世ならざる幻想的な情景へといざなう。
水晶宮からは一筋の石橋が市街区へと伸びている。その一本の道は水晶宮の表門前を起点としており、島と石橋の高低差を計算して設けられている正面の坂は、斜面それ自体が防御施設としても機能するように造られていた。
もっとも、周囲を広大な水域に覆われてこそいるものの、水晶宮を覆う外壁そのものは平均的な背丈をもつ成人した男が二人縦に並べば頂上に達してしまうほど低い。よって、全体的な印象は城というよりも広大な敷地をもつ館というほうが相応しく、一国を統べる王宮としては防備がいささか心もとなくみえる印象を与えてしまうのは否めない。
しかしながら、この王宮が建造されてより長き歳月に渡って、これまで一度たりとも敵兵の跳梁を受け入れたことはない。
歴史上、フォルシウス王家に敵した勢力が王都へまで攻め寄せてきたこと数度。王家はその都度水晶宮と市街区へ軍を分散して配置することで、彼らを容易に撃破してきた。
高い城壁に覆われた市街区を攻囲しようとすれば、水晶宮より将兵を乗せた船隊が時を問わず望むがままの位置に上陸し敵の後背を扼す。水晶宮を直接狙おうとすれば、市街区を守る軍勢が城門の中でより適した門を開き敵軍の後方へと展開していく。
守る側にしてみれば戦端を開く場所と時を、兵力数すら選ぶことが出来、攻める側にしてみれば、攻城戦と船戦を同時に制し、加えて野戦をも考慮した陣立てを備えておかねばならず、過去にそれを試みようとした軍勢はことごとくついえ去っていた。
あくまでも、これまでは、だが。
二万以上の将兵を三年は余裕を持って養えるほどの糧食や武具などの備蓄はあれど、水晶宮に篭城しているフォルシウス王家の将兵は二千を少し欠いているに過ぎず、隣接している市街区は既に敵方であるグスタフ・パルム公の軍勢が制している。
包囲を受けてより、既に五日。
いまだ、水晶宮が落城をまぬがれている理由は、守る側も攻める側もそれぞれ有していた。
絶望的な兵力差を知りつつもなお水晶宮に踏みとどまり、フォルシウス王家への忠節を誓い従う将兵たちは、事ここに至るまでの打ち続いた負け戦を生き残り、加えて逃亡もせずに戻った者たちが過半を占めており、望むと望まざるとを問わず戦慣れしきっていた。また、ここより後に退く場所など最早ないという過酷な現実を受け入れているがゆえの異様なまでに高い士気も相まって、獅子奮迅な健闘ぶりをみせていること。
一方、最終的な勝利を確信しているがゆえに水晶宮への無益な破壊を加えることを新たな主として全く望んでいないグスタフ・パルム公が、兵力差にまかせての湖の四方より船や筏で押し渡る力攻めの類を一切行わず、表門攻略以外の戦闘をかたくなに避けていること。
比率にすれば、前者が一割、後者が九割といったあたりで、比べるまでもなく後者が大きな要因を占めていた。
加えて、グスタフ・パルム公の政治的判断ゆえか誇り高い人となりゆえか、夜間戦闘のもたらす不必要だが必然の混乱と、容易に起こりうる無意味かつ不名誉の発生を嫌うがゆえに、太陽が昇ってから沈むまでの時間以外は戦闘を厳として禁じてもいた。
児戯にも等しいこのような戦ぶり。であるならば、あと十日や二十日そこらは保てはするであろうが……。
ここ五日間に比べれば、日が沈み始めるどころかやや傾きかけた途端に退いていった敵軍の有様と、いつもより倍する勢いであがっている夕餉の支度の煙を遠くに認めたヴェイロンは、薄青色の花に語りかける。
「明日、であろうな。わしは死に花を、お前は生ける花を。ともに咲かせようぞ」
そうつぶやくとともに立ち上がったヴェイロンは、再び水晶宮の奥まった位置にそびえている館への道を進み始める。身に帯びている板金鎧の接合部を、先ほどまでとは異なり遠慮なく鳴るがままにまかせ、騎乗の人となって。
陽は地平の端から既にして没し、空には見事な円を描く月と星々がまたたいている。
水晶宮の奥まった位置に建てられている王子館に到着したヴェイロンは、従者の案内にしたがうまま見慣れぬ廊下を歩いていた。
これまでの日々とは違い謁見広間の前で立ち止まろうとせず歩み続けたその従者は、三度ほど角を折れ曲がりながら途中途中でいちいち鍵の付いた分厚い扉を開け閉めし、ヴェイロンを館の奥へ奥へと、つまりは王太子の私室の方へと先導していく。
やがて、ある部屋の前に達した従者は「今宵は、こちらに案内するよう申し付けられております」と呟くように小声で言い残し、去っていった。
従者の姿が完全に見えなくなったのを確認した後に、ヴェイロンは部屋の扉を軽く叩く。「お召しにより、ヴェイロン・ヴァルフェルトまかりこしました」と告げるとともに室内へと歩み出す。
謁見広間に比べれば随分と狭いものの、二十人くらいであれば余裕を持って寝起き出来そうな部屋の内で、ヴェイロンはエドガー王太子にまみえ、本日の戦況を報告していく。
明日には落城を避けえないであろう、という自身の見立てとそれを裏付ける戦場の情景を、まるでそれが良き知らせである、とでもいうかのような声色でもって。
ふと。ヴェイロンは報告を続けながらも常とはことなる気配を感じていた。頭を動かすことなく視線だけを時折動かし、その正体に気づく。
戦況の検討をすべきはずのこの場に、将たちが一人もおらず、従者すらも皆無であった。
加えて、エドガー王太子のかたわらに侍っている同僚といってもよい騎士たちの表情は、微細にこそすれ見慣れぬものをあらわしているかの様に感じた。
「すまぬな」右腕の肘から先を椅子の肘掛けから上げ、ヴェイロンの報告を突然さえぎるかの様な態を取ったエドガー王太子が声を発している。「状況が少し変わりをみた。そなたに頼みが、ある」
そう言ったきり閉じたままであったまぶたを再び開いたエドガー王太子が、その発言の指し示すものを捉えかね、無言のまま続きを待っているヴェイロンへ、視線を再び合わせると言を重ねていく。
「ヴェイロン、そなたにしか頼めぬこと。……朽ちるまで、生きてはもらえないか」
……明日には、死ぬ身である。
それは、明白な避けようもない現実であり、既に冥界を行く先達に胸を張って報告出来るよう、吟遊詩人の奏でる詩歌に名を刻むほどの見事な雄々しさをもって、死に花を咲かせてみせる。最期と決めたこの戦場で、そのことをのみ、考え、心めぐらせてきた。
はて、朽ちるまでとは?
思わず、戦傷があまたある、皺の寄った老いのかげりが所々に浮かぶ自分の手の甲を眺め、裏返してはひらを見つめる。
……既にして朽ちかけている、といえよう。
つまりは、これは。殿下のお好きな諧謔の類であろうか?
「そうでは、ない」
ヴェイロンの思考をまるで読み取ったかのような間合いで声を発していたエドガー王太子は、同時に小さく首を振っていた。
「ヒルデガルドを連れて、この水晶宮から、いや王都より落ちて欲しい」
「な!」
ことこの期に及んで何を、とでも言わんばかりにまなじりをしっかと見開いたヴェイロンは、視線をエドガー王太子の後方へと走らせる。探しものは視界が捉えるより先に、衣擦れの音として耳から入ってきた。部屋の最も奥、ヴェイロンの位置からすれば、ちょうど灯の光が交差して影となって見える出入り口。そこに控えていたヒルデガルドを、憤怒の表情を隠そうともせず強く睨みつける。
「そうでは、ない」
ヴェイロンに視線を合わせたままのエドガー王太子が、諭すかのようにいう。
「ヒルデガルドが身ごもっていることが、つい陽が落ちる前に判明したのだ。言うまでも無いが、我が初子にして、最後の子である」
エドガー王太子は椅子に座ったままの身体を軽くひねり後ろを振り向くと、ヒルデガルドに小さくうなずく。招き寄せ、その手を取ってしばしの合間握りしめる。
何か言いかけようとしたのか口を開きかけているヒルデガルドに、「よい」とだけつぶやくと、改めて前を向きヴェイロンを見据える。
「怯懦ゆえ、ではない。妊娠が分かった後も、ヒルデガルドは我とともにある、と言い張って止まぬのだがな……。生きれぬと既にして定まった我が身に、新たな命の知らせ。これはもしや……啓示ではなかろうか、とな」
神々のしろしめす、な。
わざと省いたその言葉の、それが示す意味を、意志と力の存在を、心に思い描きながらいったん言をきったエドガー王太子は、返答を促すような視線をヴェイロンへ投げかけていった。
「確かに。慶事には違いなく、何らかの啓示、と言えるのやもしれませぬ……。それにしても、何故私めが、その任に推されているのでしょうか?
更に、いかようにしてこの包囲された水晶宮より、殿下のご愛妾を守りながら抜け出ることが叶うのでありましょうや。船を使うにしても、湖の周囲は等間隔でかがり火がたかれており、隙などありませぬ。さりとて、舳先を市街へ向けるのはより困難であり無謀ですらあると言えましょう。
もしや……殿下。よもや、民に化けろなどと情けなき言をおっしゃっているのであれば……今この場にて果ててご覧にいれましょうぞ」
そう応えながらヴェイロンはエドガー王太子から視線を外すと、何故なのだ、と言わんばかりな眼差しで、エドガー王太子の左右で侍る者たちを順々に睨みつけるがごとく眺める。
「ここに集いし者らは皆、近衛の騎士として我がフォルシウス王家への宣誓に、最も重きを置いている」
ヴェイロンを見据えたままのエドガー王太子が、幾分間を置いて後、言葉を発していた。
「……ところがそなたは。そなたは我が生まれ出でる以前よりの……国土を守る騎士。で、あろう」
久方ぶりに耳にするその呼称は、ヴェイロンを予期せぬ動揺へと、誘っていく。
「ゆえに」
ヴェイロンとは四十年来の付き合いのある近衛騎士長ヨエル・ファルクが、たたみかけるかのごとく口を開いている。
「一番の、そして唯一の適任者であることを否定出来などはしまい。我ら四名はフォルシウス王家の方々のかたわらで、畏れ多くもその時には、黄泉路の添えとして近侍しなければならぬ。
それが、近衛騎士としての誓いよ。だがヴェイロン、貴様は。……いや、ヴァルフェルト殿は……」
視線を少し落とし躊躇ったそぶりをみせていたヨエル・ファルクは、再び顔を上げている。
「ランドガードよ」
エドガー王太子の言いように心が乱れていたところへ、古くからの友でもあるヨエル・ファルクが重ね合わせるかのように言ったことを、そして言わなかったことを、その意味するものを、ヴェイロンは胸中でかみ締めている。
それでもヴェイロンは、動揺を声色からいまだ隠しきれないままではあったが、言い返さずにはいられないでいた。
「ヨエルよ。……いやファルク殿よ。確かに殿下の言に相違は無い。貴様の言い分も認めよう。
わしは、そうだ。確かにランドガードよ。しかしそれは。前王であらせられたスヴェン公正王の御世に、大陸諸王家が一同に会した大会議において廃せられて久しい制ではないか。
貴様らが近衛騎士というのならば、わしはこの中で誰よりも長くエドガー王太子殿下のお側近くで従う者である。それに……」
ヨエルよ。ラーグレーブよ、ハレンよ、ランフェルトよ。
今更除け者にするとは、あまりにも酷であろう。
皆、ともにこのお方のもとで果てようと、酒杯を干したのはつい先日のことであろう。
もう、わしは休みたいのだ。否、休むべき……そうであろう。
しばしの間うつむき押し黙っていたヴェイロンであったが、再び顔をゆっくりともたげていく。息を吸いこむ。吐き出すとともに、拒絶の意志を示すべく声を発せようとする。
さなか、エドガー王太子の声がヴェイロンに先んじて覆いかぶさってきた。
「肝心なことを忘れていた。そなただけが、独り身である」
まるで、それが面白きことでもあるかのように、この場に似つかわしくないほど、ほがらかな声色を帯びていた。
思わず、視線をエドガー王太子に合わせてしまう。ヴェイロンの、吐いた息が声とならず、ただ漏れてしまう。
「そなたなら、そなただけは。知っておろう」
まるで、それがちょっとした秘密に過ぎない、とでも言わんばかりの輝きに満ちた揺らめく瞳に、ヴェイロンは見据えられていく。
知っているのは、そなただけか? エドガー王太子の目がそう問いかけてくる。喉に、声が張り付く。
「たのむよ、ヴァルじい」
まるで、それが、それだけが、大事なことわりであるかとでも示すかのように。穏やかなあどけない表情で。まっすぐな視線が、懐かしい声色が。届く。
およそ八年ぶりに聞くその言葉が、耳にこだました刹那。
ヴェイロン・ヴァルフェルトは、その場で片膝をつくとともに、背から肩にまとっていたエドガー王太子付きの印であるローブを、厳かな手つきで外す。
次いで、長剣を鞘ごと腰帯から抜き取ると、エドガー・フォルシウス王太子へ両手を添え、国土を守る騎士として、捧げた。