間章(2)
彼女は水底で夢を見ている。
それは、昔々で語られるべき物語。我々にとって三百年前の出来事だ。
そこは、彼女にとって見知らぬ場所。燭台からロウソクのわずかな光がもれる、ある寺院で繰り広げられた一幕だった――
「お待ち申し上げておりました」
須貝五郎左は客人を迎え、片ヒザをついていた。
相手が相手であるし、ここは屋内。平伏するのが妥当なのだが、あえてしないのは常在戦場を旨とする彼の矜持である。
「うむ……。使いの者より、上首尾であったと聞いておる。どうであった?」
もう一つの理由は、いかに上位の者であれ自分を粗末にあつかおうものならただではおかないという、脅し。事実、陣笠を目深にかぶって上座に立つ男の声は、威厳を保ちながらもかすかにふるえていた。
「造作もなきことにござりました」
「……して、証拠の品は?」
上座に立つ男のわずかな間は、五郎左の態度に対する不快感であろう。
「これに」
鼻を鳴らした五郎左は、脇に置いた大小をかかえて立ち上がった。剛腹とは名ばかりよと嘲ける内心を威圧の視線で押し隠しつつ歩み、陣笠の間近でふたたび片ヒザをつく。
(かような場に、礼儀もくそもあるまい。宮仕えも楽ではないわ)
これも五郎左は口にせず、大小を置いて立ち上がった。前を向いたまま後退し、また元の場所でヒザをつく。
五郎左の一連の動作がすべて終わってから、ようやく陣笠の脇に控える侍が動いた。大小を手に取り、そのうちの太刀を陣笠にわたすと、渡された陣笠は鞘からなかばほどを抜いて確かめていく。
「うむ……。たしかに、正宗。しかと受け取ったぞ。五郎左、大義であった」
やがて満足したのか、五郎左に顔を向けながら太刀を侍に返した。
「は……」
そのやりとりをさげすみの目でながめていた五郎左は、形ばかりにしか聞こえないねぎらいの言葉へ、やはり形ばかりに頭を下げる。
ただ、たとえその言葉に心がこもっていたとしても、五郎左の心の琴線をゆらすことはかなうまい。彼にとって、そんなものは一文の価値もないのだ。
価値があるのは報酬だけである。武士と主人のあいだに存在する関係は、鎌倉の昔よりご恩(報酬)と奉公(仕事)。武士道など徳川将軍家が学者に命じて作ったまやかしに過ぎないと考え、今なおつらぬく五郎左は、ある意味で真の武士であろう。
((
ゆえに、五郎左は続く言葉を待った。
が、何もない。どころか陣笠は、侍に顎で命じてこの場を立ち去ろうとする。
「お待ちくだされ」
彼らがそばを通り過ぎようとしたとき、依然としてヒザをついたままの五郎左は低い声を放った。
「お約束の件、いつになりましょうや?」
立ち止まった二人へ響く、殺意すれすれの恫喝。
「ひかえよ五郎左! 無礼であろう!」
侍が恐怖に耐えかねた犬のように吠える。それを陣笠は頼むに値せずと見たのだろう。迫力のみで侍を脇に控えさせ、おもむろに口を開いた。
「五郎左。そちにも分かろう。ただちに、という訳には参らぬ」
「それはむろん、承知のこと。なれど手前はただいまのところ、人目を忍ぶ隠者暮らし。いつまでも待てるほど、手前の首は長くござりませぬぞ」
「……できるだけ、急ごう」
「よろしくお頼み申し上げる。今ひとつ」
「申せ」
「このところ、懐がいささかさびしゅうござりまする。金子など、いくらか用立てていただきたい」
さらに場の温度を下げる五郎左は、意図的に身じろぎした。
それを抜き打ちの予備動作と理解した陣笠は気色ばみかけたが、彼にも悪党としての冷徹な計算がある。この場を穏便におさめるべく、侍をうながした。
舌打ちする侍の手より、何枚かの小判が乱暴に投げ出される。それを一瞥した五郎左は、
「足りませぬな。短刀の代金にもなりませぬ」
不快もあらわに吐き捨てた。陣笠を見る目は、もはや敵を見るそれとなんら遜色ない。
「……不足はあとで届けさせよう。代わりにおとなしくしておれ」
「……御意」
陣笠達は去る。足音が消えるまで動かずにいた五郎左はやがて立ち上がり、
「薄汚い御仁よ……。まあ、俺も人のことは言えぬが」
居合いで虚空に一撃を見舞う。つぶやきは、真の剣客が振るう剣の証明たる風勢、太刀風が吹きすさぶ伽藍へとかき消えていった。




