間章(1)
彼女は水底で夢を見ている。
それは昔々で語られるべき物語。ただ、彼女にとっては三年前の出来事だ。
まるで昨日のことのように思い出される情景は、突き抜けるような青空と生命を謳歌するセミたちの鳴き声に彩られていた――
――時は元禄十六年(西暦一七〇三年)。
昨年末に起こった忠臣蔵、四十七士達による吉良上野介邸討ち入りも記憶に新しいご時世。東北地方に位置する奥村の地でも、短い夏を迎えたある日のことだった。
日はすでに中天へと差し掛かり、なさけ容赦なく大地を照りつけている。ただ、彼――石和小兵太が歩くその場所は不思議とひんやりしていた。
苔むした石畳と、湿気を保つ粘土質な土のせいだろう。左右には無数に並ぶ石塔。花は持たず、線香と桶のみを携えた彼のわらじは力強く地面を蹴る。
やがて目的の人物を見つけた小兵太は、その前に佇んだ。
きれいに清掃しようと思っていたのだが、きのう四十九日の法要を済ませたばかりの父にほとんど汚れはなかった。二度、三度と、桶が空になるまでゆっくりと水を打ち、線香を供えて膝を折る。
そして静かに合掌した。目は瞑らない。冥福を祈るのは、旅より無事に戻ってからの話。侍たる小兵太がいま父に語りかけるべきは、報告と決意のみだ。しかし、
――はたして、自分になしえるか。
こみ上げる弱気の虫に、小兵太は肩を震わせた。できる、できないを論ずること事態が侍として怯懦のそしりを免れぬ。なさねばならないのだ。
小兵太は腰のものを抜き放ち、自分と父の間に掲げた。
澄明なる刀身は二尺四寸、反り四分。相州五郎正宗。
わずか五十石扶持の石和家には、分不相応――大名ですら望んでもそうそう手に入らぬこの差料は、石和の家に代々伝わる家宝。まさしく伝家の宝刀である。
持ち出す理由はただ一つ。
「見ていて下さい、父上。この正宗に誓い、必ずや、仇を……!」
一語一語、かみしめるように言い切った。武士に二言はない。言った以上、必ずやらねばならないのだ。これは己が一命より重い鉄の誓約だった。
小兵太は刀を鞘に戻し、立ち上がる。父と交わすべき言葉はこれ以上ないし、長々とここに留まるのもよくない。奮い立った気持ちがなえてしまう。なぜなら、
「小兵太様」
会いたくない女性に、見つかってしまうから。
目深に被り、片手で端をつまんだ笠の下。はじかれたように立ち止まった小兵太は、感情の爆発を真一文字に結んだ口でおさえつける。体に活を入れ直し、許嫁――伊織の横を通り過ぎようとした。ジャマしてくれるなと、願いながら。
「小兵太様」
願いはむなしく、伊織の行動は小兵太の予想を超えた。か細い、だがしっかりとした声で呼びかける彼女は、まなじりに力を込めて小兵太の前に立ちはだかる。
「伊織。みなまで言わずとも分かっていよう。そこをどきなさい」
目を合わせず、できる限り穏やかな声音で小兵太は諭した。
「………」
対し彼女は、無言で拒絶の意志を示す。
「どいて欲しい。仇討ちの旅は藩に許可されたのだ。もはや私には禄もなく、なさねば帰参もゆるされぬ身」
「伊織は、そのようなものがなくとも……」
禄。すなわち給料がなくてもよい。仇討ちの旅へ出る侍にその間の給料は支払われないのだ。それでもいいと言う伊織が、どれほど自分を慕ってくれているか。小兵太にとってこれ以上なくうれしい一言だった。
「そのようなものがなくとも! このままでは、石和の小せがれめは親の仇も討てぬ臆病者よと、城中の者から後ろ指を指されよう! そのような屈辱、耐えられぬ! 腹でも切った方がマシだ!」
だからこそ、小兵太は力の限り叫んだ。他ならぬ自分を叱咤するために。
「ですが! 仇の五郎左は!」
伊織も負けじと声を張り上げる。分かりきっていることを指摘され、小兵太はさらに激昂した。
「やる前から臆すなど、武士の恥よ!」
恥よ、恥よ。響き渡った声が反響して消え、墓地に蝉時雨が戻った頃、伊織は硬直していた口をようやく動かした。
「……父は申しました。小兵太様はもう戻らぬ。私の縁は他の者を探すと」
「……で、あろうな。それがいい。そうしなさい」
自分の気持ちとは正反対の一言は、感情を殺すことでするりと出た。少し冷たい言い方になってしまったが、むしろ好都合ととらえるべきだろう。小兵太は再び脇をすり抜けようとする。
「嫌です! 小兵太様、どうか私をお連れになって下さい。浪人暮らしでも構いませぬ。仇討ちなど忘れて」
彼をよく知る伊織が、その程度の嘘を見抜けないはずがなかった。胸元を掴んですがり付く彼女に、小兵太は真実を絶叫する。
「私とてどんなにそうしたいか! だが、この地へ置きざりにされる我が母はどうなる? 死ぬまで物笑いの種だ。夫は士道不覚悟、息子は女と逃げたとな。そのような親不孝が、私にできると思うか!?」
「………」
答えは沈黙と、静かに横へ振られる首。伊織とて分かってはいるのだ。もう一押しとばかりに小兵太は言葉を接いだ。
「分かったであろう。手を離しなさい」
「……嫌、です」
それでも伊織は踏み留まり、頑強に自分の意志を示す。
「っ! 御免!」
もはや議論の余地はない。心の中で手を合わせ、小兵太は伊織を突き飛ばす。手応えからして、転んだであろう。確認せず足早に立ち去る。
「小兵太様!」
その背に、伊織の声が響いた。
「お待ち申し上げております」
「……必ず戻る。この刀に誓って」
いったん足を止め、小兵太は柄を叩く。彼が後ろを振り向くことは、なかった――
彼女は水底で夢を見ている。
はたされなかった誓いに、涙しながら。
夏は夜。聞こえるのはスズムシの音色と、山犬の遠吠え。景色は見慣れぬいずこかの山中へ飛ぶ――
「く……」
小兵太は仇敵を前にし、正眼に構えた正宗の剣先を細かく震わせていた。
彼とてむろん道場に通っていたし、腕にも多少とは言わせぬほどの覚えがある。だが、戦国の世など遠く百年の昔。武士だの侍だのといくら口でさえずってみても、人を斬った経験などないのだ。それは今、握る刀へ如実に表れていた。
比して、
「ふ……」
対峙する着流しの男――編み笠を目深に被った五郎左に動揺の色は見えない。剣を持った右手をだらりと垂らす放胆な構えは、音に聞こえし柳生新陰流、無形の位だろう。
五郎左は同流派の印可を受け、当節としては珍しい剣一筋で仕官の道を切り開いた剛の者。人に言えぬ因業の一つや二つ、長きにわたる浪人暮らしでとうに経験している。いまだ訪れぬ二人の決着は、しかしこの時点で誰の目にも明らかだった。
この差を埋めるものがあるとするならば、相討ちしかない。
――それだけは、できない。
初めて立つ殺し合いの舞台。ゆで上がった頭で小兵太は考える。帰ると約束した以上、それだけはできないのだ。
――ならば、なんとする。
答えが出るわけもない。代わりに小兵太へのしかかるのは、刹那を刻むごとにいや増す死の重圧。そもそも敵うはずなどなかった。いや、ここまでにらみ合い、生を保っただけでも大したものではないか。
――さあ、楽になれ。
忍び寄る甘いささやき。小兵太は奥歯をかみしめ懸命に堪えしのぐ。が、息は上がり、踏みしめる地面はまるで荒海のように揺れていた。
じり、と。
不意に小兵太の前足が動く。五郎左との距離を詰めるためなのか、この場が平坦であることを確かめるためなのか、自分でも分からないまま、動いた。
「ふ……」
月明かりにそこだけが覗く五郎左の口が、薄い笑みを形作る。「そうでなくてはな」と言わんばかりだった。
――呑まれてはならぬ。いまいちど体勢を立て直せ。いや、彼奴がそんなスキを許してくれるか。なら、一か八かだ。
小兵太の構えがゆっくりと変わっていく。上段の構えと八相の構えの中間のような、剣の柄を顔の右横で支えて刀身をほぼ垂直に立てる、独特の構えに。
「ほう?」
途中でその意図を察した五郎左の口から、楽しげな声がもれ出る。
「小僧、よもやその剣を習っていたわけではあるまい。付け焼き刃であろう。そんな剣で、この俺に勝てると思うたか?」
言葉とは裏腹に、五郎左の声は弾んだままだった。
それもそのはず。小兵太の構えは、遠く薩摩(鹿児島県)に伝わる示現流〝トンボの構え〟。幕末には剽悍無比の薩摩志士達と共に天下無双の剛剣と讃えられ、先手必勝、一撃必殺を旨とし、防御の型は存在しないという突撃剣だ。構えは、初太刀にすべてをかけた小兵太の意志表示に他ならなかった。
「それに、肩と手に力が入りすぎておる。かような体たらくで、この俺は斬れぬわ」
絶死の気炎を前にして、五郎左はなお相手の悪所を指摘できるほどの冷静を保つ。
その自信の裏には、
――ずどん、と。
月夜の峠に響き渡る銃撃音があった。
「な……? この、卑怯者、めが……!」
不吉な鳴き声があたりを覆う。カラスが一斉に飛び立っていく中、小兵太は胸に穿たれた衝撃に体をよろめかせた。
「勝つためになんでもやる。それが兵法。のこのこ飛び込んできた貴様が、阿呆なだけよ」
これが真実とばかりに五郎左はせせら笑う。小兵太の耳に、その哄笑は山びこのように聞こえた。痛みはなく、嘔吐感のみ。視野が急速に狭まっていく。
ならば、せめて。
「キ、エエエエエエエエエエェ!」
肺に残された最後の呼気を、小兵太は振りしぼる。もう無駄な力が入らない体は、五郎左の想像を上回る速さで正宗を振り下ろした。
だが、想いは届くことなく。
月下に瞬いた刀身もまた、届くことはなかった――
伊織は水底で夢を見ている。
嘘とも真ともつかぬ事実に身を震わせながら。
それは池へ何かが投げ込まれた水音で終わりを告げた。
反応した彼女は無意識に手を伸ばし、それを掴む。
掴むと、それは人の血で汚れていた。
が、彼女は感じたのだ。その奥底で「帰りたい」と慟哭する、小兵太の心を。
これは彼の欠片。約束はいまだに生きていた。侍たる彼が誓いを違えるはずもなかったのだ。
ならば、彼は必ず帰るだろう。
ならば、出迎えねばならない。誰よりも声をかけ、抱きしめるために。
伊織はぼんやりした意識のまま、ゆっくりと登っていく。やがて湖上へ姿を現した。
夜。月は薄雲をまとい、虫達は季節をあの日と同じ夏だと教えてくれている。
林には逃げるように走り去る人影があった。
小兵太とどこか似た印象のある男。けど、彼ではない。茫洋と見送った伊織は水面を歩き、地面に降り立つ。ここに――
――事件は発生し、龍神は現代へと蘇った。




