八話 それは突然として
昼休みのチャイムが鳴り、教室のざわめきがゆっくりと広がっていく。
その中で、タケルは机に突っ伏したままぼやいた。
「……なぁ、柚希。颯茜、今日も来てねぇよな?」
柚希は弁当箱を開けながら、少しだけ眉をひそめた。
「……昨日も休んでたよな……どうしたんだろ」
「アイツ、風邪とかで休むタイプじゃねぇしなぁ。てか、連絡もねぇし」
タケルは頬杖をつきながら、颯茜の席をちらりと見る。
そこだけ、ぽつんと空いていた。
いつもなら──
颯茜が椅子を後ろに倒しながら寝ているか、タケルとくだらない話をしているか、柚希に怒られているか。
その全部が、今日はない。
「……なんか、変だよな」
柚希の声は小さかった。
「変って?」
「昨日の放課後……颯茜、なんか……怖い顔してた」
「怖い顔?」
「嗚呼、怒ってるとか、そんなんじゃなくて……」
柚希は言葉を探すように視線を落とした。
「……何かを、失ったみたいな顔」
タケルは一瞬だけ黙り込んだ。
「……颯茜が、そんな顔を?」
「そ、声かけようとしたけど……声かけたら、いけないような気がしてな」
柚希は胸の前で手を握りしめた。
「颯茜、何かあったのかな……」
タケルは大きく息を吐き、椅子の背にもたれかかった。
「……アイツ、昔からそうだろ、なんか抱えてても、言わねぇし。勝手に背負って、勝手に突っ走るタイプ」
「でも……今回は違うよ」
柚希の声は震えていた。
「昨日の颯茜、目が全然違った。あんな目……見たことない」
「……どんな目だったんだよ?」
柚希はゆっくりと答えた。
「……誰かを探してるみたいな目……遠くに行く感じの」
タケルは言葉を失った。
教室のざわめきが遠くなる。
颯茜の空いた席が、やけに重く見えた。
「……颯茜……何してんだよ、お前……!」
タケルの呟きは、誰にも届かないまま消えていった。拳を握って、誰もいない席を見続ける
■■■
薄いカーテン越しに光が差し込む静かな部屋で、颯茜はぼんやりと天井を見ていた。
扉がそっとノックされる。
「……颯茜さん、入ってもいいですか?」
控えめな声。
カランコエだった。
「どうぞ」
颯茜が起き上がると、カランコエは小さな包みを抱えて入ってきた。
「これ……差し入れです。マーガレット様が、栄養のあるものをって……」
「ありがとな」
颯茜は受け取るが、どこか上の空だった。
カランコエはその横顔を見つめ、胸がざわつく。
「……颯茜さん」
「ん?」
「……痛み、まだありますか?」
「いや、もう大丈夫だよ」
そう言う颯茜の声はどこか遠い。
カランコエは言葉を飲み込んだ。本当は聞きたいことがあった。
(……昨日の夜、うなされてた……)
マーガレットが心配そうに、颯茜の額を拭いていた姿を思い出す。
でも、颯茜の表情を見た瞬間、どうしても言えなかった。
「……無理、しないでくださいね」
「しないよ」
颯茜は笑った。けれど、その笑顔は形だけだった。カランコエは気づいてしまう。
(……違う、颯茜さん、前と……違う)
胸の奥がきゅっと痛んだ。
廊下に出ると、カランコエをマーガレットが待っていた。
「どうでしたか?」
「……元気そうに見えるんですけど……なんか……違う気がして」
マーガレットは少しだけ目を伏せた。
「貴方が言うなら、そうなのでしょう」
少しのため息をついて、ゆっくりと瞼を開いて前に立つカランコエを悠然と見据える。
「でも、本人が話す気になるまで、私たちは待つしかありません」
カランコエは唇を噛んだ。
(……待つしか、ないの……?)
初任務から三日が経とうとしていた。
あの後、本部に帰るとサクラから案内された部屋に入ると、そこは療養のための療養室だったらしい。
大したことがないと言うと、そんな状態の高校生を働かせたら僕が捕まってしまうよ、アハハハハハと遠い目で見られてしまった。カランコエに話を聞くと、昔同じことがあって問題になったとか言う話を聞いた。
そのため、大変遺憾だが大人しく療養しているのだ。
「……いつになったら、療養は終わるんだ?」
「あと三日です。勝手に動き回らないでくださいね?」
淡々と返しながらも、少女は颯茜の包帯を丁寧に巻き直していた。
銀髪の長髪を後ろでまとめ、白衣の袖をまくって手際よく作業する姿はどう見ても“しっかり者のお姉さん”そのものだ。
「なー、マーガリン」
「……マーガレットです。あなた、わざと間違えてますよね?」
「いや?そんなことねぇけど?」
「はいはい、もういいです……」
呆れながらも、マーガレットは器用に包帯を結び終える。
「……本当に、無事でよかったですよ。あなた、無茶ばっかりするんですから」
その声は優しい。けれど、どこか“苦労人の疲れ”が滲んでいた。
「暇なんだよ」
「知りませんよ、私だってあなたのせいで寝不足なんですから」
「え、寝てなかったのか?」
「当たり前でしょう。あなたが夜中にうなされるから、何度も起きたんです」
「……悪ぃ」
「謝るくらいなら、次から気をつけてください」
マーガレットはため息をつきながらも、颯茜の髪を軽く整えてやる。
「ほら、前髪ぐちゃぐちゃですよ……まったく、手がかかるんですから」
姉が居たらこうだったのか?と思いながら颯茜は少しだけ目をそらした。
(……律のこと、思い出したのバレてんのかな)
そんな時──
「颯茜ーっ!!」
勢いよく扉が開き、飛鷹が飛び込んできた。
「大丈夫かー!!」
「うるせぇし、いてぇ……」
飛鷹が颯茜の肩をバシバシ叩くと、マーガレットが眉をひそめた。
「飛鷹さん、怪我人を叩かないでください。あなたも毎回毎回……本当に手がかかるんですから」
「えっ、ワイも怒られるん!?」
「当然です」
そこへカランコエが控えめに顔を出す。
「颯茜さん……本当に、もう大丈夫なんですか……?」
「大丈夫だよ。心配かけたな」
カランコエがほっと息をつく横で、飛鷹が颯茜の腕を掴んだ。
「よし!ほんなら武器屋行こや!!」
「……は?」
「療養終わった記念や!新しい武器見に行くで!」
「まだ終わってねぇよ」
「細かいことはええねん!」
マーガレットがすかさず割って入る。
「ダメです。まだ外出許可は──」
「細かいことはええやん!」
「良くない!」
マーガレットは颯茜をじっと見つめ、しばらくしてからため息をついた。
「……分かりました。でも、絶対に無茶はしないでください」
「……ああ、悪い」
「謝るくらいなら、ちゃんと帰ってきてくださいね?」
マーガレットは微笑みながらも、心配を顔に出す。
三人を見て、はぁとため息も出てしまう。
「嬢ちゃんも来るやろ!」
「えっ……わ、私も……?」
「当たり前や!三人で行くんが楽しいんや!」
カランコエは戸惑いながらも頷く。
「……はい。行きます」
「カランコエ、貴方がいる以上、何も無いとは思いますが、くれぐれも注意してくださいね」
「は、はい!マーガレット様!」
療養室を出た颯茜は、まだ少しぎこちない足取りで廊下を歩いていた。
腕の痛みは引いたが、身体の奥に残る重さは消えない。
「こっちや!早よせんと置いてくでー!」
飛鷹は元気よく手を振りながら、廊下の先へ駆けていく。
「病人を走らせないでください!」
マーガレットの怒声が響き、飛鷹は「やべっ」と肩をすくめて速度を落とした。
「……ほんと、あいつは……」
颯茜は苦笑しながら歩き出す。
その横でカランコエが心配そうに覗き込んだ。
「颯茜さん、本当に歩けますか……?痛かったら言ってくださいね?」
「平気だよ。ほら、ちゃんと歩けてるだろ」
颯茜は軽く足踏みして見せる。
その動きはぎこちないが、無理をしているようには見えない。
「……元気になって、良かったです」
その違和感を胸にしまい込み、彼女はそっと歩調を合わせた。
「颯茜ー!嬢ちゃん!はよ来いって!」
飛鷹が廊下の角から顔を出し、大きく手を振る。
「お前が早すぎんだよ……」
颯茜はため息をつきながらも、どこか楽しそうに歩みを早めた。
「ほんま、武器屋はええでぇ!店長は怖いけど腕は確かやし、ワイのことは嫌いやけど!」
「嫌われてんのかよ」
「せや!初対面で“お前の握力は論外”って言われた!」
「……まぁ、事実だろ」
「颯茜!?今なんて言った!?」
飛鷹が抗議するように肩を掴むが、颯茜は軽く笑って振り払った。
「冗談だよ」
「冗談に聞こえへんのやけど!」
カランコエはそんな二人を見て、小さく微笑んだ。
颯茜の横顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと痛む。
(……私の、勘違い……だったかな)
颯茜は前を見据えたまま、どこか“別の場所”を見ているようだった。
「ほら、外や!」
飛鷹が勢いよく扉を開けると、冷たい風が三人の頬を撫でた。
「じゃあ、誰が一番最初に辿り着けるか勝負や!先に行かせてもらうで!」
「っておい、置いてくなよ!?」
飛鷹が駆け出し、颯茜とカランコエが慌てて追いかける。
そんな三人が店の前に辿り着いた時、ガララッ!勢いよく扉が開いた。
「うるっさいわねぇアンタら!店の前で騒ぐんじゃないよ!」
低めのハスキーボイス。
腕まくりした作業服。
腰に工具。
黒髪を後ろでざっくり結んだ、職人気質というのをそのまま人間にしたような女性が立っていた。
武器工房の店長──柏木 椿
「つ、椿姐さん……!今日もお綺麗で……!」
「お世辞はいいから財布出しな、飛鷹。どうせ今日もロクなもん買わないんだろ?」
「なんで分かるんや!?」
「アンタの顔に“金ないです”って書いてあるのよ」
椿は飛鷹の頭をわしっと掴んで、ぐりぐりと押しつける。
「いでででででっ!?姐さん!?」
「うるさい!」
その横で、颯茜とカランコエが立ち尽くしていた。
椿は二人に気づくと、ぱっと表情を変えた。
「お、あんたらは初めてだね……って、そっちの兄ちゃん、顔色悪いじゃないか」
椿は颯茜の前にずいっと立つ。
「怪我人を連れ回すんじゃないよ、飛鷹。あんた、ほんとにバカだねぇ」
「えっ、ワイ悪いん!?」
「当たり前だろ!」
椿は颯茜の腕を軽く掴み、怪我の具合を一瞬で見抜く。
「……まだ痛むだろ。無理すんな」
その声は、さっきまで飛鷹に向けていた怒鳴り声とは違い、驚くほど柔らかかった。
颯茜は少しだけ目を瞬かせる。
「……大丈夫だよ。もう動ける」
「強がり言うんじゃないよ。あたしは武器職人だ。怪我人の動きくらい見りゃ分かる」
椿はため息をつき、颯茜の頭をぽんと軽く叩いた。
「まったく……若いのは無茶ばっかりだねぇ」
カランコエはその光景を見て、思わず小さく笑った。
(……この人、優しい……)
椿は腰に手を当て、三人を店の中へと招き入れる。
「さ、入りな。武器見に来たんだろ?あたしが最高の一本、選んでやるよ」
その言葉には職人としての誇りが滲んでいた。
工房の奥は、炉の赤い光が揺れていた。
椿は棚に並んだ武器をざっと見渡し、颯茜の方へ振り返る。
「で、兄ちゃん、あんた、どんな戦い方してんだい?」
「……どんな、って言われても」
「姐さん、颯茜はな、こう、バッ!って行ってガッ!って──」
「説明が雑すぎんだよお前は」
飛鷹が叫ぶと、椿は指で額を弾いた。
「黙ってな、飛鷹。あんたの説明は勢いしか伝わらないんだよ」
「勢いは大事やろ!」
「武器は勢いだけじゃ扱えないの」
飛鷹が悔しそうに唸る横で、椿は颯茜の手を軽く持ち上げた。
「あんた、力任せに振るうより、狙って刺す方が得意だよ」
椿は棚から一本の短剣を取り出す。
黒い鞘に、無駄のない造り。
「こういう軽い得物の方が、あんたには合う」
「姐さん、なんでそんな分かるん……?」
「職人だからだよ」
椿は当然のように言い放つ。
「武器ってのはね、持つ人間の癖が全部出るんだよ。歩き方、指の動き、目線の置き方……あんたらは気づかなくても、武器は正直さ」
颯茜は短剣を受け取り、ゆっくりと鞘を引いた。
刃が、静かに光る。
「……軽い」
「だろ?あんたみたいに“迷いを切り捨てる”タイプには、こういうのが一番しっくり来る」
「迷い……?」
颯茜が眉を寄せると、椿は少しだけ目を細めた。
「アンタの目は、何かを捨てた人間の目だ」
「……」
カランコエが不安そうに颯茜を見る。
「姐さん、それって……」
「悪い意味じゃないさ。ただ──」
椿は颯茜の手にある短剣を指で軽く叩いた。
「“重い武器”は、迷いがあると振れない。
“軽い武器”は、迷いがあると当たらない。
どっちにしても、心がブレてる奴には扱えない」
「じゃあ、颯茜は……?」
「今のあんたは軽い方だね。狙いが細い……まるで、何か一つだけを見てるみたいだ」
颯茜の指が、わずかに震えた。
(……律)
胸の奥で、何かが軋む。
「姐さん、颯茜を追い詰めるなや!」
「追い詰めてないよ。事実を言ってるだけだよ」
「事実が一番刺さるんや!!」
椿は飛鷹を軽くあしらいながら、颯茜の目をまっすぐ見た。
「その刃は“覚悟した人間”じゃないと扱えない……あんた、本当に使う覚悟はあるのかい?」
颯茜は短剣を握りしめ、静かに答えた。
「……あるよ」
その声は、炉の音よりも静かで刃の光よりも冷たかった。
炉の音だけが響く工房の奥で、椿は短剣を磨きながら、ふっと遠くを見るような目をした。
「アンタみたいな目をしたガキが、昔いたよ」
颯茜の手が止まる。
椿は気づかないふりをして、淡々と布を動かし続けた。
「そいつもさ、細い刃ばっかり選んでね」
「……」
颯茜の喉が、かすかに鳴った。
椿は続ける。
「そいつ、馬鹿でさ。自分一人で全部抱え込んで、勝手に突っ走って、勝手に傷だらけになって……」
椿は短剣を置き、颯茜の方を見ずに言った。
「……最後は、戻ってこなかった」
颯茜の指が震えた。
椿は、颯茜の顔を見ないまま、話続けた。
「死んじゃいない。ただ、笑った顔をもう五年は見てない」
颯茜は息を呑む。
(…………ッ)
胸の奥が、痛いほど軋む。
椿はようやく颯茜の方を向いた。
「兄ちゃん。あんたの目、そいつにそっくりなんだよ」
「……」
「だから言ってんだ。同じ道、行くんじゃないよ」
颯茜は視線を落とし、握った短剣を強く握りしめた。
「……そいつは、どうして戻らなかったんだ」
椿は少しだけ笑った。
悲しみを隠すような、苦い笑いだった。
「さぁね、誰かを守るためとか、何かを取り返すためとか……そんな格好いい理由じゃなかったと思うよ」
「……?」
「ただのガキの意地さ。自分だけが背負わなきゃいけないって思い込んだ、どうしようもない馬鹿の意地」
颯茜の胸が締めつけられる。
椿は静かに言った。
「兄ちゃん。あんたが今握ってるその刃、そいつが選んだのと、同じ種類だよ」
颯茜は目を見開いた。
「……なんで」
「似てるからさ。歩き方も、目の奥の影も、“誰かを探してる”みたいな顔も」
椿は颯茜の肩に手を置いた。
「兄ちゃん。そいつみたいに、勝手に消えるなよ」
颯茜は答えられなかった。
椿は短剣を磨く手を止めず、ちらりと颯茜を横目で見た。
「さっきの“迷い”の話、気にしてるだろ」
颯茜は返事をしなかった。
代わりに、手の中の短剣を見つめる。
椿は磨いていた布を置き、ゆっくりと颯茜の前に立った。
「無理に話せとは言わないよ。あたしは職人であって、カウンセラーじゃないからね」
「……」
「でもね、兄ちゃん。武器ってのは“持つ人間の心”をよく映すんだ」
椿は颯茜の手元を指さす。
颯茜の指が、わずかに震えた。
「……そんなわけないだろ」
「そうかい?」
椿は軽く笑った。
けれど、その目は笑っていなかった。
「兄ちゃん、誰かのために戦う奴の目じゃないよ、今のあんた」
「……」
「何かを取り返しに行く奴の目だ」
颯茜は息を呑んだ。
「……俺は」
颯茜は言いかけて、言葉を飲み込む。
椿は無理に続きを求めなかった。ただ、静かに言う。
「あんたが何を抱えてるか知らないけど──」
椿は颯茜の肩に手を置いた。
「一人で背負うなって言えるほど、あたしは優しくないよ」
「……」
「でも、一人で死ぬなくらいは言える」
颯茜は目を伏せた。
炉の音だけが、静かに響く。
「……椿は、なんでそんな……」
「簡単さ」
椿は肩をすくめた。
「そういう目をした奴を、何人も見てきたからだよ。そして──何人も失くした」
颯茜は言葉を失った。
椿は短剣を指で軽く叩く。
「兄ちゃん、その刃は“覚悟した人間”じゃないと扱えない、でも」
椿は少しだけ優しく笑った。
「覚悟ってのは、死ぬ覚悟じゃないよ、生きて帰る覚悟のことだ」
颯茜はゆっくりと顔を上げた。
椿の目は、驚くほどまっすぐだった。
「兄ちゃん。あんたは、どっちの覚悟でその刃を握ってる?」
颯茜は答えられなかった。
その沈黙を、椿は責めなかった。
「……答えは急がなくていいさ、武器は逃げない」
椿は背を向け、炉の方へ歩き出す。
「ただ、あんたが戻る場所くらいには、なっといてやるよ」
その言葉は、怒鳴り声よりも、刃の光よりも、ずっと温かかった。
椿は炉の火を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……迷って、泣いて、転んで……散々だと思う時あるだろ?」
颯茜はただ、椿の方を見つめていた。
「けどね──」
椿は布を置き、指先で刃の背を軽く叩いた。
「泣いた数だけ、人は強くなるんだよ」
その声は、怒鳴り声よりも静かで、どこか優しかった。
「有名な話を知ってるかい?」
椿は炉の火を見ながら続ける。
「画家ってのはね、今日描いた絵より、昨日描いた絵を選ばないんだとさ」
颯茜がわずかに眉を動かす。
「なんでだと思う?」
椿は笑った。
「昨日の絵より、今日の絵の方が上手だからさ。人ってのは、そうやって進むんだよ。転んだ分だけ、昨日より今日の自分が強くなる」
颯茜は視線を落とした。胸の奥が、静かに軋む。
「……あんたが今どれだけ迷ってようが、どれだけ泣いてようが」
椿は颯茜の肩を軽く叩いた。
「それは、昨日より強くなる途中ってだけさ」
颯茜は何も言わなかった。けれど、握る短剣の力がほんの少しだけ緩んだ。




