六話 高揚は収まるところを知らぬ如く
その場に、小さな声が響き渡る。
「───いやぁ、これは完全なる想定外だねぇ」
場違いなほど軽い声が響いた。
「ッ……サクラ?」
「やぁ、みんな。無事かな?」
サクラは手には紙袋。
中には──
「……お前、それ───肉まん?」
「うん。寒いでしょ?買ってきたんだ」
空気読め。
飛鷹が目を剥いた。
「いやいやいやいや!!なんで肉まん持って登場すんねん!!今さっきまで命のやり取りしとったんやぞ!!」
「え?だってお腹空いてるかなって……」
「誰が今食うねん!!」
カランコエも珍しく声を荒げた。
「サ、サクラ様!?あの……その……タイミングというものが……!」
「えぇ〜?僕、結構いいタイミングで入ったと思ったんだけどなぁ」
「どこがだよ!!」
颯茜まで思わず叫んでいた。
サクラは首を傾げ、まるでなんで怒られてるのか分からない子供のような顔をする。
「だってさ、ほら。颯茜、初任務で頑張ったでしょ? だからご褒美に──」
紙袋をガサガサと漁り
「肉まんとピザまんとあんまん、どれがいい?」
「選ばせるな!!」
颯茜のツッコミが建物内に響く。
サクラは「えぇ〜……」と肩を落としつつも、次の瞬間にはケロッと笑っていた。
「まぁまぁ、とりあえず、みんな無事でよかったよ」
その笑顔は柔らかい。
けれど、その目だけは、笑っていなかった。
「さて、本題に入ろうか」
サクラは肉まんを袋に戻し、黒い扉の奥を指差した。
「──君の“本当の任務”は、この先にある」
さっきまでのボケが嘘のように声が冷たく落ちる。
飛鷹もカランコエも、息を呑んだ。
颯茜は拳を握りしめる。
(……サクラ、お前。やっぱりただの変人じゃねぇな)
サクラは振り返り、にっこり笑った。
「じゃ、行こっか。肉まんは帰ってきたら食べようね」
「食うか!!」
「食べません!」
「食わへんやろ!!」
三人のツッコミが廃工場に響き渡り、その反響が消える頃
サクラはくるりと踵を返し、黒い扉の前に立った。さっきまでのふざけた雰囲気は、跡形もなく消えていた。
「……さて、と」
紙袋を片手に持ったまま、サクラは扉に軽く触れる。
ギィ……と鈍い音を立てて、扉がさらに開いた。
その奥から吹き出す空気は、廃工場の冷気とはまったく違う。
もっと冷たい。
もっと重い。
もっと“人の気配がしない”空気。
「……っ、なんだよ……この感じ……」
颯茜の背筋がぞわりと粟立つ。
飛鷹も眉をひそめた。
「サクラ様……ここ、ほんまに入ってええ場所なんですかいな」
「よくないよ?」
「よくないんかい!!」
即答に飛鷹が全力でツッコむ。
だがサクラは悪びれもせず、むしろ楽しそうに肩をすくめた。
「でも、颯茜は入らなきゃいけない。“彼”に近づくためにはね」
“彼”──その言葉に、颯茜の心臓が跳ねた。
「……律のことか」
「そう、アザミのことだよ」
サクラの声は柔らかいのに、その響きは氷のように冷たかった。
カランコエが不安げに颯茜を見る。
「颯茜さん……本当に、行けますか……?」
颯茜は拳を握りしめた。
「行くよ。ここまで来て、引き返せるかよ」
その言葉に、飛鷹がニッと笑う。
「言うやんけ、颯茜。ほな、ワイらも──」
だがサクラが手を上げて遮った。
「ううん、行くのは颯茜だけだよ」
「……は?」
三人の声が重なる。
サクラは紙袋を持ったまま、まるで雑談のような軽さで言った。
「この先は颯茜しか入れない。飛鷹もカランコエも、ここまで」
「ちょ、ちょっと待ってくださいサクラ様!!颯茜さんはまだ新人で──」
「だからこそ、だよ」
サクラの声が静かに落ちる。
「ここから先は、試練の間。正直、なくてもいいけど、無いとアザミには、一生辿り着けない。」
颯茜の喉がひりつく。
「……律の……」
「君はこの先に行かないといけない」
サクラは颯茜の肩に手を置いた。
その手は温かいのに背筋が凍るほどの圧があった。
「この扉を潜れ、颯茜。君の“任務”だ」
黒い扉の奥はまるで底の見えない闇のようだった。
飛鷹が叫ぶ。
「颯茜!!無茶すんなよ!!」
カランコエも震える声で続ける。
「……戻ってきてくださいね……絶対……!」
颯茜は二人に背を向け、深く息を吸った。
(……律、待ってろ。俺は、お前のいる場所まで行く)
そして──
颯茜はサクラとともに、黒い扉の奥へと足を踏み入れた。
扉が閉まった瞬間、
廃工場の空気はまるで音を失ったように静まり返った。
その静寂を破ったのは──
「……アザミさんって、誰や?」
飛鷹の、あまりにも素直すぎる疑問だった。
「……えっ?!」
カランコエが素っ頓狂な声を上げる。
「ひ、飛鷹さん……!アザミ様のこと……知らないんですか……?」
「知らんわ!!ワイ、サクラ様に“お前は現場向きやから覚えんでええ”って言われてんねん!!」
「そんな理由で……!?」
カランコエは頭を抱えた。
「じゃ、じゃあ……さっきの“彼”って……誰だと思ってたんですか……?」
「そら……颯茜の知り合いの誰かやろ、くらいに……」
「軽すぎます!!」
カランコエのツッコミが廃工場に響く。
飛鷹は腕を組み、むむっと唸った。
「てかカランコエ、お前は知っとるんか?アザミって、どんな奴なんや?」
「わ、私ですか……?」
カランコエは一瞬だけ視線を落とし、唇を噛んだ。
「……アザミ様は……第五部隊の隊長で幹部です。でも、サクラ様よりも、ずっと……」
「ずっと……?」
「ずっと───危険です」
その言葉に、飛鷹の表情が引き締まる。
「……颯茜、大丈夫やろか」
「……正直、分かりません。でも──」
カランコエは扉の方を見つめた。
「颯茜さんは……強いです。さっきの戦いで、私……分かりました」
飛鷹はふっと笑った。
「せやな。あいつ、根性だけは一丁前や」
「根性だけじゃなくて、立ち向かう勇気を持ってます」
カランコエの声は小さいが、確信に満ちていた。
飛鷹は大きく伸びをし、いつもの調子で言った。
「ほな、信じて待つしかないな!戻ってきたら、肉まん取り上げたるわ!」
「いや、なんでですか!?」
「いや、なんかムカつくやん、あいつだけご褒美もらって」
「子供ですか!!」
カランコエはふと、扉の奥を見つめたまま呟いた。
「……颯茜さん、どうか……無事で……」
その声は、震えていた。
飛鷹はその横顔を見て、何も言わずに肩を叩いた。
「大丈夫や、あいつは戻ってくる。ワイらの“チーム”やからな」
カランコエは小さく頷いた。
「……ふふ、そうですね」
黒い扉は、微動だにしない。
その奥で何が起きているのか、なんて二人には知る術もなかった。
■■■
黒い扉の奥は音のない世界だった。
足音も、呼吸も、自分の鼓動すら遠くなるような静寂を纏った異質感。
「……ここが、“試練の間”……?」
颯茜が呟いた瞬間だった。
──カツン。
乾いた足音が、闇の奥から響いた。
颯茜は反射的に身構える。
「……誰だ……?」
返事はない。
ただ、ゆっくりと、確実に近づいてくる。
やがて闇の中から“人影”が現れた。
フードを深く被り、顔は見えない。
だが、その歩き方は人間のそれではなかった。揺れも、迷いも、呼吸のリズムすらない。
まるで、生き物のふりをした“何か”。
「颯茜、気をつけて」
サクラの声が低く落ちる。
「そいつは失敗作さ」
「……失敗作?」
颯茜が言い返す間もなく
──フードの人物が、音もなく目の前に現れた。
「ッ゛!?」
反応する暇もないまま、腕が振り下ろされる。
颯茜は咄嗟の判断で身を捻り、ギリギリで避けた。
床が砕ける。
(……速ぇ……!!)
さっきのバケモノとは比べ物にならない。動きが“読めない”、人間の癖が一切ない。
「サクラ!!こいつは何なんだよ!!」
「言ったでしょ、失敗作だって」
サクラは紙袋を抱えたまま、まるで観察するように言った。
「これは、君が越えなければいけない試練だ」
颯茜の背筋が凍る。
けれど、何処か違和感を感じた。
(ッ───?)
フードの人物が、ゆっくりと顔を上げた。
フードの奥、暗闇の中で赤い光だけが、じっと颯茜を見ていた。
「っ……!」
その瞬間、フードの人物が再び襲いかかる、速い。
───避けられない。
「颯茜」
底冷えするような、サクラの声が飛ぶ。振り向くことも許されぬまま、言葉を聞く。
「“戦え”とは言わない。でも、“逃げるな”」
颯茜は歯を食いしばり、拳を握った。
(……逃げねぇよ。
ここまで来て、逃げられるかよ!!)
フードの人物の腕が迫り来る。
颯茜は拳を構え、真正面から迎え撃つ。
「ニイ……ン」
その声は、壊れた機械のようで、どこか幼い子供のようでもあった。
颯茜は眉をひそめる。
「……ニイ……? なんだよそれ……」
意味は分からない、だが胸の奥がざわつく。
サクラだけが、その一音にわずかに目を細めた。
(……気づいてるな、サクラ……でも俺には何も言わねぇ……)
フードの人物は、ぎこちない動きで首を傾けた。
その仕草は、“人間の真似”をしているようでどこか懐かしい癖にも見えた。
だが颯茜は気づかない。
──気づけるはずがない。
「ニ……イ……ン……」
フードの奥から漏れる声は、まるで“言葉を思い出そうとしている”ようだった。
(……なんだよ……こいつ……気味悪ぃ……)
颯茜が拳を握った瞬間、フードの人物の腕が、ありえない角度で折れ曲がった。
「ッ……!?」
肘が逆に折れ、関節がねじれ、そのまま鞭のようにしなる。
避ける暇などない。
「颯茜、下!」
サクラの声に反応し、颯茜は地面に転がり込む。
直後、床が深く抉れた。
(……人間じゃねぇ……こんな動き……!)
フードの人物はゆっくりと颯茜の方へ向き直る。その動きは、生き物のふりをした何かそのもの。
「颯茜」
サクラの声が落ちる。
「これは“試練”だよ。壊すか、壊されるか、それだけの場所だ」
「……壊す……?」
「うん、こいつは“壊れてもいい存在”だから」
その言葉に、颯茜の胸がざわつく。
(……壊れてもいい……?人間じゃねぇってことか……?)
フードの人物が、ゆっくりと手を伸ばす。
その指先が震え、まるで“触れたいもの”を探すように、颯茜の頬へ向かう。
「ニ……イ……ン……」
その声は、どこか懐かしい響きを持っていた。
だが颯茜は気づかない。
「やめろ!!」
颯茜は反射的に腕を払う。フードの人物は、その動きに怯えたように後退った。
まるで拒絶に恐れるように。
だが颯茜は知らない。知らないまま、拳を握りしめる。
(……こいつが何者だろうと……俺は負けねぇ……!)
颯茜が構えた瞬間、フードの人物は再び襲いかかる。
颯茜は知らない。
──これを壊した後、自分がどれほど残酷な真実を知ることになるのか。
今はただ、目の前の“何か”と戦うしかなかった。
フードの人物が跳んだ。
音はない、ただ、空気が裂ける。
颯茜は反射で腕を上げた。
次の瞬間、骨が軋む。
「ッ……!」
衝撃で足が滑り、後ろへ吹き飛ぶ。
背中が床に叩きつけられ、肺の空気が全部抜けた。
立ち上がる暇もなく、影が迫る。自身に向かって、腕が振り下ろされる。
床が砕け、破片が頬を切る。
(……速すぎる……見えねぇ……!)
フードの人物は人間の“間”を持たない。
攻撃の予兆がない。
ただ、殺すためだけに動く。
颯茜は転がり、ギリギリで次の一撃を避けた。
床に残るのは深く抉れた爪痕のような跡。
(……当たったら終わりだ……!)
息が荒い。
心臓が暴れ、手が震える。
それでも────逃げない。
颯茜は拳を握りしめ、真正面から踏み込んだ。
殴る。
殴られる。
避ける。
避けきれない。
頬に拳がめり込み、視界が白く弾けた。
「っ……!」
膝が折れそうになる、だが踏ん張る。
フードの人物は、無表情のまま首を傾けた。
赤い光が揺れる。
「……ニ……イ……」
その言葉が胸の奥をざわつかせる。
(……なんだよ……その呼び方……なんで……俺を……)
考える暇はない。
影は迫る。
颯茜は拳を振り上げた。だが、フードの人物の腕がありえない角度で折れ曲がり、拳を絡め取った。
「ッ……!」
逃げられない。
腕が軋む。
骨が悲鳴を上げる。
フードの人物はそのまま颯茜の顔へ拳を振り下ろした。
避けられない。
(……死ぬ……!)
その瞬間、颯茜は自分の体を“投げた”。
腕を犠牲にして無理やり体勢を崩す。拳が頬を掠め、血飛沫が飛ぶ。
床に転がり、息を荒げながら立ち上がる。
(……痛ぇ……でも……まだ……!)
フードの人物は、ゆっくりとこちらへ向き直る。
颯茜は拳を握りしめた。
(……負けねぇ……絶対に……!)
フードの人物が跳ぶ、颯茜も踏み込む。拳と拳がぶつかるも、衝撃で腕が痺れる。
だが、颯茜は下がらない。
殴る、殴られる、殴り返す。それを繰り返して、視界が揺れる、血が滲む、呼吸が荒い。
それでも、颯茜は前へ出る。
(……俺は……弱ぇ……
でも……逃げねぇ……!)
フードの人物の拳が迫る。
颯茜は真正面から受け止めた。
骨が軋む。
腕が震える。
それでも、踏ん張った。
「うおおおおおッ!!」
颯茜は全力で拳を叩き込む。
フードの人物のフードが揺れ、わずかに後退る。
その隙に颯茜は渾身の蹴りを叩き込んだ、フードの人物が壁に叩きつけられる。
だが、まだ倒れない。
赤い光が揺れる。
「……ニ……イ……」
颯茜は拳を握りしめた。
(……来いよ……俺はまだ立てる……!)
壁に叩きつけられたフードの人物は、
折れた首をぎこちなく持ち上げた。
骨が擦れるような音がする。
赤い光が、ゆらりと揺れた。
次の瞬間、四つん這いで床を走った。
人間の走り方ではない。
関節が逆に折れたまま、蜘蛛のように床を這い、颯茜の足元へ潜り込む。
「ッ──!」
避ける暇はなかった。
足首を掴まれ、床に叩きつけられる。
視界が回る。
呼吸が乱れる。
頭が割れそうだ。
追撃、腕が振り下ろされる。
颯茜は咄嗟に転がり、拳が床を砕く音を聞いた。
(……化け物かよ……!)
立ち上がる、だが足が震える。
フードの人物は、折れた首をぶら下げたまま、ゆっくりとこちらを向いた。
赤い光が颯茜の胸元を“探すように”揺れる。
「……ニ……イ……」
その声は、泣いているようにも聞こえた。
(……やめろ……そんな声……出すな……)
胸が痛い。
理由は分からない。
だが、止まれない。
拳と拳がぶつかる。
殴る。
殴られる。
殴り返す。
頬が裂ける。
血が滲む。
視界が揺れる。
───それでも、前へ。
(……俺は……弱いかもしれない。でも……逃げねぇ……ッ!)
フードの人物の拳が迫る。
颯茜は真正面から受け止めた。
「うおおおおおッ!!」
颯茜は全身の力を拳に込め、フードの人物の顔面へ叩き込む。
衝撃でフードが弾け、壁まで吹き飛ぶ。
だが、まだ立つ。
折れた首をぶら下げたまま、ゆっくりと立ち上がる。
赤い光が揺れる。
「───ニイサン」
その瞬間、颯茜の胸が締め付けられた。
「ッ────やめろォォォォォォォォォォォォ!」
フードの人物が最後の一撃を放とうと跳んだ。
颯茜は拳を握りしめ、真正面から踏み込む。地面を踏みしめて、爆発的な力を引き出す。
拳と拳がぶつかる。
───衝撃が走る。




