あと、ちょっと
ドアを開ける。
「ただいま」
キッチンから返事。
「おかえり」
包丁の音。
まな板を叩くリズム。
「加藤さんと?」
「うん」
上着を脱ぐ。
「電器屋」
「なにそれ」
少し笑っている。
「掃除機買ってた」
「いい歳したおっさん二人で何やってんのよ」
「まあ……昔からあんな感じだし」
少し間。
「なあ」
妻が振り向かないまま言う。
「うん」
「カトさんってさ、ずっと一人なんだよな」
「そうなんだ」
「六十だよ」
鍋の蓋が鳴る。
「だから?」
あっさり。
「……いや」
味噌の匂い。
「別に、本人が困ってないならいいんじゃないの」
「まあ、そうだけど」
「結婚したから幸せとも限んないし」
「……うん」
「その歳で変なのに捕まっても嫌でしょ」
現実的すぎる。
何も言えなくなる。
奥の部屋から泣き声。
「あ、ごめん手離せない」
「お願い」
「うん」
寝室へ向かう。
小さな体を抱き上げる。
軽い。
温かい。
背中を叩きながら、
さっきの言葉が頭に残っている。
本人が困ってないなら。
それでも。
なぜか、胸の奥がざわついている。
テーブルに並んだ皿を、なんとなく順番に口に運ぶ。
味があまり分からない。
「聞いてる?」
妻の声で顔を上げる。
「うん」
何の話だったか思い出せない。
先に風呂入ってくるね、と妻。
脱衣所のドアが閉まる。
しばらくして、子どもの笑い声。
テレビをつける。
音だけ流れている。
「上げるよー」
呼ばれて、タオルを持っていく。
小さな体を受け取る。
軽い。
拭いて、オムツをはかせて、パジャマを着せる。
いつもの手順。
「ありがと」
妻が言う。
「先寝るね」
寝室のドアが閉まる。
一人になる。
リビングの電気だけが点いている。
しばらく座ったまま、何もしていない。
時計の針の音だけが聞こえる。
風呂に入る。
湯に沈む。
換気扇の低い音。
目を閉じる。
「大丈夫?」
ドアの向こうから妻の声。
「……うん」
時計を見る。
思ったより時間が経っていた。
月曜。
出社。
「おはよー、土曜助かったわ」
振り返ると加藤。
「おはようございます。全然」
肩をトンと叩かれる。
喫煙所。
「最近呼びすぎっすよ、俺そんな暇じゃないっす」
「いいじゃんいいじゃん」
煙を吐きながら笑う。
「暇なんだから。付き合ってよ」
少し間。
「あとちょっとなんだから」
「ムラ、なっ」
返事が出ない。
視線を逸らす。
扉が開く。
「加藤さん、部長が呼んでますよ」
「おー、すぐ行く」
煙草を消す。
背中を向ける。
そのまま中へ入っていく。
しばらく、その場に立ったまま煙だけを見ていた。




