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Ⅰ章 到着「伝承の詳細および疑問点の提起について」①


 彼らが乗せたワンボックスカーが目的地――I県奥村町の道路標識を通り過ぎたのは、夕方に差し掛かろうという時刻だった。


 車窓を流れる景色は見わたす限りの水田とため池。あちらにぽつん、こちらにぽつんといった具合で小山もあり、それぞれの山のふもとには二、三軒ずつ民家が建っている。さえぎる物のない視界は遠くに色あせた市街地も望め、それらはすべて傾きかけた夏の日差しに染まっていた。


「あとどのくらいで着くんだい?」


 車内もまた、絵の具を流したようなあかね色に包まれている。ハンドルを握る祁答院けどういんは、正面に来た西日に顔をしかめながら同乗者達に訊ねた。


「むー、まだかー?」


 まず反応したのは助手席の小さな相棒、犬神の古砥部ことべ。手足をバタつかせながらむーむーうなり続けている。すでに大学を出発してから五時間強。表をかけずり回るのが大好きな彼女にとって、自分で走れないドライブは退屈極まりないらしい。


「こら、暴れないの。これあげるから」


 続いて後部座席から苦笑いで伸ばされた有川ありかわにしきの手には、小袋に入った犬のおやつが握られている。古砥部は目にも止まらぬ早さでそれを奪い取り、満面の笑顔でぱくぱく食べ始めた。到着うんぬんはもうどうでもいいらしい。


「有川さん。今はあまり食べ物を与えないでくれ」


 祁答院は心配げに助手席を見やった。


 食べているときと寝ているとき以外、片時もじっとしていられないこの犬神(野生児)は、文明の利器と相性が悪い。イコール、乗り物酔いがひどい。しかもガマンという言葉を知らないので『む、気持ち悪い』発言からリバースが発動するまで、タイムラグもない。前兆ぜんちょうとして動きが鈍くなる、口数が減る、といったサインがあるので保護者が見逃さないよう注意する必要があった。


「もう大丈夫ですよ。地図見たら、そんな大きい町じゃないし。かかってもあと二十分くらいじゃないですか?」


 楽天家ではあるが、現実家でもある有川の見立てにまず間違いはない。祁答院は「そうか」と短く返答し、運転に集中し始める。


 と、助手席から「げふー」という満足げな声が上がった。


 古砥部はもうおやつを食べきったらしい。視界のすみにはウェットティッシュで彼女の口元をぬぐう有川の手と、くすぐったそうにしながら大人しくしている古砥部の姿があった。


 微笑ましい光景に、祁答院は相好そうごうを崩しながら思う。


 祁答院が生まれてこのかた、古砥部はずっと今の姿で共にあった。そして自分以外の人間に姿が見えない彼女は犬神だと、子供の頃は信じて疑わなかったものである。


 だが祁答院が歳を重ね、興味を持って調べていくうちに疑問が生じた。


 いわゆる家系に伝わる犬神は、伝承には女系遺伝とされている。その一族の女性にしか取り憑かない。古砥部に質問しても、『よく分からん!』と自信満々に言うばかり。自分は生まれる性別を間違えたのではと落ち込みもしたが、さらに調べ、研究を重ねていった祁答院はいつの間にか大学で民俗学と妖怪学の教鞭きょうべんるに至っている。


 若くして助教授の地位を手に入れられた理由は、古砥部の助力も大きかった。


 専門的な知識がなくとも、本物の人外である彼女のアドバイスは本質を的確にえぐる。それに歴史的証明を付け加えた祁答院の論文は、彼を大きな成功へと導いたのだ。使い手に幸福をもたらすという犬神の伝承そのままだった。


 もっとも、祁答院が幼少期に周囲から孤立し、現在に至るまで〝変人〟のレッテルを張られ続けているのも古砥部のせいだが。


 どうも彼女の行動が周囲に影響を与えた場合、見えない人間には自動的に〝近くにいる誰かがやった行動〟として認識されるらしく、必然ひつぜん、一番そばにいる機会が多い祁答院がその責任をかぶるハメになるのだった。


「あと十五分くらいすよ」


 ここでようやく最後の一人、三人のやりとりを「苦々しいが興味なし。なるべくなら他人を装っていたい」という態度でながめていた石和修二が沈黙を破った。


 それも仕方ない。古砥部が見えない石和の目に、三人のやりとりは〝祁答院が犬のおやつをすごい勢いで食べ、その口を有川がふいていた〟という謎の現象として映っていた。さらに三人の会話から古砥部のセリフを抜いた光景を思えば、彼の反応は当然と言える。祁答院と有川の言動はイタい電波を受信中なカップルのそれだ。はたから見ればまず近寄りたくない人種だろう。


「次の信号、右です」


 頭痛をこらえるかのように吐き出す地元民、石和の指示に従って祁答院はウインカーを出す。交差点を右折すると、景色は田んぼからいかにも古くさい商店街へと変わっていった。


「は~、これはホントに田舎ですねえ」


 外をながめていた有川の直球な感想に、石和は顔を天井に向けて唇をとがらせる。


「来る前からそう言ってただろ。遊ぶとこなんか、駅前のパチンコ屋と俺が高校の頃にできたカラオケボックスくらいだ」


 ちょうど駅前のロータリーを通り過ぎる。こちらも周囲に負けず劣らずのひなび具合で、目立つのはオンボロと呼ぶにふさわしい木造の駅舎と最大手のコンビニ一軒、これだけはむやみやたらとデカいパーラーなんとかというパチンコ屋くらい。そのカラオケボックスとやらは確認できなかった。


「……つぶれたらしいな」


 ワンボックスの中に、石和の乾いた声が響いた。


 ともあれ、車はひた走る。景色はいちおうの繁華街から昔は武家屋敷が建ち並んでいたらしい一軒あたりの敷地がやけに広い住宅街を抜け、やがてゆるやかなとうげ道へ。


 アップすると原生林、ダウンすると田んぼや用水池、たまにぽつんと人家という、おそらく日中に通りがかれば緑一色、夜間に通り過ぎれば黒一色だろう丘陵(きゅうりょう地帯を走り抜けていく。


(なるほど。都会に住む人間の心がああもささくれ立つのは、目に入るものからしてストレスを感じるものばかりだからなのかもしれないな。だとすれば、鉄筋コンクリート造りの校舎で勉強する子供達の心がすさむのも当然ということか)


 ゆるやかな道と優しい景色は見る者の気持ちもゆるやかにするらしい。見る者――祁答院はリラックスしながらそんな思考に耽り、いや、こんなことを考えている時点でまったくリラックスしていないじゃないかと脳内にツッコミをかまし、しかし私は学者であるからにして、いかなる時にも論理的な思考をしてしまうのは仕方ないのだと自己弁護までしてしまう。


 そんな祁答院が一人上手っぷりをいかんなく発揮していると、不意に視界がひらけた。


「うわ……」


 たちまち上がる有川の感嘆かんたん


 景色はこれまでとほぼ同じでありながら、明確に違う点があった。山に囲われた盆地いっぱいに拡がる茜色の田園は、立地条件のせいだろう、送電用の鉄塔やよく線路沿いの田んぼに立っている看板がまったく見当たらない。都会っ子な有川の心をわしづかみにしてしまうほどの素晴らしい場所だった。


 印象的なのは、背後に大きな池と雑木林を抱えて建つ鳥居か。ぱっと見では人家も見えないこの空間において、それはとても目立ち、アクセントを加えていた。


「スッゴイきれい~。あ、あれが例の神社じゃないですか?」


 来てよかったとはしゃぐ有川の気持ちはうなづき返す祁答院にも理解できる。


 ここは、かつてこの国にありふれた風景を今なお保っていた。


 日本人なら誰しもが心の奥に思い描く、なつかしい故郷。それを現実のものとし、初めて訪れた人間にすら強烈なノスタルジーを与える場所。


(たしかに絶景。少し怖いくらいに)


 まるで時の流れに取り残されたかのような土地。車を運転している祁答院ですら、ここへ入った一瞬は時間の概念を見失いかけた。



 ――いったい、今はいつの時代だっただろうと。



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