旋律を口ずさむ瞬間
夜中に一度、目が覚めた。
理由は分からない。喉が渇いたわけでも、悪い夢を見たわけでもない。
部屋は静かで、冷蔵庫の低い駆動音だけが聞こえている。
この音も、何年も前から変わらない。
ケンジはベッドの上で仰向けになり、目を閉じた。
眠ろうとすると、かえって意識が冴える。
そんな夜が、最近増えていた。
そのとき、昼間に耳にした音が、ふと蘇った。
職場で流れていた、あのバンドの曲。
正確な旋律ではない。ただの断片だ。
ギターの音が、少しだけ荒かった。
今どきの音より、輪郭が角ばっていて、
懐かしいという言葉が浮かぶ前の音だった。
だが、それは途中から、別の音にすり替わっていた。
いつの間にか、自分の中に残っていた旋律と、
境目が分からなくなっていた。
次の瞬間、ケンジの口が、勝手に動いた。
「……んー」
声にならない音。
誰に聴かせるつもりもない、弱い音量。
自分でも驚いて、口を閉じる。
だが、止まらなかった。
「……ん、んー、ん、ん」
音程が合っているかどうかも分からない。
けれど、その流れだけは、確かに覚えている。
胸の奥が、じんわりと熱を持つ。
懐かしさではない。
後悔とも、少し違う。
「……ああ」
思わず、声が漏れた。
だが、この旋律は違った。
置き去りにされただけで、
どこにも行っていなかった。
それを、もう一度、
自分の中だけで消してしまうのは、
少しだけ、惜しいと思ってしまった。
忘れていたはずの旋律。
何十年も触れていなかったはずのものが、
いま、はっきりと形を保ったまま、そこにあった。
ケンジは、ゆっくりと上半身を起こす。
枕元の時計を見る。午前二時を少し回っている。
もう一度、今度は意識して口ずさむ。
「……んー、んー……」
途中で止める。
続きが分からないわけではない。
怖いのだ。
これを最後までなぞってしまえば、
「終わったこと」ではなくなってしまう。
それでも、ケンジは息を吸い、続きをなぞった。
短い。
四小節にも満たない。
それなのに、不思議と完結している。
「……まだ、覚えてるのか」
誰に向けたわけでもない独り言が、
暗い部屋に落ちた。
記憶は、消えるものだと思っていた。
使わなければ、風化していくものだと。
だが、この旋律は違った。
置き去りにされただけで、
どこにも行っていなかった。
夜が、静かに次の段階へ進み始めていた。




