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空虚な日常

目覚ましが鳴る三十秒前に、ケンジは目を覚ました。

 若い頃なら「もう少し寝かせてくれ」と思ったはずだが、今は違う。鳴ると分かっている音を待つのが、無駄に感じられるだけだった。


 天井の染みを見ながら、今日が何曜日かを思い出す。

 月曜か、火曜か。そのどちらでも、大きな違いはない。


 決まった時間に起き、決まった電車に乗り、決まった顔ぶれとすれ違う。

 失敗もしないが、成功もしない。

 それが、五十代という年齢に与えられた「安定」なのだと、ケンジは理解していた。


 洗面所の鏡に映る自分は、思ったより老けてはいない。

 だが、若くもない。


 「まあ、こんなもんだろ」


 そう言って歯を磨く。期待も失望も伴わない、便利な言葉だった。


 通勤電車の中で、スマートフォンを開く。

 ニュース、天気、どうでもいい芸能人の話題。

 画面をスクロールする指は、感情と切り離されている。


 学生時代、将来について語り合った友人たちの顔が、ふと浮かぶ。

 ミュージシャンになりたいと言っていた者。

 世界を変えると言っていた者。

 誰もが、何者かになるつもりでいた。


 ケンジも、その一人だった。


 高校生の頃、バンドブームの真っ只中で、

 楽譜も読めず、コードも分からない。

 それでも、授業の合間や帰り道で、鼻歌だけは作っていた。


 ――もし、あの時。


 考えかけて、やめる。

 「もし」は、この年代にとって毒だ。

 飲めば確実に効くが、治療にはならない。


 会社に着くと、いつもの席に座り、パソコンを立ち上げる。

 メールを処理し、数字を確認し、上司と無難な会話を交わす。

 「お疲れさまです」という言葉が、何度も行き交う。


 疲れていないわけではない。

 だが、この疲れは、努力の結果ではなかった。


 昼休み、同僚がスマートフォンで動画を見て笑っている。

 若いバンドの演奏らしい。

 歪んだギターの音が、ほんの一瞬、耳に引っかかる。


 九〇年代初頭。

 あの頃、街にはギターの音が溢れていた。

 上手い下手より、勢いと叫びが正義だった時代。


 ケンジの胸の奥で、何かが小さく鳴った気がした。

 だが、それが何なのかを確かめる前に、午後の業務が始まる。


 帰宅は、予定通りの時間。

 特別なことは何も起きていない。

 それなのに、部屋のドアを閉めた瞬間、強い静けさに包まれる。


 テレビをつけるが、音だけが流れる。

 ソファに座り、天井を見る。


 ――このまま、何も起こらずに終わるのか。


 そう思っても、焦りはない。

 ただ、空気が少し薄い。


 ケンジは小さく息を吸い、

 気づかないふりをしていた“空虚”を、ようやく自覚する。


 その夜、眠りに落ちる直前、

 昔作った、たった数小節の旋律が、

 なぜか、はっきりと頭の中で鳴っていた。

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