あと半年
肩をトンと叩かれる。
振り返る。
すぐ後ろの席の加藤だった。
もう歩き出している。
タンブラーを掴んで立ち上がる。
そのまま後を追う。
喫煙所のドアを開けると、外の冷たい空気が流れ込んできた。
バルコニーのコンクリートが白く乾いている。
風が抜ける。
思ったより寒い。
加藤はもう煙草に火をつけている。
いつもの壁際。
「寒くなってきたな」
「ですね、カトさん」
タンブラーのコーヒーを一口飲む。
湯気はすぐに消えた。
「吸わねえの?」
「はい」
「まだ我慢できんの、すげえな」
「まあ」
灰が足元に落ちる。
「やめてどんくらいだっけ」
「……妊娠してからなんで」
少し考える。
「二年とか、そのくらいです」
「そんな経つ?」
「早いっすよね」
加藤が小さく笑う。
「俺は無理だな」
煙は風に流れて、すぐ薄くなる。
しばらく黙ったまま立っている。
指先が少しかじかむ。
それでも、どちらも先に戻ろうとは言わない。
「あと半年か」
加藤が言う。
「……ですね」
「定年」
少し間。
「さっきさ」
「はい」
「うちの幹事に捕まって」
「送別会、あの週でいいですかーって」
「あー」
「もうそんな話してんのかよって感じ」
煙を吐く。
「めんどくせえ」
「じゃあ、別の日、飲みません?」
「なんでだよ」
「なんとなく」
加藤は少しだけ笑った。
「……まあ、そうだな」
先にドアを押して中へ戻る。
席に戻る。
「村井くん、内線入ってたよ」
メモが置かれている。
キーボードの音と電話の声が混ざっている。
少し離れた席から声が飛ぶ。
「加藤さん、引き継ぎあったら早めにお願いしますねー」
「オッケーオッケー」
軽い返事。
いつもと同じ調子。
モニターの端に並んだタスクを一つずつ消していく。
定時のチャイム。
加藤が立ち上がる。
「もう帰るんすか?カトさん」
「やることねえのよ、最近」
鞄を肩にかける。
「ムラも早く帰れよー、お先」
「お疲れ様です」
背中が人の間に紛れていく。
そのまま見えなくなった。
気づけば、フロアに残っているのは自分と数人だけだった。
家に着くと、リビングの電気だけが点いている。
「遅かったね。お疲れ」
寝室のドアが少し開いて、妻が顔を出す。
「ご飯、温めて食べて。先寝るね」
「うん」
小さな足音。
ドアが閉まる。
風呂に湯を張る。
肩まで沈む。
換気扇の低い音。
目を閉じる。
「あと半年か」
「ちょっと、大丈夫!?」
妻の声で目を開ける。
湯がぬるい。
時計を見ると、針がだいぶ進んでいた。
「ごめん、寝てた」
「溺れてるかと思った」
キッチンでご飯を温める。
電子レンジの回る音だけが続く。
テレビはつけない。
湯気がゆっくり消えていく。




