鼻歌は、消えなかった
ケンジは、はっきりと分かっていた。
これは、あの頃に作った最初の曲だ。
何十年も前、放課後の帰り道で、
ギターも持たず、紙にも書かず、
ただ歩きながら口の中で転がしていた旋律。
歌詞も、覚えている。
無理に思い出したわけじゃない。
思い出そうとした瞬間には、もう並んでいた。
――その時までには
――俺も真面目に生きてるぜ
――今度逢う時は
――それは、二人のはじまり
――その時までには
――Oh Yeah
若い言葉だ。
今なら、少し気恥ずかしい。
それでも、否定する気にはなれなかった。
これは確かに、あの時の自分が書いた言葉だった。
ケンジは、ベッドの上で小さく息を吐く。
一曲目だけじゃない。
二曲目も、三曲目も、
メロディも、歌詞も、構成も、
驚くほど鮮明に覚えている。
理由は、簡単だった。
忘れる暇が、なかったのだ。
通勤の道で。
風呂の中で。
眠れない夜に。
誰にも聴かせず、
録音もせず、
評価もされず。
それでも、何十年も、
ケンジはその曲たちを鼻歌で歌ってきた。
上手くなる必要もなかった。
完成させる必要もなかった。
ただ、消さなかった。
それだけのことなのに、
旋律は形を保ったまま、
いまも胸の奥に残っている。
「……そりゃ、覚えてるわけだ」
独り言が、静かな部屋に落ちる。
これは才能の話じゃない。
努力とも、少し違う。
生きている間、ずっと一緒にあったものは、
そう簡単に失われないのだ。
ケンジは、スマートフォンを見つめる。
この曲たちを、
ただの鼻歌のまま終わらせるか。
それとも――。
答えは、まだ出ていない。
だが、問いは、もう逃げ場を失っていた。




